夏の可視光線 その日はとても晴れていて、梅雨特有のじめじめした空気を吹き飛ばすような空の色をしていた。
課題に手こずっている坂本君を待つ間、赤尾は僕を屋上に誘った。
「せっかく晴れたんだから景色いいとこで吸いてーじゃん」
とは彼女の言い分で、僕はその発想がかわいいなと思ったので素直に同意した。七月に入ったとはいえまだまだ雨の日続きで、体を動かすのが性に合う赤尾はずっと消化不良の顔をしていたから。
昼休みだけ解放される屋上は、本当は今が授業中であるせいか、他に誰もいなかった。あるいは、遮るものがないこの場所では、直射日光でじりじりと肌が焼けてしまうので、既に人気がなくなってしまっているのかもしれなかった。
「坂本まだかよー。クッソあっついじゃんここ」
「先生に付きっきりで教えてもらってるんじゃないの? 坂本くん知らないこと多いけど、あれで熱心だからさ」
さっきまでいい天気だと喜んでいた赤尾が、照りつける太陽を受けて不満で口を尖らせる。その時の気分によってくるくると表情を変える赤尾は、自由で気まぐれな猫のようだ。
そんな彼女のことを、見ていて飽きないな、から目が離せないな、に変わったのはいつからだったろう。
「教室に迎えに行く?」
「いやいー、待とうぜ。坂本にもここに来いっつってあるし」
赤尾は咥え煙草にまたカチリと火つけた。屋上にこだわらなくてもいいのに、変に意地になるところも赤尾らしい。
ピーーッ
爽やかな風にのって、どこからか鋭い笛の音が聞こえた。ぐるりと四方を見渡せば、どうやら近くの小学校で水泳の授業をやっているらしい。子供達が泳ぐたびに小さな波が生まれて、二十五メートルの水面がキラキラと輝いた。
「おっいいじゃん。気持ちよさそー」
柵から身を乗り出して喜ぶ赤尾に、
「赤尾も一緒に泳いできたら?」
なんて茶化そうとした。それが上手くできなかったのは、彼女の笑顔が眩しいのと、タンクトップのズレた僅かな隙間に日焼けしていない白い部分を見つけてしまったから。
「プールいいね〜。坂本君も誘って休みにでも行こうか」
目を逸らしつつ、我ながら逃げ腰の誘いをしてみる。赤尾は何故か呆れた顔で、
「夏休みの予定はもう決まってんぞ? 海の家でバイトすっから。お前客引きやれよ、浜辺の女全部連れてこい」
と答えた。
「えー、何それ坂本君は?」
「あいつに接客なんかできるわけねーだろ。厨房でひたすら焼きそば作らせる」
確かに。顔はいいけど、コミュニケーションが取れるか疑問だもんね。でも厨房もできるのかな? 殺しに関することは何でもできて、一般常識は何も知らない人、というのが坂本君に対する僕個人の所感だ。
「赤尾は何するの?」
「金の管理に決まってんだろ」
赤尾はすでに大儲けを確信しているようで、札束を数えるジェスチャーをしてニヤリと笑う。
「レジ係ってことね。それじゃあ二人が海の家の中で、僕だけ外で、また仲間外れじゃん〜。別にいいけどさ」
何気なくこぼした言葉に思いがけず赤尾が反応した。
「何だよ! 私がいつお前を仲間外れにしたっていうんだよ」
「卒業したら会社作ろうって、坂本君誘ったでしょ。僕初耳だったんだけど〜」
じとっとした目で見つめれば、動揺したのか早口で赤尾が答える。
「お前にも言うつもりだったに決まってんだろ! あいつには煙草休憩のん時にたまたま話したんだよ」
「そうやって二人だけで煙草吸いに行って、僕の知らないところで話を進めるんだよなー」
「お前今日はやけにつっかかるな!? ほらあいつは世間ずれしてないだろ。こっちから誘わねーと変な方向行っちまいそうで、何かほっとけねーんだよ」
赤尾のそういう面倒見のいいところを好ましく思うけど、内心面白くないのは別の話だ。坂本君と同じ位置に立って、僕の面倒も見てよとは思わないけどね。
「んー……、そうだね」
「なんだよお前、嫌なのかよ。三人の会社」
バツが悪そうに、隣の僕で目を合わせずに呟く。いつも自信で溢れてる赤尾が、友達の言葉ひとつにそんな頼りない顔をするから、僕はそこに絆されてしまう。
「嫌じゃないよ」
静かに否定すると、赤尾がこちらを向いた。僕はそのまま、目を逸らさずに静かに、でもはっきりと続けた。
「ずっと一緒にいたい」
その時、僕の言葉に被せるように、わっ、と歓声と拍手が風に乗って聞こえた。どうやら先程の小学校で、ちょうどリレーの決着がついたらしい。
「なんだ今の拍手。今日が南雲の誕生日だって小学生も知ってるのか? さすが南雲……」
相変わらずズレた言動の、僕のもう一人の親友がいつの間にか背後に立っていた。これまた場違いにも、剥き出しのデコレーションケーキをトレーに乗せて両手で持っている。
「いつ来てたの坂本くん」
「いま」
「このケーキどこから持ってきたの?」
「豹が作った」
そうだよね、JCCにケーキ屋さんなんてないんだから。十分な材料もないはずなのに、季節外れのこの時期にどうやってこんな沢山の苺まで手に入れたんだろう。豹ってさ、ほんと、普段僕はからかってるだけなのに、やめてよねこういう優しいの。
ていうか、ネームプレートに「おたんじょうびおめでとうなぐも」なんて、子供じゃないんだからさ、赤尾も坂本くんも、ほんとに。
「いいタイミングじゃねーか坂本」
パーンパーンと今度はクラッカーの破裂音が聞こえて、赤尾が笑いながらハッピーバースデーを歌い始める。
「もー……あんまり騒いだら先生に見つかっちゃうよ」
「銃声とオモチャの音の違いは気づくだろう。問題ない」
「ギャハハ、それ関係ねーから!」
僕の誕生日を覚えていてくれた親友は、取り分けるためのナイフやフォークにまでは頭が回らなかったようで、僕の手持ちの中から食事用のそれを出してみんなで仲良くケーキを食べた。
「皿はねーの?」
「あるわけないじゃん。しかもこんな屋上でさ」
「構わない。せっかく晴れたんだから、景色がいいとこでみんなで食うのが一番うまい」
坂本くんが赤尾と同じことを言ってるのに気づいて顔を上げると、そうだろと言わんばかりに赤尾はニッと笑って、坂本くんも無表情で頷いた。
うん、今はまだ、もう少しこのまま、三人がいい。
その日の僕は、本気でそう思っていた。
あの時の、彼女の後ろに浮かんだ白い月や、流れる雲、風に柔らかく舞い上がる緑の髪、たなびく上着の裾、化粧っ気もないのに他の誰よりも魅力的な笑顔。
その全てが、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。
それは七月の初めにしては強すぎる光が残した夏の残像だった。