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    macaron_amak

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    macaron_amak

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    シクトリ6公開作品。
    ハロウィンなのでSF(少し不思議)あむあか。
    途中までは一度Twitterで公開してて
    完結させました!
    一部、降谷さんが赤井さんの水死体について詳細に思いを馳せるシーンがあります。苦手な方ごめんです。
    ハピエンだけはお約束します!大丈夫!
    後日pixivにも上げる…と思います、多分。

    Under the moon light【献花台】
    事故や事件で死者の出た現場に置かれ、その死を悼む人々が花や供物を備えるための台。

    降谷はある現場の献花台の前で、ぼんやりと供えられている品々を見た。色鮮やかな花束、同じ銘柄の煙草、いつも飲んでいた缶コーヒー、ウイスキーボトルはバーボン。
    「なぁ……お前、本当に……今度こそ本当に死んだのか……?」
     港湾沿いの倉庫街。もうじき陽が落ちようとしているそこに人気はなく、降谷の呟きはぽつりと宙に浮いたまま、誰に拾われることもない。ポケットから煙草を一箱取り出すと、置くところもないくらいにたくさんの供物が乗った献花台の端にこつんとそれを置いた。風に吹かれたら落ちてしまいそうだ、と少し奥へやってから、口許をシニカルに引き上げる。
    「さすがのお前も、これだけ煙草があったら吸い切れないんじゃないのか」
     降谷は自分の置いた煙草の封を開けると、中から一本取り出して ゆっくりと口に咥えた。近くに他の誰かが煙草と一緒に供えたのだろう燐寸箱を拝借し、音を立てて燐寸を擦る。特有の硫黄の香りが一瞬鼻をくすぐって、それからすぐ、嗅ぎ覚えのある煙草の匂いがそれを上書きする。降谷の中で、これはあの男の匂いだった。
    「……なぁんで手、届かなかったんだろうなぁ……」
     献花台の横に立っていた降谷は、コンクリートの上に座り込むと、台に背中を預けるようにして空を仰いだ。初夏とは言え、日中の熱が残っているのか、地べたからはじんわりと熱が伝わってくる。スーツが汚れるなんて厭う気にもならず、立てた膝に腕を乗せた。咥えた煙草から、ゆるゆると上がる煙はどこまで届くだろう。一般的によく言われる、いわゆる『天国』なんてところにまで、届いてくれるのだろうか。
    「はは……何を馬鹿なこと考えてるんだろうな、俺は……」
     本当はこんなところで油を売っている暇なんて今の降谷にはなくて、すぐにでも職場である庁舎に戻って、部下に指示を出し、同じフロアに間借りさせている米国連邦捜査局の面々に連携をし、今後の動きについてまた考えていかなければならない。
     分かっている。十分、分かっているのだけれども。
    「……身体が重いよ、赤井」
     ずるずると献花台の足に沿うようにして体勢を崩して、とうとう降谷はコンクリートの上に仰向けになった。昼と夜の境目のような曖昧に混じった空の色は、降谷に慟哭を促すかのようだ。無論、そんなことが出来るほど、降谷は感情を表に出すのが得意ではない。
    「何で俺の手を掴んでくれなかったんだって……死ぬほど詰ってくれていいんだぞ、お前……」
     掠れた声がまた宙に浮く。やはり受け取る相手はいない。
     業務用の携帯電話が音を立てることはない。降谷の心情を慮っての事だが、今の降谷にそれに気付けるほどの余裕は欠片も、残っていない。

    * * *

     特筆するほど難しい案件ではなかった・
     件の組織を壊滅に至らせたのが半年前。『あの方』なんて崇拝的な呼ばれ方をされていた組織のトップを捕らえ、主要幹部も大半を押さえた。コードネームを持った幹部で未だに追跡を続けているのは、FBIの懐刀であるシルバーブレットこと赤井秀一が『rotten apple』だなんておちょくった様な呼び方をした魔女ベルモットくらいのものだ。 とは言え、世界中に蔓延る組織に関係している下っ端構成員を一網打尽になんて現実問題出来るはずもなくて、現状、捕らえた構成員を聴取して情報を得る、情報を元に構成員を捕らえに動く、また聴取して情報を元に捕縛……その繰り返しだった。
     FBIの面々も一部本国帰還をして多少人員減少はあったものの、公安との捜査協力は今も続いていて、赤井と降谷は共にこの案件に携わることになった。よろしく、と手を挙げた自分に、あぁと口許に笑みを浮かべた赤井が頷いた姿は、まだ記憶に新しい。きっと一生色褪せないと降谷は感じている。
    「広岡の聴取で出た話が事実なら、明日の作戦でだいぶ状況が進展するだろうな……」
     広岡は、赤井……ライが組織潜入時代に運転手に使ったことがある、と合同会議で話に上がり、全く別件の麻薬売買の現場で検挙されたところを聴取に引っ張ってきた男だ。その広岡によれば、某国で精製された粗悪なセックスドラッグが近日大量に日本に持ち込まれ、その取引と同時に組織に絡んでいた構成員たちが集結し、海外逃亡を謀る予定になっているという。これだけ構成員討伐に各国機関が動いている現状を知っての行動かと、呆れて開いた口が塞がらないと苦笑を浮かべた降谷に、赤井は肩を竦めていた。
    「降谷くん……君は、広岡の話は全く偽りないと思うか?」
    「どうだろうな……赤井、広岡の聴取したんだろ? どうだった?」
     降谷の問い掛けに、赤井は顔をわずかに引き攣らせて、うぅん……と小さく唸った。赤井の反応に、降谷はフッと小さく笑いを零すと、ぽんぽんと軽く肩を叩いてやってから、キツかったか? と聞き直した。
    「君、知ってて聞いたのか……意地が悪いな」
    「俺が聴取の内容を知らないわけないだろ。しかしライの熱狂的な信者とはね……バーボンには結構そういう輩がいたの分かってたけど。ライ絡みのメンバーはあんまり表に上がって来ないのかもしれないな」
    「……どういうことだ?」
    「寡黙で冷静沈着な凄腕スナイパーを憧憬するのなら、自らも騒ぎ立てたりするようなことしないだろ? 陰でじわじわ増えていくんだよ、ライみたいなやつの熱狂的な信者ってのは」
     降谷の言葉に赤井は辟易とした顔を隠そうともせずに、勘弁してくれ、と深いため息を吐いて項垂れた。聴取の様子は同席した風見の報告書で一通り確認しているため、赤井の反応も分からないでもない。そのくらい、広岡のライに対する執着は苛烈なものだった。
     風見が聴取をしている当初、貝の如く全く口を割らなかった広岡は、降谷が顔を出すと激昂した。降谷を―というよりもバーボンを、だろうが―怒鳴り散らし、ライというこの上なく完璧な男の横に降谷…… バーボンのような男が常にいたことがどれだけ業腹だったか、ライと共にあれることの幸運に気付かぬことが如何に愚鈍であったかを、これでもかというくらいに語りつくしてくれた。あまりにも熱烈に広岡がライについて語るものだから、いっそお前が聴取をしてみてくれと、降谷が赤井に頼んだのだ。
     結果はご覧あれ。
     広岡は今までだんまりだったり怒鳴り散らしたりしていたのが嘘かのように、赤井の前ではお利口な様子で赤井の尋ねることにペラペラと答えてくれた。ライがどれだけ素晴らしいスナイパーで組織にとっての立役者だったか、という美談(犯罪組織の中でも美談と言っていいのかどうかは別として)までオマケにつけて。
    「まぁ広岡のライ信者っぷりはモノホンだよな、正直。嘘か本当かは別として、広岡が知ってる情報を素直に赤井に伝えたんだろうなとは思うよ。だから、今回のドラッグの取引と海外逃亡のネタも、広岡は事実として話してるはず」
    「……その、ライ信者、というのはやめないか」
     はぁとため息を吐きながら言った赤井に、降谷は小さく吹き出すと、気分のいいもんじゃないよなと頷いた。
    「元々潜入用に偽って作った人格だし、組織に加担していた人間について崇め奉られても何も嬉しくないよな。でも、そのおかげで情報引き出せたんだから、結果オーライだろ」
    「そう言ってもらえると、多少は救われる……。明日は広岡が気分よく動いてくれるように、精々媚を売ることにするよ」
     赤井の口から出た言葉に、降谷はぎょっとして目を丸くすると、ガッと強く赤井の肩を掴んだ。掴まれた赤井は降谷の行動をまるで予想していなかったようで、降谷と同じように目を丸くしてその手を見つめ、降谷くん? と不思議そうに漏らす。
    「待て。赤井は媚を売るなんてそんなことしなくていい」
    「え? 明日は広岡を泳がせて一斉検挙するんだろう? だったら広岡がこちらの掌の上で転がるように、ヤツを懐柔した方がいいんじゃないのか?」
    「何でそんなハニトラみたいなことを赤井にさせなきゃならないんだよ……。ここまで情報引き出せてるんだから、もう十分だろ」
     嫌そうに眉間に皺を寄せて言う降谷の真意が分からずに、赤井はこてりと首を傾げた。確かに気分は良くないが、潜入時代にだってよくある事だったし、それで物事がスムーズに進むのであれば必要なことだと赤井は思う。降谷だってそういう風に仕事をしているのを見てきているし、同じ考え方だと思っていたのだが。
    「別に何でもしてやろうだなんて馬鹿げたことは思っちゃいないが、俺なんかが潤滑剤になれるなら、多少の犠牲は……」
    「なんかとか言うな。お前がその言い方すると他の捜査員が嘆くぞ。 ……そんなことしなくたって、俺と赤井がいるんだから。明日は何の問題もなく一斉検挙に成功して祝杯に決まってる」
     赤井から目を逸らしてぼそりと言った降谷の目許はほのかに赤らんでいて、赤井はふっと表情を緩ませると、そうだなと頷いた。
    「君と俺とでモタつくなんてあり得ないな……鮮やかにcase closed 」
     だろう? とウインクして見せる赤井に降谷は苦笑を浮かべながら、このメリケンかぶれめ! とニット帽の上からぐしゃぐしゃと両の手で髪を搔き乱してやった。
     赤井と降谷の間にあった因縁について、決して全てが明らかになったわけでも解決したわけでもない。相変わらず赤井は黙して語らずの姿勢を変えなかったし、降谷もあえて追及することはしなかった。合同捜査に入る際に、感情に振り回されて無礼を働いた、と降谷は頭を下げ、自分に非があるからやむ無しである、と赤井は首を振った。現状二人は、過去に無理矢理蓋をした状態ではあるものの、穏やかな関係を築き直しているところだった。
     いつまでもこのままでいいと思っているわけではなく、関係改善を図るのであれば、いつか二人で蓋を開けねばならぬ日も来るだろうと降谷は考えている。もう少しこの組織に絡むことが収束してからだろうと、勝手に算段をつけて日々を過ごしていた。
    「とりあえず明日に備えて、飯でも食って帰るか……。赤井、何か食いたいものとかあるか?」
    「……ご馳走してくれるのか」
    「厚かましい奴だな……まぁ広岡のせいで疲労困憊のシルバーブレットに優しくしてやらんでもない」
     肩を竦めて見せた降谷に赤井は小さく笑うと、ラーメン、と呟いた。思いがけないリクエストに、降谷は目を軽く見開くと、ラーメン? と聞き返した。目の前にいる男の口から出るメニューとして、微塵も予想していなかったものだった。
    「前に君が、風見くんと一緒に食べに行って美味かったと……駄目か?」
    「よくそんな些細な話を覚えてたな? 別にいいけど……ご馳走してくれなんて言った割には随分と安上がりだ」
    「金額なんてどうでもいいんだ。君が美味いと言ったものが食べてみたかった」
     赤井の言葉に、降谷は目許を手で覆って天井を仰いだ。腹の奥の方がむずむずと疼くような感覚にぎゅっと目を瞑る。赤井秀一という男は、不意にこういう爆撃を落としてくる。そういう男なのだと、組織時代から何度も経験してきているのに、いつも降谷は真正面から直撃を食らう。クリティカルヒットだ。
    「降谷くん? 別に気分でないのなら別のものでも……」
    「大丈夫だ。野菜マシマシ半チャー餃子セットに生中で乾杯だ」
    「……何だって?」
     自分の奇怪な日本語に首を傾げたFBI捜査官に降谷は盛大に吹き出すと、赤井と二人で籠っていた会議室を後にして、庁舎近くにある安くて美味いと評判の中華料理店へと足を向けた。
     この時には、話題に上がっていた翌日の作戦で、赤井を失うだなんて、これっぽっちも思ってはいなかったのだ。

    * * *

    「降谷さん、食事、摂られてますか?」
     自分のデスクで報告書の手直しをしていた降谷は、正面に立った部下からの言葉に顔を上げた。眉間に皺を寄せ、小難しい顔をした部下の風見裕也は、降谷の顔を遠慮なしにジッと見ている。射抜くような視線に居心地の悪いものを感じながら、何だ藪から棒に、と降谷は苦笑を浮かべて風見に視線を返した。
    「あの日以降、降谷さんが何かを召し上がっているところを見ていませんので……。随分と痩せられたように見受けますが」
     堅苦しい物言いだが、暗に『大丈夫か』と言われていることくらい容易に分かる。傍目に見て痩せているのが感じられるのは不味いな、と降谷は表情筋をぴくりとも動かさぬままに思った。風見の指摘通り、このところまともな食事はしていない。というか、出来ていない。食べなければ動けないのは降谷自身よく分かっていて、食欲に関係なく栄養摂取を目的として、食事をするように心掛けてはいる。だが、身体というのは素直なもので、いらないとどこかで思っている降谷の心情を受けてか、身体が、食べ物が入ってくることに対して拒否反応を示すのだ。 食後に胃痛や嘔気が酷く、よくないことだと思いつつも、気付けば食が細くなっていた。まだ食後に戻さないだけマシだろうと思っていたが、やはりそういう問題ではないらしい。
    「心配をかけてすまない……。忙しかったせいか食欲が落ちてるんだ。暑くなってきたからな、もしかしたら夏バテかもしれない」
     なるべくちゃんと食べるようにするよと笑って見せると、風見の眉間の皺はますます深くなった。深いため息を一つ吐いてから、俯きがちになっていた風見は顔を上げると、ぎろりと降谷を睨み付ける。
    「……何だよ」
    「何だよ、じゃありません。夏バテで弱ってる降谷さんなんて、今まで見たことないですよ。忙しいと言ったって、この間の作戦前に比べたらさしたるものではないでしょうに」
     風見の言葉がぐさりと降谷の胸に突き刺さる。
     この間の作戦。
     一見して日々は進むし、仕事は滞りなくこなしている。立ち止まる事を知らない公安の降谷零として、立つべきところへ立っている。だが、降谷の心はあの作戦の日から、そこへ留まったまま、動けずにいた。 今も、その澱みから抜け出せない。
    「そう、だな……」
    「降谷さん……。消沈するお気持ちは分かります。私とて責任を感じていますし、状況を考えれば、仕方なかったと言うことくらいしか出来ません。ですが……」
     そこで言い淀んだ風見に、降谷は苦笑を浮かべて軽く首を振った。それ以上の言葉は必要ない。言われずとも、降谷とて自覚している。ここに立ち止まっていても、結局何かが変わるわけではないのだ。
    「風見、ちょっと出てくる」
    「……どちらへ?」
     訝しげな顔をする部下に、降谷は曖昧な表情を浮かべてデスクから立ち上がり、軽く肩を竦めて見せた。
    「飯、食ってくる。何かあったら連絡くれ」
    「了解しました。……お気をつけて」
     地下駐車場に停めてある愛車に乗り込み、ゆっくりと走り出す。少しずつ日差しが照り付ける時期になってきている。エアコンをかければ快適なのは分かっていたがそうせずに、降谷は窓を開けて外の空気を取り入れた。ぬるい風がぶわりと車内に入り込む。地下に駐車されていたため温度は然程高くなかったが、それでも風が通るだけで心地いい気がした。
    「アイツ……分かってて何も言わないんだろうな」
     降谷に対して『どちらへ?』と尋ねてきた時、風見の目の色は真意を引き出そうとするもののそれだった。もちろん、弱っていても部下に汲み取られるほど落ちぶれてはいないつもりだ。だが、ことこの行動に関して言えば、降谷は隠し立てする気持ちがあまりない。共に闘った仲間を失った喪失感はあまりに大きく、「これでよく公安が務まるな」など今の降谷には逆立ちしても言えそうになかった。
    「情けない上司だな……」
     降谷が行先をぼやかして庁舎を出る時、余程緊急の事態がない限り、風見は降谷に連絡をしてこない。当初はそのことに気付かなかったが、少し冷静になった今では、部下の心遣いに気付くことが出来る。降谷が埠頭にいる間、呼び出し音が鳴ったのはこの一か月で僅か二回だけだ。降谷の立場を考えれば、それは本来許されることではない。庁舎に戻るとデスクの上には書類が山積されているし、そこから怒涛のように決裁を依頼されたり案件について相談されたりする。有能な部下は、降谷の心の安寧を考え、降谷自身がその足で庁舎に戻ってくるのを待ってくれているのだ。
    「しっかりしなきゃならないって……分かってんだけどなぁ……」
     ここに通うようになってすっかり見慣れた所定の場所に愛車を停めると、降谷はため息を吐きながら大きくゆっくりと伸びをした。ぎしりと骨の鳴る音が耳に響く。
    「暑くなってきたなぁ……そろそろ食べ物系はヤバい時期か……?」
     車を停めた位置から然程遠くないところにある献花台の前まで来た降谷は、じりじりと照り付ける陽の光を恨めし気に睨むように空を見上げて、また一つため息を吐いた。
     赤井が降谷の前から消えて一か月。献花台は今も、変わらず同じ位置に設置されたままになっている。
     献花台は所轄警察署や自治体が設置して、撤去は自治体側で行うのが大半らしい。明確な設置期間が決められているわけではないが、おおよそ一か月から二か月程度で撤去されるという。こうやって献花台に赴くようになって一か月が過ぎたが、今のところ撤去の気配はない。降谷が来るたびに手入れをしているので、献花台の上はいつも綺麗だ。
    「赤井、コーヒー、一本貰うぞ」
     並んだ缶コーヒーの中から、いつも赤井が好んで飲んでいたものをチョイスして取り上げる。ついでに煙草も手に取る。幸いこのところ雨が降っていないので、煙草の箱は新品のまま、汚れも何もない。
    「もう前科何犯になった? 俺」
     ちなみに、墓地や献花台に供えられている供物を勝手に取るのは窃盗罪にあたることもあるらしい。降谷はこの一か月に何度も、赤井の供物を食べ、飲み、吸い、片付けた。公安らしからぬ、犯罪行為である。
    「仕事以外で法を遵守しない自分がいるとは思わなかったなぁ」
     通常の降谷からしてみれば、献花台に供えられているものなど、決して安全と言えるものではなく、飲んだり食べたりなどもっての外だ。だが、赤井に供えられたものだと思うと、危険なものが含まれているなんて微塵も考えることはなく、危機感ゼロで降谷はそれらを口にした。むしろこの一か月、ここに供えられているものが唯一、降谷がまともに摂取する栄養源になっているといっても過言ではない。
    「……温い……。やっぱり夏になったら食べ物は無理だな……」
     ぱしゅと音を立てて開けた缶コーヒーに口をつけた降谷は、太陽の熱で温められた何とも言えない温度が口に広がるのを感じて、顔を顰めながらその場に座り込んだ。もうすっかり慣れた仕種で煙草に火を点け、ぷかりと煙を中空に向かって吐き出した。もわりと降谷の周囲に、まだ記憶にしっかりと残る男の香りが広がる。こうして少し赤井を思い出すと、落ちていた気分が凪ぎ、胃に物を入れても拒否反応を示さない身体が子憎たらしい。座り込んだ位置から手が届く所に置いてあった林檎を、横着して立ち上がらぬままに身体を捻って取ると、力を込めて半分に割った。
    「半分赤井の分な。俺、こっちの大きい方ちょうだい」
     握力だけで強引に割った林檎は、歪な形で半分には程遠い。口に咥えていた煙草をコンクリートで乱雑に揉み消してから、大きく割れた方にがぶりと齧りついた。生温い林檎からぼたぼたと果汁が滴り、手首を伝って肘まで垂れる。白い半袖シャツには染みなかったが、肘から落ちた雫はスラックスに染みを作った。降谷はそれを厭わずに、芯だけを残して林檎に齧りつく。
    「っていうか、何で林檎? 赤井、林檎好きだったの?」
     供物なんて気持ちの問題なのだから、何を置いても構わないのだが、やはり故人の好きだったものを置く印象が強い。実際、献花台なんて名前だが、花のイメージが薄い赤井に花を持ってくる関係者は少なく、机上は設置当初から今日まで、酒類、コーヒー、煙草が多数を占める。所属組織がアメリカ合衆国直下らしいと思わせるのは、定期的にドーナツが供えられるところか。その中で林檎というのは少し異色に感じられた。
    「林檎が好きならさぁ、アップルパイとかアップルクランブルとか、 いくらでも作ってやったのに……。食いたい? 今度作って持ってこよっか」
     返事がないのなんて、身に染みるほどよく分かっている。この一か月の間に何度も何度も繰り返したのだから。それでもそうせずにはいられない自分がいるのも、降谷はよく分かっていた。
    「赤井の墓は……アメリカに建てるのかな。なかなか墓参りにいけなくなるなぁ……。今みたいに小まめに会いに来れなくなるのは淋しいと思わないか? ご家族は日本にいるみたいだし、日本だといいんだけど」
     残った半分の林檎を海に放り投げてから、降谷は空を見上げた。太陽がうるさいくらいに眩しい。降谷の胸の内がどんなに暗く沈んでいても、太陽は毎日変わらずに昇って、沈む。太陽に対して、随分勤勉な奴だと皮肉な事さえ思った。

    * * *

     作戦当日、天気はなかなかに最悪だった。土砂降りとまではいかないが、傘なしで動き回ればあっという間にびしょ濡れになる程度には雨が降りしきっていたし、取引場所が埠頭なのもあってよろつくくらいの強風が現場には吹きすさんでいた。
    「……間違いなく決行するんだよな?」
     広岡の供述で判明した接岸予定位置が見える倉庫から、今はまだ人気のないそこを確認した降谷は小さくため息を吐いた。災害規模の台風ならいざ知らず、この程度の天候如何で取引が中止になることなどあり得ないのは、経験上降谷だって十分理解している。ただ、この風雨の中で大捕物を繰り広げるのかと思うと、少し辟易するだけで。
    『どうした降谷くん、弱気な発言だな?』
     左耳に嵌めたインカムから、笑いまじりの低音が飛び込んでくる。この手の作戦を決行する際、必ず現場配置の捜査員にはインカムが配備されるため、もう何度も赤井の声がインカムから聞こえる状況は経験しているのだが、どうしても慣れない。普段意識していなかった赤井の声を初めて耳元で聞いた時、その声がひどく魅力的な声なのだと気付いてしまったのだ。良い声過ぎる。
    「……いや、大丈夫だ。運動会みたいに雨天延期にならないかと思っただけだ」
     冗談含みに言った降谷に、赤井は小さく吹き出すと確かにな、と言葉を継ぐ。
    『この天気じゃ一筋縄じゃいかないかもしれない。風も相当強いし、スナイパーとしては是非順延頂きたい気分だ』
    「おいおい……お前こそ弱気な発言だな? 自信ないのか?」
    『まさか。素人じゃあるまいし、この程度の天気でライフルを放り投げたりしないさ。まぁどうやっても精度は落ちるがな』
     申し訳ないことに俺も人間なんでね、と笑う赤井は、そんな風に言いながらも、きっと変わらず正確なスナイプを見せるに違いなかった。 予定では、赤井の待機している位置から狙い易い位置取りに、今回の取引相手のリーダー格である男を広岡が誘導してくる算段だ。膝関節を撃ち抜いたら任務完了。取引の最中に接岸した船に乗り込む手筈に なっているという構成員達は、公安とFBIのメンバーで取り押さえる。ぬかりはない。大丈夫だ。降谷は何かあったらすぐに動けるように、フリーでの配置となっている。自分が忙しくなるようなことがあってくれるなと心底祈るばかりである。
    「赤井の位置なら何かに巻き込まれるようなことはないと思うけど、くれぐれも無理だけはしてくれるなよ。命あってのことだから」
    『それは俺が君に言う台詞じゃないか? 広岡と取引相手が来る予定ポイントに一番近く待機しているのは降谷くんだろう。無茶は君の 十八番だからな……披露しないでくれよ?』
     赤井の言葉に小さく笑った降谷は、了解、と軽く返した。予定時刻まではあと三十分。少しでも天候が穏やかになればいい、と降谷は曇天を見上げてそっと息を吐いた。
     そうしてピリピリと緊張感が漂う中、定刻よりも五分早く、ポイントに広岡が男を連れ立って現れた。降谷の心配をよそに、広岡の情報は何ら間違ってはいなかったらしい。広岡の妄信的なライへの執着は偉大だったと、降谷は内心苦笑を浮かべながら、二人に視線を向ける。酷く雨が降りしきるため致し方ないが、傘を差した二人の姿は、赤井の位置からは少し見づらい立ち位置になっているようだった。
    「広岡、少し左へずれろ。その位置では赤井から見えにくい」
     広岡には、降谷たちと同じチャンネルに合わせたインカムをつけさせている。江戸川コナンこと工藤新一と協力体制を敷くようになってから力を借りることの増えた阿笠が作ったインカムは、かなりの小型化に成功していて、耳に嵌めていてもほとんど目立たない。広岡が誰かと連絡を取っているなど、目の前に立つ取引相手は露ほども想像していないに違いなかった。
    『あと半歩、左に動いてくれればいい』
     赤井からの指示に広岡は数秒の間も置かずにすぐさま従う。その崇拝振りがありがたいやら恐ろしいやら、降谷を何とも言えない気持ちにさせた。さっさとこの件を終着させ、広岡をブタ箱送りにするしかあるまい、と降谷が軽く唇を噛み締めた瞬間だった。
    『Aから all 今から一分後にFire 予定通り問題ない。Over 』
    「FからA Fire Roger 」
     キンと耳が痛くなるほどに沈黙が走る。一分間が一時間のように長く感じる。何度経験しても、この瞬間だけは胃が痛くなるほどに緊張するのを免れなかった。
     三十秒、二十九、二十八、二十七……
    「っぎゃぁぁ……っ!」
     インカム越しと実際の空気を震わせる音と両方から、濁った悲鳴が降谷の耳に飛び込んできた。通信からぴったり一分。寸分の狂いもない。
    『Aから all Fired 右膝関節ヒット。ポイントSより撤退。Over 』
    「FからA Roger 総員計画通り高飛び押さえろ」
     降谷の一声で一気に倉庫の外が騒然とし出した。各ポイントに待機していた公安・FBI両組織の捜査員が、予定通りの位置へ接岸した船に踏み込んでいく。海上には逃亡に備えて、海上保安庁の小型巡視船も配備されていて、何ら抜けはない。そう、問題はないのだ。
    「何だ……この胸騒ぎは……」
     予定通り。絶対がないのは分かっているが、最善の状況のはず。それなのに、降谷の胸の内は落ち着かず、脳内は何か穴があるのではないかと思考が駆け巡る。第六感のようなものなのだろうと思う。こういった状況ではままあることで、過去の経験上、大概予感は外れない。
    「FからA 撤退完了したか? 現在ポイントを報告せよ。Over 」
    『AからF 撤退完了している。Kと合流して広岡を……っ』
     インカムから聞こえていた赤井の声が詰まり、小さく呻き声が漏れるのが聞こえて、降谷は瞠目して身を潜めていた倉庫から飛び出した。予定にはない動きだったが、考えるよりも先に身体が動いていた。
    「FからK! Aと合流出来ているのか Over 」
    『け、KからF……っ、あ、A未確認、広岡が逃走、追跡中 Over 』
     風見からの報告に思わず派手に舌打ちが出た。想定外の事案が発生した。これだから全てが終わるまで気を抜けない。
    「報告が遅いっ 予定にない動きは逐一上げてこい! FからA 大丈夫か? 状況報告を Over 」
     現場にいる捜査官全員にオープンになっているインカムだが、遠慮なしに降谷は風見を怒鳴りつけ、赤井に呼び掛けた。今はとにかく、赤井の安否が最優先だ。だが、降谷の焦りを助長するように、赤井からの返答は一向にない。
    「FからA! A! おいっ、赤井!」
    『……ひ、ろおか……が発砲、っ……右肩と左足首に被弾、……っく、ポイントAで対峙…… Over 』
     何度も呼び掛けた降谷の声に返ってきた赤井の途切れ途切れの言葉に、降谷はひゅっと息を呑んだ。発砲。被弾。降谷の位置からポイントAまではおおよそ二百メートル。
    「広岡ぁぁぁぁ! お前、どういうつもりだ!」
     意図的にインカムを外していなければ、降谷の怒号は広岡にも届いているはずだ。全速力で赤井と広岡がいるポイントへ駆けながら声を荒げたものの、広岡からの返答はない。
    「K、お前、広岡に拳銃まで取られたのか」
    『いいえ! 広岡には何も……っ』
     取引相手から受け取っている様子は見受けられなかったというのに、一体広岡はどこでそれを手に入れたのか。状況が全く理解出来ないことに歯嚙みするほかない。一刻も早く赤井の元へ駆けつける以外に、降谷がこの現況から脱する方法はないようだった。
    「Fから all 誰かポイントAに近い捜査員はいないのか Aの援護に向かえる者は応答を! Over 」
     呼びかけたものの、それが可能なのは自分以外にいないのも、降谷は十分理解していた。そういう配置にしたのは自分だ。ポイントAは何ら問題なく赤井が通過してくる予定の地点だったのだ。
    『AからF 広岡はインカムを外しているようだ……っ、は、俺から、話を、してみる……っ』
     少し苦しげな赤井の声に、足を進める速度は緩めぬまま降谷は、無理するなと苦々しく呟いた。確かに広岡を逃すのは可能な限り避けたい事態だが、それよりも、赤井の容体が気になった。

     出血量は? 手の可動に問題は? 痛みが強いのでは?

     然程距離がないはずのポイントA、まるで何キロもあるかのように遠く感じた。足下で跳ねる水溜まりはぐっしょりと革靴に浸み込み、 ぐじょぐじょと嫌な音を立てる。だが不快感よりも焦燥感が先立って、ひたすらに駆けた。耳や額に掛かる髪から滴る水滴が視界を阻み、この件が片付いたらスポーツ刈りにしてやろうかと降谷は心底思った。人心掌握の為に見た目には常に気を使っている降谷だったが、この見た目重視の髪型を今ほど厭ったことはない。邪魔くさくて堪らなかった。
    「FからK ポイントAの対応はこちらで行う。そちらの取り纏め 対応はお前に一任するからな。失態は自分で取り返せ!」
    『 Roger 』
     今にも泣き出しそうな風見の返答に、込み上げる舌打ちを何とか飲み込むと、降谷はスーツの裾を翻して角を曲がった。その先が、赤井が待機していた狙撃ポイントから抜けてきた、ポイントA。
     ジャッと水まじりの音を立てながら、駆けてきた勢いを殺して降谷がその場に辿り着くと、件の二人がすぐに視界に飛び込んできた。
    「ッ、赤井……っ」
     天候はますます悪化の一途を辿っており、港内と言えども海は荒れ、波飛沫は酷いものだった。闇のように黒いその海を背に、今にも吸い込まれそうなほど岸壁ぎりぎりに追い詰められた赤井が立っている。夢に見そうなほど、恐ろしい光景だった。
    「遅かったじゃないか、バーボン」
     びゅうびゅうと身体がぐらつく位に強い風が吹き荒ぶ中でも、妙に広岡の声がはっきりと聞こえる。軋むほどに奥歯を強く噛み締め、目の前で気持ちの悪い笑みを浮かべる広岡を降谷はぎろりと睨み付けた。肩口を押さえて少し前屈みになり、眉間に皺を寄せている赤井の表情が、白い外灯の下だということを差し引いても血の気なく見えて焦りが募る。早く何とかしなければ。
    「広岡、お前、ライを裏切るつもりか」
     自分が想像していたよりも随分と低い声が出たことに、降谷自身驚いた。広岡に対する憤怒の感情がそうさせるのだと分かってはいたが、夜目にもはっきりと見える赤井の手を伝う赤に、冷静さはすっかり掻き消えている。自分の感情を抑えるのが難しかった。
    「バーボン、お前に従うのは屈辱だったがな……ライの為だと思えばそれも飲み込めた」
    「だったらどうして……」
    「気付いたんだよ、お前がライと親密そうにしているのを見て。俺が どんなにライを崇拝したところで、クズみたいなバーボンに使役されてるのは変わらない。到底許容出来ることじゃないが」
     使役。
     そんな風に考えたことなど一度もなかった降谷は、広岡の物言いにぎょっとして目を見開いた。自分と赤井の関係は、周囲からそんな風に見えるのか。まさかそんな。確かにこの作戦を指揮しているのは自分で、赤井はその下について降谷の指示を受けて行動をしている。それは何ら間違っていることではない。だが、降谷が気付いていないだけで、他の捜査員に対するのとは異なる対応を赤井にしていたのだろうか。自分の知らぬ間に、過去の因縁を引き摺っていたとでも……。
    「ふ、るやく……っ、そんなヤツの話に、耳を傾け、るな……っ!   バーボンは、クズな、んかじゃ……なかった、し、俺は降谷くんに……っはぁ、使役、なんてされて、ないだろ……っ」
    「あかい……」
    「あぁ……ライ……バーボンに従うことを強要されているんだろう? 君ほど優秀な男があんなクズにいいように使われているなんて、俺はとても見ていられない……全部俺が終わらせてあげる」
     じりじりと合間を詰める広岡に対して、赤井は負傷した左足を庇いながら退こうとしたものの、すぐに右足の踵が、コンクリートと海へ繋がる空間との境目に差し掛かりチッと派手に舌打ちをしたようだった。風雨は弱まることを知らず、足下が覚束ない赤井がぐらつくのが目に入り、降谷はひやりと胸が竦み無意識に身体に震えが走るのを感じた。
     赤井が危ない。
     紛うことない、純然たる恐怖心だった。自分が窮地に陥った時よりも酷く恐ろしく感じる。決して赤井を信用していないわけではないが、状況は圧倒的不利に見えた。足に傷を負って駆けることの難しい赤井、視界を遮る豪雨、弾道を揺るがすであろう強風、降谷と広岡の距離…… どれをとっても芳しいとは言い難い。
    「広岡……俺が悪かった……っ! 君の言う通りに、俺がライに従おう、いや、従わせて欲しい」
    「降谷くんっ」
     そうして降谷が導き出した最善策は、その場に跪き、自分の出来得る最大限こうべを垂れ、広岡に許しを請うことだった。濡れていない箇所など当然どこにもない吹き曝しの港湾のコンクリート。元よりぐしょりと濡れていた降谷は、膝をついたことでますます酷い有様だ。まさに濡れ鼠そのものである。
    「赤井……ライが優秀なのは、俺も十分理解しているつもりだ! 彼を失うのは、無能な俺にとってあまりにも痛手過ぎる。後生だ、どうか俺の不遜な態度を許してライを生かしてくれないか……っ」
     額はコンクリートについていただろう。だが、今の降谷にとってそんなのは些細なことだった。一触即発の広岡を思いとどまらせ、赤井の安全を最優先に。それ以外なかった。自分の矜持などちっぽけで安いものなのだと、この状況に追いやられてひしひしと感じる。
    「降谷くん、やめるんだ……っ! 君がそんなことする必要……っ」
    「アッハッハッハッハ……! 最高だよ降谷零……っ! バーボン だったら絶対にありえない格好だ、ライのために地面に頭を擦りつけるなんてなぁ! ふふ、ハハハハハ……!」
     雨の降りしきる天を仰ぎ、高らかに笑い声をあげる広岡に、降谷は強く歯を食いしばる。こんなことなんてことない。全てを片付けて、あの男を縛り上げてやるだけのことだ。赤井のためなら、こんなこと……
    「広岡、頼む、やめてくれ……! 彼には何の落ち度もないだろう」
    「すっかり飼い慣らされてしまったんだな、ライ……残念だ、本当に残念だよ……期待していたのに……」
     悲嘆の色がありありと滲む広岡の声にバッと顔を上げた降谷は、広岡がその手にある拳銃の照準をしっかりと赤井の眉間に合わせているのを確認して、弾かれたように地を蹴った。
     交渉は決裂、もう遜る意味なんてありはしない。
    「銃を下ろせ広岡あぁぁぁぁ!」
     広岡を取り押さえるか、赤井を保護するか、逡巡は一瞬だった。つま先はほぼ無意識に赤井に向かっていた。
    「絶望しろよ、バーボン! ハハハハハハ……っ!」
     広岡の放った弾道上に身体を割り込ませるも間に合わず、だが、悪天候なのは不幸中の幸いだった。照準はぶれ、赤井の右脇腹に着弾した。眼前に広がる血飛沫に目眩がする。やめてくれ、これ以上傷を負わせてやってくれるな。被弾三箇所、内臓への影響の可能性、体温を奪う雨。どれを取っても赤井の置かれた状況は最悪だとしか言いようがなかった。苦鳴を上げてよろめいた赤井は、被弾の衝撃からか後方へとバランスを崩し、踏ん張ろうと力を込めた足が、海側のコンクリートのない宙空を蹴る。赤井の身体が傾き、荒れ狂う海面に吸い込まれていく様がまるで降谷にはスローモーションのように見えた。
    「っぐ、ぅ……っ!」
    「赤井……っ」
     降谷は必死で手を伸ばし、空を切って足掻く赤井の腕を掴もうとした。口から出た声は引き攣り、最早悲鳴に近かったと後から思うほど情けないものだった。必死だった。血の気が引いた。これだけ傷を負った状態であの海に飲み込まれたら、さすがの赤井も無事ではいられない。絶対にこの手を掴まなくては。そう、思ったのに。
    「っ、あ、あかいぃぃぃぃぃ……」
     あと数センチ、いや、数ミリだったかもしれない。指先が触れた気さえした。雨で冷え切った冷たい指。掴みたい。掴まねば。掴め!
    「ひは、ふ、ハハハハハハァァァァ……ッ! やった、やってやった! これでライは誰のものにもならない! 永遠だ! バーボン! お前が殺した! お前が! ライを助けられなかった! お前のせいでライは死ぬんだ……っ」
    「広岡ぁ……っ!」
     暴風の激しい音に掻き消されて、着水の音さえ確認出来なかった。黒い水面は、港湾の外灯程度の灯りと目視で何かを確認出来るほど優しいものではなくて、ただただ飛沫を上げて荒れ狂うばかりだった。波間に赤井の姿は確認出来ず、震えるほど強く拳を握り締めるくらいしか、降谷に出来ることはない。
    勢いよく振り向いた降谷は腹の底から搾り出すような低い声でその名を叫び、右膝、左膝、右肘、左肘と順に撃ち抜いてやった。悪鬼のような表情をしていただろうと自分でも思う。到底冷静とは言えない、感情が爆発した状態だったにも関わらず、的確に全ての関節を射抜けたのは何故だったのだろう。火事場の馬鹿力なのか、ゾーンのようなものに入っていたのか。後になって思い返してみても、どうやって拳銃を抜いたのか、あの悪天候の中でいかにして小さな的を狙い撃ったのか、まるで思い出せなかった。ただ、絶対に殺してはいけない、死よりも苦しい思いをさせて罪を償わせてやらなくてはならない、と思ったことだけは間違いなかった。
    「待機中の海保小型巡視船へ! 負傷した捜査官一名が海へ落ちた! 位置はポイントA付近埠頭! 至急捜索、救助活動されたし!」
    『! 了解、すぐさま捜索にあたる』
    「捜索対象者はFBI所属、赤井秀一捜査官。右肩、右脇腹、左足首の三箇所に被弾しており、落下時意識はあったものの、自力での浮上は困難な可能性あり」
     緊急用に海上保安庁にも別で配備していた回線がこんな形で役に立つとは思いもしなかった。使うことなどなければよかったのに。指示と状況説明をしながら、声が震えぬように努めた。動揺している暇はない。一刻を争う事態だ。一分一秒だって無駄に出来なかった。
    「FからK 状況報告しろ」
    『KからF 港湾出入口は完全封鎖済、港湾内にて構成員らを複数確保の報告あり。海保より、海上にて不審小型船舶数隻拿捕の報告もあり』
    「FからK 了解。広岡の発砲により赤井捜査官が負傷。三発被弾の上、海へ落ちて安否不明。海保へ捜索手配済だ。なお、応戦しこちらも四発発砲、全弾着弾。命に別状はないと思われるが救急車両の手配を頼む」
    『……! り、了解しました』
     降谷からの報告を受けて、風見が動揺を隠せぬままの声で指示を受けた。現場にいる全捜査官に対してオープンになっているチャンネルでの会話だ。赤井と同じ所属であるFBI捜査官らも降谷からの報告を確認したことになる。赤井と長らく同じチームで捜査に当たってきているジョディ・スターリングやアンドレ・キャメルも今回の作戦に携わっており、その動揺は想像に難くない。
    「Fからall 落ち着いて今出来ることを確実にこなしてくれ。赤井捜査官に関しては海保と、赤井自身の生命力を信じよう。アイツが戻って来た時に笑われるような結果にならないように。Over 」
    『……Roger 』
    『シュウに馬鹿にされたくないわね、Roger 』
    『シュウの分まできっちり仕事するよ。Roger 』
     降谷の言葉を受けて多少は仕切り直しになったのだろうか。次々とFBI側からの応答があり、降谷はふぅと一つ息を大きく吐いて、よろしく頼むと告げてから通信を切った。今出来ることを確実にこなす。自分に対して言い聞かせたようなものだった。
     手を掴めなかったあの瞬間、本当は追って飛び込みたかった。わずかに残った理性がどうにかその場に降谷を留めたが、黒い海に吸い込まれすぐに赤井の姿が見えなくなったことは、叫び出しそうなほど降谷に絶望を与えたし、全てを捨てて赤井を助けに行きたいというのが降谷の本音だった。広岡を制圧せねばならぬというただその思いだけが、降谷を地上に引き止めたと言っても過言ではないだろう。
    「広岡……お前、絶対に許さないからな……」
    「ククク……いいね、その怒りと絶望に染まった目……堪らないよ、 バーボンにそんな顔をさせられたことも、ライを誰の手にも渡さず永遠に出来たことも……。最高の気分だ……っ!」
     手足の関節から血を流し、雨に打たれびしょ濡れでその場から動けず座り込んだ状態だというのに、広岡はその痛みを厭う素振りも見せずに、心底嬉しそうに笑って降谷を見る。吐き気さえ覚えるほどの苛立ちから、殴り倒して海に突き落としてやりたいのを奥歯を噛み締めて必死に堪え、降谷は広岡を俯せに引き倒し、後ろ手に手錠を嵌めた。逃げ出す様子はまるでなかったが、逃げられる要素など微塵も残したくない。風雨は弱まるどころか酷くなる一方で、お互い濡れ鼠としか言いようのない有様だった。正直へとへとで、全て夢ならいいのに、なんて現実逃避のようなことさえ頭を過ぎる。
    「お前があの手を掴めていたら、ライは死なずに済んだのになぁ?」
    「……何故あいつが死んだと? お前の撃った弾丸は急所からずれていた。こと切れたのをその目で確認したわけでもないのに随分な楽天家だな。お前の知るライという男は、この程度で死を迎えるような簡単な人間だったのか? そうだとしたら、広岡、お前はあの男のことをまるで分かっちゃいない」
    「バーボン、お前こそライを神格化し過ぎているんじゃないのか? 確かに脳髄を撒き散らす位置に弾を撃ち込めなかったのは悔やまれるところだが、ライだって人間だ。この荒れる海にあれだけの出血量で投げ出されたら死ぬに決まってる。生きてる方がどうかしてる……バーボン、お前だって分かってるんだろ? あの手を掴まなかったから、ライは……赤井秀一は死んだって……!」
     コンクリートから顔を上げられもせず、くぐもった声のまま、広岡は降谷を嘲笑うように言い放ち、抑え切れない笑いで肩を震わせ、喉の奥でくつくつと降谷を……バーボンを責め立て、貶める。こんなことで逆上すれば相手の思う壷だと分かり切っているのに、怒りで脳が沸騰してどうかなりそうだった。思わず襟元を掴み上げ、爪が食い込んで掌に血の滲む拳をその顔に叩き込もうとした。
    「降谷さんっ」
     瞬間。
     冷静さを捨てた降谷を引き戻すように自分の名を叫ぶ風見の声に ハッと我に返った。助かった。完全に広岡の術中に嵌る寸前だった。
    「……風見」
    「遅くなってすみません。今しがた救急車が到着しました。すぐにストレッチャーがこちらへ。……広岡は私が、責任を持って搬送、連行させて頂きます」
    「助かるよ……頼んだ」
     大丈夫か、と本当は問い質したいんだろうなと、風見の顔を見て気付かない降谷ではない。だが、大丈夫だと返してやれるほど、今の降谷は冷静ではなかった。その自覚が自身にもある。赤井の死を認めさせようとする広岡は、バーボンを精神的に痛めつけ、ライから全て……バー ボンのみならず、降谷やFBI、本人の生命さえも、だ……を遠ざけ、孤高の人として成立させたがっている。その掌の上で踊ってやる必要などどこにもありはしない。理解している。だが、広岡の言葉を受けて絶望の淵に立ちその内側を覗き込んでいる降谷にとっては、広岡の言葉が正論だと感じるくらいに弱り切っていた。
     赤井が死んだらどうしよう。俺があの手を掴めなかったせいで。俺がきちんと掴めていたら。俺が。俺が俺が俺が。
    「赤井……」
     海保の巡視船による強い光が海面を照らし、潜水士が慌ただしく捜索をしている様子をぼんやりと見た降谷は、絞り出すような声で男の名を呟くと、どうしようもない不安や恐怖心を誤魔化すように顔を両手で覆い、ぎりぎりと音がたつくらい強く奥歯を噛み締めた。そうでもしなければ、その場に立っていられずに崩れ落ちてしまいそうだった。雨に打たれてすっかり濡れそぼった髪が額に纏わりついて鬱陶しい。赤井の無事が確認出来ればそんなことすぐにでも気にならなくなるのだろうに、と思った降谷は、赤井は濡れているどころの騒ぎじゃないんだったと気付く。何せ彼は今、水中にいる。
    「戻ってきて……赤井……。背負うものが多すぎて、身動き取れなく なっちゃうぞ、俺」
     君の都合なのかと笑う赤井の顔を想像してしまい、濡れたスーツがますます重たくなった気がした。

    * * *

     海に放り投げた真っ赤な林檎がぷかぷか浮いているのがよく見える。お世辞にも綺麗とは言えない海の色とのコントラストが随分とシュールなものにも思えてくる。赤井の身体も、こんな風にこの海のどこかに浮かんでいるのだろうか。いや、もう一か月も経つのだから、すっかり腐敗して海の底に沈んでいるに違いない。
     脳裏に、過去に見た水死体の様子や知識を元にした赤井の姿が浮かび上がった。水死体は顔から腐敗が始まり、角膜が濁り、二週間ほどで皮膚が剥がれ落ち、腐敗ガスの影響で全身が膨らむ。一か月も経てば頭髪は抜け落ち、頭蓋骨が露出し、死蝋化が進んだ身体は顔判別が困難になり、最終的に歯科所見やDNA判定などで身元確認をすることになる。あの美しい澄んだ翠もなく、整った顔だちを確認する術もない能面のような『赤井秀一の抜け殻』でしかないそれ。果たして降谷は、その遺体を前にしてどんな感情を抱くのだろう。
    「最低だ……俺……」
     無駄に働いた想像力は、ありありと『赤井秀一だったもの』を思い浮かべさせ、降谷の気分を落ち込ませた。そうして、自分が赤井の生存についてすっかり諦めていることを改めて感じてしまい、重ねて落ち込む。最低だ。自分が赤井を信じてやらずに、誰が信じてやるというのか。
    来葉峠での射殺動画は、データが壊れるんじゃないかというくらいに繰り返し再生して、どれだけ周囲に赤井秀一は死んだのだと言われても信じなかった。赤井秀一ほどの男がそう易々と死ぬはずがないと信じていたし、どこかに生きている証拠が何かあるに違いないと思っていた。その感情は胸を焼き尽くすほどに強く熱いものだったが、今、それだけ強い気持ちで赤井の生存を信じることが出来ない。誰にも吐露することなど出来ないが、もう信じ続けることに疲れてしまったのだと思う。正直に言ってしまえば、もう限界だった。
    「生きてて……欲しいんだけどなぁ……」
     とは言え、こうしてほぼ毎日献花台へと足を運び、いつかこの献花台が撤去されたら今度は墓参りをするようになるのかな……などと考えたのは一度や二度ではない。その時点で、いくら生きていて欲しいと口にしたところで、所詮それはパフォーマンスにすぎないのだ。諦めてしまっている自分を誤魔化すためのパフォーマンス。
    一か月前に爪が付けた掌の傷はとうに治っている。当初は両手とも包帯が巻かれていて、献花台から供物をくすねる時には傷が痛むこともあったのに。その頃はまだ海上保安庁の捜索も行われていて、今日が駄目でも明日は見つかるだろう、自力で陸に上がった本人から連絡してくることも考えられる、一般人に助けられて搬送先の病院から連絡が入るかもしれない……そう思っていた。一週間経ち、二週間経ち……捜索規模は縮小されていった。FBIが手配した民間企業の捜索も芳しくないと言われ、少しずつ降谷の中の希望は縮こまり、胸の隅で小さくなって膝を抱えている。
    「来週、あなたの本国から捜索部隊が投入されるって。ジェイムズさん、せめて遺体だけでも見つけてあげたいからって上に掛け合ったらしい。SEALsにコネがあるって前に言ってたの、本当だったのか? 志願者がいて、何人か捜索に参加するらしいよ。……愛されてるよなぁ、本当に。みんな、赤井のこと……待ってるんだよ」
     ひょっこりと顔を出すんじゃないかと、思ってしまうこともある。沖矢昴だってそうだったから、もしかしたらまた別人として現れる可能性もあるんじゃないかと。広岡の手から逃れるために、今は元の身体に戻った工藤にまた手を貸してもらっているとか。もちろん、工藤には一番初めに連絡して、赤井からの連絡がないことを確認しているし、彼から連絡があればすぐに教えて欲しいと伝えてある。だから実際のところ、それもまたただのよもやま話でしかないのだ。
    「俺も待ってるけど……お前の遺体見たらどう思うのか、自分でも分からないんだよな。生きてるとも思えない、死を受け入れるのも難しいなんて……どうしたらいいんだろうなぁ」
     当然のことながら返事はなくて、降谷は苦笑を浮かべると勢いよく立ち上がった。暑さにあてられたのか、わずかにくらりと眩暈がする。
    「風見が待ってるから戻るな。広岡の聴取が滞ってて参ってるんだ。自分で赤井のこと撃ったくせに、ライじゃないから話すことなんてないとか言うんだよ……アイツ本当に最悪だ」
     肩を竦め、献花台に背を向けて車に足を踏み出す。足取りは重いが、いつまでも自分勝手な事情で職場を離れているわけにもいかない。そう思うなら毎日ここへ足を運ぶのを止めればいいのだが、それも出来ずにいる。情けない話だ。
    「じゃあ赤井、また明日」

    『無理しないように』

    「」
     低く落ち着いた、耳馴染みのいい声。驚きすぎて息を呑み、勢いよく振り返った。辺りを見回すが、人影などなく、ただ波音だけが聞こえる。
    「赤井 いるのか……」
     いるはずがない。分かっているのに、叫ばずにはいられなかった。 だってはっきりと聞こえたのだ。勘違いだとか幻聴だとか、そんなものだとは到底思えなかった。一か月ぶりに聞いた赤井の声は胸が痛くなるくらいで、自分がどれだけ赤井を求めていたのかを自覚して泣きそうな気持ちになった。赤井! 赤井 恥も外聞もなく名を呼んだけれど、返ってくるのは波音ばかりだ。
    「何だよ……どうせ化けて出るなら姿も見せろよ……声だけとか出し惜しみしないで夢枕にくらい立ってくれたっていいじゃんか」
     ポツリと呟いたものの、返事なんてあるはずもない。この一か月間、
    海保が捜索する中で発見した赤井の右足の靴を確認した時でさえ零れなかったというのに、抑えきれなかったと言わんばかりに、ぼろぼろと涙が溢れ出た。頬を伝い落ちる涙が熱い。子どもの時だってこんなに泣いたことはなかった気がする。ひぐ、と喉が震えてしゃくりあげるのが、格好悪いと思うのに止められなかった。
    「っく、ひ、ぅ……あ、あかい……ふぅ……っ、あ、会いたい……っ。おまえ、ほんとに……死んじゃったの……?」
     立っていることも辛くて、気付けばコンクリートに膝をつき、声を上げて泣いていた。大の大人が情けないと、頭の片隅で冷静な自分がその姿を見下ろしているけれど、到底コントロール出来るものではなかった。慟哭とはまさにこのことだろう。生まれて初めての感情だった。 こんなもの、知りたくなかった。


     どれだけの時間泣いていたのだろう。気付けば辺りは薄暗くなってきていて、目は重く腫れ、喉はひりつくように痛みを訴えた。ズッと音を立てて鼻を啜り、コンクリートに大の字に寝転ぶ。昼間の日差しを受けたコンクリートは熱を孕み、シャツ越しにもじわりと背中を焼く。汗ばむような熱も暑さも、今の降谷にとっては瑣末なことでしかなかった。見上げた空にはうっすらとした色で満月が浮かび、宵の明星が小さく輝いている。自分の胸の内とは裏腹に穏やかな光景で、ほんの少しだけ苛立ちを覚えた。
    立ち去ろうとしたあの瞬間に聞こえた声。確かに耳に残っている。誰に話したところで、疲れているんだと哀れみの目を向けられるだろうことは容易に想像がついた。つい先日工藤に会った時も、ひどく心配そうな目で見られたのを覚えている。年の離れた彼にまで心配されるほどに自分は弱っているのだと突きつけられて情けなかったが、降谷にとって赤井秀一というのはそれだけ大きな存在で、今となっては、己の半身と表しても間違いではないくらいに欠かせないものなのだ。
    「あ〜あ……結局今日は半日、仕事サボっちゃったな……」
     大きな会議などの予定がなかったのが不幸中の幸いだ。念のため端末を確認してみるが、風見から連絡が入っているようなこともなく、疲れ切って見えた降谷のことを、戻らずとも放っておいてくれたのだろう。申し訳なさとありがたさにため息が溢れる。
    「しかしこの顔じゃ庁舎に戻ったところでなぁ……ん?」
     腫れぼったい顔を両手で覆って唸った降谷は、左側から見下ろされているような気配を感じて、慌てて手を退けた。こんな傍に近寄られるまで気付かないなんて、同業者か、あるいは。
    「……あれ? 今、絶対誰かいる気配、したんだけどな……」
     気配のした方を見たが、誰かが立っている様子はなくて、相変わらず埠頭にいるのは降谷一人だった。日が長い時期なので真っ暗ではないが、もうすぐ午後七時にもなろうとしているのだ、用もないのに献花台の置いてある埠頭に来る物好きはそうそういないだろう。
    「……気のせい、だった……?」
     違和感が酷く、眉間に皺を寄せてバリバリと頭を掻き毟った降谷は、もう一度辺りを見回して、はたと献花台のところで目を止めた。そこにあるのは、昼間見たのと大きく変わらない、赤井への供物で溢れそうになっている献花台だ。だが、何かが浮いている。ぼんやりとした灯のような、青白い、星というには光量が少ない、何かが。
    「ほ、たる……?」
     降谷はよろよろと立ち上がり、吸い込まれるようにその灯に近付いていく。蛍であれば、そっと近寄らなければ逃げてしまう。そっと、そーっとだ。だが、灯は逃げ出すこともなく、ふよふよとその場を漂って、むしろ降谷が近付いてくるのを待っているかのようだった。
    「蛍じゃ、ないな……何、これ」
     灯は、近付いてまじまじと確認しても、一体何なのか分からなかった。昼間に聞いた赤井の声に、謎の灯。本格的に疲れているんだろうかと、降谷は目許を指先で押さえて低く呻いてからもう一度灯に目をやったけれど、相変わらずその灯はそこにぽかりと浮いている。コーヒー缶の上あたりをくるくる回って、それから煙草の箱の角に、まるで羽を休めるかのように止まる。
    「……赤井?」
     馬鹿なことを言っている、とは思った。だが、コーヒーと煙草、それから逃げるでもなく降谷を待っているようなその様子が、もしかしたらと、そう思わせた。疲れた男を馬鹿にするように逃げ出すのならそれでいい、と、むしろそちらを願って声にその名を乗せた。
    「……あかいしゅういち?」
     もう一度、確かめるようにゆっくりと、灯に向かって声を掛けると。「……!」
     まるで返事をするかのように、ちかちかと灯は明滅した。ただの偶然? そうかもしれない。だが、今の降谷にとってその灯は、地獄で見つけた天使にさえ、見えたのだ。
    「来て、くれたの? 俺が泣いてたから? 心配、してくれた? なぁ、お前、どこにいるの? 俺、赤井に会いたくて……」
     降谷の言葉に反応するように、ふわぁと明るくなったり、点滅したりする。じっと見ても、その『返事』に規則性はなくて、ただ、優しい灯だった。本当にこの灯が赤井なんだとしたら、何としてでも自分に何かメッセージを伝えようとするんじゃないだろうか。そう思ったら、やっぱりこれは赤井じゃないのかもしれない、と当たり前のことを思う。死んだ人間が小さな灯になって残された人の元を訪れるなんて、何のホラーかファンタジーか。赤井も降谷も、非現実的で非科学的なことを受け入れるような質ではない。そんなこと、自分が一番よく理解していることなのだけれども。
    「……え? どこ、行くの?」
     そんなことをぼんやりと考えていた降谷は、灯がふわりと高く浮き上がって、ひゅんっと後方へ飛んでいくのを慌てて目で追った。今まで大人しく献花台の近くをうろうろしていたのに。突然の動きに焦る。つい今しがた、これが赤井のはずがないしっかりしろリアリスト降谷零、と思ったばかりだというのに、いざ灯がいなくなるとそれはあまり嬉しくない。
    「また待ってる……」
     振り返ると、少し離れた場所に置いてある降谷の愛車横で、灯はぼんやりと光って浮いている。どう見ても待っている、降谷のことを。一体あの灯は、自分に何を求めているのだろう。
    「乗れってこと?」
     馬鹿馬鹿しいと思いながらも灯に尋ねると、パッと光が強くなる。肯定の意なのだろうか。メッセージを伝えてこないと思ったが、単純な返事であれば返ってきている気がしてならない。降谷の思い込みなのだろうか。とは言え、近寄って見てみても、灯はただ灯だということしか分からないし、光源が何なのかさえ見えない。少なくとも最初に想像した蛍でないことだけは確かだった。蛍にしては明るすぎる。
     灯の求める(求めていると思われる)ままに車に乗り込むと、扉を閉める寸前に隙間から入り込んだ灯が、フロントガラスに向かって数回揺れる。進め、かな?
    「どこかに連れて行きたいの? 俺を?」
     怪談なんかで、何かに導かれるままに運転していたら、次の瞬間目の前は断崖絶壁だった……なんていうのはよくある話だ。この灯がそんなことをするとは思えない降谷だったが、くれぐれも気をつけて運転しよう、と心に刻む。赤井を追って身投げなんて、部下にもFBIの面々にも迷惑がかかり過ぎる事案で目も当てられない。
    「降谷だ。今日は一日連絡出来ないままですまなかった」
    『大きく動くような案件はありませんでしたので、大丈夫です。……少しは身体を休められましたか?』
    「はは、まぁ多少は……。それで、急に連絡したのは、その、ちょっと気になる案件が浮上して、な。今から向かってみる」
     うっかり何かあったら大変だと、降谷は灯が求める方向へ車をすすめながら、今日半日降谷を放流してくれた頼り甲斐のある部下へと電話を入れた。風見の労わるような声が車内のスピーカーから流れて、何だか少しホッとする。わずかに日常が垣間見えて、現実離れした事象から引き戻されたような、そんな気分だった。
    『向かうって……どこにですか? 必要であれば私も合流しますが』
    「あ〜……どこなんだろう? 分からないんだ、どこに向かってるのか。案内されるままに向かってるから」
    『……降谷さん? 大丈夫ですか? その、何か、おかしなことを、考えていたりなんてこと……』
     訝しむような部下の声に、思わず小さく吹き出した。まぁそうだろうな、と思う。近頃の、赤井の件で疲労困憊している降谷の様子を見ていたら、もしかして後追い……なんてことを想像するのも、やむを得ないことだろう。普段の降谷からすればずいぶんと滑稽な想像だが、風見の懸念を馬鹿に出来るような様子ではなかったのだ、ここ最近の降谷は。
    「心配かけてすまないな、大丈夫、そんなんじゃないよ。ただ、この……協力者、かな? 目的も終着点も伝えてくれないから本当に分からないんだ。もし何かあれば連絡するよ」
    『状況が全く理解出来ませんが……とりあえずご無理はなさらないでください。死ぬ前に連絡くれないと、手が打てませんし』
    「ハハハ! 確かに死んでからじゃ遅いよなぁ、普通」
     そう、死んでからじゃ、連絡なんて出来ない。常識的に考えて。ということは? 今目の間にいるこの灯。死んでないから、連絡出来ているのではないだろうか。……少し都合が良すぎる考え方かもしれないが。
    『本当に大丈夫です? 嫌ですからね、捜索隊、増やすの』
    「ずいぶんブラックなジョークだな、風見。大丈夫……信じていい気がするんだよ」
    『その協力者を、ですか? こちらで調べてみますか』
    「調べようがないと思う……SISだったら何か情報持ってるのかな」
    『イギリス、ですか?』
     真面目な声で聞き返してくる風見に返事をせず、小さく笑って通話を切った。彼の国では信じる人も多いという存在を、赤井は一体どんな風に捉えてきているのだろう。もしももう一度会うことが出来たのなら、ぜひ聞いてやろう。
    * * *

     小さな灯は、フロントガラスの真ん中を定位置にして、右に寄ったり左に寄ったり。正しく道案内をしているとしか思えない動きをして見せた。距離が伸びるうちに次第と光が強くなり、青白かった色は、少し暖色になったようにも感じられる。まるで血の気がよくなったかのような、そんな変化。
    「結構走らせるな……本当にどこに向かってるの、これ」
     まさか高速に乗らされるとは思わなかったし、東京湾を横断する橋を渡らされるともこんなにも長時間走ることになるとも思わなかった。もっと近場に何かあると思ったのに。こんなことなら最初に給油しておけばよかったと、燃料残を気にし始めた頃。
    「…………ここ?」
     導かれるままに辿り着いたのは、辛うじて入院施設があるかどうか、名だけは『総合』の看板を掲げている規模の病院だった。面会時間などとうに過ぎているであろう九時前。何のために連れてこられたのかも分からないと言うのに、まさか職権濫用するわけにもいかない。
    「え……ちょ、落ち着いて……」
     どうしたものかと駐車場に車を停めて遠巻きに建物を確認していた降谷だったが、灯が落ち着きなくぴゅんぴゅんと車内を飛び回り、しまいには外に出ようとしているのか、サイドウィンドウに向かって何度もぶつかっていくような仕草を見せるものだから、待て待てと声を掛ける。もしあの病院に入るのならそれなりの準備が必要だ。灯は自由奔放に飛び回り中に入るだけだろうが、それを追いかける降谷の方はそうもいかない。不審者として止められてしまうのが関の山だ。
    「ん〜……裏の通用口から入るか、夜間救急の受付を通るか……」
     降谷が考える間も、待てないと言わんばかりに降谷の前を灯が行ったり来たりを繰り返し、痺れを切らしたのか目の前でチカチカと明滅されてしまえば、その眩さに目を瞑って「わかったわかった!」と言わざるを得なかった。灯が何なのか、何をそんなに急いでいるのか。一つも分かることなんてなかったが、とにかく早く出たい、どこかへ向かいたいというのなら、まずは外へ出してやるのがいいだろう。というか、こんなに落ち着きなく飛び回られたのでは、考え込んだところでまとまるものもまとまらない。
    「うわっ、ちょ、そんな早く動けたのか……っ」
     運転席の扉を開けた途端に、病院の建物に向かって勢いよく飛んでいく灯に、降谷はギョッと目を丸くして慌てて追い掛ける。埠頭では降谷を待つような仕草を見せていたが、今の様子だと振り返る様子もないし見失ったらおしまいじゃ、せっかくここまできたのも水の泡だ。
    「……意外と賢いの? 中まで突撃はしていかないわけね」
     建物の前まで飛んだ灯は、三階のある窓の前でぴゅんぴゅんと八の字を描くようにして飛んでみせ、降谷がそれを見上げているのを確認したのか何度が上下にふわふわと浮き沈みしてから、勢いをつけて降谷のところまで戻ってきた。どうやら一緒に来いということなのだろう。その部屋にいるのが誰か分からないし、この灯が降谷をいいように利用してここまで連れてきただけで、そこにいるのは降谷には何ら関係のない人物かもしれない。騙されたのならそれでもよかった。今この瞬間、もしかしたらと思わせてくれただけで嬉しかった。
     結局通用口から忍び込み、看護師の巡回に遭遇しないように細心の注意を払いながら、降谷は灯が飛び回っていた窓の該当する病室まで辿り着いた。全く自分は何をしているのだろうと思わないでもない。得体の知れない灯に導かれるままに夜の病院に潜り込み、中に誰がいるかも分からないというのにその扉に手をかけている。馬鹿なことをしている自覚はあった。これで大ハズレだったら、もう区切りをつけて前を向こう。そう心に決めて、降谷は震える指先を誤魔化すように強く拳を握り締めてから、ゆっくりと扉をスライドさせた。
     病室は個室のようで、部屋の真ん中にベッドが一台。閉じられたカーテンからは月明かりも入らず、明かりの消された部屋はほの暗くてよく見えない。降谷は常に携帯している細身のハンドライトを胸ポケットから取り出すと、ベッドに寝ているであろう患者の顔に明かりがいかないように気を付けながら、足音を殺して静かにベッドサイドへ近付いた。部屋の中には、バイタルを確認しているのだろうモニターからの定期的な電子音だけが響いている。心を落ち着けるように大きく深呼吸を一つしてから、降谷は横たわる人物の顔をそっと覗き込んだ。
    「……さすがにもう、本当に死んだかもしれないって思ったぞ、今回ばかりは」
     細く息を吐くようにして漏らした声は震えていた。一か月ぶりにまともに呼吸が出来た気がする。心臓が脈打つのを強く感じる。

    「あかい……」

     お世辞にも顔色がいいとは言えなかったし、口許は呼吸器のマスクに覆われているし、点滴のルートやら心電図モニターやら身体から繋がる管は痛々しいものだったが、それでも、降谷の目の前で、赤井秀一が確かに生きていた。


     看護師の巡回で見咎められるまではと、降谷はベッドの横にある小さな丸椅子に腰掛けて、赤井の手を握った。少し痩せて筋張って感じるものの、あの日降谷が掴むことが出来なかったにも関わらず、その手はしっかりと脈打ち、あたたかった。
    「ありがとう……連れてきてくれて。赤井の居場所、教えてくれたんだよな」
     灯は赤井の肩あたりで小さく明滅している。どういう存在なのか分からないままのそれだが、赤井に寄り添う様子からして、おそらく彼の味方なのだろう。赤井は知っているのだろうか。
    「目が覚めたら聞いてみよう……朝になったら風見とジェイムズさんにも連絡して……」
     最近感じることのなかった眠気が急激に押し寄せてくる。瞼が重たくてとても開けていられない。規則的な電子音と、時折混ざる赤井の小さな呼吸音。安堵と睡魔が降谷に襲いかかってきて、抗う術もなく、深く眠りの底に意識を沈めてしまった。
     とは言え、赤井のベッドヘッドにあるネームホルダーには【身元確認中】と記載されていたのを降谷は見ていたし、朝までやり過ごせるなんてことはないだろうと思っていた。案の定、深夜二時の巡回で降谷は夜勤看護師に発見され、事情聴取まがいのヒアリングを受けることと相成った。深夜に仕事を増やして申し訳ない。
     看護師の説明によると、赤井は房総半島の沖合で、身体に発泡スチロールの箱を結び付けた状態で浮いているところを漁に出ていた漁船に救助されたらしい。港から一番近いこの病院に運び込まれた時には虫の息で、峠を越えられたことも奇跡的だったという。身分証明書の類を一切身に付けておらず(恐らくジャケットには米国連邦捜査局のIDカードが入っていたはずだが、病院側に確認させてもらった所持品の中にはジャケットもライフルケースも含まれていなかった)地元警察に身元不明者として届出をしていたものの、捜索願の出ている中で合致する人物がおらず、警察も病院もお手上げ状態だったところに、降谷が現れた、イマココ。
    「彼の立場的にも事件の内容的にも、大っぴらに捜索願の類は出していなかったもので……お手数をお掛けしました」
    「職務上のことでしたら仕方ないですよ、見つけて頂けてよかったです。……というか、問い合わせも特になかったように思うんですが、よくここが分かりましたね?」
     一通りの確認が終わり、【赤井秀一】と書き直したネームホルダーをベッドヘッドに付けながら看護師にそう聞かれ、降谷は口許をわずかに上げて、指先でぽりぽりと頬を掻いた。看護師は、赤井の肩元でやわらかな光を灯すものに何の反応も示しておらず、降谷には見えるこれが彼女には見えないのだと早い段階で気付いた。灯に連れてこられた、なんて説明をした日には、今度はこちらが検査に回されてしまいかねない話だ。
    「虫の報せ、といいますか……不思議なこともありますね」
     うやむやにするようにそう言った降谷に、看護師はそれ以上追求することはなく、そうなんですねと流してくれた。職業上話せないこともあると勘違いしてくれたのかもしれない。助かった。
    「赤井さん、出血が多かった上に海で体温も奪われて低体温症も併発していて、二週間ほどはICUにいたんですけど、だいぶ体力も回復されて。意識は戻ってないんですが一般病棟に移して様子を見ていたところでした。いつ意識回復してもおかしくないので、声を掛けてみてください。お知り合いの声なら手助けになるかも」
     何かあれば声をかけてくださいねと病室を出る看護師を見送ってから、降谷は赤井に視線を戻した。トレードマークの隈は相変わらず。目許を親指でなぞってから、頬、顎と辿っていく。今までこんなに親しげに触れたことなどないくせに、ひどく安心した。
    「赤井……お前、生きてるだけで百点満点だぞ、本当に……。誰も怒らないから早く起きろよ。毎日房総半島まで見舞いにはこれないし、俺」
     首筋を辿って左手まで手を運んだ降谷は、くたりとしたその手を握る。今度は離さない。あれはもうちょっとしたトラウマになった。
    「俺を道案内してくれたものについても聞きたいし……何? これ。フェアリー? エルフ? ピクシー? こんなの初めて見たからびっくりした。そう言えば、風見も責任すごく感じてて、赤井に謝りたいって言ってた。ジェイムズさんも、赤井を見つけるためにすごい奔走しててさ……」
     ぴくりと指先が動いた気がして、ぴたりとお喋りを止める。うるさいと怒られるかもしれない。それなら怒って欲しいくらいだ。赤井の声が聞きたかった。
    「あかい? 聞こえる? 迎えに来たよ」
    「……るゃ、く……」
     マスク越し、掠れて、小さく、途切れ途切れではあったが、確かに赤井の声だった。ひと月ぶりの、赤井だった。

    * * *

    「しかし本当によく生きてたな……赤井」
    「さすがに俺も、死んだと思ったよあの時は……。海が荒れていたから上も下も分からんような状態でな……どうして生きているのか、自分でも分からない」
     意識が戻った翌日。関係各所には連絡を入れ、赤井を見つけたとの朗報に、皆一様に息を呑んだ。というのも、とうとう降谷が精神的に限界を迎えて訳の分からないことを言い出したと勘違いしたらしい。失礼な話である。赤井にも電話口で一言話してもらってようやく信じてもらえる有様で、仕方ない状況とはいえ誰も自分を信じてくれないことに降谷は内心がっくりと項垂れたりもした。
    「身体に発泡スチロールの箱を括りつけて浮いてたって。自分でやったんだろ? 生きようとする根性、褒めてつかわす」
    「……発泡スチロール? 全く記憶にないな……朦朧としながらだったからか……? いや、もしかしてアイツらか……」
     赤井が小さく呟いたのを降谷は聞き逃さず、アイツら? と聞き返した。午前中は検査やら連絡やらでばたついていて、結局降谷はあの灯について言及出来ないままでいて、赤井の言うアイツらに、あの灯も含まれているのではないかと思った。昨日の夜はあんなにはっきりと見えていた灯が、今朝になってからは全く確認出来ず、もしや夢だったのだろうかとさえ考えていたのだが。
    「あ〜……その、何というか、君には信じられないかもしれないんだが、俺は昔から……え〜っと……困ったな、何と説明したものか」
    「イギリスって、今も妖精信仰が強く残っている地域があるんですってね」
     言い淀む赤井に助け舟を出すように降谷がそう言うと、赤井は驚いたように目を丸くして、もしかして君、何か見た? と尋ね返してきた。そう、何か見たのである。昨日の夜、確かに。
    「小さな、灯みたいなものを。この一か月、そんなもの見たことなかったのに、昨日の夕方、初めて。その灯がここまで俺を案内してくれて」
    「……もしかして昨日は満月なんじゃないか?」
     赤井の言葉に少し考えて、そういえば埠頭で寝っ転がった時にうっすらと満月が見えていたのを思い出す。そうだったと頷くと、赤井はそれでだな、と小さく笑った。
    「頭のおかしいやつだと思ってくれても構わないんだが、俺は小さな頃からいわゆる妖精? ってやつに良くも悪くも懐かれやすくてな。悪戯ずきのピクシーなんかには手を焼いたが、ライトエルフは友好的
    で小さな手助けをしてくれるようなこともあった。大人になってから見ることはあまりなかったんだが……死にかけているのを見て気まぐれに助けてくれたのかもしれない」
    「気まぐれってそんな……」
    「ヤツらはそういう生き物なんだ。気が向けば助けてくれるし、機嫌が悪かったら酷い目に遭わされる。今回はラッキーだったってことだ。君をここまで連れてきてくれたのは多分コリガンというヤツで……月光の下では美しく光るんだが、日中は醜い姿をしているらしくてほとんど顔を出さない。昨日満月だったのなら、力が強く出て、君にコンタクトを取ることが出来たんだろう」
     赤井の言葉に耳を傾けながら、気まぐれなんて赤井は表したけれど、きっと彼らは赤井のことをとても気に入っているんだろうな、と降谷は思った。灯の様子は言葉が分からない降谷から見ても必死で、どうにかして降谷を赤井のところへ連れて行きたかったんだろうと今になれば分かる。
    「あなたの捜索、もうだいぶ縮小されてて、生存は絶望視されてた。アメリカから捜索部隊が派遣される予定にはなってたけど。まさか東京湾から房総半島まで流れ着いてるなんて想像もしてなかったし、コリガン? あの子の手助けがなかったら、あなたのとこまで辿り着かなかったぞ、正直。お礼言っとけよ」
    「今夜ミルクとクッキーをベッドサイドにでも置いておくよ。彼女には俺もほとんど会ったことがないんだ、恥ずかしがり屋で。君にはコンタクトを取るなんて、面食いなのかな」
     そうじゃない、お前を助けたかったんだろ……と喉元まで上がってきたが、きっと言ったところで小首を傾げられるのがいいところだろう。老若男女どころか人間以外にも好かれる男だというのに、本人は鈍いのだから困ったものである。
    「そうだ、君、毎日埠頭まで来ていただろう? 暑いのにあんなところでふらふらして……いつ倒れるかとヒヤヒヤしたぞ」
    「……は? お前、何言ってるの……?」
     不意にかけられた言葉にギョッとしてそちらを見ると、ん〜……と考える素振りを見せ、それから降谷に目を向ける。その瞳は澄んでいて、降谷が想像した水死体のように濁っていることもなくてホッとする。
    「よく分からないんだが、この一か月、俺はあの埠頭にいる君のことをよく見ていたよ。毎日昼間にフラッと来て、煙草吸って、コーヒー飲んで、たまに何か食べて帰る。その繰り返しで。心配だった。捜索規模が縮小されていくのも実際に見ていたし、まさか身体が病院に搬送されているなんて知らなかったから、あー、このまま海の藻屑になるんだろうなぁと思っていたんだよ」
    「! う、みの藻屑って……! おま、お前、ふざけるなよ……っ、俺が、俺がどれだけ……っ」
     赤井の言葉にカッと頭に血がのぼる。赤井が夢を見ていたのか、幽体離脱なんて非現実的なことを体験していたのかは分からない。だが、降谷も、それ以外の人間も、妖精たちでさえ、赤井を助けよう、見つけようと必死だったのだ。本人がそんないい加減な気持ちでは納得いくはずがない。ふざけんな、馬鹿野郎。
    「うん、悪かったよ。心配かけて……すまなかった。君が想像したっていう水死体にならなくてよかったし、こうやってまた話が出来て本当に嬉しい。ありがとう」
    「反省……しろ。そんなんだったらしばらく顔も見たくない」
    「でも君、アップルパイ、作ってくれるって言ったじゃないか。今日か明日には都内の病院に転院するんだろう? 持ってきてくれよ」
     何て不遜な態度だろう! とても一か月間意識不明の状態から復活したばかりの男とは思えない。だが、これぞまさに赤井秀一という気がしなくもないのがまた腹立たしいところだ。
    「……偉そうに……。アップルパイくらい、俺じゃなくっても、頼めば作ってくれる人なんていくらでもいるだろ、お前」
    「俺のこと、泣いて喚いて求めてくれるのは君だけだよ。献花台に毎日来てくれるのも、必死に俺の名前を呼んでくれるのも。そんなの、絆されるなっていう方が無理な話だろう」
    「お前……本当に見てたの? 毎日?」
     あまりに恥ずかしい言葉の羅列に、思わず顔を覆って、呻くように呟く。あんなの、誰も見ていないと思うからの言動であって、よりによって本人がそれを見ているだなんて、想定外も想定外、冗談じゃない。
    「夢じゃないなら、見てたんだろうな。君の記憶と合致するかどうか、摺り合わせしてみるか?」
    「……恥ずかしくて出来るか、そんなこと」
     赤井の病室。FBIの面々はまだこちらに来ておらず、二人きりの部屋だ。ベッドヘッドに背を預けている赤井にこれ以上顔を見られたくなくて、赤井の身体を覆う上掛けに顔を突っ伏すと、昨日ここに来た時には力なくくったりとしていたその手が、しっかりと力を持って、降谷の髪を撫で梳いていく。何てことだ。こんなの、嬉しいに決まってる。
    「アップルパイ……作るよ」
    「うん、待ってる。……退院するまで何もしてやれんが、キスくらいならしてもいいんだぞ」
     驚いて勢いよく顔を上げると、赤井はバツの悪そうな顔をしながら頬を掻き、目をうろうろと泳がせた。
    「その、ピクシーが……君は俺にキス、したがってるって……言って」
    「筒抜け そういうの、普通はもし分かってても本人には黙ってるもんじゃないの」
    「彼らにそういう情緒みたいなものはちょっと……求めるのは難しいと思う。君、変に気に入られちゃったんじゃないのか、彼らに」
    「やめて! 困る! どこにいるの 全然見えないし、フェアじゃない、これ!」
     キョロキョロ辺りを見回しても何かが見える気配はなくて、頭を抱えて小さく叫ぶ降谷を、赤井はしばらく面白そうに見ていたが、しばらくするとトントンと肩を指先で叩いてきた。
    「……何?」
    「キス。しないのか? ……俺はして欲しい」
    「〜……っ! お前、ホント、退院したら骨の髄までむしゃぶり尽くすからな……っ!」
     肩を引き寄せ、噛み付くようなキスをした降谷に、赤井は可笑しそうに喉を鳴らして笑うと、チュッと啄むような優しいキスを返してから頷いた。
    「心の準備しておくよ。あと、当日はピクシーたちに席を外すようにお願いしておく」
    「……それ、切実によろしくお願いします」
     頭を下げた降谷に、赤井は盛大に吹き出すと、またくしゃくしゃと降谷の髪を撫でた。ピクシーがその髪を悪戯に絡めているのは、彼の心の安寧のために黙っておこう。




     

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