何もないところから始まる二人の話 真っ暗闇のなかに、しかめっ面の自分の顔が映る。ボタンを押す。明るくなって、しかめっ面は消える。そのまま動かずにいると、眼前は再び黒くなって、自分が映る。その繰り返し。
参ったな。かれこれ数十分ほど、携帯端末の画面と勝負が付かないにらめっこをしている三井は、心からの深いため息をついた。
事の発端は、日本時間の今朝。NBAで活躍する流川楓が、来季は日本のプロリーグに参戦すると発表したことによる。――否、発表というほど立派なものでもなかった。シーズン最後の試合が終わり、日本のメディアにマイクを向けられた際、「とりあえず来季は日本、チームはこれから決める」と、なんでもないことのようにサラリと言ってのけたのだ。誰も彼もが初耳の情報。そのせいで、日本バスケ界は朝からずっと大騒ぎである。
なにせ、あの流川楓だ。実力的にも知名度的にも人気的にも、獲得できれば莫大な恩恵がある。上から下まで、どのチームも喉から手が出るほど欲しい人材だろう。
そしてそれは、三井の所属するチームも同様だった。朝早くから三井の携帯端末をけたたましく鳴らしたチームの首脳陣は、三井を会議室へ呼び出し、目を血走らせて言ったのである。高校時代の先輩として、軽く交渉してみてくれないかと。
もちろん、三井は嫌な顔をした。だって交渉するまでもなく結果は分かっている。過去おなじチームに属していたよしみで、なんて情に流される男ではないのだ、流川は。
――その一方で、三井は情に流される男だった。平身低頭で、断られてもいいから探るだけ探ってみてほしい、と頼んでくる首脳陣に、日頃から世話になっているだけに、結局断り文句を突きつけることはできず。ダメでも怒らないでくださいよ、と軽口を叩きつつ引き受けてしまった。結果が、冒頭のにらめっこ。安請け合いするんじゃなかったと後悔しても後の祭りである。
とりあえずパッと連絡してパッと断られて、“確認した”という事実さえ作ればいい。流川とまた一緒にプレーできるとしたら、それは確かに面白そうだが、現実的に考えて無理な話だ。今の流川がNBAで貰っている年俸には、三井たち契約中の選手全員の年俸を足しても足りないだろうから。チームの懐事情を考えると、そんな大金がホイホイ出せるとは思えない。
もう一度、大きく息を吐き出して考えをまとめた三井は、決心が鈍らないうちに手早く端末を操作をすると、発信ボタンを押した。
画面には発信中の文字が表示され、呼び出し音が鳴る。この音が5回聞こえても繋がらなかったら、確認したけどダメだったということで切ろう。大体こーゆうことはちゃんと代理人を通し――『もしもし』。出た。流川だ。三井は思わず息を呑んだ。アメリカはまだ早朝だから出ないだろうと高を括っていたのに、その予想に反する状況。
『もしもし?』
訝しげな声で繰り返されて我に返った三井は、咳払いして「おう、三井だけど」と、そもそも向こうはそうと分かったうえで出たということを失念して名乗り、「ひさしぶり」と続ける。
『ウス』
「今季ぶっちぎりで得点王だろ? おめでとう」
『ざす』
言葉少なな男は渡米しても相変わらずで、なんて会話し甲斐のねえ奴だと呆れる。が、もとより世間話を楽しむような間柄ではないので、三井はさっさと本題に入ることにした。
「単刀直入に言うが、日本に帰ってくるならウチのチームに来ねえ?」
が、電話の向こうは無言。返事はすぐに返ってこなかった。
流れ的に、沈黙は肯定、はあり得ない。ではノーということだろうか。であれば確認完了ということで、急に悪かったなじゃーなで電話を切ってもいいのだが、それはさすがにあきらめが早すぎてよろしくないだろう。せめてもうひと押ししておくかと、
「オレと年間優勝目指そうぜ」
三井が繋げた一言は決して出任せではなく、ダメ元だからこそ、多分に本心が入っていた。
三井のチームは、だれもが勝つ気がある。やる気もある。けれど、気持ちだけではどうにもならないのが、プロの世界だ。今年はスタートダッシュがよかったものの、中盤から怪我人が続出し、そのままずるずると失速。前半戦の貯金のおかげで最下位は免れたにせよ、最終的な成績は褒められたものではなかった。三井自身はスリーポイントシュートランキングのトップ3に入ったという事実も、チームの勝ちに繋がらなければなんの意味もない。
このままではきっと、来季もおなじことの繰り返し。なにかを変えなければならないのを、三井も肌で感じていた。――だから、もしも流川が来てくれるのなら、正直願ってもない好機だ。チームに刺激と緊張感を与え、競争を活性化し、士気を上げてくれるのは間違いない。まあ、まずあり得ないだろうけれども。はかない夢物語に思いを馳せ、フッとニヒルに笑った三井は、流川のお断りを待った。その傍ら。
流川のことだから、容赦なくバッサリ切り捨てるだろう。「ありえねー」と肩を竦めて首を振るイマジナリー流川。フンと鼻を鳴らすイマジナリー流川。仮にも元・先輩に向かってなんだその態度は、対戦するときは覚えとけよ――などと、脳内で気が早すぎる宣戦布告をしていた、ので。
『いっすよ』
思わぬ返答に、完全に不意をつかれた三井である。
「あ?」
いっすよってなにが。対戦するときは覚えておけと、自分は口に出していただろうか。それを受けて立つと? オメーいい度胸してんじゃねーか。見てろよスリー決めまくってやるからな。
またも一人歩きを始めた三井の思考に待ったをかけたのは、やはり流川だった。
『先輩のチームに行く。来週帰国するから、詳しい話はそのときでいい?』
「お、おお?」
それから話がどうやって進み、どうやって終わったのか、三井ははっきりと覚えていない。気付けばカレンダーの翌週の日付に赤丸が付いていて、真っ暗になった画面を見下ろしていた。しかしかける前と違って、そこに映っている自分の顔は、自覚できるほど間の抜けた表情を浮かべている。「……あら」。口からは、思ってもみなかった展開への感嘆が零れる。
首脳陣から首尾を問う電話がかかってくるまで、三井はしばし、そうして呆然としていたのだった。