奥底に隠していた心を、引き摺り出さないで欲しかった。それが愛だとお前は言う。
『今からお酒飲まない?敬一くん家で!』
年に何度か開催される、投資家仲間との懇親会終わりの帰り道。携帯へ届いたのは簡潔な誘い文句だった。
(おいコラ、今何時だと思ってんだコイツ……!)
明るい画面の右上には、「22:47」の数字が並んでいる。およそ人を誘う時間ではないし、獅子神も普段なら寝に入る準備をする頃だ。
こんな夜遅く、いきなりアイツらに来られて騒がれたらたまったもんじゃない。元々予定しているならともかく、家には何の準備も揃ってないのだ。
それなりに気疲れした体でテーブルを整えて、つまみを作って、遊び道具を出して……やることを考えたら断る一択しかない。が、断っても来そうではある。
——いや、本当にそうか?
天堂はおそらく、既に寝ているだろう。美容の天敵だからと夜更かしを嫌う傾向にある。村雨も仕事であれば来れない。たしか、以前予定を合わせた時には今日は休みではなかったはずだ。気ままな真経津は、メッセージにすぐ反応するとは限らない。
「……あ?」
疑問を浮かべつつアプリを開けば、叶からのメッセージはグループチャットではなく、獅子神個人宛に送られてきていた。
叶と獅子神の二人だけで遊んだ事は何度かある。しかし、それは叶の配信企画に付き合っただけ。何の目的もなく二人で飲み食いをする事なんて、今まで一度もなかった。
何か裏があるのだろうか。獅子神は眉間に皺を寄せ、アルコールで鈍くなった頭をなんとか働かせる。
一番ありえる線は、獅子神の家での、深夜のおつまみクッキング配信だろうか。あえて他の面子は呼ばず、深夜という時間帯を活かして大人しめな配信にする予定なのかもしれない。
他には、寝起きの叶の撮影をやらされる、とか。自撮りではない動画が意外と見られる、と前言っていた気がするので、その線はなくは無い。
(よし、断るか)
何にせよ、獅子神にとって利点は一つもない。
さっさと帰って寝たいし、と返信しようとしたその時。獅子神の思考を見計らったかのように、ポンと次の言葉が音を立てた。
『敬一君、今日飲み会って言ってたろ。ワイン貰ったから、飲み直ししようよ!たまにはオレとサシで話すのも悪くないだろ?』
叶と、サシ飲み。
その誘惑に、獅子神の指先はピタリと止まった。
強いギャンブラーから学べる事はいくらでもある。ライフ・イズ・オークショニアを経て多少強くなったものの、まだ卵から生まれたての雛だと自覚していた。
何やかんや、真経津や村雨とは一対一で話す機会も多かったが、叶と真正面から対話した事はほとんど無い。
獅子神は、叶の強さを未だに知らなかった。
強者であることは見れば分かるが、何が叶を強者たらしめているのか。それを知るのは獅子神が一歩進むための助けになるはずである。
『いいぜ。俺ん家来いよ』
眠気はどこかに飛んだ。
狼煙を上げる心地で連絡を入れれば、すぐに叶から返信が返ってくる。
『うん、今から向かう。着くのは23時過ぎるかな』
『了解』
思ったより到着時間が早い。獅子神ももうそろそろ自宅に着くとはいえ、あまりツマミを準備する時間はなさそうだ。
簡単にできるワインのツマミは、とレシピと冷蔵庫の中身を脳内で照らし合わせる。帰り道、獅子神の歩幅はいつもよりも広い。
*****
乾杯、と言い合い、盃を傾け中身に口を付ける。深紅色の赤ワインを口に含むと、歳月を感じる深さが舌を貫いた。複雑な渋みの奥、華やかな香りが鼻腔を撫でる。獅子神にとっては十分美味い酒だった。しかし、重めの口当たりは舌が肥えた玄人向けのワインと言えるだろう。おそらく、濃い科学味に慣れた人物には好まれないに違いない。
案の定、目の前の嫌味な程整った顔は、酒の価値に見合わない渋い表情をしていた。
「んー、美味しいのか分かんないな」
「良い酒なのに勿体ねぇな。エナドリ飲みすぎなんじゃねぇの?」
「でもさ、渋いし舌イガイガしない?」
「ハッ、オメーが馬鹿舌なだけだろ」
「ま、土下座する奴隷侍らさせながら、片手に飲むには調度よさそうだ」
「んなことしてねぇよ!!」
マウントを取れるかと馬鹿にすれば、過去の事を持ち出され思わず怒鳴り返す。そんな悪趣味な成金のような真似するはずないだろう。
頭の中に、バスローブを羽織って片手にワイングラスを持ち、奴隷を土下座させている自分が浮かび、即座に打ち消す。やった事はない。だが、試してみようと少し思った事はあるのは、叶に決して悟られてはならない。
ふーん、と真正面から獅子神を見据えるのは、楽しげな三日月の瞳だ。揶揄う隙を探す様に、獅子神はすかさず準備したツマミを勧める。
チーズ、生ハム、オリーブ、仕込んでいたローストビーフを少し。ほとんど市販品だが、深夜につまむには十分すぎる量だ。
「ほら、酒ばっか飲むと身体に悪いから、適当に食えよ」
「じゃあ遠慮なく。ありがとな」
叶からの感謝の言葉に、獅子神は口をまごつかせて適当な相槌を打った。
こういう時、叶はときちんと礼を言う。心底意外だが、おそらく育ちの良い、のだと思う。叶の過去のようなものが見え隠れする度、獅子神は、心の奥深くにあるカサブタを鋭い爪先で擽られるような、言いようのない気分の悪さを覚える事が多かった。それが何故なのか、自らの膿から目を逸らし、獅子神は二口目のワインを煽った。
叶と獅子神、二人の小さな飲み会は驚く程穏やかだった。基本的に話すのは叶ではあったが、仕事の愚痴をしあい、共通の友との思い出を語り、時に軽口を叩き合う。配信者という職業故でもあるのだろうか、思った以上に叶とは話が尽きなかった。何より、獅子神は、友としての対話をただただ楽しんでいた。
だからこそ。
いつもより早いペースで酒を飲み、酔いが回って程よく理性が緩み、わずかに頬を上気させて口元を緩ませていた。油断、というのが正しいかは分からない。だが、少なくともこの場で、間違いなく油断していたのだ。
「敬一君は今、良い人いないのか?」
酔いも回れば、恋愛事情に話が向くのはよくある事だ。叶のガチ恋勢というファンの話から流れで聞かれた問いに、獅子神は悩むまでもなく返す。
「いねーよ。必要もねぇし、それどころじゃねぇからな」
獅子神のダイナミクスはNormalである。そのため、パートナーは必要ない。加えて、今は恋愛にかまけている時間も惜しい。
真経津に敗れ停滞から抜け出し、村雨の診断によって獅子神は一歩前へ進んだ。目を背けていた弱さが強さになると知り、ようやく武器を手に入れたのだ。恋だ愛だに現を抜かし、今より弱くなればきっと自分は死ぬと、獅子神は確信していた。己以外を顧みる余裕など、獅子神にはない。
そもそも気になる奴もいないのだから、あえて良い人を作る意味も無いだろう。獅子神は本心からそう思っている。だから、叶に伝えた言葉に嘘はない。
「――そっかぁ」
だが、叶は穏やかに、獅子神の本心を屠るかのような、ゾッとする笑みを浮かべた。
叶はテーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せ獅子神を射抜いている。その瞳は覚えの悪い子を諭している様と似ていて、だからこそ恐ろしい。
(なん、なんだ……?)
叶の意図が欠片も見えない。背筋を走る悪寒を無視していくら目を凝らしても、何も分からなかった。
何も間違っていないはずだ。自らの心に間違いはない、はず。
まるで、己にとっての真実が瞳の笑みを通して歪められてしまいそうな錯覚に、叶から目を逸らしてしまいたい。それが許されないのが分かるから、獅子神はひたすら、歪んだ観測者を睨み続ける。
「敬一君はさ、必死さがズレてる時あるよな」
「あ?どういう意味だよ?」
怯えを表に出さずとも警戒は解かない。解けなかった。叶の意図が読めず、俺に対して何を求めているのか全く見当が付かない。
(必死?ズレてる?何に対してだ?)
必死?強くなろうと必死なのは認める。だが、それがズレているとは思えない。あの場所で賭けを続けるのならば、生き残るための必要最低条件は強く在る事だ。
ぐるぐると答えを導けない獅子神を、叶は笑みを崩さぬまま見続ける。その様は、どんな答えを出すのか楽しみにしているようにも、出口のない迷路を彷徨うさまを楽しんでいるようにも見えた。
絶え間なく話していた分、沈黙が気まずい。獅子神には、答えがさっぱり分からなかった。
どうにも手持ち無沙汰になり、グラスを手に取り傾ける。
――だが、葡萄酒が獅子神の喉を潤す事は無かった。
視界に映る血色の良い唇が、嫌にゆっくりと形作られる。
【——待て(stay)】
「……はぁ?」
ピタリ、と獅子神の動きは止まった。叶に従った訳ではない。そのあまりの意味不明さに驚き、手が止まっただけだった。少なくとも獅子神は、そう自認していた。
叶の口から出て来たのは、プレイで使われるコマンド。DomからSubに向けた、絶対服従の命令。Normalに浴びせた所で何の意味の成さない、強制力も無く互いへ安寧を与える訳でもない、無味の一単語。
「なんで急にコマンドなんざ……」
自身の声がわずかに震えている理由を、獅子神は知らない。理解できる訳がない。
「敬一君はNormalだろ?」
「やっぱ分かってんじゃねぇか」
「オレのダイナミクスは分かる?」
「?どう見てもDomだろ」
「正解。いいぞ、敬一君。オレの事をよく見てるな」
(あぁ、そうか。揶揄ってやがるんだなコイツ)
そうだ、そうに違いない。そうでなければ、叶がコマンドを言う理由なんてない。
叶がDomであるなんて、ファイブスロットの奴でも分かる。弱いと言えど、獅子神とてハーフライフのギャンブラーだ。叶自身が隠そうとしてもいない第二の性なんて、見れば分かるに決まっている。
無論、獅子神がNormalである事も、叶は間違いなく分かっているはずだ。
にも関わらず、叶はまるでSubに言うかのように、コマンドを言ってきた。通じる訳ない命令をしてくるなどと、冗談以外に理由がない。
「はは、揶揄っているわけじゃないよ」
「なら、テメェは何がしたいんだ」
いつ終わるか分からない、叶主導の不毛なやり取り。
心臓が、痛い。
眉間に皺を寄せ不快な表情を作ろうと、叶はどこ吹く風。
それどころか、蠱惑の笑みを浮かべ、唇を歪ませ戯言を吐いた。
「——敬一君さ、Domとのプレイ、興味あるんだろ?」
「〜〜っざけんな!!」
持っていたグラスを机へ叩きつける。辛うじて割れなかったものの、赤い雫がテーブルクロスへと弾けた。
怒りで視界が赤く染まる。
叶は、Normalである獅子神がDomに命令されたがっている、と言っているのだ。獅子神が、跪き腹を晒し、Domへと媚びを売る人間だと。
あり得ない。それは獅子神が最も嫌悪する存在だ。強者へ媚び、依存しなければ生きていけない有様を、獅子神は欠片も望まない。弱い場所へと堕ちる願望など抱く訳がない。
だというのに。
「あぁ、やっぱり自覚してなかったな」
どうして、叶から目を逸らしたくて堪らないのだろう。
「自覚どころか、本心から興味ねぇよ。ったく、ふざけた事ぬかしやがっ、」
耐えきれず、一瞬、視線を逸らしただけだった。
【見ろ(Look)】
「――っ!?」
向かいに座る叶がテーブルへと乗り出し、獅子神の頬を掴む。ガシャンと、ガラスの砕ける音がした。
真正面から、明るく笑う赤の瞳と見つめ合う。Look。命令はまだ解除されない。
叶の手は変わらず獅子神を掴んだままだったが、多分、振り解ける。
それなりに力がこもっていても、獅子神であれば容易く外せる程度だった。
動けない。いや、動いてはいけない。命令だから。いや、違う。ただ、今は叶から目を逸らさないのが正しい行動だと、奥底に住む誰かが言っている気がした。
思考も呼吸もままならず、心臓が強く脈打っている音が今を知らせる。獅子神は、命令に従い、微動だにせずを叶を見つめて続けていた。
——どれくらいの時間、そうしていたかは分からない。
永遠にも思えた時を経て、ゆっくりと獅子神の顔から手が離れていく。ようやく詰めていた息を吐き出し、俯いて視線を外す。
(一体、何だったんだ……)
胸を渦巻く感情を噛み砕けないまま、強張っていた体から緊張を解く。
(グラス、片付けねぇと……)
視界に入ったグラスは、どうしようもなく粉々に砕けていた。面倒だと思うより、今この場を離れられる口実がある事にほっとしながら腰を上げようとする。だが、立つ事すら頭に乗せられた重さによって、呆気なく封じられた。
「いい子(Good Boy)」
顔を上げてしまったのは、何故だろう。甘やかな毒だと分かり切りながら、どうして抗えなかったのか。
きっと、決して目を合わせてはいけなかった。なぜ、この手を跳ね除けなかったのか。
前髪の奥に隠れていた瞳が、隙間から覗き見える。偽りと素の双眸が、愛おしそうに細められ、獅子神を真正面から見据えていた。
ぞくり、とNormalに相応しくない喜びが背を駆ける。瞬間、獅子神は確かに知覚した。
叶が、獅子神にとってのDomである事を。
「今日はここまで」
頭を撫でていた手のひらが髪をすき、耳を擽って離れて行く。
(叶は俺に、何をした?)
理解できるはずの事象、だが、意味も理由も結果も、何もかもが分からない。
混乱する獅子神を他所に、叶はいつも通りの様相で席を立つ。
「またな、ケーイチくん」
次への約束を残し、叶は去っていく。獅子神の奥底に潜んでいた渇望を残して。