小さい時のことはあまり覚えていない。
いや、思い出すのをやめた、と言った方が正しいかもしれない。
確か僕にも普通の子供のように、褒められれば喜び、親や友達を失えば泣き叫ぶような情緒はあった。だけどいつからか、世界から色が薄れていくようになって、感情の動きが鈍くなって、もう、両親の顔すらわからなくなってしまった。
もっとも、年端もいかない子供を怪しい宗教組織に売り飛ばすような親だ。きっと碌な家庭じゃなかったんだろう。別に、そのことを恨んでるわけじゃない。柊に売られようが売られまいが、そう大層な人生にはならないことは変わりない。興味もない。全部がどうだっていいから。
一瀬グレンの話を初めて聞いたのはいつだったか。
許嫁の真昼はとんでもない女で、ずっと、何を考えているのかちっともわからなかった。だからと言って彼女を分かろうとなんて少しも思わなくて、それが真昼にとっても好都合だったんだろう。意外に僕ら2人の関係はうまくいっていた。カモフラージュのために、心底どうでもいい、くだらない世間話なんかもした。世界一無駄な時間だと思ったけど、じゃあ無駄じゃない有益な瞬間は僕の人生においてあったのかと問われると、それは難しい質問だと思う。
そんな中で、なんでか、真昼は僕にグレンの話をした。2人がどうやって出会って、どうやって引き裂かれたのか。一瀬グレンと言うのがどんなに心優しく、強い男なのか。それはまるでおとぎ話の世界のように、真昼はいつもうっとりとして語った。初めて彼の話を聞いた時、正確に言えば、彼の話をする真昼を見た時、僕は作り話じゃないかと思った。柊という籠に囚われ、狂ってしまった少女が作り出した幻想。だって、いつも完璧に「心からの表情」を浮かべて見せる真昼が、彼の話をするときだけ、ほんの少し苦しそうな笑顔になるから。取り繕っているような作り物の笑顔を真昼が見せるのは、決まって一瀬グレンの話をするときだけだった。だから僕は、真昼にそんな表情をさせる男に、少しだけ興味を持った。こんな世界で、しかも一瀬なんかに生まれて、どうして真昼を惹きつけるほどの熱を持っていられるのか。
そんな、柄にもなく期待などしていたものだったから、第一印象は最悪だった。
2人も女の子を侍らせ、頭からコーラを被ってヘラヘラ笑っている姿は驚くほどつまらなくて、10年近くあればそりゃまあ人は変わるよなと、諦念に近い感情を抱いた。
その後は鮮烈だった。
真昼があんなに夢中になっていたのがよく分かる。絶望したいような世界に生きていて、それでもなお何も諦めない。まるっきり馬鹿みたいだけど、僕らには選べない生き方で、それが心底眩しくて、羨ましかった。
だけどやっぱり僕はグレンにはなれなくて、そうしてまた諦めた。
諦めたけど、世界は滅亡した。
すっかり様変わりした世界も、慣れとは怖いもので、いつしかそれが日常になっていく。むしろ、「勝たなきゃ生きていけない、弱い者から死んでいく」簡単なルールはそのままだ。
あの頃と違うのは、隣に仲間が立っていること。
昨日まで一緒に笑い合っていた友達の首を刎ねる必要は、もう無い。
それは救いのようで、本当はずっと残酷なことだと、僕は薄々気づき始めていた。
「グレン、何その隈。寝不足?お肌に悪いよ〜」
お昼時に会議がもつれ込んでしまい、中途半端な時間に食堂に行くと、グレンもそこで遅めの昼食を摂っていた。迷わず真向かいの席を陣取り、顔を覗き込みながらそう言った。
最近グレンの顔色があまり良くないことも、数日前から濃い隈を拵えていることも勿論わかっていたが、とうとう見ていられなくなって指摘した。本人はなんとか隠しているつもりでいるが、生憎バレバレだ。小百合ちゃんと時雨ちゃんも心配そうにしていた。
「お前に関係ないだろ」
「人が心配してるのにそんな言い方ないでしょ。仲間の体調心配して何が悪いわけ?」
そっちが喧嘩腰ならこちらだって対抗させてもらう。第一、関係ないとは何だ。別隊に配属されているせいで一緒に行動することは少ないとは言え、数少ない友達の1人ではあるだろう。
「はは、何でお前がそんなムキになるんだよ」
「誰かさんのおかげで僕もすっかり仲間思いのいい子に育ったからねえ。それに、君もうすぐ遠征でしょ?」
グレンの指揮する『月鬼ノ組』は、三日後に原宿への遠征を控えている。暮人兄さんにさりげなく同行していいか聞いてみたけど、あっさり一蹴されてしまった。
別に心配なわけじゃない。グレンは僕よりもずっと強い。でも、強いからこそ欲張りだから、万が一がないかいつだって気が気じゃないのだ。
「僕の知らないところで勝手に死んでもらっちゃ困るよ」
そう言うと、グレンは何か言いたげに口を開き、そして結局何も言わずにため息をついた。
「何その顔。文句ある?」
「じゃあお前も現場出てこいよ」
「暮人兄さんに言って〜」
兄さんの名前を出すと、グレンはあからさまに嫌な顔をした。大概、今回の任務も兄さんの無茶振りなのだろう。彼も彼で、裏であれこれ無茶しているのを知っているからこそ、なんだかんだ逆らえないところがある。
でもやっぱりこっそりついていけないかスケジュール調整してみようかな、と目論んでいると、グレンの端末が鳴った。
「午後の稽古に顔出してくる。お前も来るか?」
「んー、行きたいけど事務仕事溜めてるんだよね。与一くんによろしく言っといて」
僕はそう言ってひらりと手を振り、少し不満げな表情で席を立つグレンを見送った。
三日後、結局同行することは叶わずなかった遠征から彼らが帰ってきたのは、予定から大幅に遅れた夜更けのことだった。
陽が落ちた後はヨハネの四騎士の動きが活発になるし、運が悪ければ太陽を避けた吸血鬼どもが地上に出てくることもある。だから夜中の行動は基本的にはタブーだが、少数部隊だったせいか、野宿して朝を待つ方が危ないと判断したらしい。幸いにも死者は出ず、満身創痍ながらも全員帰還したという知らせに思わず胸を撫で下ろす。何となく眠れずにいたけど、もうベッドに入ろうとしたところでノックの音が響いた。
誰が来たのかなんてドアを開くまでもなく分かる。こんな時間に訪ねてくる方も、呆れながらも出迎えてしまう僕も、大概だ。
「はーい。おかえり、グレン」
そこにいたのは、表情の抜け落ちたような顔で佇む男。どうしたの、だなんて、もう聞かなくても分かる。
おいで、と唇を動かして両手を緩く広げると、グレンは躊躇わず僕に身体を預けた。辛うじてシャワーは浴びてきたのか、石鹸の香りの奥から落としきれなかった汗と血の匂いがする。うなじの辺りを、指で遊ぶようにして撫でた。
命を懸けるような任務の後、こうしてグレンが僕の部屋を訪れるようになったのはいつ頃だっただろうか。
一番最初は、鬼の力を使いすぎて興奮状態だったグレンの衝動を抑えるためだったと思う。1人でいると、鬼が唆す欲望はどんどん膨れ上がって、コントロールするのが酷く苦しくなる。だからあの晩も、それに疲れ切ったグレンは半ば無意識に僕の部屋を訪れていた。
「どう?少しは落ち着いた?」
少し前までは、この時間は嫌いじゃなかった。僕たちに決して弱さを見せようとしないグレンが、無防備になって、甘えてくる時間。どんどん先へ走るグレンにとって、僕がまだ必要なのだと、認識できる時間。
でも最近になって、反対に僕の心がざわつくようになってしまった。この時間が心地いいほど、終わってほしくないと思う。グレンが僕らから離れてくのが、不安で、怖くて仕方ない。まだ僕のことを見ていてほしい。あまりにも甘ったれた醜い欲望だ。鬼は人間の欲望が大好物だから、白虎丸はいつも嬉々として僕に語りかけてくる。
『君は全く落ち着いてないくせに。その醜い欲望、全部グレンにぶちまけたら死ぬほど楽になるんじゃないの?』
うるさい。
こんなことをグレンに知られたら、もうこの時間は無くなってしまうだろう。この厳しい世界では、もう馴れ合って傷を舐め合うだけじゃ生きていけない。だからこそ、グレンはこの秘密の夜の相手に僕を選んでいるのだ。何にも執着しない、何も望まない、空っぽの道化の僕を。
『……深夜がそう思うなら否定しないけど。グレンが君を選ぶ理由は他にもあると思うけどな』
無いよ。勘違いしちゃダメ。期待もダメ。グレンは優しくて、「家族」のみんなのことが大好きなだけ。僕が好きなのはそんなグレンだから、絶対に邪魔しちゃいけないんだ。
そんな葛藤は心の奥底に押し殺して、徐に身体を離したグレンに微笑みかけた。バツの悪そうな表情が、いつもの憎まれ口を叩く様子とあまりにもかけ離れていて、ちょっと笑ってしまいそうになる。
「大丈夫そうならさっさと寝よう。明日からもこのクソみたいな世界で生きてかなきゃいけないからね」
「……そうだな。遅くに悪かった。おやすみ」
「うん、おやすみ〜」
日によっては同じベッドで身を寄せ合うこともある。それが果たして健全と言っていいのか、まともな友人も普通の家族も持たない僕たちはまだわからない。今日はまだ平気な方だったようで、ほんの短い逢瀬だけでグレンは自室に引き返していった。それを残念に思うのか、ほっとするのか、どちらの感情が正しいのかも僕はまだわからなかった。
次の日、僕は北門の整備に駆り出されていた。と言っても、主な役目は見張りだけで、それは白虎丸にまるっきり任せてしまえる。狙撃に適した高台から隊員たちを眺めながらぼんやりしていると、隣に誰かが腰をおろした。柊シノア、義理の妹とかいうやつだ。
「どうしたの?何か用?」
「いえ、特に何も。退屈だったので暇そうな人を探してたらここに辿り着きました」
「僕一応仕事中なんだけどー」
彼女とは直接血のつながりがあるわけでもなく、あまり兄妹らしいことをした記憶もない(そもそも兄妹らしいこととは何なのかもよく知らない)。その割に、暇があると僕にちょっかいをかけにくることが多いような気がする。彼女の周りの大人、暮人兄さんに征志郎兄さん、そしてグレンなんかと比べたら僕が一番無害そうという判断をしたのかもしれない。賢い判断だと思う。僕の傍にいたところでなにか面白いわけでもないと思うけど。
シノアちゃんも、万事をうっすら諦めている、僕と同じタイプだと勝手に思っている。あの真昼の妹だから正直真意は読めないが、天才少女の姉を持ち、受けてきた境遇を思えば、そんな思考になるのも納得はいく。
「シノアちゃんはさー、恋ってしたことある?」
なんとなく僕が発した問いに、シノアちゃんは半笑いを崩さないまま驚いたそぶりをしてみせた。
「え、もしかして今私たち恋バナしようとしてます?」
恋バナ、なんて、僕たち2人にはまるで似つかわしくないワードチョイスだ。
「じゃあそういうことでいいよ。どうなのどうなの」
「あーんな環境で恋なんてできたと思います?恋に恋する可愛い乙女ですよ」
「そりゃそうかあ」
恋バナ、終了。
「姉さんの話はよく聞いてましたけどね。グレン中佐について話すときだけ、姉さんは普通の女の子みたいにはしゃいでました。だからちょっとだけ憧れてます」
「普通の女の子、ね」
それが彼女の素だったのか、それもまた仮面だったのか、今となってはもうわからない。でも、グレンへの恋心が真昼を壊したのは確かだ。
「まあ、こんな世界で何が普通かなんてわかんなくなっちゃいましたけどね」
「普通の奴らはみんな死んじゃったからね」
「そうですねえ。ちなみに、そんなことを聞いてくる深夜兄さんは恋してるんですか?」
「それがしてないんだよね。僕らヤバいかもよ」
「人類の発展に貢献できてないですねえ」
世界が破滅してから生まれた赤ん坊はいるのだろうか。世界中探せばいないこともないだろうが、人類は今まさに絶滅の一途を辿っている。暮人兄さんは何か対策を講じているのだろうか。大真面目にラブホでも建て始めたら流石に笑ってしまう。
「ま、恋なんてそんなに良いものとは思いませんけどね」
つまらなそうにそう言う彼女は、きっと真昼のことを考えているのだろう。
「同感」
僕は凝った背中を鳴らしながら大きく身体を伸ばした。青空には、嫌になる程眩しい太陽と白く光る月が並んでいた。