11/23新刊サンプル「お疲れ様です、今日はよろしくお願いします!」
白い壁紙にホワイトボードと大きな窓のあるシンプルな部屋に通されてすぐ、パイプ椅子に腰掛けていた男が音を立てて立ち上がり、頭を下げた。あまりの勢いの良さに気圧されたまま挨拶を返すと、背後で機材調整を行っているスタッフは彼の声の大きさに驚きと呆れたような笑い声をこぼし、今回の進行を務める記者も同じく笑みを浮かべながら荷物の置き場所と、彼の隣に用意してある椅子に座るよう促してくれる。
「わざわざご足労いただき、有難うございます」
「いや、そんな。ウチからそんなに離れてないですし」
日本のリーグ、特に首都圏で活動している選手同士の対談は珍しくない。大体は試合前に少し時間を作ることが多いが、今回は双方の事情で日程がずれたのだ。チーム練習と個人練習、昼食を済ませてから在来線に乗り、横浜からここまでおよそ一時間弱。バスを出すとも言われたが、集団移動でもないからと断った。
彼の所属するクラブ内で行われているこの企画は『次代を担うポイントガード』という大仰なタイトルがつけられるそうだ。対談相手――今年度のシーズンで飛躍的な成長を続けている五つ年下の彼は、どうやらオレのことを尊敬しているらしい。その旨を聞いた時は「オレすか」と返してしまったが、相手の反応を見る限り本当なんだろう。試合でぶつかった時とは全く違う、人懐こい笑みがずっとこちらに向けられている。沢北なんかだったら慣れているんだろうけど、オレはどうしても真正面から感情を返すのが得意ではないのだ。
「事前にお伝えしましたが、本対談は編集後、動画サイトにもアップロードされます。畏まった内容ではありませんので、フラットに。雑談するようなかたちで答えていただければと」
「分かりました」
「はい!」
冒頭は簡単な自己紹介。そこから自身のプレー姿勢やチーム及び個人練習、相手に対しての印象などをいくつか質問される。大まかな内容は事前に聞いていたので特に返答に困ることもなく、撮影及び対談はつつがなく終えられた。その後、雑誌掲載用の撮影を数枚。オッケーです!の声がかかり、場の雰囲気がふっと緩む。
「お疲れ様でした。動画は特に問題なければ、来月末までに公開できると思いますので」
「了解です、こっちのマネージャーにも伝えときますね」
「宮城選手!今日は本当に有難うございました!一対一でお話できて光栄でした」
また機会があれば是非!と心底嬉しそうに握手を求められる。細く長い指がオレの両手をがっちりと掴んで、彼はその光景にも感動しているようだった。なるほど、これが可愛い後輩ってやつか。眩しい。
「そういえば、宮城選手って三井選手と同じ高校ですよね?」
「ハイ。そうっすけど」
「……あ!もしかして三井さんたち今アレ中ですか!」
女性スタッフの唐突な質問で何かを思い出したのか、同じチームメイトである彼がくすくすと笑う。何の話か分からず困惑していると大きな手振りで説明をしてくれた。
彼と三井サンが所属している『東京トライアンフ』は、首都圏の中でも屈指の大規模チームだ。スポンサーも日本人なら全員知っている有名企業で、二番目か三番目くらいには設備が充実しているはずのウチでさえ驚かされるような最新設備が置いてあったりする。
集客力も凄まじいのだが、その大きな一因となっているのがクラブ広報だった。動画配信サイトに上がっている練習風景の他に、選手に対してお題に沿ったアンケートをとったり、バスケ以外のミニゲームを催して選手が楽しむ様を見せたりなど、かなり色々な角度から精力的に活動している。
今回はブースターからの人気投票を行い、上位の選手が企画テーマに沿ったグッズを出すらしい。言われてみれば少し前、インスタグラムで投票受付の文言を見たような気がする。
「へえ。三井サン、なにの何位だったんですか?」
「『一緒に夜景デートしたい選手ランキング』の~、」
「うわ」
「三位です!」
「うはは!」
絶妙な納得感。笑ってしまった意図を理解し「そうですよね!?」と同意を求めてくる。
どうやらチーム内の他選手も、自身の結果や投票コメントに関しては喜んだり照れたり不満を言ったりなど様々だったが、三井サンの順位を見るなり「三井はまあ、そうだな」「三井先輩はここしかあり得ないですよ」と言われ続けたらしい。あの人、今のチームでもそういう扱いなんだ。
「多分ちょうど撮影中だと思いますよ。カメラは向くかもしれないですけど、良ければ」
「え、行っていいんすかそういうの」
「すごく良い仕上がりなので、お知り合いの方にも見てもらいたくて……」
女性スタッフが熱意を持った眼差しで見上げてくる。確かにこの後予定があるわけではないし、三井サンの夜景デートコーデがどんなものなのか、気にならないと言えば嘘になる。あらゆる意味で。チームメイトの彼も見に行こうとしていたが、あちらは朝から密着カメラがついているので難しいんだそうだ。悔しげな声と、改めてオレへの感謝を何度も告げながらロッカールームへ戻って行った。
スタッフと記者に挨拶を済ませて部屋を出れば、通路の突き当りに件の撮影スタジオがあった。撮影の合間なのか換気中か、扉は半分ほど開いている。先程ああ言われはしたけど本当に問題ないのか不安になってきて、覗き見のような姿勢で耳をそばだてると、やけに通りのいい男の声が聞こえた。
「三井選手って本当にお肌綺麗ですよね〜、スキンケアとかって意識されてますか?」
「特にしてないっすね……あ、貰いもんの化粧水とかはたまに」
「ほぼノーケアなんですか!?化粧水あるなら乳液まで使っちゃいましょうよ」
「肌ベタベタすんのが鬱陶しくて」
撮ったデータの確認作業をしている様子だった。低めの位置に置かれたモニターを男女が屈んで見ており、手前にいる女性が楽しげに数枚の画像をスライドさせている。奥にいる横顔が三井サンなのは分かったけれど、今の状態では服装はおろか横顔すらほとんど見えていない状態だ。
「どれも写りが良くて……私、個人的に三井選手に投票したんですけど、入れてよかった!って思いました。きっと大反響ですよ!」
「そうすか?何かすげー笑われたんだよな他のヤツに」
「そんな!ブースターの子たちもスタッフも絶対、デートしたい!って思ってますよ」
時折ちらちらと三井サンのほうを向いている彼女の言葉は、社交辞令というにはどうにも熱っぽい。当の本人は察していないようだけれど、これは完全に尊敬以上の念がある人間の仕草だと分かる。なぜ分かったかは割愛するが。
いよいよ入れる雰囲気ではなくなってきた。一応スタジオを見るには見られたわけだし、大人しく退散するべきだと姿勢を戻した途端、背負い直した鞄が扉に強く打ち付けられた。
「あ、」
「……うお、宮城じゃねーか」
「え!?宮城選手!?」
広くはない撮影スタジオがどよめく。確認作業中も回していたカメラマンがこちらを向こうとして、オレの足元でぴたりと止まった。ほとんどジェスチャーで立てられた伺いに軽く頷けば、画角はそのまま顔のほうへと上がっていく。
「お疲れ様で~す……」
「おめー何やってんだよこんなとこで!」
「対談の撮影で呼ばれたんスよ」
ずかずかとこちらへ歩いてくる三井サンの姿を見て、先程のスタッフの意図を理解した。
羽織っているのはナイロン生地のブルゾン。上腕の部分にデザインが入っており、少し明るい紺色の表地とオレンジの裏地が綺麗に映えている。上着にボリュームを持たせているぶん、シンプルな黒のクルーネックは首元をすっきりと引き立てていた。鎖骨のあたりでシルバーのネックレスが控えめに揺れる。
下半身は細めのテーパードパンツ。素材の良さを活かして、すらっと伸びたスタイルのいい足をより魅力的に見せている。ローカットのスニーカーからちらりと見える足首のおかげで重苦しさはなく、色の多い上半身とのバランスをうまく保っていた。
「お〜」
「ンだよ!変なら言え」
「いや逆逆、めちゃくちゃ似合ってる」
「……やけに素直だな、カメラ回ってるからって」
すごいっすね、と後ろのカメラマンに微笑むと小さな歓声が上がった。三井サンのスタイルの良さだと重心を下に置いたコーディネートを選びがちだが、実は案外こういうのも似合う。さすが広報ガチと評判のクラブ、センスがいい。
当の本人はどうやらオレがおべっかを使っていると思っているらしく、むっと下唇を突き出していた。
「本当っすよ、何だっけ?マゴにも衣装ってやつ?」
「てめーなあ!」
適度に茶化して撮れ高も取れたところでカメラが下ろされる。きっとこの映像は動画投稿サイトにアップロードされるんだろう。
三井サンの撮影で最後だったのか、スタジオでは片付け作業が始められていた。邪魔にならない端の方へふたりで移動しながらこっそりと、斜め上に視線を向ける。
よく見れば顔にもメイクが施されているようで、見上げた彼の肌はいつも以上に滑らかだ。あまり気を遣わずこの綺麗さが保てていると考えると少し悔しい気持ちになるが、それ以上に――なによりも強烈な違和感がひとつ。
「……」
オレから見て右側にあったはずのそれは、コンシーラーとファンデーションで丁寧に埋められていた。まるで初めから、そんなものは存在しなかったかのように。
温度の下がった心臓を悟られないよう、からかう調子を崩さないまま口を開く。
「……このあと午後練?メイクされた後じゃ大変すね」
「いや。もともと撮影は午前中って聞いてたんだけど、他の奴が押しちまったらしくて。待ってる間に午後の自主トレも終わっちまったんだよ」
軽く撫で付けられた後ろ髪をわしわしと掻き回す三井サンの表情を見るに、この後の予定は考えついていないんだろう。今の時刻はおよそ十六時、確かに一人で出かけるにも微妙な時間ではある。
「おめーはクラブ戻んの」
「オレもこの後オフなんすよ、昼までに練習終わらせてきたんで」
さきほど三井サンに熱烈な言葉をかけていた女性スタッフが、紙コップに入った水を二人分持ってきてくれた。お礼を言われた彼女は瞳に眩しいくらいの光を反射させながらぴょこぴょこ頭を下げて、再び片付けに戻っていく。
こんだけ分かりやすい目してんのにね。気づく素振りのないこの人への呆れと、女性への同情と、同時に生まれたどうしようもない優越感と安心感。
そのまま解散するには惜しい気分だった。
「……飲みにでも行きます?」
「お、いいな。じゃあ着替えてくっから……」
「ちょっと待って。あー、スイマセン!」
その場にいる一番偉そうな人……今日撮った分らしきデータを難しい顔で確認している、メガネ姿の男性を見つけて歩み寄る。急に話しかけられると思っていなかったのか、彼は少しぎょっとしたような表情を見せてから慌てて立ち上がり、「どうしましたか?」と笑顔を見せた。
「すみません、ダメ元でいっこ確認したいことがあって」
「さ、撮影に関してでしょうか」
「イヤその…………あの衣装って、買い取ったりできます?」
◇
「オイ宮城、これマジで大丈夫なのかよ」
「大丈夫だって。それもうアンタの私物」
「いやお前……結構高えだろこれ」
「カードで払ったから覚えてないっすよ。いいじゃん似合ってんだし。アンタこういう系の服持ってないでしょ」
選手用出入り口の外で待つこと数分。小走りでこちらへ向かってきた三井サンに軽口で返しながら、買い取りの打診をしたのは正解だったと確信する。他の人間が誂えたと思うと気は晴れないが、今この瞬間から、『ファンの理想のデートコーデ』は『宮城リョータが三井寿にプレゼントした私服』になったのだから。
ロッカールームに置いていた荷物とは別に、三井サンが引っ提げている紙袋には本人の私服が入っている。撮影時の衣装のまま、何が何だか分からないといった様子の彼を横目に曇り空を見上げた。
春の到来を予感させますね、と天気予報士が話していたのを思い出す。今日は比較的暖かいらしいが、それでも寒がりの三井サンには堪えるようだ。冷たい風が彼の前髪を揺らしてはぱさりと落ちる。
「三井サンって今最寄りどこ?前と同じ?」
「おー。結局引っ越してねえ」
「あそこアクセスいいもんね」
去年だか一昨年だか、いちど三井サンの家に湘北卒業生の数人で集まったことがあった。広めの1LDKは予想よりも片付いていて、バスケに関係していない物がやけに少なかったのを覚えている。その時から引っ越していないのだとすれば、店探しには困らないだろう。スマートフォンで周辺の居酒屋を上からざっと確認していると、通知音と共に手の中のそれが振動する。どうやら手配したタクシーはすぐ近くにいるらしい。
「もうタクシー着くって。向こうのバス停んとこ」
「電車じゃねーの?」
「ファン居たらどうすんの、その格好まだバレちゃ駄目でしょ」
歩きながら最もらしく言えば、この人はすぐに納得してくれた。事実、この衣装は後日公開されるファンコンテンツで初出しされるべきものだし、もう少し本音を言うなら正直、堪ったものではない。本拠地近くの公共交通機関なんてそこかしこにファンが潜んでいるのだから、どこで声をかけられるか、ひどい場合は盗撮すら有り得る。
つらつらと言い訳じみたことを思いつくが結局は、着飾ったこの人を衆目に晒したくないだけだった。
開いたドアの前、促すように手を出せば、長身をぐっと屈めながら三井サンがタクシーに乗り込む。
「お願いします」
オレが続いて後部座席に座ったのを確認し、運転手がドアを閉める。予め入力していた行き先で間違いないかの確認をいくつか交わして、動き出した車内で携帯を見せながら「何食いたいすか」と尋ねると、彼の眉間にぐっと皺が寄って、数秒。
「……鍋食いてえ」
「いいじゃん。何鍋?」
「辛いの以外」
「もつ鍋あるっすよ、ちょい脂質高いけど」
「たまには良いじゃねーか。もつ鍋って一人じゃなかなか食わねえよな」
「あー確かに」
普段はそれぞれ食堂か、自宅で食べるにしても管理栄養士の監修が入っているおかげで、特にシーズン中はジャンクな食事の機会が少ない。あまり食生活を気にしない選手もいるようだが、オレもこの人も同様に、一分一秒でも長くコートの上に立っていたいのだ。
時には味気ないとすら感じる栄養管理の中、たまの機会に食べる計算度外視の食事というのは、格段に脳を喜ばせてくれる。三井サンは既にもつ鍋の口になっているみたいで、オレの携帯を引っ掴んだまま、画面に表示されたお品書きをまじまじと眺めていた。急に手持ち無沙汰になった車内で、仕方なく窓の外に目をやる。
「…………」
同じリーグに所属している関係上、三井サンとは対戦相手として年に何度も顔を合わせる。ことごとく不調だったり身体的な調整が必要な場合でなければ、互いにベンチメンバーとして名を連ねられる程度の活躍はしているので、正直あまり久々という感覚はない。おそらく彼も同じ感覚なのだろう。
「先月の試合」
「ん?ああ、そっちホームの?」
「そ。……マジで上手いっすねアンタ。やられたわ」
「あん時の三井は絶好調だったからな」
得意げに腕を組む仕草は癪に触るが確かに、あの時の三井サンは一対一で到底止められる勢いではなかった。高校二年間のブランクや膝への懸念など感じさせない動きで次々とネットを揺らす彼は対戦相手としては厄介で最悪で、後輩として素直に感心して、オレ個人としてはまんまと惚れ直してしまった。
本当にどうしようもない。紆余曲折を経た感情の終点が、こんな炎の中だなんて。
「言ってたっすよ、インタビューで。三井さんがいちばんパス出しやすいって」
「アイツが?」
「うん。かなり懐かれてるみたいじゃん」
まだ若く、チーム入りしてから日も浅い。打ち解けられるか不安で全体練習も緊張しきりだった後輩の彼に、いち早く声をかけたのが三井サンだったそうだ。容易に想像できるし何より、似たような光景に覚えがある。
「……そういえばアイツ言ってたわ、宮城に憧れてるって」
「まあ……そうなんでしょうね、すげえ喜ばれたし。てか三井サンに直接言ったんだ」
「おう。宮城さんみたいになるにはどうしたら良いかって」
「なんて返したんすか」
視線を外の景色から彼に戻す。窓越しに差し込んだ夕日に反射して、きらきらと光る瞳がオレを見た。
「おめーになんのは無理だろ、色んな意味で」
ああ、きっとこれは身体能力を始めとした個人差や、高校の時に起きた様々な出来事を踏まえた関係性の話で、三井サン自身は客観的な事実を述べただけなのだろう。
だから絶対に、勘違いしてはいけない。
「……そうすね」
高校の時から背負った火傷が、また少し傷口を広げている。