あいうえお編 1.あいうえお
か細い鳴き声に絆されて、ついつい拾って保護してしまった仔猫が、まさかの獣人だと言うことが判明した次の瞬間、俺はショッピングモールに走っていた。幼児用の下着も服もこの家には一着もないからだ。パッと見た感じでは、だいたい四歳から五歳児ぐらいに見えたので、それぐらいの子どものサイズの服と下着を買って帰ると、そのまま素っ裸の彼に下着と服を着せ付けながら説明していった。
「いいか、これはパンツ。猫のときは必要ないけど今の格好……人間のかっこうの時は必ずこのパンツと、それからこれがシャツ。これを上に来て、それでこれが、ズボン。パンツの上からこれを穿くんだ」
「んにぃ……」
窮屈そうにしながらも大人しく着せられているものの、どうにも下半身がムズムズとして落ち着かないようだ。よくよく見ればしっぽを通す穴が無いため、長いシッポが臀部のところで溜まってボトムがぽっこり膨らんでいる。尻尾の収まりが悪いのだろう。
「シッポか……。シッポを通す穴があればいいのか。でもそれだと外には出せないな。家にいる時なら構わないけど。…………ほら、ちょっとこっち向いて。………………よし、ほら、これでシッポが外に出たぞ。少しはマシだろ。少し窮屈かもしれないけど、なるべくこうして人型になってる時は服を着て、しっぽは上から出して。外に出る時はちゃんとシッポも隠すように。と言うか基本的に猫の姿以外の時は俺なしで勝手に外に出ないように。────って、俺の言ってること、分かるか?」
「ンみぃ」
「よしよし、かしこいぞ。随分理解力があるんだな。────っと、名前か。名前がないとダメだよな。なぁ、君、名前あるのか?」
「みぅ?」
コテン、と小首を傾げて不思議そうに見上げてくる仔猫は、よく分かっていないようだ。
「うーん……分かんないか。────あのな、俺の名前は、降谷零。れ、い。……ってそもそも人っぽいけど猫だろ。言葉理解したり喋れたりするようになるのか?」
「んにぃ」
そんな尤もな疑問を口にした俺の服の裾をクンクンと引っ張った仔猫は、懸命に何かを訴えているように思え、俺は屈んで顔を幼児のような仔猫に寄せた。
「どうした?」
「んにぃ、みぅみ、んにぃ」
身振り手振りを大きくして何かを訴えているが、よく分からない。とりあえず今話題にしたことを口にしてみる。
「名前か? な、ま、え」
「ンなァーぉ」
途端にニカッと弾けるような笑みを浮かべてコクコクと大きく頷く仔猫に、俺はもう一度ゆっくりと自分の名前を教えることにした。
「ふるや、れい。ふ、る、や、れ、い」
「んーにゃ、にゃ、にぇーにィ」
何とか頑張って俺の名前を呼ぼうとしているのだろう。両手を胸の前でぐっと握って力みながら、何度も何度も上手く言えないながら練習を繰り返している。言葉にできないぐらい暴力的に可愛い。
「んにゅにゃ、にゃい……にぇーぃ……にゅ……にゃい」
「フルネームは難しいよな。なら零は?れ、い」
「ンにゃぁ?」
「れ」
「にぇ」
「い」
「にィ」
「よしよし。その調子だ。それが俺の名前。君にも名前付けないとな。うーん……」
ずっと俺の名前を呼ぶために、にぇいだとかにゃいだとか頑張っている仔猫をマジマジと見つめ、ふと頭に浮かんだ名前を、ほとんど無意識に口にしていた。
「しん、いち……」
「んに?」
「しんいち。新しい始まりの一で、新一。降谷新一。うん、中々いい名前じゃないか、しんいち」
「ンにゃア!」
どうやら仔猫も気に入ったようで、俺が『しんいち』と呼ぶたび嬉しそうな声で鳴きながら顔を擦り寄せて来る。その仕草はまんま猫だ。その頭を撫でてやれば、ゴロゴロと喉を鳴らしてくる。ふと思い立ってその白い喉も撫でてやれば、コテンとひっくり返って腹を向けて本格的に喜び始めたので、その愛くるしさに思わずおかしな声が出そうになって、慌てて飲み込んだ。
その後しばらく様子を見ていたが、一向に猫の姿に戻る気配がないので、とりあえず猫用のごはんは猫の姿に戻った時に与えようと、今は人間用の夕飯を食べさせようとキッチンに立った。オムライスを作ろうと思い立ったものの、本物の猫であれば玉ねぎはダメであることを思い出し、新一用のライスにはシーチキンとケチャップのみで味付けをすることにして、みじん切りの玉ねぎや小さめに刻んだ鶏肉は自分用のケチャップライスに混ぜ込んだ。
俺が二人分のオムライスの用意に勤しんでいるあいだ中、部屋の方でずっと言葉の練習をしては布団の上にコロコロと転がり、またムクリと起き上がっては言葉の練習するのを繰り返していた新一は、食卓にオムライスを並べて俺が「新一、ごはんできたぞ」と呼ぶと直ぐに四足歩行で飛んできた。
「人間の形だし、人間用のごはん作ってみたんだ。食べてみるか?」
「んに、にゅ、れにゃ! れしゃん!」
「! え……い、い、今……今なんて?」
「にゃ、れにゃん……んにゅ、れしゃん! しんにゃ、れしゃん、んーっ、んーっ」
『れしゃん』と言いながら俺を指さし、『しんにゃ』と自分自身を指したあと、自分で自分の体をぎゅっぎゅっと抱きしめるジェスチャーを見せる新一に、何となく彼が伝えたい言葉が分かってしまい、ギュゥゥン、と凄まじい音を胸が立てた。
「好き、って言いたいのか?」
「んにゃ?」
「す、き。こう……胸がぎゅーっとなって、あたたかくなること」
「んにゃ! しんにゃ、れしゃん、にゅ、にゅ……ちゅき!」
「っ!」
「しんにゃ、れしゃ、ちゅきちゅき!!」
「〜〜〜っ!!」
カンベンしてくれ。身が持たないぐらい、エゲつない勢いで可愛い。なんだこれ。何なんだこの可愛い以外の言葉が死滅してしまう生物。
気がついたら思い切り俺は新一を胸に抱きよせ、そのフワフワとした黒髪に顔を埋め、何だか甘くて優しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、口に出していた。
「俺も。俺も、新一がだいすきだ。これからよろしくな、新一」
「んにゃ! しんにゃ、れしゃん、らいちゅき!」
拙いながらも、覚えたての言葉で懸命に伝えてくれる新一が、いとおしくて可愛くて仕方がない。
そのまま俺の膝の上に乗せて、食べ方を教えるようにスプーンを持たせ、手取り足取りでオムライスを食べさせてやると、いちいち目をキラッキラと輝かせながらキレイに完食した。
そうしてその日から、人型の新一に人としての振る舞いや言葉をひとつずつ丁寧に丁寧に教えていくことにしたのだ。
オムライスを食べ終えてから数時間、次から次へと教えてくれとねだってくる新一に言われるまま色々な基本的な言葉を教えてやった。
何かしてもらったら『ありがとう』。
いけないことをしてしまったら『ごめんなさい』。
朝起きたら『おはよう』。
夜寝る前は『おやすみなさい』。
何か食べる前は『いただきます』。
食べ終わったら『ごちそうさま』。
他にも、して欲しいことがあったら遠慮せずに口にすること、寂しい時はさびしいと言うこと。
痛いとき、つらい時、苦しいときも口に出してきちんと伝えるようにと教えると、「んにゃ!」と右手をあげて応えてくれた。なのでその時に「何かあったり返事をする時は『はい』って言うんだよ」と教えると、飲み込みが恐ろしく早い新一は早速右手を元気よく挙げて「にゃい!」と言った。
やはり人型になっても猫は猫だ。風呂に入るぞと誘ったら頭としっぽの毛を逆立てて部屋の隅っこに逃げてしまった。それでも処々汚れが目立っていたので、何とか宥めすかして風呂に入れ、しっかりと洗って乾かしてやれば、黒髪の艶めきも尻尾の毛並みも極上の触り心地になったので、風呂上がりでグッタリしていた新一も満足してくれたようで何よりだ。
風呂から上がっても色々な言葉を知りたがったが、一日であまり詰め込むのも宜しくないからまた明日教えてやるからと布団に入ると、何やら膝小僧を擦り合わせてもじもじしている。どうしたのかと見上げると、布団の脇に突っ立っていた新一は、口をもごもごとさせてから、Tシャツの裾をきゅっと掴んで俯きがちに、「……しんにゃ、ちゃみちぃ。れしゃと、ねんね……」と訴えてきた。可愛すぎて死ぬかと思った。すぐさま布団を捲りあげて新一が眠れるスペースを作ってやると、素早くスルンと潜り込んできたあたたかな塊を抱きつつみ、ビックリするほど熟睡した。
あいうえお編・完