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    hiro16jbsssm

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    hiro16jbsssm

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    付き合いたてのまだ健全なししさめ
    見たいようにしか見られない先生の小話

    子狐のスープにかかるのろい、或いはまじないについて「カップ麺に湯を入れると急患が来る」
    「そのジンクスってマジだったんだ」

     腐れ縁となったギャンブラー連中を何かと遊びに誘いたがる最年少の男にシフト表を要求され、配信者の企画の予定と共に許可も無くグループで共有されたのが数ヶ月前。
     それに合わせるように、どうせ自分も真経津の家に行くのだからついでに、今日はアルコールを用意しているから飲まない自分が運転を、などと何かと理由を付けて送迎を申し出るようになったマシなマヌケからごく最近に告白を受け応えて以来、特に集まりの無い日まで勤務後も欠かさず迎えに来るようになった男の車に乗って帰宅するルーチンにもすっかり慣れてしまった。
     要するに獅子神の自家用車の中は私の自宅と近しく、ともすればそれ以上に快適に感じるようになったが故に、病院の地下駐車場でその助手席へ腰を落ち着ければ必要以上に気を抜いてしまうようになっていた訳で、つまりは乗り込んだ時点で連勤で溜まりに溜まった眠気に襲われてしまい、助手席のドアを閉めてから運転席に座した男にほんの数秒、凭れ掛かるように身を預けることになった。
     傾いだ身体を支え腕を掴む手の握力で一瞬で夢の世界から現実へと立ち戻り、慌てたような声掛けにただとても眠いのだと短く返事を返せば、安堵の溜息と共にゆっくりと滑り降りた掌がそのまま私の手首から手甲の素肌へと触れ、その温度の低さに驚いた風に動きを止める。
     おずおずといった素振りでこちらの手を取り、大きな両手でそっと包み込み摩り出した恋人は、労しげに冷たいなと呟いた。
     色事においては百戦錬磨であるような顔をしながら、告白しておいて一ヶ月以上、指先一つ触れてくるでもなかった存外に堅い男の体温で聊かに感覚の薄れていた指先が温まる心地好さにそっと目を細めてそのぬくもりを堪能しようとするも、職場で温かいものは食べているのか、病棟には食堂が有るようだが利用できているのか、せめて電気ケトルやポットでも無いのかなどと矢継ぎ早に投げられる質問に、あなたは実は私の保護者だったのかと喉まで出掛かった皮肉を、心底から慮るような恋人の顔色を見て飲み込む。
     そういえばと不意に思い起こした同僚の言葉を代わりに口にしてみると、存外に興味深そうな面持ちで楽しげな反応を返され、その言葉選びに首を傾げて反論する羽目になった。
    「ジンクスという言葉は正確ではない、単なる複数の医療関係者の体感と印象を伝え聞いただけの世間話だ。アスリートなどの言うそれは自己暗示の一種だろうが、本人の立場や能力が関与しない場面で起こる事象についてそう言われるものは、例外無くただの偶然の連鎖に因果関係が有ると決め付けた『まじない』や『迷信』の類だな」
    「ジンクスの定義は何でもいいけどよ、実際そうなんだろ?」
    「そう証言している医師や看護師が居るのは確かだが、そもそも冬場には手軽で温かいものを食べようとする者が多いのと、年末年始の月には救急搬送が多い事が相関しているだけの話だろう」
    「じゃあオメーは食い損なった事ねえの?」
    「それは、度々あるが」
    「わかったわかった、それなら毎日弁当とスープ持たせてやるよ、先生のメシ時に急患が来ないようにおまじないだ。明日から朝も迎えに行くからな」
     ぞんざいな言い振りの返事を寄越し、遊びの予定に関わらずな毎日の送迎を申し出たマヌケをじとりと見遣ると、手弁当に託けて恋人との時間を増やす口実を得たりと隠す素振りも無くありありと書いてある世話焼きな男の頬に、まだ少し冷えたままの手を押し付けてそのまま鼻を抓んでやる。
     冷てえよ、と零される不平とは裏腹に楽しげに緩む口元に満足し、釣られるように綻んでいた自分の口端へと仄かに温まった指の行き先を移して、顎を擦る仕草と共に、宜しく頼むと彼のまじないを受け取る旨を伝えた。

    ◇ ◇ ◇

     さて、小振りな魔法瓶のスープジャーと二段の弁当箱の入った手提げを持たされ送り届けられたその日。
     昼食にありつけた午後二時頃から休憩を終えるまで、急患は来なかった。
     次の日も、その次の日も。
     実に一月と少しが経った今日この日まで、ただの一度も。

     毎日のようにサイレンを鳴らす救急車を受け入れ、ICUやHCUに容態の危うい患者を多く抱えた地域の基幹となる大病院に配属されて以来、こんな事が有っただろうか。
     休憩時に来た患者の数や頻度などいちいち気にしてはいなかったが、それにしても過去にこの一ヶ月のような充足した休憩時間を途切れる事なく取れたことは、確かに一度も無かったと思う。
     二日か三日目辺りまでは、恋人から与えられた幸福な偶然に感謝し、スープで温まる胃と共に密やかに心を温められていた。
     しかし幾日経っても変わらず穏やかで幸せな時間の確保が為される度に、試行回数が増えるに連れそれが崩壊する確立を加速度的に引き上げながらに途切れる事のない幸運が積み重なっていく奇跡に、微かな焦燥さえ覚えるようになってしまった。

     奇跡。迷信。自己暗示。運命。ジンクス。まじない。
     出来過ぎた僥倖の理由を分析すべく耽る思索の間に浮かんでは消える単語はまったく陳腐なものばかりで、硝子細工で出来たようなその幸福の形を維持する為に有効な治療法は、ただの偶然を前にいかなる策を巡らせても手応えは無く、家族の病を前にした時のような無力感と不甲斐なさから来る強い憤りに苛まれ、その陰に潜む己の深層の感情に目を向けようとした瞬間、蟲毒の如くな思考の外側から間近でこちらを伺い視る空色の瞳とかちりと目が合った。
    「やっとこっち見た。ぼーっとしてるとコケるぞ」
    「……考え事はしていたが、終業後に診察室を出てから駐車場であなたの車に乗るまでの動作程度なら目を瞑っていても出来るので問題ない」
    「習慣化されてて何よりだけどよ、オメーの頭は兎も角、体力の方にはまるで信用ねえからな」
     獅子神の視線を認識すると同時、止まっていた心臓が電撃を受け動き出したような感覚と共に、鼻の奥から酸素が喉を通り抜ける音の振動と粘膜への刺激、鼻孔を擽る好ましい体香と控えめなオードパルファム、スーツ越しにそっと掴まれた腕から伝わる柔らかで心地好い手の圧覚と体温の熱感、様々な心地好い感覚が一気に脳へと流れ込んできた酩酊感に堪えながら、無意識のままに車のドアの前で立ち止まり呆けていた私のすぐ傍らに知らぬ間に近寄り、しげしげと私の顔を覗き込んでいた男の諫言に、条件反射で反論を返してやる。
     出勤してから滞りなく『治療』をこなす為に神経を尖らせオートマチックに動き続ける挙動と引き換えに、余計な受容を遮断していた五感が体に馴染み息を吹き返す変容に慣れるまでに数秒を要したのが仇になったか、過保護な恋人に投げた憎まれ口への返事の軽口に仄かに滲んだ心配の色が、情けなくも蟠る心地で眉を顰めた。
     よろけても困らないようにといった風に添えられていた獅子神の手を、ぶんぶんと大仰に腕を振って解き、ドアを開けろと促して顎をしゃくると、年嵩の恋人の子供染みた反抗の仕草に好ましげに頬を緩めてしょうがねえなあとぼやく声に、漸く楽になった呼吸を整え、おどけた素振りのドアマンの真似事で促された彼の巣の中へと乗り込んだ。
    「な~んか、疲れた顔してんな。ちゃんと昼メシ食えてんだよな?」
    「空の弁当箱を返しているだろう。洗う暇はなくてすまないが」
    「すまなくねぇよそんなの、何よりだよ。それより量は足りてるか?今日のスープはちょっと中華のあんかけ風にしたけど舌火傷してねえ?」
    「量は十分だ。しかしそんなマヌケなことになる訳が無いだろう、確かに熱かったが、美味かった」
     堂々巡りの思考の中で手の届かぬ解決策を幽する扉の前に太々しく横たわるジンクスやまじないなどという胡乱な言葉を使った当の獅子神は、幾日経っても用意した手ずからの料理の効果を問う訳でもなく、送迎の車中での他愛のない雑談でこうして手弁当の話題になる時でも、腹はくちたか、美味かったか、和洋中ではどの汁物やおかずが特に気に入ったか、などという心遣いや質問ばかりを寄越し続けた。
     今日も昨日と変わらぬ他愛のないやり取りに何事もない素振りで答え続けていたものの、目配せや呼吸、表情や仕草などには寸分たりとも出したつもりのない蓄積された不穏の欠片は、既にまったく気の置けない場所として認識した、ささやかな振動が眠気すらも誘う程になった獅子神の車の中では先に取り繕った甲斐も無く色濃い疲労の影として表れてしまったようで、私の彼に対してだけ覚えるようになった過去に覚えの無い様々な情動については妙に常よりも敏く鋭く嗅ぎ分ける子狐を誤魔化し切ることは叶わず、物言いたげな視線を受けながらに小さく溜息を吐いた。

     安全運転が過ぎる恋人の車中でこちらが転寝を始めるのに合わせて供される小さな死のような常の穏やかで優しい沈黙とは裏腹に、様々な感情から発せられる匂いや鼓動の落ち着きの無い調べを背景音楽にして、半ばほどまで落ちていた瞼を静かに伏せる。
     何か重要な事象を見落としている予感、眠気と共に本能と理性の狭間の創傷からぞろりと這い出してきた予感などという愚かで不確かな要素を切除して縫合し、恋人から受けるであろう質問や小言への応対について考えを巡らせている内に、不意に瞼の裏側にまで届いた夜にはそぐわぬ眩い明るさに、眉間に皺を寄せたままに薄く眼を開ける。
     幾度か見た覚えのある車庫のセンサーライトの灯りが光源だと確認し、思索に耽る間に私の自宅ではなく獅子神の家に辿り付いたのだと理解してその意図を問うように軽く首を傾げて見せるも、痺れを切らした様子の恋人は誘導した行き先の変更については答えることはなく、エンジンを切った静かな車内でとうとう本題についての追及を受けることとなった。

    「……なあ先生、弁当は完食してくれてるし不味いって訳でもなさそうだけどよ、何か負担になってるだろ。毎日弁当が有るのは気負ったりするか?食う暇ない時は普通にそのまま残してくれて全然良いんだけどよ、オメーはそういうの気にしてくれそうだし…」
    「負担な訳ではないが、気掛かりなことがあると言えばある。顔や態度に出したつもりはなかったんだが」
    「だってもうここだと気が張ってないっていうか、すっかり油断してんじゃんお前、嬉しいけどさ」
     日頃から仲間内のささやかな悪戯を目敏く見付けたり無様に出し抜かれたりしては憤り叱る茶番も楽しんでいる節のあるこの男は、それが自分のテリトリーで恋人となった私のすることとなればより一層と喜色を露わにし、こうして二人きりで過ごす時間では形ばかりの渋面すらも見せずに、己の縄張りにすっかりと馴染んだ私の傍若無人な振る舞いや気の置けない態度を素直に喜ぶのだから性質が悪い。
     こうも純粋に懐に入れたが故の親密な心配りで身を案じて訊ねられては、無暗につまらぬ意地を張って隠し立てする気も削がれてしまう。
     可愛らしくも小憎らしく口端を吊り上げる、どこか誇らしげで得意そうな笑顔にこちらが逆に渋面を返し、未解決のままで抱えた憂患を明かすことにした。
    「あなたの心遣いが、いつか損なわれる時が来るのが心苦しかっただけだ」
    「……どういうことだ?」
    「あなたの『まじない』のお陰で私はあれ以来、一度も急患に昼食を邪魔されていない」
    「えっ、すげえ!そんなことあんの?」
    「何を言う、そう願ったのは誰だ?」
     人の子を祝福した神、呪いを請け負った悪魔、手術を執刀した医師、その当事者が自らの仕事の成果を聞いて驚くような無責任な反応は何事かと眉間の皺を深め問い掛けの形で恨み言を紡ぐも、言い終えた後に訪れた強烈な違和感に、この願いを成就させたかったのは、させたのはあなただろうと責を問う筈の一言が乾いた喉に張り付いたまま、二の句が継げなくなる。

     この願いを、成就させたかったのは――

    「いや、そりゃ神頼みじゃねえけど、忙しいお前が昼くらいゆっくり食えたらいいなって願って作った甲斐は有ったかな?まあ食事中に何か有っても良いように魔法瓶のスープジャーとレンジ対応の弁当箱にしたんだけどさ、そっか、ちゃんと食えてるみたいで安心したぜ」
     臆面もなく私を気遣った願いを捧げたと認めながらに、カップ麺に湯を注がなくとも、呪いの手弁当を持たせようとも、日々変わらずに急患は来たという至極当然な前提での気遣いをはにかむような笑みと共に告げる明るい声に軽い眩暈がする。
     深層の意識に掛けていた被覆を食い破り、解決策が封じられていた筈の扉をすり抜けて、ひょこりと顔を出したのは、人を誑かす気も悪意も持たない可愛らしい子狐の姿で。

     齎されたこの奇跡が、まじないが、途切れないようにと願っていたのは、私だった。

     急患が発生しやすい曜日や発生した時間を統計し確率を考え、周囲の医師や看護師、患者や来客の視線や会話に耳を傾け、細心の注意を払って方々から細やかなサインを拾い上げ、普段は何ら気を配る必要もないことの為に膨大な情報を処理して、食事の邪魔をされない時間の確保に勤しんでいたのだ。
     すべては無意識のままに、私の為に恋人が捧げてくれた幸福のジンクスを壊さない為に。

     これは疲労が蓄積する筈だと、漸く腹落ちした。
     憑き物が落ちたように、呪いが解けたように負荷の消えた身体を、重力に逆らわず獅子神の方へと傾けると、過日や先の如くに腕を掴み支えるだけの手に不服を示しぐりぐりと額を肩口に押し付けてその胸元へと体重を預けてやる。
     早々に要望を理解したマシなマヌケが背に回した掌と擦り寄った胸元から伝わる体温と匂いに、逆毛立つような不快を幾許か落ち着けて溜息を零す。
     彼の願いの本質を横に置いて、唱えられたジンクスを叶えようとしていた徒労についてそのような仔細を伝えるのは格好が付かないという意地と、あなたの所為で要らぬ苦労をしたのだと糾弾したい不満とが綯い交ぜになった結果、詳細を端折った恨み言が地を這うような低音で唇から零れ落ちた。
    「……そうなるように調整していた」
    「え?」
    「外来の診察や作業の合間も、周囲の様子や会話や音や仕草を出来得る限り見聞きし、最も邪魔の入り辛いタイミングを統計して、十五分以上の連続した食事の時間を確保出来るようにしていたので、消耗した」
    「……スゲーけど、それじゃ本末転倒じゃねえか。ああ、もう、オメーが元気でいられるようにメシ持たせたってのによ」
     まじないを叶えるべく腐心して疲れたのだと詰る響きが過分に含まれてしまった短い種明かしの非難を聞いた獅子神に、身も蓋もない当然の指摘を受けて益々表情が険しくなるも、私の不毛な努力を嗤うでも呆れるでもなく駄々を捏ねるような物言いを甘やかした所作で背を撫でて宥め、分かり易く不甲斐ないと顔に書き記し、常の如くに自責や怒りを己自信に向けている律儀で負けず嫌いな男の表情に、込み上げる愛慕と焦燥を残し、屈辱や消沈などの不要な感情を排除して、伝えるべき芯の逸れていた思惑と事実を補足する。
    「あなたの折角の好意が、齎してくれた幸いが、私の手の中で壊れるのが我慢ならなかった。個人の手の及ばぬ事象に対してのジンクスにそんな力が有る筈もないと診断しながら、それを為そうとする心遣いを、それによって為されたのだと思いたい、その愛情を余さず受け取りたいと思って、私が勝手にしたことだ」
     自らの失態への苛立ちを鎮めて訴えた、私の欲深い内面の包み隠さぬ披歴を聞き、じわじわと緩む頬の血色に歓喜を滲ませてわざとらしく咳払いをする獅子神の仕草に、安堵に次いで理不尽にも再び湧き出す別種の反発心とそれ以上に募る愛おしさを持て余し、面映ゆく居心地の悪い沈黙に耐えて下唇を噛む。
    「……あのさ、オメー、すげえ好きじゃんオレのこと」
    「私がすげえ好きでもない相手とまぐわいを前提とした交際に応じたと思っていたのか?」
    「お前、なんかもっとこうさ……まあいいけど」
     私の告白を噛み締めた後に寄越された事実確認に、抑えていた対抗心が先立つままに威勢よく返した挑発を品の有る言い回しに矯正する事を早々に諦めた子狐は、天邪鬼な言葉の掛け合いなど些末なこととばかりに私をきつく抱き寄せ、背を抱く片腕はそのままに空く手で俯く死神の輪郭を包みそっと顔を上げさせて、額や鼻先に柔らかなくちづけを落としてくる。
     ふざけた言葉選びは捨て置いて真意だけを汲み、私の心からの正直な告白に対して、顔を見ればすべて解るような自身の素直な心象についても改めてしっかりと言葉で伝え返すことにしたらしい狡猾で真摯な獣は、熱を含む声音でもって私の耳元で甘言を弄し始めた。

    「オレの言い方がまずくてお前を余計に疲れさせちまったのは情けねぇけど、やろうとしてそれが出来るってのは怖い位スゲーし憧れる。理由が健気で可愛くて、メチャメチャ嬉しい。ありがとな。……なあ、今日はこのまま泊まっていかねえか?お疲れの先生を風呂で綺麗に丸洗いして、ふかふかのベッドでマッサージして寝かしつけて、朝はローストビーフのサンドイッチも付けるぜ?」
     大きなガレージに灯っていた人感センサーのライトが消え、非常用の小さな常夜灯だけが光源となった薄暗がりで、視覚からの情報量の減った分だけ肌をなぞる吐息と鼓膜に響く声音が鮮明に感覚器を支配する。
     自制された仄かな興奮の匂い、私の疲労を口実に部屋へ誘う賭けに出た僅かな緊張と昂揚を示す心音、魅力的な提案の内容が意識を上滑るほどに獅子神の存在だけを意識させられてしまい、妙なタイミングの良さに思わず訝しむ声を上げる。
    「あなたは本当に、呪いもまじないも使えるのではないだろうな」
    「呪いや魔法みてーなことができんのはオメーの方だろ、神頼みしたつもりのジンクスが死神に叶えられちまうとは思ってなかったっての」
     賭場で称される私の二つ名を挙げて茶化す男の臆病な唇が耳元から頬へと遊び、口端へとうつろう焦らすような触れ合いがもどかしく、形が良い唇をこちらから喰らってやろうと唇を押し付けると、敵も同じく獲物を喰らおうと顔を寄せていた所で、折悪く薄暗がりで前歯の当たる不器用な接触の格好の付かなさに盛大に顰めた顔の筋肉を、喉の奥で笑う声音と共に頬を揉み撫でる掌に解され、その指先が眼鏡のブリッジを抓み引き下ろす手馴れた所作に文句を言おうと開いた口を、そのまま楽しげに弧を描く唇で塞がれてしまった。
     汗の量や匂いや分泌物質は体調や緊張などを反映して変動するものだが、唾液もまた興奮や恐怖などの心理的、身体的な急性の負荷によって成分が変化するとの論文を読んだことがある。その機会も興味も無かったが故に確かめたこともなかったが、この上ない好機に味覚も嗅覚も形容し難い馥郁とした甘美さに満たされてしまい上手く診断が付けられないのは、獅子神が思い出した風に合間に息を衝かせる頻度が柔らかな熱の交歓に耽溺する私の希求に合わせられていて、私の脳が酸素を求める間隔よりも少ないせいか、それとも――
    「……なんか余計なこと考えてんな?」
    「この行為について、考えていただけだが」
    「あと、こんなことにばかり妙に勘の良い、とか思ってんだろ。こういう時だけわかりやすいんだよオメーは」
    「私の考え事が気になるのなら、もっと余所事になど意識が行かないようにすればいい」
    「ッ……、オメーはなあ、オレがギリギリで格好付けてんのわかってて言ってんだろ。……本当に知らねえぞ、どうなっても」
     拗ね呆れた風な口調とは裏腹にどこか不遜な、私の内を緩やかに暴く歓喜と期待を隠しきれず煌めく瞳に湛えて懐こく下がる眦に、いつでもわかりやすいあなたに言われたくはないと返そうとした反論を、思い直して我慢強く紳士な恋人を煽る台詞に差し替えてやれば、案の定にストレスと情欲の色を濃くして無遠慮に不穏な眼差しを向けてくる子狐に、望むところだと満足気な笑みを返してやる。
     彫像の如くに立派な造りの力強い体躯に軽薄で甘ったるい雰囲気の端正な顔を乗せた男が、日頃の間の抜けた楽しげな眼差しとも、賭場で見せる酷薄で陰湿な眼とも違う、見覚えの無い据わった深海の紺碧を湛えた瞳を向けて寄越す最終通告のような忠言の低音に、怖気にも似た感覚が背を駆けるのに堪らず身を震わせ、得体の知れぬ勝負事と感覚を一先ずは遠ざけようと視線を反らし、切っ掛けとなった品の話題へと聊か強引に話を差し戻した。

    「……来週は、スープは要らん」
    「……ん?学会とか出張みてーなのあるのか?」
    「通常業務だが、もっと急患が来てくれなくては専攻医に割り当てられる処置が少なくなって腕が鈍る」
    「お前、それ自分で時間調整してたって言ったろ!関係ねーじゃん、オレの弁当の有無は」
    「いや、統計するに何故かここ暫くの急患の件数自体が普段より少なかった。それにあなたの弁当をトリガーにして緊急のオペを回避しやすい勤務サイクルが出来ていたので、一度リセットしてまた手術と手弁当を心置きなく楽しみたい」
    「え、マジで効いてたんじゃんオレの弁当」
    「まじないやジンクスには他人の運や環境に干渉する余地も能力も無いので、あなたの厚意とは無関係にこれはただの偶然だが」
    「そこは有難がれよ!あと医者が病人の増加を願うなよ…」
    「手術の件数自体は増えた方が喜ばしいし、病気や怪我は避けたいと願っても発生するもので、それならうちの大学病院に搬送された方が救命率が上がる」
     昼食時間の確保とは別に、救急搬送は心持ち減っていたとの事実を明かすと、途端に本人も本気で信じていた訳でもない自らのまじない故の手柄ではないかと今更に主張する獅子神の不可解な反応に首を傾げてしまう。
     私が彼の手料理に込められた愛情以上の効能をジンクスとして信じ込んだ要因の一つにはなったかもしれないが、と言い添えてやるか思いあぐねている間に、呆れ顔で笑う獅子神は私の話題転換の搦め手を躱してするりと車から降り、後部座席の荷物を回収して颯爽と助手席のドアを開け放った。

    「まあ、それはいいじゃねえか、偶然でも効果が有ったんだろ?なんかスポーツ選手が魔物とか妖精のせいとか言うやつみたいなのだろ?」
    「それは前にも言った、自己暗示によって潜在能力を発揮したり、逆に緊張による負荷で体調や身体能力に悪影響が出るようなもので……」
    「じゃあその自己暗示で良いや、一緒に信じようぜ、オレとお前で何の問題もなく、楽しくて充実した夜を過ごせる。な?そういうおまじないだ」
    「……」
    「そうそう、先生は目を瞑っててもオレのねぐらまでは歩けるんだろ?冷えて来たし、部屋に入ろうぜ」
     グラスコードに吊られたままの眼鏡へと伸ばした指を、立ち上がるのを手伝うように差し出された手に掬われ引かれるがままに自然な流れで身を任せて降車し、往生際悪くまじないの効能を語る獅子神に完全に混ぜ返し遠ざけたと思った方向へと話を戻され、強張る首の筋肉をぎこちなく動かして顔を上げ沈黙を返すと、金色の獣を眇目に見遣る私のぼやけた視界いっぱいに近付いてきた子狐に、おどけた調子で巣穴に誘う口上と共に掠めるように唇を浚われる。
     賭場に居る時よりも色濃く匂い立つ緊張や動揺、興奮や歓喜の香りとは裏腹に、子狐の無駄に熟れた獲物を招き入れる手管に妙に腹が立ち、こんなことにばかり敏い上に、こんな時ばかり饒舌な、と顔面にありありと書き出してとびきりの不服を示した表情で威嚇し、不埒な呪いの成就を阻止しようとするも、その顔はまだ見たことなかったな、などと呟き興味深げに観察した後、何故か整った顔がふやけるほどに相好を崩した男に腰を抱き寄せられ、渋々と歩み出す歩調まで合わせられてしまう。
    「弁当が無い分、朝メシは豪華にするから楽しみにしとけよ。あとオレまで変に緊張するからあんま堅くなんなよ、添い寝の延長くらいにしとくから……いてっ」
    「充実したと言うからには、夕飯も豪華にして貰おう。肉は有るんだろうな?」
    「テンダーロインな、ちゃんと買ってある」
     手慣れたエスコートに募る屈辱と憤りを、軽い足取りの獅子神の脛を蹴る乱暴な解決法で発散し、漸く留飲を下げてリクエスト通りに裸眼の視力に頼らず足早に勝手知ったる邸宅の玄関へとずかずかと大股で歩いて先に向かい、慌てて追い付いてきた家主が鍵を開ける傍から扉を引き開けて真っ直ぐにダイニングキッチンへと足を運ぶ。
     私の好みを弁えた用意の周到さには幾許か気分を良くして、小さく鼻を鳴らす音で上出来だと応えた。

     マシなマヌケの新たなまじないへの診断と評価については、明日の私に任せるものとしよう。
     
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    😭🙏💖💖💖☺😭❤💖💖💖💖💖👏👏👏👏👏💖💖💖💞🍱💕💖💗👏💖💖💖👏👏👏👏🙏🙏🙏💖💖💗💗💖
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     要するに獅子神の自家用車の中は私の自宅と近しく、ともすればそれ以上に快適に感じるようになったが故に、病院の地下駐車場でその助手席へ腰を落ち着ければ必要以上に気を抜いてしまうようになっていた訳で、つまりは乗り込んだ時点で連勤で溜まりに溜まった眠気に襲われてしまい、助手席のドアを閉めてから運転席に座した男にほんの数秒、凭れ掛かるように身を預けることになった。
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