エラーコードは見せてくれ 天才とはシステムのエラーである、とは、誰が言ったのだったか。確か、そう、どこかの芸術家か何かだったはずだ。
通常定められた摂理、手順、限界値、それらを超えてしまったもの、が、あるとすれば。もはやそれはある種、平均から見て取れば外れ値に該当する概念へと包括される。大きく逸脱してしまった数値すら平均値の勘定に含めてしまうことによって齎されるずれを、基本的に世界は歓迎しない。オーバーフローした一点は、ただ、遠く離れた一点として記憶されるに留まる。
凡そ、の話だ。
「エイト」
休憩と称してさんかくすで買ったばかりのアゲサンドをぺろりと平らげ、さりとてそこまで腹が満ちなかったとその辺りでまた追加のミート・サンドを数個買い足した、エイトの最もよく知る外れ値──もといワイヤーグラスは、僅かに歩幅のずれたエイトの方を見ていた。
「寝惚けてんのか」
「……ああ、ごめん。少しだけ考え事を」
「そうかよ」
興味があるともないともつかない表情で、再びワイヤーグラスは歩を進める。仕方ねえな、と息を吐くのは彼の癖だった。適当にホットサンドを千切って、(本人の中ではほんの一部なのだろうが、エイトに渡すには些か大きい程度の)欠片を差し出す手だけを向ける。
「食わねえのかって聞いただろうが、コレ」
「オレはそこまで食べられる方じゃないから」
「お前良くソレで倒れねえな」
「確かにそこまで健啖家じゃないけど。キミの食事量が群を抜いて多いのは確かだよ」
「へえ」
その辺りのことはどうでもいい、と言わんばかりの返事と共に、恐らくは群を抜いて燃費が悪い──と、説明するのが適切なのだろうか。天恵と称する他にない能力をそこかしこに湛えた体を生命として維持するには、どうも生半可なエネルギーでは足りないらしい。バトルの後は殊更に。よくもまあそこまでの量を腹に収められるものだとは思うが、個体差と言われてしまえばそれまでだ。エイトはエイトであまり多くものを食べられる体質でもない故に、眺めているとどことなく妙な気分になる。もう先程食べたサンドイッチで十分に腹もくちくなっている。これはこれで、食事量のエラーだな、と思った。
「纏まってんのか、今日の戦績」
「当然」
ちらりとナマコフォンを一瞥しつつ、投げかけられた言葉に答えを返す。ワイヤーグラスのバトルの記録を、むざむざ逃すほどに馬鹿ではない。エイトの知る限り最も究極的な強者の戦いを観測しないでいて、何のデータを求める必要があるのだろうか、と、きっと顔色のひとつも変えずに口にしてしまえる。ビデオも残したし、対戦相手のデータも同様に。情報収集のセオリーは十分すぎるほどに頭に叩き込まれている。恐らくはワイヤーグラスを軽く上回っている。そういったものを手に入れる前に、本人の実力がただ、それらによって得られるアドバンテージを優に踏み潰してしまえるだけの領域にあるだけ、とも言うが。
「……覚えてんのが数人、話にならねえのが数人。お前が好きなように収集してろ、一人一人覚えちゃいねえ」
ワイヤーグラスには明確に相手を選り好みするきらいがある。その基準の説明は、およそ本人から「強いか弱いか」と答えられる通りだ。投げやりな言葉の調子はあながち嘘ではないだろうけれど、それでも個をはっきりと記憶しているケースなどまずない。少なくとも、新バンカラクラス、あるいはバンカラ八傑、自身のチームメイト。その程度しか、もしかすると彼の口から直接的に名を向けられた存在を知らないかもしれない。大抵、悪くない、と判断されたケースであっても、「さっきのシャープマーカー」だとか「今のクーゲル」だとか、そういった呼称の他に向けることはない。エイトが名前をいくら示しても、ふうん、と聞いているともいないともつかない反応が返って来るか来ないか程度であって。まるで愚弄するような言葉は、実のところ、端的な事実しか示してはいないらしい。はいはい、と返事をすることにも、そこまで当惑を抱かなくなってきた。
「大体キミの動きと顔で前者と後者くらいの区別はつくよ」
「なら良い」
つまらない、と判断した相手とのバトルに、ワイヤーグラスは笑わない。ただただ退屈そうに、実際ひどく退屈に、淡々と敵を屠って、制限時間の終わりを待つだけ。それすらも億劫であれば、そも、動くことも嫌厭するけれど。ワイヤーグラス自身がどう思っているのかは置いておいて、その区別はそう難しくもなかった。そういった試合から学び取れるのは、戦い方、というよりも、蹂躙のセオリーと呼ぶべきなのだけれども。
「本当にヒトの顔覚えるの苦手だよね」
「興味出りゃ覚えてる」
「それはそれで薄情じゃないか」
「思ってねえだろ」
「否定はしないけど。言ったところで変わらないだろ、キミは」
「分かってんじゃねえか」
エイトはエイトで、特段それを咎めるべきだとも思っていないだけ、とも言う。
そのまま足取りに任せていれば、見慣れた街並みが顔を出す。行き先を握っているのはワイヤーグラスだ。
「今日もオレの家?」
エイトにとっては今一つ理解の及んでいない、ワイヤーグラスの言動だが。
どうも人の家によく居着くと言うべきか、やけにエイトの家を好んでいる、と、言うべきか。何を当たり前のことを、と言わんばかりの顔で、エイトの部屋に上がり込むところがある。私物の少ないエイトの部屋の何がそこまで気に入るのか、自身のことながら思い当たる節もないが──今となってはワイヤーグラスも勝手知ったるもので、自身が家主ということもない場所までの道筋を、当然のようになぞっている。何をするということもない。もつれるように体の関係に至っているともまた違う。エイトが試合のリプレイの撮影を確認して、対戦相手の情報と紐付けて、そうして研究用のデータを作成するのを、特に何か言うでもなく見ていたりだとか。お互いに自身のブキのメンテナンスをしていたりだとか。しばらく経てばお互い何となしにエイトがキッチンに立って、それから二人で使うには少しばかり狭いテーブルを分け合って夕食を並べて、気が向いた頃に何かを言うでもなくワイヤーグラスは家に帰る。そういう時間を、そこそこの月日に換算して語ってしまえる程度には、そうやって過ごしている。多分今日もそれなのだろう。
つまるところ、他愛無いと言う他にないのだ、本当に。最初の頃はそれこそ会話の一つでもするべきなのかと思案したけれども、どうもそういうことでもないらしい。沈黙に重苦しさと気まずさを感じることがなくなって、それなりに経過している。
「夕食、食べて行くなら作るけど」
「肉な」
「それしか言わないなキミ」
「毎回作ってんのはお前だろうが」
「そうだけどさ」
食材を買い足すためにスーパーマーケットに寄って、それから帰る算段を──多分、もうワイヤーグラスは立てているのだろうけれど。そしてエイトも同様、そういうルーティーンに、慣れてしまっているけれど。不思議なものは不思議だと、そう思う程度は許されるだろう。天才とは凡そエラーの産物であって、それがコンピュータであれば、きっとエラーコードを眺めなければならないのだ。数字の羅列も、トラブルシューティングも、どこをどう探そうと見当たる気色はないにせよ。
「そこまで家で食べたいなら惣菜でも買えばいいのに」
「じゃあ今日は惣菜買うか」
「そういうことじゃなくて」
今一つぴんと来ない回答に、んん、と小さく唸る。異次元の強者、もといワイヤーグラスは、水槽の中の魚の挙動でも見るようにそれを観察している。ディスコミュニケーションの気配以外、今のところエイトに得られた情報はないが。
「食事だけならその辺りに店なんていくらでもあるだろ」
何が理由でそんなにオレの家で食べて帰りたがるんだ、と聞けば、ワイヤーグラスは拍子抜けしたように、ごく僅かに瞠目した。──想定していない反応。おそらく両者共に。怪訝な顔をするワイヤーグラスに、思わずエイトも首を傾げた。エイトの様子を視界に入れたまま、そのまましばらく、今度は訝るように目を細めて、数瞬。深々と吐かれた嘆息で、ワイヤーグラスのまず見ないような詮索は終わった。
「……どうしたの?」
やけに可哀想なものを見るような、あるいはマジかよ、と言わんばかりの目を、よりにもよってこの男にされるとは思っていなかった。多分、思考の中で、エイトだけが置き去りにされている。「説明してよ」と言葉を継ぎ足したところで、恐らく、欲しい回答は得られないような気もするが。夕暮れの隅で烏が鳴いて、巣穴へと戻っていくのだろう影が、現実逃避のように視界に映った。
「別に」
家路に並ぶワイヤーグラスは、それだけ言って、黄昏時を溶かした目を眺めて、そうして揶揄うように鼻で笑った。
それが何となく腑に落ちなくて、今日のメインは野菜の肉詰めにでもしてやろうか、と、エイトはひとり結論付けた。
〼エラーコードは見せてくれ 了