百戦錬磨の一途な子狐に手心を加えられた件について　獅子神が私にある頃から持たせるようになった手弁当とスープに『食事時に急患が来ないように』などという呪いを掛けたお陰で、恋人からの貴重なまじないが無事に為されるべく日夜気を張り詰めて急患を避け食事時間の確保に勤しむ、という本末転倒な行動をしながらのひと月以上に及ぶ神経をすり減らす勤務の為、無駄に疲弊した私の不調を気遣われ、私の好意からの奮闘に浮かれた獅子神に労いと称して自宅へと連れ込まれたあの日。

　双方が機を見誤ったが故に互いのエナメル質が接触する鈍い音を立て不格好な形となった初めての口付けは、その後はすぐに自然に交わし触れ合えるようになっていて、事前に書籍や動画で学習していた成果は遺憾なく発揮され、恋人同士のファーストコンタクトとしては失態も落ち度もなく、一緒に何の問題もなく充実した楽しい夜を過ごせる、などと嘯いた子狐の可愛らしい二つ目のまじないをこのまま叶えてやるのもやぶさかではない、と意気揚々と彼のねぐらに乗り込んだ結果、果たして何事もないままに充実した楽しい夜は明けた。

　明けてけてしまった。何事もないままに。

　大体において獅子神が悪い。
　私を自宅へと誘った口ぶりからしてまずは一緒に風呂に入るのかと思いきや、バスローブや着替えやジェットバスやらの支度を手際よく整えた男にさっさと背広を回収されて一人暖房の効いた脱衣所へと放り込まれ、後から入ってくるのかと思えば、甲斐甲斐しい子狐は「湯船に沈んでねえか？逆上せる前にあがれよ」などと声を掛けに来ただけで、釈然としないままに風呂から上がったバスローブ姿の私をダイニングの横合いに有る小さな間取りに置かれたソファへと誘導し、パジャマへと着替えさせ。
　ソファの向かいに配信者が勝手に設置していったサウンドバー付きの大型テレビ画面に映る海外のネイチャー番組を眺めながら、オレンジジュースを飲んでいる間に髪を乾かされ。
　風呂に入っている隙に下拵えされていた美味い食事にあやかり、デザートまで平らげ、そそくさとシャワーで汗を流してきた獅子神といよいよまぐわうのかと、疲れた脳に染み渡った糖分を解糖しながら鉛のように重さを増す瞼をどうにか強い意志で持ち上げて待っていたというのに、至れり尽くせりの歓待はまだ終わっていないとばかりに、駄目押しのマッサージが待っていた。
　獅子神の洗い替え用の物であろうだぶついたパジャマの袖を捲りつつ座して待ち、全く同じ品を着て戻った獅子神がベッドに腰掛けるのを出迎え、今一度柔く唇を食み合うまでは良かった。
　気付いた時にはシーツの上にうつ伏せに転がされ、つま先から脹脛を辿り太腿に、腰から背中にとゆるゆるとした指圧を受け、未知の触れ合いへの期待と僅かな緊張感ごと丁寧に、いや執拗に解され、筋肉の凝りも意識も心地好く融かし落とされて泥のように寝落ちた私は悪くない筈だ。

　翌朝、知らぬ間に寝床を抜け出した獅子神がすっかりと身支度を整え、何事も無かったような素振りで朝食の支度が出来たとはにかんで告げる甘い声を聴き、私は激怒した。
　何故起こさなかった、シャワーを浴び服を着替えシーツを取り換えただけで誤魔化せると思ったのか、どういう心づもりで一人で処置したのかとすっきりした顔の男を問い詰めると、どうやら気遣いのつもりで昨夜の行いを秘匿していたらしい獅子神はあっさりとそれを看破されたことに驚き慌てながらも照れたように取り繕い「気にすんなって、疲れてたんだろ？オメーが気持ちよさそうにオレの隣で寝こける顔を見られただけで満足だし、いやそれも興奮したとかそれは置いといて、とにかくオレも昨日は嬉しかったしさ」などと自白交じりに私の性欲の存在を無視した見当違いの労いを寄越して視線を泳がせた。
　嘘は無いが、嘘が無いだけに始末が悪い。このお人好しはそもそも自分を大きく見せんとして鍛えたのであろう屈強な体躯や粗暴な口調にそぐわず非常に面倒見がよく、気の無い相手にも親切で、賭場の真似事をしていたマヌケに負けた見知らぬ被害者にまで学生証を返して回ったり、すっかり顔馴染となったギャンブラーどもにも何くれとなく世話を焼いたりしている。
　こんな調子では、一夜だけの行きずりの相手や、所謂大人の付き合いをした相手すらも手放しに歓待して甘やかし、グルーミングを施して、期待や勘違いをさせてきたのではないか。
　考えるだけで何故だか無性にむかむかする。この人の好いマヌケばかりが損をするのは、健全で正しい人付き合いとは言えないからだろう。
　私はこの男と、平等で、対等で、健やかな付き合いをしたいと思っている。
　そして健康とは、心身の均衡が取れていることだ。
　過度の献身や労働は身を蝕む。何事も偏っているのはよろしくないことで、日中は過保護なほどに私に対して世話焼きを発揮する獅子神は、夜ともなればもっと私からの奉仕を引き出し余さず享受すべきなのだ。
　だというのに、私の気も知らずに「こういうのはこういうのでいいもんなんだよ、まだわかんねーだろうけどその内にわかるようになる、いやオレがわかるようにするからさ」などと宣う子狐の励ましの追撃は余計に私の神経を逆撫でた。
　対等な関係とはいえあなたの方が年下だろうに、一丁前に兄貴のようなことを言う。更にあろうことか、私にそれをわからせるとまで言う。気恥ずかしげに視線を右斜め上へと逸らしながら何を想像しているのか。助平め。
　確かに未だその筋についての機微に疎くはあれど、獅子神の感情が言葉通りに嘘偽りなく充足し十分な喜びを得ているのは、私にだってわかる。元より相手は体温や発汗や表情などの生体反応を偽るのがそこまで得手ではない、人間らしい男だ。ただ、それとは別に、事に至るに及ばず蓄積したごく微細なフラストレーションや、残り火の傍で儚く踊る灰のように燻る様々な欲の紛体に至るまで、私にはわかってしまうのだ。
　だからこそ、どうにも不甲斐ない気持ちに襲われる。
　実際このような艶事については、この色男の方に一日の長があるだろう。昨日は連勤明けの仕事帰りで殊更に消耗していたことを横に置いても、体力でもこのマシなマヌケより聊かに劣る遺憾な事実も認めよう。ギャンブルは私の方が強いが。

　とはいえ、この私が！　手心を加えられるなど！

　この男は私との何事もなかった夜に心から満足しているが、本能に制御された身体的な欲求については軽度の消化不良の徴候を示しており、その獅子神の中に凝ったものを切除し獅子神の肉体を満足させたのは、私ではなく獅子神本人であった。
　この男が私への愛情と遠慮をもってして、余裕有る者からの施しとして斟酌し、私がその役を罷免されたからこそ、このマヌケな夜明けを迎えてしまった訳だ。
　実体験としては未知の分野であり、心遣い故だとは理解しても、まぐわうどころか前戯の段階にすら至らず、一方的に与えられた上に満足な治療を施すことも出来ずに、獅子神の感情を満たしても肉体を満たせなかったのはひとえに私の不甲斐なさ故であり、早々に雪辱を果たし獅子神をめくるめく快楽の海に沈めることが出来ないとなれば、私の沽券に関わる。
　次の機会には何としても獅子神の師であり恋人でもある私が責任を持って引率し、互いに心身共に充足するという目的を遂げさせてやらねばならんだろう。

　幸いなことに、私にはその悲願の成就に至るだけの有用な手がかりを持っている。

『軟体美人ヨガインストラクター密着個人レッスン☆アクロバティックな体位で快楽絶頂サマーディ』

　私が体力づくりの為にヨガでも始めるかと気軽に呟いたある日、これでマウントできるとばかりに医者の不養生と日頃の運動不足を散々に揶揄ってきた獅子神は、機嫌を損ねた私の様子に満足したのか見兼ねたのか、親切なことに成分の確かな製薬会社製品のプロテインを土産に持たせ、初心者向けヨガ講座の本や動画チャンネルなどを紹介してきた。
　そしてその晩にはこのような上級者向け且つ破廉恥な動画を視聴していたことを、確かな筋からの情報によって確認している。
　更にその翌日、ヨガは三日坊主になっていないかと茶化すように訊ねる際に、ほんの微かに発露していた昂揚のサインと、真っ直ぐに視線を合わせる私の眼差しから逃れるように後ろめたさを孕んで揺れた視線から導かれる答えは一つであり、この映像作品が獅子神の夜の友になったのは明白で、つまりはこの教材のシチュエーションを参考に私に征服されたいという獅子神の隠された切なる願望に他ならないと診断して間違いないだろう。

　まったく持つべきものは、パソコンの扱いとネットでの情報収集に長けていたり、隠しカメラの扱いに慣れており趣味が観測だったり、何事も面白がり計画を露見させずに賛同してくれたりする腐れ縁のギャンブラーというものだ。

　かくして私はあの百戦錬磨の子狐に後れを取ることなく、年長者として最良の夜を提供し導く側となるべく、意気揚々とヨガを極めることとなった。
　先達となる美意識の高い某指導者の元へと赴いた先で、途轍もない過酷なプログラムをこなす羽目になるとは、まだこの時の私には知る由も無かった。