共に見た景色は光り輝くあの日、鬼の始祖を倒して手に入れた平和な世界と引き換えに、オレは全てを失った。
自分の命より大切な弟が、目の前で塵になって消えていった。骨の一本すら残らず、残されたのは中身の無い只の布。あいつにはオレのことなんざ忘れて、何処かで穏やかに暮らしてほしかっただけなのに。弟を連れて行かないでくれというオレの願いは、無情にも天に届くことは無かった。
悲しみに暮れる間も与えられず、ただ我武者羅に刃を振るった。
目を開けると消毒液のにおいのする寝台の上で、全身の痛みと発熱で回らない頭で自分があの世から戻されたことをぼんやりと思い出す。
指先を動かすことすらできず、ただ天井を眺め続けているとガシャンという何かを落とす音が聞こえた。
「あ…起きた……。なほちゃんすみちゃんきよちゃん!不死川さん目覚ました」
「静かにしてください後藤さん!今アオイさんを呼んできます」
後藤という名前とその声には聞き覚えがあった。確か下弦の壱と戦った時に来た隠だ…。匡近と…二人にしてくれた奴…。
朦朧とした意識の中そこまで考えたところで、再び意識を手放した。
次に目を開けた時には横の椅子に誰か座っていた。「よぉ。起きたか」という声になんとか顔を向ける。眼帯をして髪を下ろした姿はまだ見慣れないが、やたらと整った顔立ちと窓から射す光をキラキラと反射させる白金の髪でこの男が宇髄だと知れた。
「随分寝てたな。隠の後藤ってヤツにお前が目覚ましたって聞いて来てみれば三日も目覚まさねぇんだもんよ」
地味に暇だったわ〜。と宇髄が続ける。
「宇髄…鬼舞辻の野郎は…倒したんだよな?鬼はもう居ねェのか?他の奴等はどうなった」
オレの問いに宇髄の顔が強ばる。
「…鬼はもう居ねぇよ。お前達が命懸けで戦ってくれたお陰で、もう人々が夜に怯えることはねぇ。お前も、もう刀なんか握りしめて寝なくたっていい。お疲れさん」
そう言われて布団の中の手を動かすと、カチャリと音を立てて硬いものが当たった。
「譫言でずっと『刀』って言ってたから後藤が渡したんだと。其れはもうお役御免だ。…けどこっちの犠牲も多くてな。柱で生き残ったのはお前と冨岡だけだ。あとは皆死んじまった」
「そ…か。皆逝っちまったのか……死にそびれちまったなァ」
俺を見ているはずなのに不死川の瞳に俺は映っていない。何処かもっと遠くを見ているような、そんな目だ。
「……折角生き残ったんだ。そんなこと言うなよ」
「…今まで、怒りや悲しみは全部鬼にぶつけてきた。鬼を殲滅することと弟の平穏だけを願って生きてきたんだ。心に、ぽっかり穴が空いちまったみてェでよォ。二つの目的を同時に失ったオレは、これからどうやって生きていけばいい…」
壊れてしまいそうだと、思った。前々から不死川には危うさを感じていたんだ。荒々しく見えて本当は誰よりも繊細で心優しい男。
柱稽古の折鬼殺隊を辞めさせるために弟の目を潰そうとしたと風の噂で聞いた。鬼殺の才能の無い弟の命を守る為、正しく心を鬼にしての行動だろう。決して褒められた行為ではないが、俺はそんな不器用な不死川が嫌いじゃなかった。
自分がどう思われようがどこまでも他者の幸せを願うお前が危なっかしくて放っておけねぇんだ。何時からだろうな。何処に居てもお前の音を探すようになったのは。
「…これ。お館様がお前に渡してくれって」
「何だァ?これェ」
不死川が訝しげに俺が差し出した風呂敷を見つめる。
「お前の大事なもの」
そう言って体を起こすのを手伝ってやると、不死川が疑問符を浮かべながら欠けた指で器用に結び目を解いていく。
「ッ…!」
それが何かを視認した途端、目が見開かれ大粒の涙がボロボロと溢れ出す。
「後処理をしていた隠のヤツが見つけたんだと。鴉の話では…骨も残らなかったんだろ?せめてもの遺品だ。大事に持っとけ」
「げ…んや……玄弥ァ…。ごめんな…兄ちゃん守ってやれなくて。ごめんなァ…」
ボロボロの服を抱きしめて声を絞り出す不死川の姿があまりに痛々しくて、見ているこっちの胸が締め付けられる。
「お前はしっかり生きろ。弟の分までな。アイツもそれを望んでるだろうよ」
——幸せになってほしい。死なないでほしい——
「げん…や…」
「お前の心の穴は俺が埋めてやる。だから残りの人生俺にくれ。俺と一緒に、生きちゃくれねぇか」
震える包帯だらけの身体をそっと抱きしめる。俺の一世一代の告白は、否定も肯定もされなかった。
「おーおー見事なもんだ。なぁ不死川」
「……あァ」
平和な世が訪れてから三ヶ月。蝶屋敷の『必勝』と名付けられた満開の桜を見上げながら言えば、返ってきたのは随分と素っ気ない返事。
「何?風柱サマは花を愛でる心も持ってねぇの?そんなんじゃモテねぇぞ」
揶揄うつもりでそう言ってやれば、不死川が少し困ったように眉を下げる。
「……オレのお袋は…鬼になってよォ」
「…………え」
「弟妹がお袋に殺されて…玄弥を助けるために、オレが…殺した。あの日から、ずっと世界が色褪せてんだ。色がわかんねェわけじゃねェけど、光を失ったっつーか…昔はもっと、目に入るもの全てがキラキラして見えたのに。空はいつも曇天。桜も紅葉も、もうどんな色だったか忘れちまったァ」
不死川の思いもよらない告白に、思わず言葉を失う。あぁ、だからお前はあんなに鬼を憎んで…。
悪鬼滅殺を絵に描いたような男。『醜い鬼共はオレが殲滅する』…口癖のようになっていたその言葉の意味を、今更ながら理解した。
「向こうに行きかけた時にお袋に会ったんだが、弟妹達は皆天国に居るのにお袋はそっちには行けねェって。我が子を手に掛けて天国には行けねェって言うんだ。オレもお袋殺しちまったから一緒に地獄に行こうと思ったんだが、結局こっちに戻されちまったァ」
「……」
自嘲気味に笑う不死川を見て、まるで過去の自分を見てるみてぇで少し腹が立った。
「不死川…ちょっと手出して」
「?んだよ急にィ」
訝しげに言いながら俺の右手に乗せられた手に、思いっきり噛み付いた。
「ッ…てエエェ何しやがる気でも違ったかァ」
不死川が信じられないといった顔で俺を見ながら叫ぶ。
「俺も弟妹二人殺してんだ。親父の命令で顔隠した状態で兄弟同士殺し合いさせられてよ」
「………は?」
「残りが俺と弟の二人になった時に気付いて、嫁連れて里を抜けた。誰かわからなかったとはいえ弟妹殺したことに動揺して、俺は地獄に落ちるってのが口癖になってた。でも嫁達に怒られるわ泣かれるわ噛まれるわで言うの止めたんだ。だからお前も、もう地獄に行くとか言うなよ」
「……お前…も?」
不死川の声が震えているのがわかる。
「お前はお袋さんを救ったんだ。胸張って弟妹んとこ行け」
「ッ…!」
俺を見上げる藤紫の瞳が揺れる。次いで俯くと、先の無い左手を隠した袂をきゅっと握られた。
「テメェも…こんな身体になってまで世の為人の為に戦ったんだァ。堂々と胸張って天国行きやがれェ」
少し照れくさそうに目を逸らしながら言われた言葉に驚く。まさかお前にそんなこと言われるとは思ってなかったな。
「…おうよ!俺様にゃ地獄なんて地味な所似合わねぇからな。ド派手に天国闊歩してやっからそん時は歓迎しろよ」
ニッと笑えば、不死川も柔らかく笑った。その姿に思わずドキリとする。お前そんな顔できたのかよ…不覚。
五月蝿い心臓を誤魔化すように桜を見上げれば、一陣の風が吹いて花弁を散らした。
「そろそろ柱合会議行ってくるわァ」
そう言って立ち上がった不死川が、桜吹雪に包まれる。あまりに幻想的なその光景に、息を呑んだ。
思わずまだ包帯の残る腕を掴む。
「?どしたァ?」
「………お館様に…よろしく伝えてくれ」
「おォ。わかったァ」
そう言って片手を上げて去って行く、もう必要の無くなった『殺』の文字わ背負った背中を見送る。桜と同じ儚い薄桃色の髪が、桜吹雪に紛れて風に攫われちまいそうな気がして。ちゃんと帰って来いよ。そう言って抱きしめたかったが、どうにも憚られてできなかった。
日が落ちても帰って来ない不死川にやはりもう戻って来ないかと、春先とはいえ少し肌寒くなった蝶屋敷の縁側でぼんやり月を見上げていたら目の前に突如夜桜が姿を現した。
「ただいまァ」
「………え?あれ?お前…」
「ちっと遅くなっちまったなァ。冨岡の野郎が鰻食いに行こうとか言うからよォ。一緒に飯食ったこととか無かったし、あいつも一応一緒に戦った仲間っつーことでまぁ記念になァ」
あいつ食うの下手でよォ。と笑う不死川を、今度こそ抱きしめた。
「…もう、戻って来ないんじゃねぇかと思ってた」
「………なんだよ。残りの人生寄越せっつったのはテメェじゃねェかァ」
ほんのり頬を染め拗ねたような声を出す不死川が愛しくて、自然と口角が上がる。
「うん。一緒に色んなもん見ようぜ。お前に、色を取り戻させてぇ。俺と同じ景色を見てほしい」
「……でもオレ…」
「大丈夫だって。やっぱ目標がねぇと。な?他に何かやりてぇことある?」
そう尋ねれば不死川が少し考える素振りをする。
「あ、字教えてくれよ。オレ一応読めはするけど書けねェんだァ」
「いいけど…手紙でも書くわけ?」
「いや、向こうに行ったら弟妹達に教えてやりてェ」
「…お前はいつも他人のことばっかりだな。何か自分のためにやりたいことねぇの?」
「んー…別にねェなァ」
「欲がねぇなぁ。何か見つけろよ」
「…腹一杯おはぎ食うとかァ?」
「いやそーゆーんじゃなくて」
俺が笑うと、不死川も一緒になって笑った。
あれから、不死川に字を教えつつ色々な所に連れ回した。俺の屋敷で一緒に暮らそうと伝えたが、それだけは絶対に嫌だとにべも無く断られ結果俺が通い妻のようになっている。まぁコイツのことだから嫁に遠慮してのことだろう。別に気にしなくていいのによ。
季節が巡る中旬の花や花火、海など様々なものを見せたが、不死川の世界は相変わらず色褪せたままのようだ。
「ん。平仮名も片仮名も随分書けるようになったな」
「お陰様でェ。なんか似たような字もあるし、利き手じゃねェから難しいけどなァ。そろそろ漢字も教えてくれよ」
「そうだな。あ、俺の名前書いてみろよ。簡単だし」
「お前の名前ェ?」
「そ。お天道様の『天』に元気の『元』。簡単だろ?」
紙に書いて見せてやると、不死川がそれをじっと見つめた。
「お天道様…」
「おうよ!まぁ俺様は祭りの神ではあるが、太陽神でもあると言ってもいいな。爆風で雲なんか吹き飛ばしてそこら中ド派手に照らしてやるぜ」
この色褪せた世界で、昔からお前の周りだけがいつも輝いて見えた。ずっと不思議だったんだが、お天道様だっつーなら納得だな。
まだ鬼殺隊も日輪刀もその存在すら知らなかった頃、鬼を捕らえたオレはひたすら朝日を待ち望んでいた。もしかしたらオレはあの頃からずっと、この太陽のような男を待ち望んでいたのかもしれない。
「どうした?難しかったか?」
「…テメェの化粧も、太陽みてェで案外気に入ってたんだけどなァ」
「え?」
不死川がぼそっと呟いた一言に、初めて会った時のことを思い出した。そういえばあの時も、お前は俺の顔を見て『太陽みてェ』と小さい声で呟いてたっけ。他のヤツには聞こえなかったと思うけど、俺には確かに聞こえてた。
「…なぁ。そういえばお前自分の名前は書けんの?」
「馬鹿にすんじゃねェ。名前くらい書けらァ」
見てろよ!と言って不死川が左手をプルプルさせながら名前を書いていく。
「どうだァ!」
自信満々に見せられた紙には決して上手いとは言えない、だが一生懸命書いたのが伝わる字で『不死川実弥』と書かれていた。
「おぉ上出来じゃねーの。『実』っていう字横棒一本多いけどな」
そう言って正しい字を書いて見せてやると、不死川がキョロキョロと字を見比べた後首を傾げて疑問符を浮かべる。
「…違いがわかんねェ」
「………マジか」
どうやら不死川は文字を大まかな形で認識しているらしく、棒が一本多いとかそういう細かいことがよくわからないという。こりゃ骨が折れそうだな。
「まぁいい。時間はあるからな。あ、そうだ。お前の名前の意味教えてやるよ」
「意味ィ?」
「おう。『実』は満ちる。『弥』は広く行き渡るって意味だ。『幸せが満ちて広く行き渡るように』っていう願いを込めて、お前に実弥って名付けたんだと思うぜ」
「……」
不死川が黙って自分の名前を見つめる。
「一つ一つの漢字にはちゃんと意味があるんだ。棒が一本多いだけで意味がまるで変わっちまう字もあるしな。地味だが基礎からみっちり教えてやるよ」
「…おォ。頼まァ」
「よし、今日はもう字の勉強お終い。『機能回復訓練』の時間だぜ!」
そう言って不死川の手を引き外に連れ出す。
「おい!何処まで行くんだよこんな時間にィ。もう日も暮れて…」
「もうちょっと。お、着いた着いた」
連れてこられたのは、小高い丘のような場所。
「何だってんだよ一体ィ…」
「不死川。上見てみ」
「上ェ?」
言われた通り上を見れば、まるで宝石箱をひっくり返したような星空が広がっていた。キラキラと光を放つその様を…綺麗だと思った。
…なんでだ。今まで星を見てこんな風に感じたことなんか無いのに。昨日何気無く見上げた星は、相変わらず道端に転がる石のように見えたはずなのに。一体何が違うというのか。
「どーよ。ド派手な星空だろ?」
掛けられた声に振り向いて気付く。あぁ、そうだ。昨日はこの男が居なかった。ということは、こいつと…一緒に居るから?
こいつは何時もこんな世界を見ているのか。もっとこの世界を見ていたい。ずっとこの男と共に在りたいと、そう思ってしまってほんの少しだけ泣きたくなった。
「……寒ィ。もう帰ろうぜェ」
「ありゃ。また駄目か〜残念。次は何を見せてやろうかな」
宇髄がまたオレの手を引いて歩き出す。
師走の肌を刺すような寒さの中、握られた手だけがやけに温かかった。
季節が、また巡る。栗花落にやった鏑丸に会いに行ったり。墓参りに行ったり。宇髄とどっちがデケェカブトムシ採れるか競ったり。芋焼いて食ったり。道端の犬と戯れたり。雪景色の中温泉入ったり。漢字もかなり書けるようになった。
でも竈門に返事を書くのはなんだか小っ恥ずかしくて、こっそりおはぎを届けた。時々冨岡と飯食いに行ったりもしたけど、あいつは年を越せずに一足先に逝っちまった。
何でもない日々を過ごした。でもその何でもない日々が、宇髄と過ごすことで特別なものになった。
もっと、とは言わねェ。あと少し。もう少しだけ…オレに時間をくれねェか。頼むよ…神様。あんたがオレの願いを叶えてくれないのは知ってるけど、それでも願わずにはいられねェんだ。
「ヘクシッ!」
「おいおいこんな時間にこんなとこ居たら風邪引くぞ。もうだいぶ秋も深まってんだからよ」
「うおッ」
夜更けに縁側で月を見上げていた不死川を胡座の上に乗せその背を抱きしめる。あーぁ。すっかり身体冷えちまって。
「…なんでテメェが居んだよ。今日は宴じゃなかったのかァ?」
「ド派手に祝ってもらったぜ?今日のうちにお前にも祝ってもらおうと思ってさ。ほら、祭りの神の生誕を讃えろ」
俺がそう言うと呆れたように笑うが、逃れることはなく大人しく腕の中に納まっている。
「へーへーおめっとさん。…そういや前から気になってたんだけどよォ、お前何で神を名乗ってんだァ?」
「良い質問だ!お前なんで十月が神無月って言うか知ってるか?」
「?知らねェ」
「十月になると八百万の神が会議のために出雲に行っちまうのよ」
「…柱合会議みてェなもんかァ?」
「そうそう柱合会議」
的確な例えに思わず笑みが零れる。
「出雲に出掛けて神が居なくなっちまうから『神の無い月』で神無月っつーわけ。そこでだ!俺は神無月に生まれたからよ。神が居ねぇなら俺様がなってやろうと思ってな」
「……ハッ!そりゃいいなァ!」
「あれ?意外な反応。てっきり『ばーか』とか言われると思ったのに」
「テメェらしい派手にぶっ飛んだ考えじゃねェか。気に入ったぜェ」
もう神頼みはやめだ。いくら頼んでも叶えてくれない神様より、隣に居てくれる胡散臭ェ神の方がよっぽど良い。
そういや今日は十五夜だな。一頻り笑った後宇髄にそう言われ、再び空を見上げる。さっきまでただ色褪せた丸が宙に浮かんでいただけなのに、お前が来た途端その丸が光り輝く月に名前を変えた。たしか月は自ら光を放っているのではなく太陽の光を反射して輝いているのだと、何処かで聞いたことがある。
一人で居る時は今まで通りの色褪せた世界なのに、お前が隣に居るだけで途端に景色が彩られるんだ。一体どんなまじないを使っているのか。自ら光り輝いて周りをも明るく照らす、太陽のような男。
「…綺麗だなァ」
「おうよ!月まで俺様を祝って……え?お前今…」
『綺麗』だと、確かにそう言った。世界が色褪せたと言っていた不死川が。
「なァ。オレが死んだらお前にオレの目やるよォ」
こちらを振り向いた不死川の指の欠けた右手が俺の眼帯に触れる。
「…俺は別に片目でも不自由しちゃいねぇよ。つか無理だろそんなこと。どしたの急に…誕生日プレゼントのつもり?」
「……死んでからも…お前と同じ景色が見てェ」
不死川が初めて口にした我儘に、一瞬刻が止まった。
「……何処で覚えてきたのそんな殺し文句」
「さぁなァ」
不死川がクスクスと笑う。今日は随分とご機嫌じゃねーの。
「なぁ…いい?」
不死川の唇に顔を近づけると手でやんわりと阻まれた。
「そういうの無しなァ」
「ちぇ。さねみチャンのいけず。誕生日くらい許してくれたって良いじゃんよ」
口を尖らせて不死川をぎゅうぎゅう抱きしめる。…また少し痩せたな。
不死川は毎日おはぎを五つ食うくらい元気で、痣の寿命なんざ嘘なんじゃねぇかと思ってた。でも不死川の音は少しずつ、だが確実に弱くなっていった。
そして十一月に入った途端急に体調を崩してほぼ寝たきりになり、あんなに好きだったおはぎも食えなくなった。
この野良猫のことだ。死期が近づいたらどっか消えちまうんじゃねぇかって不安だった。だが意外にも不死川は二十五の誕生日を迎える十日前、俺の腕の中で静かにその音を止めた。俺の唇に自分のものを押し付けて、たった一言「またなァ」とだけ言って。
驚きに目を丸くする俺に満足気に笑って、目を閉じた。ひどく穏やかな顔だった。
辛い人生を歩んできたお前が、俺と過ごした日々を少しでも幸せに感じてくれていたらと願う。
「またな…不死川……」
最初で最後の口付けは、やたらと塩辛い味がした。
鳥が唄う。天を仰ぐと目眩がする程の青空が広がっていた。雲一つ無いその青の中を、一筋の白い煙が昇っていく。冬の足音が間近に迫っているというのに、まるで春のように温かく穏やかな風が吹いていた。
なぁ、家族とは会えたかよ。
「残念ね…不死川さん。もうすぐ誕生日迎えられそうだったのに」
「本当に…最近まで元気そうだったのにね」
何度か嫁を連れて不死川の屋敷に押しかけたこともあった。驚いた顔はしたものの、結局嫌な顔一つせず嫁とも仲良くやってたな。皆お前のこと四人目の嫁だと思ってたんだぜ。
もっとお前に見せたいものがいっぱいあったのに。なぁ、子供ができたらお前の名前一文字貰ってもいいか。きっと強くて優しい子になる。
「あれ?天元様その目…」
「…目?」
突然須磨に話し掛けられて目線を下げる。
「気の所為ですかね?今天元様の目が違う色に見えたような…」
「あ、須磨もそう見えた?」
「え、まきをさんもですかぁ?」
「光の当たり具合でそう見えたんじゃないかしら。不死川さんと同じ、とっても綺麗な藤紫でしたよ」
雛鶴の言葉を聞いてはっとした。
——死んでからも…お前と同じ景色が見てェ。
あぁ、そうか。目は置いてったのか…。お前の、唯一の我儘だもんな。
俺が見ていた当たり前の景色が、お前にとってはそうじゃないと知った。当たり前だと思っていたことが特別なことだと、お前が教えてくれたんだ。何気ない日々を特別なものにしてくれたお前に、心から感謝を。
「今紅葉が見頃なんだぜ。また一緒に見ような」
涙が伝う頬を、風が優しく撫でた。