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    SICKSICK_SICK

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    SICKSICK_SICK

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    【1】

     小さめのダイニングテーブルは、ここに越してくるまえにシンジくんが見繕った。あんまり大きいと距離が離れてしまって嫌だから、と言う理由で選んだそれは男性ふたりで囲むにしてはすこし手狭だ。
     しかし思い切って二人暮らしを始めるきっかけとなったのも、このテーブルで。
     いたくこれを気に入ったけれど一人暮らしには大きいしなあと悩むシンジくんに、寝食を共にしたいとなかなか切り出せなかった僕が「二人暮らしなら丁度いいよ」と震える声をあげたことを思い出す。
     そんな縁結びを担ってくれたテーブルに突っ伏している彼を見つけたのは、勝手の知った玄関で電気のスイッチを肘でつついてオンにした時だった。

    「うわっ、シンジくん。帰っていたんだね」
    「……カヲルくん、どこか行ってた?」
    「うん、少し買い物に。……今日は早いね」

     珍しくスーツを着崩した彼が、机に突っ伏して微睡んでいる。

     僕が吃驚させられた理由はふたつある。
     ひとつはこの時間にシンジくんが家に居ること。
     一介のサラリーマンであるシンジくんの定時は九時から十八時だけれど、そこから片道の通勤時間を足したくらいの時間にもシンジくんが帰ってくることは殆どなかったのだ。
     残業がきついなんて話も聞いたことがない。
     僕はがらんとした二人暮らしの部屋が寂しくて、目的もなく街を歩くことが増えた。(強いて言うなら散歩という名目で、悪く言えば徘徊である)いつもだいたいシンジくんが帰ってくる少し前くらいに家に着くようにしているから、真っ暗な部屋にも驚かない。
     ふたつめは、シンジくんの目尻がすこし赤らんでいつこと。

    「カヲルくん、結婚しない?」

     シンジくんが新卒で入社した会社を辞めてきたのは、ある冬いきなりのことだった。




     次の日、シンジくんはのんびり十一時過ぎに目を覚ました。
     昨晩目元が仄かに赤かったのは、やはり僕の早とちりだったようだ。猫のように眠い目を擦りながらタオルケットを引きずってきた彼には、いつものように春の陽射しのような笑顔が浮かべられていた。

    「おはよう、シンジくん」
    「おはよ、カヲルくん」
    「寝坊助さんだね。可愛らしい笑みが隠せていないのは、さてはこれに気付いたからかな」

     ぱちりと長い睫毛を揺らしながら、その目線はちらりちらりと僕の背後に向いている。揺れる瞳はおもちゃを目の前にした子どものように爛々と輝いている。
     ええと、シンジくんはいくつになったんだったかな。僕の一個下だから──二十四歳。少年時代から幼い顔つきの彼は成長しても時を止めているようで、決して年相応に見えない。現に今だって、出会ったあの頃のままの微笑みが、バターのように僕の心をじんわりと融解している。

    「パンケーキ!」
    「匂いに気づいたかな」
    「もう一度寝ようかなって思ったんだけど、隣にカヲルくんもいないし……、甘い匂いがしたから」

     ダイニングテーブルには、揃いのランチョンマットがふたつ。これもシンジくんが選んだもの。
     片方は紫で、もうひとつが青。
     その上に乗っかっているのが白いプレート皿で、そのまた上に乗っかっているのが僕の作った少し不恰好なパンケーキ。それでもって頂点に君臨しているのが、大きめに切られた溶けかけのバター。
     手にしたタオルケットを小さな手で丁寧に畳んだシンジくんが、よだれを垂らしそうな子どもの顔をして近づいてくるものだから、僕も思わず笑みを溢してしまう。

    「作ってくれたんだ!」
    「もう、朝ごはんなのか昼ごはんなのか分からないけれどね」
    「嬉しい。すごいや、カヲルくん。なんでもできるんだね」
    「でも、写真のようにうまくはできなかったよ」

     かんたん、ふっくら、ホテルのような出来上がり──パッケージに羅列された単語を眺める。
     ……こんなの嘘ばっかりだ。
     共同生活──希望を込めて言うならば、同棲生活──に浮かれていた僕はうっかり信じてしまったけれど。ゴミ箱に捨てたパッケージを拾い直し自分の製造したそれと交互に見比べる僕を見て、シンジくんがふにゃりと口を綻ばせる。

    「そんなことないよ。ふんわりしてておいしそう。わあ、生クリームまでついてる!」

     早く食べよう、と勝手に拝借していたシンジくんのエプロンをした僕の手を引いてシンジくんがダイニングテーブルに座る。

    「おいしい。カヲルくんってばなんでもできるんだ。天才」
    「そうかな。ありがとう。シンジくんの優しいところが好きだよ」

     ラタンのカトラリーケースからナイフとフォークを差し出すシンジくんのほっそりとした手首を握ると、十年も前の時のように、シンジくんの頬が薔薇みたくぼっと赤くなる。
     こういった僕の行動について、シンジくんは「カヲルくんって天然たらし」って評価するけれど、実は僕には確信犯的なところがあるのは内緒である。

     美味しい美味しいと無邪気にパクつくシンジくんを見ていると、昨夜のことは夜のくせした白昼夢だったのかと錯覚してくる。

     寝付く前、どうして急に仕事を辞めたのか、と言葉を千切りにしながら問いかけた。
     言葉を小さく小さく、よく選ぶように。
     しかしシンジくんは、あー、だかうー、だか言葉になりきれない言葉っぽいものを吐き出しながら、上着もかけずに眠りこけてしまった。答えは聞き出せていない。無理に聞き出すものでもない。
     大学を難なく卒業してスーツを着込んだシンジくんは、僕の知らない人に見えた──充実しているように、見えたのだけれど。それこそ、日中君と居ることのできない僕が、寂しさを隠しきれないほどに。

    「昨日の話だけど」

     どう切り出していいか分からず、目の前の格好悪いパンケーキを淡々と放り込んでいた僕の手を止めたのはシンジくんの方だった。

    「とりあえず、気分からかなって。引っ越したいなーって思ってて」
    「昨日の、って、結婚をしたい……っていう話? ……残念だけれどまだこの国では同性婚は認められていないし」

     どこかの国へ移住をしたい、という話だろうか。

    「分かってるよ。だから、ごっこ。結婚ごっこがしてみたい」

     いったいシンジくんに何があったんだろう。
     人との差異を忌み嫌う保守的な彼の発言とは思えなくて、僕はフォークを操る彼の手と小動物のように動く彼の口を目で追ってしまう。
     はちみつとメープルシロップのふたつをテーブルに並べておいたら、彼は迷った挙句にそのどちらともを手に取った。

    「僕が家事をしてさ、カヲルくんは働くの。僕が毎朝キッチンで朝ごはんとお弁当つくって、カヲルくんに渡して。カヲルくんはありがとうって笑う。お昼休みはカヲルくんから電話してきてくれて、ちょっとだけ話したりして。僕はたまにドラマ見ながら、お掃除とかお洗濯頑張るし。余裕ができたらアルバイトとかパートもしてみたいな。
    それでカヲルくんが帰ってくるまでにお風呂と夕ご飯を用意しておくから、インターホンが鳴ったら走ってってカヲルくんをお出迎えする。……そんなのできたら、幸せかなって」

     シンジくんの表情から、手放しでパンケーキを喜んでいた少年の微笑みはすっかり消えていた。部屋には溶け切ってしまったバターの匂いが充満
    している。



    【2】

     前略、かくして僕とシンジくんは新居探しに駆り出されたのだった。
     シンジくんの性格上、数駅先に出来たタワーマンションの高層階に住みたいなどとは言わないと思っていたけれど。それと同じくらい意外なことに、できれば団地に住みたい、と彼は言った。

    「すまない。僕はこの国の文化に詳しくないけれど、団地というところは家族連れで住むようなイメージがあるよ」
    「うーん、そうなのかな?」

     一人暮らしとかできるかもしれないけれど、男性の二人暮らしは難しいのではないか──
     そんな言葉を飲み込んで、近所の不動産屋で掻っ攫ってきたマンションのパンフレットをシンジくんに押し付ける。

    「団地が無理でも、できれば人がいっぱい住んでるところがいいなあ。ドラマに出てくるみたいな、住宅街っていうの? 一軒家……は難しいか」

     タワーマンションの最上階とは言わないまでも、ある程度小綺麗でなるだけ広く、作りの浅いものばかり集めた。自分にもこれくらいの甲斐性はあるつもりだ。物件のパンフレットをシンジくんが興味なさげな手つきで捲る。
     団地? 住宅街? シンジくんは、ご近所付き合いとかそういったものが苦手だと思っていたけれど。
     現に今住んでいる──同棲している、とは最後まで言葉にすることはなかった──部屋だって、単身ではなく僕たちのような若者ばかりがシェアハウスなり同棲なりをしているような、所謂「ご近所付き合いのなさそうな」物件を選んだのだ。
     思い悩んで、ひとつの考えが浮かぶ。
     シンジくんももしかしたら、僕と同じような寂寥感を抱いているのかもしれない。
     僕は祖父の会社で勤務をしている。祖父にしてみれば、孫の手伝い程度かもしれないが。在宅勤務が主で、おまけに祖父は僕の能力に見合った仕事を与えたがらないので、日中はがらんとした部屋で興味のないワイドショーを眺めていることの方が多い。
     つまり、日中僕はこの部屋で一人だ。二人暮らしに丁度いいサイズで気に入ったこの箱は、一人でいるにはいささか寂しさを覚える。
     僕がいる時は僕だけの音、シンジくんと僕がいる時は二人の音が。
     テレビの音以外に他者の介在しない空間に閉じこもっていると、世界に君と二人だけの箱庭に存在しているように錯覚する。
     但しこれは僕だけだと思っていた。シンジくんはごく一般のサラリーマンとして社会の歯車に組み込まれているので、僕と感覚が違うと思っていたのだが。
     

     それからしばらくの期間住宅情報誌を捲っていた彼が、気に入った物件を見つけてから──気に入ってたはずのこの部屋を引き払うまで、季節が移ろうよりも早かった。


     僕たちの引っ越し先には、新婚のような夫婦だとか、幼い子どもを連れた家族連れが多く住んでいるようだった。
     今まで暮らしていた部屋よりも少し広めのその物件で、明け透けに言ってしまえば同性カップルの僕らは浮いてしまうのではないかと懸念したけれど──年齢の割に幼く見えるシンジくんと浮世離れした僕の容姿では、ヘンテコな二人に見えるのであろう。
     古風にも菓子折りを抱えて挨拶で行った先で僕らを迎えたのは、
     兄弟かご親戚? 仲良しね。だとか、
     お友達同士でシェアハウス? だとか、そういう言葉たちだった。

    「(……恋人同士には、見えないか)」

     仮にそう思われても、シンジくんを困らせてしまうだけなのだけど。僕としては、嬉しい勘違いであったのに。
     若干気落ちした僕とは対照的にシンジくんは始終としてニコニコとしている。
     シンジくんに笑顔の理由を尋ねると、僕をご近所に見せびらかしたいんだと言う。頭上にハテナを浮かべている僕に、シンジくんはいたずらっぽくその笑みを増していた。



    【3】

     カヲルくん、お仕事して。
     
     耳を疑ってしまうような言葉は、物理的に──耳に直接ペットボトルの水を注がれたような衝撃であった。

    「いや、そのね。一応仕事はしているのだけど……」
    「そうじゃなくて、外に出てお仕事してほしいの」

     引っ越した直後に近くのショッピングモールで二人に買い出しに行って、僕に選ばせたエプロンを着用したシンジくんが唇を尖らせる。

    「お祖父さんの仕事を手伝ってるのは知ってるよ? 難しくて大変なお仕事をしていることも。ただ、外にお仕事しに行かなきゃ、お弁当作ったりお帰りなさいしたり外で待ち合わせしてデートもできないじゃない」

     ……と言うのが、シンジくんの言い分であった。
     正直のところ、少し心外であった。シンジくんは会社を辞めてしまったけれど、彼の収入がなくともシンジくんを一生食べさせていけるだけの蓄えはあるつもりだ。
     そもそも実のところ、そう言った理由でシンジくんにも外に働きに出てほしくなかったのだ。しかし彼を僕だけの世界に閉じ込めたいというのは僕のエゴであって本意ではない。離職してからも自分の蓄えから生活費を捻出し、僕に甘えたがらないシンジくんに無粋な話だろうけれど。

     頬を膨らませるシンジくんのかわいらしさに負けて、僕は生まれて初めて外に働きに出ることになった。

     とは言え、大学を出てから祖父の会社で便利屋のようなことしかしていない僕は履歴書や職務経歴書だなんて書いたことがない。
     そう漏らす僕に、シンジくんは「うーん、とりあえず」と言い、どこからかアルバイトの話を取り付けてきた。
     シンジくんが僕にあてがったのは、シンジくんの知り合いがオーナーを勤めているというカフェでの接客業であった。
     正直なところ、学生時代、アルバイトのひとつもしたことがない。接客のせの字も知らない。インターンという名目で祖父の会社の手伝いをするか、シンジくんの部屋に転がり込んで一日中ベッドの上から降りないような学生生活を送っていたからだ。
     副業はギリギリOK、という弊社の就業規則のせいで、僕は労働に駆り出されることになる。
     シンジくんは最初のうちは毎日カフェに顔を出して、右も左も分からない僕をうっとりとした眼差しで見つめていた。

    「店員さーん」
    「はい、お呼びですか。お客様」
    「店員さん、かっこいいですね。制服とっても似合ってます」
    「ありがとうございます、お客様」

     紅茶の入ったカップにはちみつを垂らしつつシフォンケーキの乗っかったお皿を給仕して、目があったシンジくんとくすくす笑い合う。
     カフェに差し込む陽射しのように、穏やかな僕たちの暮らしが始まった。毎朝目覚めのキスから、夜は同じベッドで眠る幸せに包まれる僕は、彼が時おり悲しそうな顔を見せることに気づかなかった。


    【4】

     今日はシンジくんのリクエストで、駅の近くで待ち合わせ。外で待ち合わせてデートをしたいという彼の願望を受けて、僕はアルバイトを終えて約束の場所に向かって足を早めている。
     シンジくんなんか、今日も僕のバイト先に遊びに来ていたくせに待ち合わせがしたいからと言う理由で一度家に戻ったようだった。
     ガヤガヤとした喧騒のなかの、ニュースが流れる大きな電光掲示板から思ってたよりも遅い時刻がアナウンスされている。
     いけない、急がないと。
     素敵な旦那さんなのだから、シンジくんを待たせるわけにはいかない。

     駅付近で待つ僕を見つけ、シンジくんが駆けてきたのが約束の十分前。今か今かと腕時計を見つめる僕を遠目から眺めていたらしいシンジくんは、カヲルくんかっこいいねえ、としきりに顔を綻ばせていた。

    「ねえ、僕たち新婚さんでしょ」

     それから本日の目的先である映画館まで向かうまでの道で、ほんのり顔を染めたシンジくんがおずおずといった調子で切り出した。

    「そうだね、奥さん。新婚さんは、毎晩ベッドを共にしなくてはならないね」
    「……そんなの前からずっとじゃないか。カヲルくん、なんかエロオヤジみたい」

     十四と十五のころから丸十年連れ添った僕らが、健全だとかプラトニックと呼べる交際をしたのはせいぜい最初の一年間くらい。ご無沙汰だとか倦怠期という言葉は僕たちの間に存在せず、仲睦まじい十年間だったと振り返る。
     齢二十五にしてエロオヤジと評されるのも、不思議と悪くない。年齢のわりに幼い容姿をした彼から零されるそれは、悪くない──というかむしろ背筋をゾクリと込み上げるものがある。まったく、自分もすっかり人間めいてしまったものだ。

    「そうじゃなくて。せっかくだから他の呼び方で読んでみたいなあ、とか」
    「他の呼び方?」
    「うん。そうだなあ。……あなた、とか」
    「……うん。良いね」

     春先のぬるい風のなかで灯った電灯を縫って歩きながら、シンジくんが名案でしょ、としたり顔をする。
     その表情があまりにも可愛らしくて、むしろ崩してやりたくなって。シンジくんが春先に好んで着用している薄いカーキ色のスプリングコートの裾を引っ張って、僕の唇と彼の耳を無理に近づけた。

    「奥さん。もういちどあなたって呼んでみて」

     指を絡める。
     シンジくん自体が僕のウィークポイントなら、シンジくんのそれは僕とは違ってピンポイント。彼は普段なら成人男性としては高めの僕の声が掠れて低くなる時に、いたく心を動揺させるようだ。
     それに気づいた交際三年ほどからは、僕はこれをおねだりをするときの常套手段にしている。彼がこれに気づいているのか気付いてないのかは知らないけれど。
     反応がないものだからもういちど近づこうとする僕を、シンジくんがやだあ、と声を鳴らして避ける。

    「それ、ずるい、カヲルくん」

     ……気づいていたみたいだ。

    「あはは。可愛い」
    「やっぱり、やめる。カヲルくんはカヲルくんだもん」
    「おや、離婚の危機かい?」

     すっかり機嫌を損ねて頬を膨らませてしまった奥さんのご機嫌を取るために、コートのポケット突っ込んだ手のひらをシンジくんのそれと重ねる。
     急がないと。
     映画が始まるにはもう少しあるけれど、冷たい手のひらをした奥さんに温かいカフェラテを用意してあげないとだから。


     夕暮れがいっそう深まったレイトショーの時間だというのに、映画館は存外に賑わっていた。
     僕たちが見るのとは違う、ちょうど今日から公開の話題作のせいだろうか。確か漫画本が原作で、興行収入が何百億と見込まれているやつだ。

    「すごく混んでるね。僕、飲み物なくても良いよ」
    「君の冷たい手のひらを温めるのは、僕の手では足りないだろうから。並んでくるから待っていて」

     可愛い奥さんを混雑の列に並ばせるわけにはいかないので、少し離れた場所で待っていてもらうように伝えるとシンジくんは申し訳なさそうに身を縮めてみせた。
     人混みに揉まれながら会計を済ませて、人よりいくらか高い目線で好きな人を探す。
     昔からそうなのだが、僕にはシンジくんだけ光って見える。
     以前酔った勢いが手伝ってそれを伝えたところ、冗談だと思われて思いっきり笑われてしまったことを思い出す。あの時は恥ずかしかった。顔から火が出る、とは言い得て妙だと思ったのだった。

    「(あ、いた……)」

     少年の顔つきのまま、だけど少しだけ背丈が伸びたシンジくんが視界を傾けて壁にもたれている。華奢な体躯が薄いカーキのスプリングコートに埋もれていて、まるでちっちゃいこみたいだ。
     なにかをじいっと見つめているみたいで、僕はその視線の先を思わず追う。
     少し追いかけると、その正体が分かった。レイトショーの一つ前の上映を見終わったのであろう親子連れたちを食い入るように見ていたのだった。



    「面白かった………かな?」

     レイトショーが終えたころには、ろくな飲食店が開いていない。春先にしては冷える空をなんとかふたりで駆け抜けて、ポップのネオンに光るファミリーレストランに僕らは詰め込まれた。
     そうそう、シンジくんは「結婚ごっこ」を始めてからしきりに「渚」と書きたがる。
     それは宅配便の受け取りであったり、こういった飲食店の順番待ちのリストであったり──碇、と書こうとする石、の部分をぎゅうぎゅうにペンで塗りつぶして、か細い筆跡で捻り出す「渚」という字が愛おしい。
     ペンを握りしめながら、いつもシンジくんはたいそう嬉しそうにはにかんだ。

    「うーん。……面白かった、かなあ。」
    「なんか、分からなかったね。よく」
    「うん……カヲルくんがそう思うなら、きっとそうだよね。やっぱりあの話題の映画にしとけばよかったかなあ。漫画が原作のやつ」
    「けれど、その作品を選んでいたらきっと満員だったよ」
    「ん? うん。混んでたらちょっと嫌かもね」
    「そうではなくて。そうしたらきっと、両隣にも前にも人が座っているよ。さっきのようなことは、できなかったよ。きっと」

     溶け切ってしまった氷で水っぽくなってしまったドリンクバーのオレンジジュースをからりと掻き混ぜる。シンジくんはストローに触れる僕の指先を凝視して、それからオレンジジュースみたいに頬を朱色に染めてみせた。

    「カヲルくんね。真っ暗だからって、あんな……」
    「ふふ。ごめんね」 
    「カヲルくん、セクハラ上司みたいだったよ」
    「悪くないね、それ」

     なんならスーツで来たらよかったかもね、と呟く僕の頭を真っ赤になったシンジくんが伝票でごつんとはたいた。
     お姫様ご機嫌取りをしなくては。メニューのデザートのところを開いて、ありったけ可愛くて甘いものを注文してやろう。
     息巻く僕の向かいで、シンジくんはやっぱり遠い目をして他のテーブルの客を見ているようだった。映画館で家族連れを見ていたときと、ちょうど同じ瞳で。

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