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    SICKSICK_SICK

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    SICKSICK_SICK

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    【5】


    「渚さん、お早う。今朝はお仕事?」

     見慣れぬ貴婦人に声を掛けられ、はあ、と情けない声が出た。どうして僕の名前を知っているのだろう。手元にゴミ袋があるので──今日は不燃ゴミの日だった──恐らく同じマンションの住人だろう。
     不思議に思ったのを察されたのだろうか。ごめんなさいね、と前置きして続ける。

    「上の階の高田です。シンジくんのルームメイトよね?」
    「ああ。はい、そうです。おはようございます」

     そういえば挨拶をしそびれたので、慌てて付け足した。

    「最近越してきて、挨拶もなくすみません。シンジくんのお知り合い……ですか?」
    「いいのよ。近頃は引っ越しの挨拶をするご時世でもないじゃない? 物騒だからって郵便受けにすら表札がないし」

     女性の一人暮らしを考えると当然なのだろうか。現に僕らの両隣にどんな人が住んでいるのかも知らないし、エレベーターで住人に鉢合わせても互いに軽く会釈をする程度だ。
     それを希薄というのか、安全というのか。
     ならばシンジくんはどこでこの女性と知り合ったのだろう。出勤時刻が気になるが世間話に付き合う気になり話を合わせていると、彼女は「でも」と前置きした。

    「渚さんとシンジくんみたいな綺麗な男の子はこの辺りにはいないから、みんな知っているかも」
    「え? いやいや」兄弟とでも思っているのか、聞かずに続け「ところで、シンジくんとはどこで?」
    「ああ。マンションの自治会の集まりで知り合ったのよね」
    「へぇ……」

     僕は内心で首を傾げた。
     自治会? そんな話は彼から聞いたことがなかった。確かに日中彼が何をしているか、特に気にしたことがなかったのだ。
     先日言い出したように、朝は味噌汁の匂いで目覚め、「アルバイトの日」にはお弁当を作ってくれて、帰ればピカピカに磨かれた部屋と美味しいご飯が待っている。立派に「奥さん」をしている彼に、掃除洗濯だってほとんど頼りきりだ。
     だからといって、彼の交友関係まで把握する必要はあるまい。僕の知らない時間があるなんて当たり前だし、そもそもお互い様じゃないか。ふつふつと言い訳じみた言葉が浮かんでは消える。

    「それから、余ったと言って手づくりのお菓子を持ってきてくれたり。彼、可愛いじゃない? 聞けば二十の半ばだというから驚いたけど、学生みたいで。私もつい可愛がっちゃって」
    「はい」可愛いと言われたことだけ即肯定してしまったので、再び慌てて「お世話になっているようで、ありがとうございます」
    「渚さんの話ばかりよ」
    「え?」
    「かっこいいって。優しくて王子様みたいなんだ、って。だからみんなに見せて回りたい、高田さんにも紹介したいんですって──そんな話ばかり」

     だから一目であなたが渚さんって分かったのよ、と彼女は満面の笑みを見せた。
     顔が熱くなるのを感じた。目の前の彼女はニコニコと僕を見、シンジくんの言う通り王子様みたいねえと呟かれたのでさらに気恥ずかしくなる。
     弾かれたように恥ずかしくて、しかし彼が僕のいない場所で僕の話をしてくれているのが嬉しくて、結局どうしようもないほど舞い上がってしまった。

    「今度、シンジくんと一緒に食事でも──あ、いけない。渚さん、お仕事よね? 引き留めてごめんなさいね」
    「ああ、そうですね。もう行かないと──普段は家で仕事をしているんです。祖父が会社を経営していて、そこを継ぐのでその準備を」
     シンジくんが懇意にしている相手によく思われたくて、聞かれてもいないことまでつい口が回る。

    「まあ」
    「今日はちょっと他の仕事で」アルバイトのことまで話すのは煩わしかったので「……外ですが。ですから、時間はありますので是非。シンジくんも喜びます」

     そして可愛いシンジくんを、是非是非自慢させてください──とまでは言えなかった。彼女、高田さんはまた上品な笑顔を見せ、じゃあ近いうちにと約束をして別れた。
     走れば間に合う電車を諦め、浮かれた足取りで歩みを進める。
     シンジくんのことで頭がいっぱいになって、出勤もしていないのに早く帰りたくて仕方がない。その日は一日ずっとニヤついてしまって、珈琲を注ぐ手が時おり止まり、職場の人に気味悪がられた。





    「高田さんと? カヲルくんが?」

     帰宅し暖かな温度に包まれながら、コートを脱がせてくれるシンジくんに切り出すと目を丸くして驚かれた。

    「うん。今朝エントランスで偶然会ってね。シンジくんのことをとても褒めていたよ」
    「うわ、なんだろう。照れるなあ」
    「ふふ。渚さんのことがすごく好きみたいよ、って」

     シンジくんの顔がみるみると赤く染まる。僕のコートをぎゅうと抱きしめ耳や首筋までも真っ赤にして、唇を引き結んで俯いた。

    「ご近所付き合いをしているなんて知らなかったな」
    「そう?」
    「うん。それも下の名前で呼んでいただくほど仲が良いなんて少し驚いた」
    「あ、それは──」

     シンジくんが何か言いかけたとき、ちょうどスープが煮えたようで火を止めてから向き直る。彼は気まずげに視線を泳がせて、それでも真っ直ぐに僕を見て言った。

    「なぎささん、ってちょっと呼びにくいでしょ。さ、が二つ続いて。だからだと思う」
    「?」
    「シンジくん、のほうが呼びやすいんだよね。カヲルくんもそのうちカヲルさん、とかカヲルくん、って呼ばれるかも」
    「……どういう事?」

     シンジくんは僕から逃げるようにキッチンへと戻り、こちらに背を向けたまま鍋の中身をかき混ぜている。彼の会話の意味が分からず小首を傾げる僕を他所に、振り返ったシンジくんは楽しげだった。

    「このマンション表札を出さないじゃない?」
    「ああ」そう言えば今朝方も、彼女との会話でこの話題が出た事を思い出しながら「そうだね」
    「だから、渚って名乗ってるんだよね。渚シンジですって──それで、渚さんは呼びにくいからシンジくん。……ちょっと夫婦みたいじゃない?」

     「まあ、親戚か兄弟かと思われてるだろうけど」そう言い切って顔を背けたシンジくんの頬が赤いのは、鍋の湯気だけのせいでは無いと思う。僕は胸のあたりがギュッと締め付けられて、叫び出しそうな衝動に駆られた。
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