風に揺れる四葉*
ルークが誘拐から戻り、数ヶ月が経とうとしていた。
「ルーク様朝です…おっと…」
ノックを3回、返ってこない返事を待たずに部屋に入ると、ベッドには上体を起こし壁を一点に見つめるルークがいた。珍しいな。数ヶ月前なら俺が声をかけずとも既に起きているのが当たり前だった。しかし、誘拐されてからというもの、朝のルークは必ず寝ていたし、俺がこいつを起こして身支度をさせてやるのが当たり前になった。
まさか、記憶が戻ったのか?不意に剣に手をかける。ルークの顔を伺うように、もう一度声をかける。
「ルーク…?」
ルークが俺に顔を向ける。
「がぁい」
ふにゃっとした寝起きの顔で俺の名を呼ぶ。まだ半分も開いてない目をさらに細め笑う。なんだ、いつものルークじゃないか。起きていたのはたまたまか。ほっと胸をなでおろし、剣から手を離す。ほっと…?自分の胸の感覚に違和感を覚える。記憶が戻っていたら俺は剣を振るおうとしたのか?いや、仮に記憶が戻ろうが戻らまいが俺のやることは変わらないはずだ。なのに
「がい」
主人の声に反射的に顔をあげる。ルークは、俺に向けて両手を広げている。
「だっこ」
覚えた数少ない語彙で俺にせがむ。旦那様や奥様の名前、他にも地名やあらゆる事物、沢山覚えることがあるのにこいつはロクに教えてもいない俺の名前やだっこなんて言葉を覚えるもんだから困ったものだ。さっきの胸の安心感…いや違和感は、そう、きっと気のせいだ。俺はこいつに、ファブレ公爵に復讐する。そう決めた。何も変わりはない。深く考えるな、今俺がやるべきことは主人の所望どおりに動くことだ。そうだ、朝から機嫌を損ねられれば不都合だから、仕事だからやるんだ。この胸の温かさや熱をもった感覚に意味などない。結局は復讐のため、何も迷うことなどないのだ。
「だっこお」
催促に適当に相槌を打ち、齢10歳のでかい赤ん坊を抱きあげてやる。ああ、そうか、胸の違和感とは別の違和感の答えはすぐに結論が出た。俺が起こさずとも起きていたルーク、その心は。
「お前…熱あるな」
いつもより確実に体温が高い。熱い。俺の額とルークの額を突き合わせて温度を測る。こつんと額を当てると何が楽しいのかきゃっきゃとはしゃぐ。大人しくしてろ。この体温ではあの寝起きの悪いルークも目が覚めるのも頷ける。
「ルーク様、医者を連れて参りますからベッドへ横になっててください」
ベッドにルークを下ろそうとするも、俺の服を掴んで離さない。
「やあぁ」
頬を更に紅潮させ、目を潤ませながら抵抗する。無理やり引き剥がすこともできるが、引き剥がせばぐずることは目に見えている。泣かれて更に熱が上がっても面倒だ。俺は、ルークを抱えたまま、宮廷医の元へ向かった。
*
医者に診せると、疲労が原因の発熱と診断された。解熱剤を飲んで安静にしていればすぐに回復するとのことだった。きっと今日は一日中部屋で療養だろう、そう考えながら書棚に資料を収める。俺はというと、ルークの看病かと思いきや、屋敷内で雑用をこなしていた。ルークの診察が終わるや否や、ラムダスには監督不行届、主人の体調管理も仕事のうちなんてお叱りを受け、俺がいつもしているルークの世話はメイドがすることになった。
なんなんだよ。ガキなんてすぐに熱出すもんだろ。俺がうつしたわけじゃない。資料を乱雑に押し込むと書棚が音を立てた。誰もいない部屋に音が反響し、感情的になっている自分に気付く。…いや、どちらにせよそんなことはどうだっていいのだ。あいつがどんな目に遭おうが俺は知ったこっちゃない。どうせいつかはこの手にあいつをかけるんだ。全部全部無駄なことだと反芻し、資料を収めるとまた書棚は音を立てた。
*
雑務に区切りがつき、自室へ戻る。ベッドに腰掛け、そのまま後ろに倒れ脱力する。慣れないことをしたせいか、なんだかいつもより疲れた。時計に目をやると13時を過ぎていた。
コンコンコン、と勢いよく自室の扉がノックされる。飛び起きながら反射的に返事をすると、その返事に食い気味に扉が開く。そこには髪や服装が乱れたラムダスが立っていた。
「ガイ!ルーク様のお部屋へ!」
ラムダスはそれだけ言い終わると乱雑に扉を閉め去っていった。服装の乱れは心の乱れだと言わんばかりにいつもきっちりとしているラムダスのあんな姿を見るのは初めてだった。ルークになにかあったのか。今朝の記憶が脳を過り、踏み出そうとした足が止まる。まさか今度こそ本当に記憶が戻ったのだろうか。…いや、どんなことがあっても俺のすることは何も変わらない。この屋敷に来た目的はただ一つなのだから。
*
ルークの部屋の前で深呼吸する。そしてノックをする。中からの返事を聞き、扉を開ける。
「失礼します」
視覚よりも先に飛び込んできたのは、劈くようなルークの泣き声だった。でかいベッドにぺたんと座り俺の名前を呼びながら泣きじゃくる頬も髪も真っ赤な焔の光。そして側にはなんとか宥めようと必死に声をかけるメイド。メイドは俺の顔をみるなりホッとしたように息をついた。
「ルーク様、ガイが参りましたよ。」
メイドがそう声をかけると、泣くのを一瞬やめ、俺に視線を向ける。
「ふぇ…がぃいい」
さっきとは違い甘えたような声音でこちらに手を伸ばしてくる。習慣というのは恐ろしいもので、さっきの杞憂なんて忘れて気がつくとルークを抱き上げていた。
「ルーク様、どうしましたか」
「があい」
甘えた声でもう一度俺の名を呼び、もう離さないと言わんばかりに抱きつき、顔を埋める。
「ふふ」
隣で見ていたメイドがくすくすと笑う。
「なんです」
部屋には俺達3人しかいないのにメイドは内緒話をするように話す。
「さっきルーク様の泣き声を聞いたラムダス様もこちらにきたんだけどね、全然宥められなくて、ガイ、ガイっていやいや暴れて髪とか服とかひっぱって大変だったの。ふふ。私たちがどれだけあやしても、ずっと、ガイ、ガイって。いつも一緒にいるガイがいなくて寂しかったのね。よかったですね、ルーク様。」
それだけ言い終わると、仕事のなくなったメイドは部屋から出ていった。
しんと静まり返った部屋に、ルークが鼻をすする音だけがなる。
「ルーク、お前なぁ…」
呼びかけるとぴくりと一瞬反応したが、首に回された腕はがっちりと俺をとらえている。どうやら離すつもりはないらしい。あれだけ激しく泣いていたのに解熱剤を飲んだのか体温は今朝よりか低くなっており、胸をなでおろした。
*
抱いている腕もそろそろだるくなってきた頃、俺に回されていたルークの腕がぶらんと宙に浮いた。それと共に、ぐんとよりいっそ俺の腕には負荷がかかった。この屋敷にきてから、子どもは寝ると脱力して重くなることを知った。俺がガイラルディアでいられたならきっと知りえなかったことだ。ゆっくりとベッドに降ろし、布団を掛けてやる。あの日からずっと復讐することだけを考えてきた。だけど、ルークの世話をしていると、単なる復讐の対象者に対するもの以外の必要のない感情が生じていた。なにもかも忘れたルークが初めて俺の名前をしゃべった時、1人で歩けるようになった時、屋敷で誰より喜んだ自分がいた。あの時の感情が全部復讐というしがらみを纏ったものというわけではきっとなかった。しかし、いつかこいつの記憶が戻ったら、またあの聡明な顔つきをしたあいつが戻ってきたら、俺はもうルークを仇以外の感情なく相対するだろう。今朝ルークを見て、全身の毛が逆立つような感覚。そして何より剣に手を掛けたその時再確認した。
「ん…がい…」
目を瞑ったまま、かすかにでも確かに俺の名前を呼ぶ仇敵。でも、その日が来るまで、今はもう少しだけなんのしがらみもないこの無垢な寝顔を見ていようと思う。
*