【クラエベ】誰かを愛するということについて(仮)とある日の昼下がり クライデの家
「なあ、クライデ。」
「なんですか?」
「人を愛するとは、一体どういうことだと思う?」
「急にどうしたんですか?」
クライデはチェロの手入れをしていた手を止めてこちらを見る。
「……いや、特段深い意味があるというわけではないのだが……。ツェルニーも言っていただろう。『世辞を言われ慣れている。』と。たしかに私には誰かから愛されたという記憶がないんだ。両親は私を愛してくれたかもしれないが、まだ幼かった私はそれを覚えていない。……分からないんだ、それがどういうものなのか。今の私には、理解できない。」
「…………。」
クライデは私の隣に腰を下ろすと、私の手を取り言った。
「そうですね……、あなたの問いに答えるのはとても難しいです。ですが僕はこう思います。人を愛することとは、その人の全てを受け入れ、心を満たすことだと。」
「心を満たす……」
「はい。エーベンホルツ。今、僕の手は温かいと感じますか?」
「あ、ああ。」
「それなら大丈夫です。あなたは人の温もりを感じることができる。あなたはただやり方を知らないだけで、ちゃんと誰かを愛することができる人です。今まで誰かを愛したことがないのなら、これから覚えていけばいいんです。」
クライデはそう言って微笑むと、私の肩に腕を回し、そのまま私を抱き締めた。
「クライデ……!?」
「ほら、こうしていると、僕の鼓動が伝わるでしょう?」
私も恐る恐る彼の背に腕を回した。しばらくそうしていると、温かい、彼の鼓動が伝わってきた。私は幾許かの安らぎを覚え、心が満たされる感じがした。それは初めて知る感覚だった。嗚呼、これが愛されるということなのか。
「ツェルニーさん、ハイビスカスさん、それにアフターグロー区の人々、皆があなたのことを大切に思っています。そしてもちろん僕も。エーベンホルツ。あなたはもう孤独ではありません。あなたは、皆から愛されているんですよ。」
不意に、涙がひと筋、頬を伝い落ちた。それはひと筋、またひと筋と頬を滑り落ち、いつしか彼の肩を濡らした。
「エーベンホルツ……?僕、何か変なことを……っ」
「あ、いや……すまない。涙が……勝手に……、止まらないんだ……。」
「それなら僕の肩を貸します。泣いてもいいんです。安心してください、僕はずっとあなたの傍にいますから。」
「…………すまない……」
張り詰めていた感情が堰を切ったように溢れ出し、私は声を押し殺して泣き続けた。クライデはそんな私を抱き寄せ、何も言わずにただ寄り添っていてくれた。
私は自分の人生のほとんどを他人に利用され続けてきた。
他人の善意を知らない私のような者にも、誰かを愛するなどということができるのだろうか。
「……落ち着きましたか?」
「ああ。……すまなかったな。君にあんな姿を見せてしまって。」
「いえ、気にしないでください。あなたはきっと、今まで誰かに弱みを悟られることすら許されなかったのでしょう?でも少なくとも今、せめてアフターグロー区にいる間は、もっと誰かを頼ってもいいんですよ。(もっともあなたはきっと、他人に弱みを見せることを良しとしないでしょうが……。)」
「そうだな、善処しよう。」
もし本当にゲルトルーデの計画通りに事が運べば、コンサートが終われば、私は自由を手に入れ、ウルティカの高塔に閉じ込められることも、「塵界の音」に苦しめられることもなくなるという。しかし彼は―――クライデはどうなる?彼はコンサートで私の代わりに……。否、そんなことは断じて許されない。たとえ彼の身体が病魔に冒され、残された時間が僅かであったとしても、彼が私の代わりに死ぬなどということは、絶対にあってはならない。彼は彼自身が選んだ生を全うすべきだ。
「クライデ、ありがとう。君のおかげでぼんやりとだが分かった気がするよ。君に触れたとき、何かとても……心に温かいものを感じたんだ。」
「それならよかったです。僕はいつだって、あなたの力になりたいと思っています。だから……」
「クライデ……?」
「僕はあなたのことを、もっと知りたいんです。もっと深く、あなたの全てを……。」
彼はまっすぐに私の瞳を見つめている。いつもの微笑みを湛えて。しかしその微笑みはどこか蠱惑的で、私は思わずどきりとした。
「…………ぁ」
彼の指先が私の頬に触れる。涙の跡はすでに乾いていたが、彼はそれをなぞるように頬を撫でた。
「……綺麗。」
「くっクライデ……いけない、それ以上は……っ!」
「どうしてですか?」
「っ……ぁ……」
私は言葉に詰まった。
どうして?
どうして……。
彼が私に向けている感情の正体が分からないから?
それとも、このまま友人としての一線を踏み越えて、彼との関係が壊れてしまうことを恐れているから?
私は一体、何を恐れている?
知らない感情と向き合うことを、恐れているのか?
だがそれは彼を拒む理由にはならない。
私は彼に尋ねる。
「……クライデ。君は、どうしたい?」
「僕は―――」
「僕は、あなたを愛しています。エーベンホルツ。
僕はあなたの全てを受け入れたい。
そして、あなたにも僕のことを知ってほしいんです。僕の全てを―――」
ああ、なんて我儘な願いなのだろう。
彼に僕の全てを受け入れてほしいなんて。
それを口にしてしまったら、もう二度と、後戻りなどできないのに。
分かっていたはずなのに、僕は―――。
でも、これ以上、この気持ちに嘘をつくことはできないんです。
ごめんなさい、エーベンホルツ。
僕はもう、あなたの「友人」ではなくなってしまうかもしれません。
あなたを「愛してしまった」僕を、どうか 赦して―――