触れていいのはきみだけ/④ドキドキしてる胸の音を聞く(月花妖異譚)「会いたかったよ、晶」
両手を広げて待ち構える彼の姿に思わず頬が緩む。嬉しそうに微笑む顔はとても優しくて、見ているだけで安心できた。穏やかなその笑みはいつだって俺に安心感を与えてくれる。城の畳へ一歩足を踏み入れると、和室特有の独特の匂いが漂う。
「フィガロ……! お久しぶりです」
逸る気持ちを押さえきれずにフィガロの元へ駆け寄れば、そっと手の内に招き入れてくれる。久しぶりに感じるその温もりに少し緊張しながら俺もまたフィガロの背中に手を回した。
「俺も会いたかったです」
「本当? 嬉しいな」
心の底から嬉しそうに笑ってくれるものだから俺もつられて笑顔になる。胸元に耳を寄せてみると、いつもより早く音を刻むフィガロの鼓動が聞こえてきてさらに口角が上がった。久々に会えた喜びに胸が高鳴る。俺はフィガロの胸に耳を澄ませたまま遠い記憶を辿った。
あの後、大桜のおかげで無事に元いた世界へ帰れた俺は、どういう訳か向こうの世界とこちらの世界を行き来出来るようになった。フィガロだけでなく、いろいろとお世話になったファウストたちにも再び会うことが出来て驚きと嬉しさで感極まりつい涙を流してしまったことを今でも鮮明に覚えている。昨日のことのように思い出せる記憶が嬉しくて、幸せを噛み締めるように静かに目を閉じた。
そんなことを考えていると不意に桜の香りが鼻腔をくすぐった。
(あ……)
どこか懐かしい匂いにふと顔を上げて彼を見る。
ほんのりと薄桃色に染まっている彼の頬を見て、フィガロも桜みたいだ、なんて思いながら無意識に手を伸ばして頬を撫でた。
「わ、どうしたの」
「あ……すみません、急に撫でてしまって」
謝りつつも手を離せずにいるとフィガロは「大丈夫だよ、ちょっと驚いただけだから」と可笑しそうに笑った。目を閉じて、頬に添えた手へすりすりと頬を寄せる。子どものように甘える仕草が愛らしかった。彼のこうした些細な仕草一つ一つに、いつもこうして胸を弾ませている。
「フィガロから桜の匂いがして、頬も桃色に染まってて……。まるで桜みたいだなって思ったんです」
素直にさっきまで考えていたことを話すとフィガロはゆっくりと目を開けた。それからほんの少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「俺が桜だって言うなら晶は春みたいだね」
「え? 俺が春……ですか?」
思いがけない言葉に驚いて思わず聞き返す。
「うん。だって桜が満開になる季節に出逢ってくれたでしょ。きみの周りは優しくて、明るくて……一緒にいるとすごく落ち着くんだ」
落ち着いた声色は徐々に嬉しさを噛み締めているかのようなものに変化していった。
「だから俺はそんな春みたいなきみが好きだよ」
「フィガロ……」
「きみに会えて嬉しい」
さっきよりもずっと強く抱きしめられる。ぐっと縮まった距離に鼓動はどんどん早くなっていく。至近距離で見つめられると照れくさくて顔を背けてみたけれど、寂しそうに告げられる「こっち向いて」の一言には逆らえなかった。熱のこもった瞳が俺を射抜く。頭部から生える立派な角に、改めて彼が竜だと──人間ではないということを思い出してなんだかとても不思議な気持ちになった。
こつん、と額を合わせられてまた距離が縮む。睫毛が触れるほどの距離感で迫られればもう逃げ場などなかった。
「キスしてあげるから目を閉じて」
「き!?」
「キス、だよ。唇を触れ合わせるやつ」
「いや……それはわかってますけど……」
「恋人同士なんだから当たり前でしょ?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった俺に対してフィガロは平然とそんなことを言ってのける。
「で、でも誰かに見られたら……!」
「大丈夫だよ、今日はここには誰も入れないことにしてるんだ。せっかくきみと二人きりの時間を誰かに邪魔されたくないからね」
「……!」
事もなげに言うフィガロの勢いに気圧された俺は観念して目を閉じた。
「……お願いします」
唇同士が触れやすいように少し顔を上向ける。頬に触れたままだった手を通じてフィガロの顔がゆっくりと近づいてくるのがわかった。
心の準備をする暇もないまま程なくして柔らかい感触が唇に伝わってきた。一瞬だけ触れてすぐに離れていったそれは俺の鼓動を早めるには十分で、自然と頬が熱くなる。
余韻に浸りながら少しずつ目を開けると、いつの間にかフィガロが俺の顔をじっと見つめていた。
「きみの頬も桜みたいだ」満足気に微笑むと俺の頬を撫でる。まるで壊れ物を扱うような丁寧すぎる手つきが気恥ずかしい。
「どきっとした?」
わくわくとした様子で尋ねてくるその姿は、まるで褒められるのを心待ちにしている小さな子どものように見えた。微笑ましく思いながら小さく首を縦に振る。
「そうだろう、なんたって竜の口づけだからね」
得意げに言う姿が愛おしくてつい笑みが漏れる。
「竜だから、じゃなくてフィガロだからですよ」
耐えきれずついくすくす笑ってしまう。フィガロは面食らったような顔をしてぱちりと一つ瞬きをした。
「はは……、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
さっきまで散々見つめてきた彼の視線は俺から外れ、定位置に定まらず揺れ動いている。八の字に下がった眉といまだに淡く染まった頬が彼の感情を物語っていた。
フィガロはそうしてしばらくの間地面に視線を落としていたが、やがてもう一度俺の方を見る。
「晶」もう随分と呼ばれ慣れた名前のはずなのにフィガロの声で呼ばれるととても新鮮な気持ちになる。同時に、なぜだかとても懐かしく感じられた。だけど、この感情の正体を知る術は今の俺にはない。
ざあっと春風が吹き桜が舞い散る。思わず瞬きをして目を開けたほんの一瞬。その一瞬だけ、角もなく、服装もいつもと違うフィガロの姿が見えた。白い衣を身に纏い、風に吹かれて服の裾がはためく。
『いつかきみと一緒にサクラって花を見てみたいな』
その姿を見た瞬間、脳裏に誰かの声が蘇った。
「……え?」
見間違いかと思い目を擦ってもう一度フィガロを見る。そうして見えたのは、いつもと変わらず角を生やして着物を着た彼の姿だった。
「どうかした?」
「い、いえ! なんでもないです!」
慌てて誤魔化す俺の姿はきっと彼の目には不審に映っただろう。でも今はそんなことを気に掛けている余裕はなかった。
「そう? ……あ! もしかして俺に見惚れちゃった?」
「あはは……。そうとも言えるかもしれません」
「えっ、ほんと?」
曖昧な言葉を返す俺にフィガロは予想外だとでも言わんばかりに目を見開いた。直後、嬉しそうに目を輝かせる姿に多少困惑しながらも精一杯の笑顔を返す。
ふと彼の頭上にある立派な角が目に入る。どこか気品漂う形をしたそれはフィガロが竜──人ならざる者であることを示す何よりの証だ。そっと手を伸ばして触れてみると、つるりとした感触が伝わってくる。硬いと思っていたそれは思いのほか柔らかかった。ほのかな温もりが指の腹をじんわりと温める。
「っ……あんまり触らないで」
何かを堪えるように息を詰める声が耳に届き我に返る。パッと手を離すと俺はさっきよりもずっと慌ててフィガロを見た。伏せられた睫毛が目元に影を落としている。
「ご、ごめんなさい!」
「いいよ。少し驚いただけだから。……触ってみたかったんでしょ?」
庇うように角をさするフィガロに罪悪感を覚えながらも素直に「はい……」と頷く。怒っている、というよりは困惑しているようだった。
「そっか。触りたいなら触っても大丈夫だけど、あんまり強く握らないでね?」
ここは敏感な部分なんだから、と続けられた言葉にドキドキと胸が高鳴る。思い切って手を伸ばすと俺はもう一度フィガロの角に触れた。
「んっ……」
角に触れる度ぴくりと反応する彼は時折小さく声を漏らす。その声はなんだかいやに色っぽくて、いけないことをしているような錯覚に陥ってしまう。
強くして刺激を与えないようにと撫でるみたいに優しく指を滑らせる。僅かに覗いた好奇心に逆らえず指先でつんとつついてみると逃げるように身を捩られた。
「……っ」
「ごっ、ごめんなさい……! 痛かったですか!?」
本日何度目かわからない謝罪の言葉を口にしながらまた慌てて手を離す。フィガロは不満げな顔をしていた。まだ角に触れられた余韻が抜けないのか頬がほんのりと赤い。
「別に怒ってないよ。ただ、その……少しくすぐったくて」
「くすぐったい?」
「うん……。さっきも言った通りここは敏感な場所だからさ、あんまりつつかれると変な気分になっちゃうんだよね……」
恥ずかしそうに目を伏せる姿にどきりとする。いつも余裕たっぷりな彼のこんな表情を目にするのは初めてだった。
「えっと、じゃあどんな風に触ればくすぐったくないですか?」
フィガロは暫し思案するように沈黙していたが、やがていいことを思いついた、といった様子で妙ににこにことした笑顔を見せる。
「……そうだなあ、こんな感じ?」
「ひゃっ……!」
耳たぶを触られて上擦った声が漏れる。どう扱えばいいかわからない、といった風な探り探りの手つきだった。触れるか触れないかという程度の慎重な指先に翻弄される。しなやかな指先が耳のふちを上から下までつうっとなぞり上げた。
「っ……フィガロ、あの、くすぐったいです……!」
身を捩って逃げようとするとさらに強く抱きしめられた。逃がさないと言わんばかりに力を込められてぐっと距離が縮まる。
「だぁめ。さっき散々俺の角触ったでしょ。竜の角を触れる人や妖怪なんて限られてるんだよ?」
悪戯っぽい笑顔の中に艶やかな色が感じられて俺は思わず息を呑んだ。無意識にごくりと唾を飲み込む。
「だから俺も晶に触らせて? ね、いいでしょ?」
「え……えっと……それは」
フィガロは俺の返事を待たずに顔を近づけてきた。咄嗟に身構えると彼はくすりと笑う。
「大丈夫だよ、優しくしてあげるから。安心して俺に身を委ねて」
そうは言っても恥ずかしいものは恥ずかしいので俺は返事をする代わりにフィガロの目を見つめ返した。
「よし、じゃあ触るよ」
言うが早いかフィガロは手を伸ばして俺の耳に触れた。耳全体を優しく包み込むように持たれて指先で弄ばれる。最初のうちはただ撫でるように触られていただけだったが、しばらくするとその手つきは明らかに欲を持ったものに変わっていった。
親指と人差し指で耳たぶを挟みこまれてすりすりと擦られたり、耳の裏側を往復するようになぞられたり、出っ張りの部分をつん、つんと何度もつつかれたりしてつい体に力が入る。どうやらそれはフィガロの背中に回した両手も同じのようで、いつの間にか俺はしがみつくような体勢で彼にもたれかかっていた。
「ん、んんっ……ぅ、あッ……」
また変な声が出ないようにと唇を噛むものの口の隙間や鼻から抑えきれない吐息が漏れ出てしまう。甘い声が出てしまい羞恥心で泣きそうになっている俺を一瞥してフィガロは楽しげに目を細めた。
「ふふ、可愛い」
愛でるような視線を向けられて頬に熱が集まる。熱のこもった目で見つめられるのはどうも慣れない。
「ひゃあっ!?」
かりかりと爪を立てるようにして引っかかれた瞬間、耐えきれずに喉の奥から一際大きな声が漏れ出た。咄嗟に彼から離れようとするが、予想していたのかすぐに手首を掴まれ止められてしまう。
「こーら。だめだよ、逃げちゃ」
窘めるようにぎゅうっと抱き寄せられて身動きが取れなくなる。さっきよりもずっと強い力で腕の中に閉じ込められてしまった。隙間なく密着した体からは彼の温もりが鮮明に伝わってくる。
「ちょっ……! や、やめ、あぅ……!」
「俺の角にちょっかいかけたんだからきみにも変な気分になってもらわないと。ちゃんと責任取ってね?」
「そ、そんなぁ……」
情けない声をあげてどうすることも出来ずされるがままになっていると、ふと床に何かが落ちているのを見つけた。
(……ん? あれって確か……)
正体を探るべく目を凝らしてよく見れば、それは以前この城へ訪れた際に見つけた竜の鱗というものだった。
「あの、フィガロ。あれって……」
「ん?」
フィガロは手の動きを止めて俺の指差す方へ視線を向ける。ああ、と納得したような声を出して鱗を拾い上げる。
「竜の鱗だね。懐かしいなぁ……きみが初めてここへ来た時、確か俺の鱗をあげたっけ」
しみじみとした口調で語りかける彼の表情はとても穏やかなものだった。慈愛に満ちた眼差しを目の当たりにして、俺は居ても立ってもいられず懐に忍ばせていた彼の鱗を取り出してフィガロに見せた。
「え。……これ、あの時の俺の鱗?」
こくりと小さく頷けばフィガロは鱗と俺の顔とを交互にまじまじと見つめた。それから安心したように頬を緩ませる。嬉しさを噛み締めているような控えめな喜び方に俺はなんだか急に照れくさくなった。
気恥ずかしくて落ち着かないのはフィガロもまた同じようで、何か言いかけて口を開いてはすぐに閉じる、といった行為をもう数回は繰り返している。どこか気恥ずかしい想いを抱えたまま俺はそわそわとした気持ちでフィガロの次の言葉を待った。
「嬉しいなぁ、持っててくれたんだ……。大事にしてくれてる?」
「はい……。これを持ってると、いつもフィガロが傍にいて見守ってくれてるような気がするんです」
手のひらに乗せたフィガロの鱗を無くさないように手の中へ閉じ込めた。大事なものだからどこかへ行ってしまっては困る。
心地よい静寂が場を満たす。しばらくして先に沈黙を破ったのはフィガロの方だった。
「ねえ、そういえばさっき俺のことを桜みたいだって言ってくれたよね。でも本当にいいの?」
「え?」
「もし俺が桜だって言うなら、きみをこの世界へ攫って独り占めしちゃうかもよ」
「……」
「元の世界へ帰れないようにずっとここに閉じ込めちゃうかも。それでもいい?」
冗談のような言葉とは裏腹にその目は真剣そのものだった。不思議な魅力を持った彼の瞳に見つめられると、まるで吸い寄せられるように目が離せなくなってしまう。
「すみません……。今はまだちょっとわかりません」
「…………」
「……だけど、フィガロが望んでくれるなら。いつかはそういう未来もありかなって思えるんです」
「晶……」
フィガロは瞳いっぱいに寂しさを湛えて俯いた。しかし、すぐに顔を上げると花が咲くような笑顔を見せる。
「ありがとう。変なこと聞いちゃってごめんね」
「いえ……」
「ねえ晶、せっかくだから二人で花見でもしない?」
「お花見ですか?」
「城の桜が満開でね。そろそろ見頃なんだ」
ゆっくりと体を離すとフィガロはそっと俺へ手を差し伸べた。心地いい春風が吹くなか満開の桜を背に微笑むその姿はどこか切なくて儚い。桜に攫われてしまいそうな危うささえ感じられて胸がいっぱいになる。ぽかぽかとした陽だまりに照らされると、反射した光が彼の輪郭をなぞってきらきらと煌めいた。
静寂に満ちた空間に二人分の息遣いだけが響いている。そよぐ風や風に吹かれる草花の音がずっと遠くのもののように思えた。まるで今この世界には俺たち二人しかいないような、そんな錯覚。
「……いいですね、お花見しましょう!」
しんみりとした気持ちを誤魔化すように俺はわざとらしく明るい声を出してフィガロの手を取った。
繋いだ手を離さないようにしっかりと握りしめながら外へ出る。その瞬間、突然風が強くなって花びらが吹き荒れた。俺たちを祝福して舞い踊るように淡い桃色が視界を染める。
「わっ……!」
反射的に目を閉じるとフィガロの手がそっと俺の頬に触れる。驚いて目を開けると彼は照れくさそうに笑った。
二人手を取り合って満開の桜並木の下を歩く。こうして傍にいられることがどうしようもなく幸せで自然と口元が綻んだ。
これから先も彼と一緒にいたい。この人の隣を歩いていたい。
──どうか、あなたが桜に攫われてしまわないように。