正直者には程遠い 今度の奴も帰ってこなかったらしい。
最初の奴は金と銀を手に入れたんだろう?
一体何が違うんだか。
恐ろしい。恐ろしい。
物置の陰にてコソコソと囁かれる男たちの会話に、聞き耳を立てる少年が一人。
「もし。そのお話、私にも教えてもらえませんか?」
男たちは目を見合わせて、それから何やら気まずそうに頭を掻いたり、腕を組んだりした。
「別に話してやってもいいけど。『試したい』なら勧めないぜ」
「あぁ。もし兄さんにこれで何かあっても、って、ンッ? もしかして魔王討伐の旅をしてるっていう勇者様じゃあ……」
男たちは少年を上から下までジッと見つめた。昨日この村に勇者一行が辿り着いたという話はすでに村中が知っているが、実際に会ったのは村長とごく僅か数人だけ。屈強な戦士、可憐な女僧侶、高齢の魔法使い、そしてなかなか美形の少年勇者だという噂だけが広まっていた。
「アハハ、はい一応」
「やっぱり! そうか、勇者様なら話してもいいだろう! 実はこの森の中にある不思議な泉の話なのですが──」
◇
森が深くなる方へ進み、三本杉を見つけたら道から外れて北へ向かってしばらく行く。二つ並んだ大岩の真横を東へ進み、少し歩くとその場所はあった。透明な氷のヴェールを潜り抜けたかのように急に空気がスッと冷たくなる。明確な違和感にアバンがキョロキョロと周りを見回せば、木々ばかりと思っていた場所にさほど大きくない泉がいつの間にやら現れていた。
「ほう、これがその不思議な泉!」
アバンは泉を覗き込んだ。生き物の姿は見えない。意外に深いのか、底も見えはしなかった。
「村人たちの話では、何かを投げ入れると泉から精霊のようなものが現れるという話だったが……。さて、どうするか」
泉自体は昔から存在していて、ごく普通の泉だったそうだ。しかし最近になって、精霊らしきものが現れたと噂になったらしい。
噂はこうだ。泉に何かを落とすと精霊が現れ、落としたその物ではなく金製や銀製の物をくれたり、もしくは落とした物の上位互換などを贈ってくれる──と。
しかし、それを利用しようと欲を出して泉へ向かった数人が、どうやら戻って来なくなっているらしい。
「村人らはわからないと言っていたが、得をした者と消えた者には何か違いがあるのだろうか。精霊の気まぐれか、それとも何か規則性が?」
アバンはぐるりと泉の周囲を見渡し、注意深く辺りを調べた。けれど、特におかしい所も無い。
「やはり試さないと駄目ですねえ。うーん、一度村に戻ってロカ達を連れてきた方が良いかな。精霊ではなく魔物の可能性もあるし」
一人で踏み込んだ真似をして負傷でもすれば、また仲間達に心配をかけてしまう。一人で全部抱え込むな、と本気で怒られることだろう。アバンはむず痒そうに肩を竦めて、けれどどこか嬉しそうに微笑みながら泉に踵を返した。
声がしたのは、ちょうどその時だった。
「一人で散歩とは随分と不用心だなあ? アバンよ」
腹の底から冷えるようなおどろおどろしい声にアバンがハッと振り返れば、泉を挟んで向こう側に大きな黒い人影が揺れるように現れた。
「ま、魔王ハドラー! なぜここに!」
「なぁに。期待の勇者様がなかなか来ぬものだから心配になってな? まさか魔王には敵わぬと知って泉に身投げでもする気だったか?」
ハドラーはクックッと牙を見せ笑っている。その表情に、アバンは剣に触れながらゴクリと重たい唾を飲み下した。
「まさかここでの失踪事件、全ておまえの仕業なのか?」
「失踪事件? そうか、貴様はそれでこんな奥地にいたのか。しかし残念だがオレは知らん。そんなことをチマチマするとでも?」
ハドラーはヒョイと高く飛ぶと、泉を軽々と越えてアバンの前に降り立った。
「小さな事件に振り回され、魔王を蔑ろにするとは。全く良い度胸をしているな」
「くっ……! バギ!」
「遅いッ」
アバンの放ったバギは、ハドラーに避けられ足元の土を抉った。
「バギ! っ、バギ!」
「何度やっても当たらんわ」
まるで余裕を見せつけるかのように次々と呪文を避けるハドラーに、アバンはついに斬りかかった。ニタリ、口角を上げた魔王は振り下ろされた剣を指先で摘むように受け止めた。──が。
「な、なにぃっ!?」
突然、ハドラーの足元がグシャリと崩れた。なかなか当たらないかのように思われていたバギだが、実は最初から狙いは魔王ではない。計算して地面が崩れるように土へ当てられていたのである。
「落ちろおぉっ」
「くそおおぉっ!」
踏ん張る土台が無いので、そのまま剣に押されたハドラーは雄叫びをあげながら泉へと落ちてしまった。大きな水飛沫と波が立ち、泉全体がザブザブと揺れている。
「ハァ……、咄嗟の事とはいえ失敗した。この泉にはもっと慎重になるべきだったのに。ん?」
突如、泉が眩く光りだした。ハドラーの反撃だと思ったアバンは咄嗟に泉から離れたが、目の前に現れたのは魔王ではなく人型に近い発光体──恐らくは件の精霊であった。
「其方が落としたのは」
精霊が左腕を上げる。すると、泉の中からまるで引き上げられるようにしてハドラーがヌウッと現れた。
「この、武人を極めた結果スパダリ紳士化した魔王か?」
「は? ス、スパ……?」
「違うか? ではこの、S気質・富・名声を手に入れたスーパー攻め様な魔王か?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
驚くことに精霊が右腕を上げると、今度はもう一体ハドラーが上がってきた。二人のハドラーがゆっくりと瞼を開ける。彼らはアバンを見下ろすと、各々違う反応をした。
「バギによる機転、敵ながら見事だった。流石オレの勇者、そうでなくてはな」
そう言って満足そうに頷くのは、スパダリと呼ばれた方の魔王で。
「アバン貴様、どうやらお仕置きがされたいらしいな」
そう言って腕を組み意地悪そうな笑みを浮かべるのは、スーパー攻め様と呼ばれた方だ。
見た目は二人ともまるっきりハドラーそのものなのに、醸し出す雰囲気や言葉がどうも本人に思えない。そして一つの仮説が浮かぶ。この魔王達は、単に増えたわけではない。金や銀のように、精霊が造り出した別人格のハドラーなのかもしれないと。
「さぁ、其方が落とした魔王はどちらだ」
「お言葉ですが、どちらも私の落とした男とは違うみたいです」
「よろしい。正直者の其方には、落とした魔王も含め全てをやろう」
三人目の魔王を泉から引き上げ、精霊はパッと消えてしまった。
最後に現れた魔王はゲホゲホと水を吐き出しながら、アバンをきつく睨み上げる。
「貴様ァ!」
恐らくこれがオリジナルのハドラーなのだろう。怒りに任せてアバンに腕を伸ばしたが、その腕は二人のハドラーに掴まれ止められてしまった。
「な、なにぃ! オレが二人!?」
「喚くな。突然掴み掛かろうとするなど武人の風上にも置けない愚行」
スパダリの一言に、オリジナルハドラーは目を白黒させながら言葉を失っている。
「フン、おまえらもう散れ。これはオレの勇者だ。さぁ、来いアバン」
攻め様がアバンの肩を抱き、当たり前のように引き寄せた。
アバンはといえば、予想外の出来事に固まってしまっていた。魔王が三人に増えてしまった段階で、恐れるべき最悪のパターンはこの三人が手を組んでこの世界の征服を行うことだった。となるとアバンがやるべきはこの三人を敵対させ、分裂させるよう誘導すること。もしくは、できるか否かは定かじゃないが泉の精霊に返却すること。
「散れ、だとお? 偽物の分際で生意気な!」
「ならばこれでどうだ。10万Gある。頭金だ。アバンから手を引くというなら100万は払おう。さあ散れ」
攻め様はどこからかゴールドの入った袋を取り出し、それをオリジナルの前にちらつかせた。提示されたとんでもない額に、さすがにその場にいた全員の表情が引き攣る。
その様子を見て勝ったと思ったのだろう。攻め様は再びアバンを引き寄せ直すと、その両頬を指で鷲掴んでニヤリと満足そうな顔をした。しかし、
「アバンを物扱いするな」
攻め様の手を退けたのはスパダリだった。彼はそのままアバンの前に立つと、落ち着いた声色で問い掛ける。
「アバンよ、共に来てくれ。オレはこの世界の征服に興味は無い。ただ己の強さを高めたいだけ。そのためにおまえの存在は不可欠だ。我が永遠のライバルになってはくれないか?」
世界征服に興味が無い。
その一言に仰天しつつ、アバンがこの男の話を信じても良いのか量りかねていると、攻め様がすかさずスパダリを牽制した。
「こいつはオレのだ! たとえおまえも魔王であろうと連れ帰ることは許さん」
「待て、私は誰かの所有物ではない!」
「なに? オレに求められて嫌がる者など今までいなかった。アバン、面白い奴……! 一層欲しい!」
アバンの返事に何やら火が点けられたらしい攻め様と、それを見てやれやれとこめかみを押さえるスパダリ。
その後もやいのやいのと言い合う己の姿に、ついにオリジナルハドラーが拳を震わせて牙を剥いた。
「貴様ら! オレの見た目でサムいことばかり言うなァーーっ!」
声を荒げたオリジナルがイオラを撃ち放つ。スパダリはすかさずアバンの前に立ち、腕一本で呪文を弾き落とした。
「怪我はないか、アバン」
「え、あっ……はい」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、アバンはスパダリを見上げる。他の魔王よりこの男だけ多少マシかもしれないと感じてはいたが、まさか守られるとは。姿形は同じだが、別な人物なのだと改めて見せつけられた気がして、アバンは漸く初めて彼の瞳をしっかりと覗いた。真っ直ぐな視線が勇者を射る。
「余計な真似をしたか? おまえなら避けられるとは思ったが、オレはこういう卑怯な不意打ちが嫌いでな」
「いえ、助かりました。ありがとうございます」
見つめ合う二人の周りに、何やらキラキラしたものや花まで見えてしまいそうで。オリジナルはギリギリと奥歯を噛み締め、吠えるように叫び散らした。
「えぇい! オレの姿で勇者を守るなど! 見てられん、死ね!」
オリジナルハドラーの拳から、今度はベギラマが放たれた。しかし、
「オレの手を取らず、他の男と見つめ合うとは。……アバンよ、調教が必要だな」
アバンらの前へ急に出てきた攻め様が、同じくベギラマを出し、それを相殺してしまった。
「支配に興味は無い、己の強さを高めたい、か。狭い世界で最強になりたいならそれも良かろう。しかしオレは違う!」
攻め様はスパダリの方へ向き直り、重い拳を振り抜いた。ガードされるたび、力と力がぶつかり合う衝撃がビリビリとアバンの肌へ伝わっている。
「オレはこの世を支配し、勇者をも手に入れるのだ! アバンもそれを望んでいる!」
「なっ!? 望んでなどいない!」
「強がりおって。まぁ、あとでじっくり体に聞いてやる!」
「アバンにそのような愚劣な真似はさせん!」
その頃、ベギラマを相殺された上、どうしてか居ない者扱いされてしまったオリジナルは、わなわなと肩を震わせていた。
「い、意味がわからんぞ! このオレを無視してオレ同士がアバンを奪い合って戦い、サムい台詞を並べ倒して……! なんだこの状況は!?」
バチバチと呪文同士がぶつかって、強い衝撃と光が木々の間を走ってゆく。拳と拳が当たる音は激しく連続し、周囲にいた鳥や動物達は怯えて早々に逃げてしまった。
スパダリと攻め様の様子に、オリジナルハドラーの心は複雑である。強い怒り、一抹の恐怖、そして若干の恥ずかしさ。
ふとアバンの方を見やれば、彼もまた複雑そうな表情をして、そしてハッと魔王からの視線に気が付いた。
「ハドラー、やめさせましょう! このままでは森が壊れてしまう!」
戦いに夢中になる二人の死角をうまく走り抜け、アバンはオリジナルハドラーの腕を掴んだ。
「何故オレが! 森などどうでもいいし、元はといえば貴様がオレをあの泉へ落としたせい。助けてやる義理など」
「ならば奴らが私と、か……体の関係……になってもいいのか?」
体の関係、のところはややゴニョゴニョと口籠もり気味だったが、ハドラーをギョッとさせるには十分だった。
「いくらあいつらがおかしい奴らでも、まさか」
「一人はともかく、一人はさっきから調教とか体に聞くとか意味深なことを言っている。ほら、いいのか? おまえと同じ姿の者が私を辱めるなんて、耐えられるのか!?」
ずいずいと迫ってくるアバンの顔からつい目を逸らし、ハドラーは一瞬想像した。
いつも強気で正義面をするアバンが、己と同じ顔をした男に組み敷かれ、乱され、感情を知られぬように顔を手で隠しながら声にならぬ声をあげる惨めで扇状的な姿を。己と同じ顔が勇者を汚して悦んでいる、その情けない姿を。
「〜〜っクソがぁ。今だけだ! 今だけ手を貸してやる! で、策はあるんだろうな」
耐えきれなかったらしいハドラーが苛立った声をあげる。その様子にアバンは頷き、まるで仲間へやるようにパチッとウインクを飛ばした。
「耳打ちします。屈んでもらっても?」
「簡潔に話せよ」
「はい。って、結構屈んでくれるんですね。あー、なるほど耳はここか」
「簡 潔 に、と言ったはずだが?」
「すみません、つい癖で。まずは……」
結論から言うと、ハドラー同士の激戦を止めたのはハドラーによるイオナズンだった。
極大呪文はその威力の大きさから、基本的に距離を取る必要がある。そのため、アバンを意識してか狭い範囲で戦っていたスパダリと攻め様は、小さめの呪文を織り交ぜた素手喧嘩でやり合っていた。そこへ放たれる、オリジナルハドラーのイオナズン。戦いに夢中になっていた二人がイオナズンで相殺することはまず考えにくい。やるとすれば、
「「イオラァッ!!」」
スパダリと攻め様がイオナズンに気付き、驚くべき反射速度で二人同時にイオラを繰り出した。土煙が舞い上がる。呪文は相殺したものの、草が燃え尽き地面は割れてしまっていた。
「一対一の戦いに水を差すとは……」
スパダリがオリジナルをまるで汚い物でも見るように睨みつける。
「うるさいッ! 今度こそ喰らえ、二発目だ!」
二発目のイオナズンが撃ち放たれる。今度はスパダリと攻め様も対抗してイオナズンを撃った。爆裂同士がぶつかり合い、バチバチと聞いたこともないような轟音が森中へ鳴り響く。
極大呪文が三つぶつかったエネルギーは、周囲の木々さえも容赦なく薙ぎ倒すほど。自ずと、一人に対して二人が撃つような状況になっているのだが、さすがのハドラーも二人分のイオナズンを受けているためどんどん押され、その額には脂汗の粒が浮いていた。
「グ、ヌウゥ……ッ! やれ、アバン!」
「いきますよぉっ、海破斬!」
イオナズンを撃ち続けているスパダリと攻め様のすぐ近く、突然アバンが飛び出してきて二発のイオナズンを横から剣圧で断ち斬ってしまった。
「そして、大地斬!」
急に呪文が斬られて目を丸くするスパダリと攻め様の足元へ、大地斬が振り下ろされる。すでに割れていた地面は簡単に砕け、崩れて大きく揺れ傾いた。
「今だ、ハドラー!」
「貴様が合わせろ!」
「「ベギラマ!!!!」」
アバンとハドラーが唱えたベギラマは、ほぼ同時にスパダリと攻め様を捉えた。地盤が崩れたせいで飛び上がるタイミングも無かった彼らは、両方からのベギラマを避けることもできず、そのまま呪文に押し込まれてザブンと泉に落ちてしまった。つまり、最初にハドラーを泉に落とした時と大体同じ方法で、彼らをもう一度落としたのである。
「……成功した!」
「当然だ。このオレに極大呪文を二発も使わせたんだ。それも囮として。失敗など許すものか」
「仕方ないだろう? あの二人の気を引くだけの囮は極大呪文しかない。しかもイオナズンは全体攻撃、私は離れるのが最適解だ」
そしてそのためには二人分のイオナズンを一手に引き受けなくてはいけない。そんな恐ろしいことを二つ返事で承諾したハドラーの度胸に、アバンは内心関心してしまう。やはり伊達に魔王を名乗っているわけではないのだと。
「海破斬で極大呪文が斬れるかどうかはかなり賭けでしたが、やはり長く撃ち続けると弱まってくるもの。上手くいったのはひとえにあなたが耐え抜いたお陰です」
微笑むアバンの柔こい目元にむず痒さを感じ、ハドラーは舌打ちして顔を背けた。
カッ、と泉が再び光る。
煌めく水飛沫に包まれて、泉の精霊が再び姿を現した。
精霊はアバンの方を向き、首を傾げるような動きをした。
「其方が落としたのは……、これは先程我が贈った二人。要らぬということか」
「ええ。申し訳ありませんが、この男は世界に一人でいいのです」
「しかしそれでは我の決まりに合わぬ。正直者には褒美をやらねば」
決まりという言葉に、アバンはやはりこの泉に法則があるのだと理解する。
「でしたら代わりに、少し前にここに落ちた・或いは決まりに則って引き込んだ者などがいれば返してもらうことはできますか?」
「わかった、叶えよう」
精霊が両腕を掲げると、泉から三人の人間が浮かび上がった。アバンが駆け寄る。彼らは皆、気を失ってはいるものの呼吸はしているようだった。
「泉の精霊様、感謝します」
「構わぬ。しかし結局、其方はこの魔王を選んだのか。他の魔王らは其方を好いていたろう?」
ハドラーが、居心地悪そうな様子で精霊を睨む。まるでその話はこれ以上するなと言いたげに。しかしその視線に気が付くほど、精霊というのは空気の読める存在でもない。
アバンはといえば、どう返事をして良いかわからず、タハハ、と愛想笑いを浮かべるばかりだ。
「あぁ、そうか。其方はそもそも魔王に好かれることを望んでいないのか」
愛想笑いを精霊はそう捉えたらしい。
何となく不愉快な会話に、ハドラーはいよいよ文句の一つでも言ってやろうと面を上げる。しかしそれよりもアバンの方が早かった。
「そんなことはありません! 確かにこいつは人間の命を軽んじる邪悪な男。けれど卑劣ではないんです。そういう魔王としての威厳や心意気、あと外見と声に関しては、私はむしろ……」
そこまで矢継ぎ早に語って、アバンはハドラーがポカンと口を開けていることに気が付いた。慌てて言葉を飲み込み、パチンと両手で己の頬を叩く。
「なるほど、其方はやはり正直だ」
精霊は納得したらしく、頷くような動きをした。そして、改めて泉の周囲を見回してその崩壊具合を確認した。地面は崩れ落ち、泉は濁り、草木は折れたり焼けたりと散々である。
「この泉はもう駄目だ。我はまた別な場所へ移るとしよう。またどこかでな、正直な少年よ」
そう言うと精霊はパッと一瞬煌めいて、跡形も無く消えてしまった。残されたアバンとハドラーの間に妙な沈黙が生まれ、誤魔化すかのようにアバンは一つ咳払いをした。
「さて、私はこの人達を介抱しないと。おまえも極大呪文を二発も使って疲れただろうし、決着は万全の状態でつけたいはず。今日は痛み分けでもいいな?」
アバンはハドラーの目の前へ立った。そしてその手を取ると、両手でギュッと握って
「でも、一応。ありがとうございました」そう呟いた。
「オレの」
「え?」
「オレの外見や声は、嫌いじゃないのか」
アバンの顔が、首や耳まで一気に朱に染まる。
「あれは勢い余って言っただけで……」
「精霊はあれを正直だと言っていたが?」
ハドラーが顔を近付けてきたため、驚いたアバンは思わず握っていた両手を離した。しかし、その手は魔族の大きな手にガッシリと掴まれてしまう。
覆い被さるように、大きな影が勇者を隠す。
「アバン」
耳元で名前を呼ばれ、不覚にもアバンの背はピクンと跳ねた。
低く重厚な声が、耳の奥で響く。さざ波の音色のように心地良い。それなのに、心臓ははち切れんばかりに高鳴っている。
息が止まってしまいそうだと、アバンは思った。ハドラーの顔はすぐ近くまで迫っている。互いの吐息がかかる位置では、もはや相手の表情もうまく見えない。
──これはまずい! 気がする!
アバンは頭をフル回転させようとするが、どうしてかうまく働かない。このままでは……。
その瞬間、気を失っていたはずの人が一人、ゆるゆると腕を動かして頭を押さえた。
「ううっ、あれ? 僕は一体」
「わああ〜っ! 目が覚めたんですねー!?」
全身をビクつかせて驚愕したアバンだが、すぐに渾身の力でハドラーの手を振り払い、その胸を突き飛ばした。
そして目を覚ました人の側へ駆け寄ると、魔王を振り返ることもなく事情を説明し始めた。まるで、今この状況から逃げるように。
ぽつり取り残されたハドラーは、そのまま何も言わずに静かにその場から姿を消した。
地底魔城へ戻る。その道すがら、己が何をしようとしていたか思い出し、血が滲むほど拳を握り込んだ。
「あの偽物らのサムい言動が移ってしまったらしい。クソッ、忌々しい。らしくないことを……」
それでもハドラーは、顔を近付けられたアバンの期待したような瞳の色を、どうしても忘れられはしなかった。
了