雪解けに怯える彼女の細い指にリングを通す。彼女も同じように俺の指にしてくれて、微笑み合う。こんな幸せがあるのかと思った。間違いなく人生最良の日だ。身に余る、とはこのことかもしれない。けれど、彼女は……ジルは、俺がいいといってくれた。俺もジルがよかった。
二人でなければ、駄目だった。
フェニックスゲートの惨劇から三年。元大公妃アナベラの裏切りに端を発した事変によってロザリアは大きく変わった。ジョシュアを庇い重症を負ったエルウィンは、命こそ取り留めたものの歩行に杖が必要な状態となり、公務に支障が出ることからジョシュアへと大公の座を譲った。二人の叔父であるバイロンを後ろ盾としているとはいえ幼すぎる大公となっても他国からの本格的な侵略がなかったのは、ロザリアという小国を本格的に攻めるにはそれほどの旨味がなかったというところが大きいだろう。鉄王国だけが例外で、何度か散発的な攻撃が繰り返されていた。
そんな中で行われたクライヴとジルとの挙式は、ささやかなものだったが久方ぶりにロザリアに明るい話題を齎した。かねてより仲の良さが囁かれていた二人がついに、とあって民たちはこぞって祝福した。もちろん兵も、エルウィンも、そしてジョシュアも。
「おめでとう、兄さん、ジル。二人ともとっても素敵だ」
「ありがとう、ジョシュア。お前にそういってもらえるのが、一番嬉しい」
笑い合う兄弟に、ジルも自然と笑顔になった。苦しい三年間で、それが今日から突然好転するわけでもないけれど、この穏やかな時間が少しでも長く続くことを祈るばかりだった。
その願いが虚しくも砕かれることになったのは、僅か一か月後。灰の大陸の覇者たるウォールード王国が、突如旗艦を伴って侵攻してくるまでの、瞬きの間だった。
膝を付いたクライヴの首筋に剣が当てられる。男は片手しか使っていないというのにまるで敵わなかった。いや、そもそもヴェルダーマルクを一晩で平定した生ける伝説、バルナバス王を前に勝ち目があるとは思っていなかったが───これほどとは。祝福の力を使ってなお、聳えた壁は高かった。
「ふむ、その年にしては上出来だ。我が国でも並の兵なら貴殿と五合も打ち合える者はおらぬであろうよ」
軽く稽古でもつけたかのような物言いだった。実際そうなのかもしれない。それがクライヴの戦士としての矜持をぎしりと軋ませる。
(端から勝ち目が無いのは分かってる、せめて、せめて相打ちに)
この男を、まだ幼いジョシュアと相対させるわけにはいかない。剣士としても、ドミナントとしても。ここで止めないと。城にはジルだっているのだ。出立の際の、今にも泣きそうだった瞳が浮かんでクライヴの歯がぎりりと鳴る。
勝負が決してなお剣を手放そうとしないクライヴに、バルナバスが苦笑する。
「生憎と今殺されてやるわけにはいかぬし、お前にも死んでもらっては困る」
「なに、を……」
「お前は御方が待ち望んだ、創世のための器」
見る者の心を沈ませる曇天の瞳がクライヴを射抜く。共に来てもらうぞと伸ばされた手に、ひゅ、とクライヴの喉が鳴る。それは彼が、戦場で殆ど初めて感じた……恐怖だった。
(ジョシュア、ジル、)
この男からロザリアを、愛する二人を守らないと。焦りと恐怖がないまぜになって瞳の焦点がぶれる。溶けた金属のような輝きが、クライヴの蒼天を掻き消した。
戦場の中心で炎が爆ぜる。身を焼こうとするそれから顕現して逃れたバルナバスは、宙を駆けるスレイプニルの背で笑った。
(覚醒したか、本当に上出来だ)
暴走しているようだが、強い感情で覚醒した者にはままあることだ。遠い昔、バルナバス自身がそうであったように。
理性もなにもないただの獣を御するのは容易い。斬鉄剣を手に、オーディンは騎馬の腹を蹴った。
*****
次にクライヴが意識を取り戻したのは、上等な寝台の上だった。見知らぬ天井に慌てて身を起こそうとするが、全身を苛む痛みと脱力感に叶わなかった。両の手首に嵌まる枷がクリスタル製であるからだが、そのようなものと無縁だったクライヴに分かるはずもない。
身を捩るとちゃり、と鎖の鳴る音がした。首を動かして見ると、枷から寝台の下へ鎖が伸びていた。それと同時に己の体の現状を初めて自覚した。目立った傷には包帯がされているが、服は何も着せられていない。捕虜にはよくある扱いだが、ならば何故牢ではないのか。
扉の音と続く足音に、思考が遮られる。
「お目覚めかね」
「……バルナバス王」
王は戦場で見た甲冑ではなく、黒と青の平服姿であった。灰青の瞳が微かに細められる。笑った、のだろうか。
「ようこそ、王都ストーンヒルへ。歓迎しよう、ミュトス」
ロザリアからウォールードまで、どれだけ意識を失っていたのかと歯噛みする。それに、ミュトスとは何のことか。まさか人違いで捕らえられたのか?
「……俺は、そのような名ではない」
「知っているとも、クライヴ・ロズフィールド。ミュトスとは、お前の名ではなく本質」
御方が、我らゼメキスの民が幾星霜待ち望んだ神の器。創世の礎。
不気味な熱を帯びるバルナバスの声に、クライヴの背をうすら寒いものが走る。けれどそれを気取られまいと精一杯虚勢を張った。
「器だかなんだか知らないが、俺に捕虜としての価値などない。残念だったな」
嫡男とはいえ、ドミナントでない己はロザリアにとって替えが効かない人間ではない。この身を盾に脅されようとも、エルウィンもついている。きっと懸命な判断を下してくれるはずだと、過保護な弟の顔を思い浮かべる。
「っくく、ロザリアの将軍どのは随分と謙虚であらせられる」
まあそのほうが容易いかと呟くバルナバスの真意が読めず唇を引き結ぶ。一騎打ちの時にも口にしていた、神の器という言葉。意味は分からないが、嫌な予感がする。
「さて、ミュトス。ひとつ賭けをしようではないか」
そう言って目の前に翳して見せたものに、クライヴは顔を青褪めさせた。彼女の瞳と同じ色の宝石が填め込まれた細身の指輪。彼女と永遠を誓いあった証。
「っ返せ……!それに、触るな!!」
必死に手を伸ばすが、爪の先すら届かない。鎖の音が憎らしい。二人の絆そのものである指輪は、この男が触れていいものではないのに。幸福な日が汚されたようで腸が煮える心地がする。
「ひと月だ。これを忘れずにいられたら、返してやろう」
「忘れるわけないだろう」
「さて、どうかな」
バルナバスの指がクライヴの左耳をいたずらに擽り、するりと頬へと滑る。
「ロザリアから我が国までどれだけ時間が経ったと思う?何か仕込むのに充分時間があったとは思わんかね?」
もう既に失くしている記憶がないと、何故言い切れる?バルナバスが耳に吹き込んだ言葉にクライヴは目を瞠り、怯えのままに泳がせた。
「忘れるもんか、忘れてなんかいるものか」
小さく呟かれた言葉は自身に言い聞かせているかのようだった。一滴垂らした不安がじわりと染み付いたのを見て、バルナバスは笑った。
「果たしてひと月後もまだ強がっていられるか。……楽しみだな」