Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    963_krkr

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 1

    963_krkr

    ☆quiet follow

    X(Twitter)連載していた幽霊になった三の洋三、全年齢ver.です。
    エッチシーンも含めて読みたいよという方は https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21285956 こちらをご覧下さい。

    ※自殺表現がありますのでご注意ください。
    ※2006年ごろの設定で書いていますが既に国内プロリーグが発足し、三が所属している設定です。

    #洋三
    theOcean

    Goodbye, my love.中学生の頃、俺は無敵の存在だった。
    同級生は全員気軽に話せる友達で、教師や顧問といった身近な大人からの信頼も厚く、小学生の頃から続けているバスケでは負け知らずで、勉強だってそれなりにできる方。他人に言わせれば俺はイケメンに入る部類らしく、女の子にだってそれなりにモテた。それを自慢するつもりも鼻にかける気もなかったけど、心のどこかではずっと、自分はこの世界の主人公なんだと思ってた。
    チームメイトもライバル校も、バスケをやる奴はみんな友達。この世のどこかで戦争や災害が起こっていたって、自分の周りだけはずっと平和で、争いごとなんてきっと話し合いで解決する。苦手なこともやりたくないことも山程あるけど、ちょっと努力すればそれらは綺麗に報われる。俺はいつだって皆の中心に立っていて、泣いて怒って笑って、そうして今日も明日も俺の世界を回していく。
    そんなふうに、思ってた。
    脇から抜いて、シュートを決めてやろうと思ったんだ。デカいだけで技術のない、ドリブルやフリースローなんて基本さえもなってない、威圧感だけは一丁前の、俺から見たら全然大したことない同級生。そいつが俺の輝かしい高校生活一発目を邪魔しそうだったから、そいつにも先輩たちにも俺の実力を見せつけてやろうとした。エースは俺だと、このスーパースターを目に焼き付けろと、そんな驕った気持ちで。
    体験したことのない痛みだった。膝が割れ、骨が粉々に砕けたんだと思った。足を抱えて痛みに泣く俺の側で、俺の手から離れたボールはてんてんと弾み、転がった。
    それは俺の世界が壊れた日。当たり前だと思っていた日常がガラガラと崩れ落ちていく音を、俺は今でも覚えている。
    翌日から、俺は懸命に病院での治療とリハビリに臨んだ。インターハイ予選が始まる前に部に戻りたくて、すぐにまたボールに触れたくて。退屈な入院生活に耐え、面白くもないリハビリを熟し、一日でも早く治るように栄養も摂ったし医者の話も真面目に聞いた。そうしていれば、きっとすぐにでも怪我は治ってバスケができると信じて。けれど、医者が告げた復帰の目安はインターハイ予選が始まった後の日付だった。
    予選初日に間に合わなければ、選手登録はできない。登録されていない選手は当然大会には出られないし、何より湘北のレベルでは予選一回戦か良くて二回戦止まりだった。到底全国なんて届かない。俺がいなければ。……俺がいれば。
    医者の指示を無視してボールに触れた日、久し振りに生きている感覚がした。止まっていた血液が血管を巡り出し、酸素が肺をいっぱいに満たしていくような感覚。身体中の細胞が、これを求めていたと歓喜する。
    病院を抜け出して部に顔を出し、もうすぐ復帰しますと宣言した時に見た、先輩や同級生たちのホッとした顔。当然だと思った。俺がいなければ始まらない。だって俺は、主人公だから。主人公は逆境でこそ輝く。医者は安静を言い聞かせてきたけれど、こんな怪我は努力と根性さえあればどうにでもなる。
    恐る恐るシュートの練習をしてみた。不安に思っていたほど感覚は鈍っていない。少し速度を上げて走ってみる。そのまま両足を地面から離し、ジャンプシュート。ボールはネットを潜り、俺は危なげなく地面に降りた。
    痛くない。怪我をした膝は痛みを訴えなかった。自然、笑みが零れる。グッと拳を握った。痛くない、痛くないぞ、と言葉が溢れる。やっぱり自分は無敵なんだと、その時の俺は愚かにもそう信じた。
    結果、そう時間は経たずにあの日と同じ痛みが膝を襲った。インターハイ予選が始まる一週間前だった。もう間に合わない。先輩や同級生たちの、心配よりも落胆した顔が目に入る。俺の心は、パキリと折れた。
    キャップを目深に被って顔を隠し、松葉杖をつきながら向かったインターハイ予選。誰にも顔を見られたくなかった。昨年の中学MVPがこんなザマを晒している姿を指されたくなかった。
    コートの真ん中、一年生で唯一そこに立っていたのは俺ではなく赤木の姿。先輩たちが声をかけ、肩を叩く。俺がいるはずだったチームの中心に、赤木がいる。
    既に折れていた心が、決して元に戻らないようにと丁寧に砕かれていく音が聞こえた気がした。

    ぼんやりと意識が浮上する。見慣れた天井は白く、カーテンの隙間からは登り始めたばかりの陽の光が差し込んできていた。
    セットしていない目覚まし時計は朝の五時を示している。けたたましい音が鳴らなくても、もう何年も習慣になっていた起床時間は身体が覚えているらしい。
    懐かしい夢を見た。俺の黄金時代と言っても過言ではない中学時代から、怪我を理由に荒れ狂い、そして周囲のおかげで更生することのできた高校時代の夢。
    ぬるりとした生温かい感触を不思議に思って頬に触れてみるとそこはしっとりと濡れていて、見下ろした枕にも丸く染みができていた。寝ているうちに泣いていたのかと知ると同時に、涙を流すのは随分久し振りだなと思う。
    ここ数年、涙が出てくることは殆どなくなっていた。泣いたところで自分の前にある現実が変わるわけではないし、悲しさや苦しさといったものに対する感情が少しずつ鈍くもなっていたんだろうと思う。
    手の甲で目元を擦って涙を拭い、ベッドを降りた。ついでにシーツと掛け布団を適当に整えておく。顔を洗い、水の付いた手で髪を撫で付け、服を着替えた。部屋の中の要らないものを纏めてゴミ袋に詰め、エレベーターで一階まで降りてダストボックスに放り込む。何曜日がゴミの日かと考えなくていいところがマンションに住む利点だ。
    大学卒業以来、もう六年は住んでいるこのマンション。それなりに愛着もある。
    部屋に戻って通帳やら身分証やら大事なものを一纏めにして小さな金庫に入れ、鍵はリビングのテーブルに置いた。親、友人たち、所属チームの宛名を書いた三通の手紙を封筒に入れ、分かりやすいようそれも一緒に置いておく。
    溜まった洗濯物を回して干し、シンクに置きっぱなしになっていた食器を洗って食洗機にかける。昨日の夜から何も入れていない胃は空腹を訴えたけど、空っぽの方が綺麗だしなと朝食は諦めた。部屋に掃除機をかけて終わる頃には食洗機の中の物も乾いて、たいして量のないそれらを食器棚に戻す。ガスの元栓を閉め、エアコンやら何やらの電気系統が切れているかを見回し、洗濯機やその他諸々の蛇口を閉めていることも確認した。
    うん、大丈夫そうだな。そう頷いた頃には既に九時を回っていて、世間は忙しく動き出している。テレビを点ければ朝の報道番組をやっている時間だろう。今日のスポーツニュースは知っていた。
    さて、と伸びをする。カーテンの向こうは心地良い風の吹く快晴らしい。思わず口角が上がった。青天の空は好きだ。
    窓を開け、ベランダに出る。手すりに手を置いて下を覗き込めば、マンションの前の通りに人通りはない。
    今朝のスポーツニュースは、国内プロバスケットボールの三井寿選手(28)左膝負傷のため引退。昨夜所属チームを通して各種メディアにFAXを送ったのだから間違いは無いだろう。そして今日の昼過ぎには、そのニュースは訃報に変わっているはずだ。
    まあいい人生だったよな、と思う。俺はこの世界の主人公ではなかったし、無敵でもなかったけれど、それでも十分に楽しく生きてきた。一度は俺の手元から離れてしまったバスケも、もう一度コートに立つことを許してくれた。これ以上を望むのは贅沢というものだろう。
    「……っし!」
    小さく呟き、さあ行くぞとベランダの縁に足をかける。迷いはない。
    さようなら、三井寿。なかなか楽しい男だったぜ。
    フッと笑みを浮かべて空中へ飛び立つ。一瞬、鳥にでもなったような感覚がした。だけどふわりとした浮遊感は一瞬で、俺の身体は重力に従い落下していく。
    身体がぐるりと回転し、視界に入る、青い空。雲一つない晴天と、俺の住んでいたマンションが目に映る。あー、あれあれ、あの窓、あそこが俺の住んでた部屋。最後に考えることって、案外こんなもんなんだなとどこか他人事のように思った。
    ─── ああ、でも。叶うことならもう一回、アイツの顔が見たかったかも。
    高校卒業以来一度も顔を見ていない、小柄でリーゼント頭の不良生徒。バスケ部を襲撃しに行った俺をボコボコに殴って、そのくせ俺の罪を全部を被って謹慎を受けた、後輩の親友だった男。俺の、初恋。
    アイツ、元気にしてんのかな。
    今まで何年も蓋をしていた記憶がうっかり開いて、顔や声まで思い出す。轟々とした風の中、小さく呟いた声が自分の耳に届く。人生の最後に呼ぶ名前が、アイツなんてな。
    「……水戸」
    紡いだ声は風の中に消えていった。
    そして訪れる衝撃。痛みを感じるよりも先に、俺の意識はブラックアウトした。死ぬ時は痛くないって、本当なんだな。

    パチリと開けた視界。きょろきょろと周囲を見渡し、思わず、えー……と声が漏れる。ここが天国か地獄かは知らないが、いや、死んだらまずは閻魔様とやらの裁きを受けるんだっただろうか。ともかく目が覚めたその場所は、なんか思ってたのと違う、という一言に尽きた。
    広々とした空間の床は白いタイルが張り巡らされている。中央付近に受付があって、それを取り囲むように並んだ窓口が幾つもあった。○○課、△△課、と幾つかの窓口ごとに区切って吊るされたプレート。ソファで待機している人々や、受付や窓口で対応する係員らしき人、穏やかに何か相談している人もいれば、受付に怒鳴り込んでいる人など。様相は様々だが、これは、なんというか。
    「役所みてーなとこだな……」
    一瞬、来る場所間違えたか? と思ったが、俺の手にはしっかりと番号札が握られている。受付をした覚えがない。そもそも自分がいつここに来たのかも分からなかった。目が覚めた時には人の行き交う床でごろりと寝転がっていたのだ。
    首を傾げつつ、空いていた近くのソファに腰掛ける。番号札があるということは、おそらく待っていればこの番号を呼ばれるのだろう。
    そうして数分もしないうち、一番端の窓口のさらに奥にあるドアが開いた。出てきたのは白衣を着た男性で、手には書類を挟むバインダーを持っている。従業員専用のドアかな、とぼんやり思っていたら、その男はきょろきょろしながら俺の名前を呼んだ。
    「三井さーん。三井寿さーん」
    いや、病院かよ。名前で呼ぶなら番号札の意味は何だったんだ。内心で突っ込みつつも立ち上がる。はい、と答えると男は俺の姿を認めるなりぺこりと頷き、こちらですとさっき男の出てきたドアの方に案内した。
    促されるままドアを開け、奥へと進む。そこもまた広々とした室内になっていて、壁は一面真っ白い。部屋には長机が置いてあり、その前に座っているのは二人。もう一つ空いている椅子には、今案内した男が座るのだろう。
    長机を隔てて彼らと向かい合うように一脚、パイプ椅子が置いてある。真ん中に座ったふくよかな髭の男が、どうぞお座りくださいとそこを示した。
    ぺこり、一礼して腰掛ける。俺が座ったのを見届け、白衣の男も自身の席についた。
    入社面接みたいだなと思う。もっとも、俺は大学卒業以来プロのバスケットボール選手として生きてきたため、一般企業の面接のようなものを受ける機会はなかったが。ともあれ、何だか落ち着かないような、妙に緊張したような気分になった。そもそもこれは何の面接なのか。
    「まあ、そう緊張せずに」
    真ん中の男が、ほほ、と笑う。白い髭にふっくらとした頬といい、鷹揚に笑う姿といい、どこか高校時代の恩師である安西先生を彷彿とさせる。そう思えば、何となく気持ちが落ち着いた。
    「バスケ選手の三井寿さん。いつも応援していました」
    右端に座っている、眼鏡をかけた女性が言う。長い髪を一つにまとめて結い上げた、いかにも仕事ができますといった風貌の真面目そうな女性。
    俺は少し、面食らう。
    「あ……俺のこと、知って……?」
    「ええ、それはもちろん。テレビでよく拝見しておりましたので」
    「テレビとかあんだ、ここ」
    「あります」
    きっぱり告げられると、ああそうなんですね、としか返せない。女性はそれ以上会話を広げる気はないのか、つんと澄ましている。
    さっきから随分、俺の想像していた死後の世界とかけ離れたものばかり見せられている気がする。死んだ後っていうのはもっとこう、薄暗い洞窟みたいなところで、魂だけになった人間がうようよいて、天国に行くか地獄に行くかの裁きを怯えながら待つものだと思っていた。少なくとも、こんな役所か大きな会社のような場所は想定していない。
    目線を下せば、手も足もちゃんとついている。鏡を見てはいないけれど、多分生きていた頃と変わらない。試しに手を握ったり開いたりしてみると感覚はきちんとあった。
    「三井寿さん、28歳。生前はプロのバスケットボール選手。8月23日午前9時13分に自宅マンション12階のベランダから飛び降り、頭部及び身体の損傷により即死。……間違いありませんか?」
    手元の資料を見ながら白衣の男が尋ねる。はい、と答えると、彼は神妙な面持ちで小さく息を吐いた。
    「……実は、貴方はまだ死ぬべき時期ではありませんでした」
    「は?」
    「貴方の自死は我々にとって想定外だったということです」
    「え、っと……?」
    つまりどういうことだと首を傾げる。すると女性の方が、後の説明を引き継いだ。
    「魂の量にもバランスというものがあります。どの程度の数の魂を天国あるいは地獄に送るのか、どれだけの魂をいつ転生させるのか、また回収するのか。多少の前後はありますが、これらは基本的に一定量を保っているのです」
    「はぁ……」
    「つまるところ、予定になかった貴方の魂の持って行き場に困っているということです」
    淡々と告げる彼女の言葉は、よく意味が分からなかったが、それでも大体の事情は察することができた。要は、俺が突然思いついて自殺をしたせいで、この世界のバランスが崩れてしまっているということらしい。
    なるほど、そりゃ確かに困った出来事だろう。というか、そんなことが起こり得るのか。普通こういうのって、死者が多すぎて処理が追いつかないとかそういうんじゃないのか。俺一人でもバランスって崩れるのか。
    椅子にもたれ掛かると、ギ、と軋む音がした。
    「というわけで、貴方の順番が回ってくるまでの間どうするかということなのですが。ここはご自身に選んでいただきたいと思っています」
    「選ぶって、何を?」
    尋ねた俺に、幾つかの選択肢があると答えたのは白衣の男だった。人差し指を立て、まず、と切り出す。
    「一つ目の選択肢は、こちらの受付で呼ばれるのを待つことです。ただ、数時間といったものではなく年単位でお待ち頂くことになりますのであまりお勧めは致しません。見ての通り、ここには何もありませんから」
    なるほど。だとすればその意見は却下だ。じっとしているのはあまり得意な方ではないし、何年も手持ち無沙汰で待ち続けるのは気が狂いそうになる。
    他には、と聞くと、今度は中指も追加して二つ目の案を示した。
    「こちらの受付で我々と一緒に働くという選択肢もあります。一つ目の選択肢よりはやることがある分退屈せずに良いかとは思いますが……」
    「あ? じゃあここで働いてんのって、みんな死んだ奴か?」
    「システム上、管理を行っているのは一般的に神様や天使と呼ばれている方々です。ただ、こうして私たちのように現場で働いている者は、そうです」
    「三井さんのようにイレギュラー的に来てしまった人や、生前に大罪を冒して審判に時間のかかる者などが働いています。待っている時間にここで働くことで徳を積み、少しずつ過去の罪を精算しているわけですね」
    女性が質問に答え、白衣の男が付け加える。なるほど何とも合理的なシステムだ。
    確かにただ何もないところでぼんやりと永遠にも思える時間が過ぎるのを待つよりは、何かしら目的があった方が有意義かもしれない。他人と話すのは嫌いじゃないし、長く働いていればもしかしたらそのうち知り合いにでも会う機会ができるかもしれない。実家の隣に住んでいた盆栽趣味の爺ちゃんとか、昔よく遊びに行った駄菓子屋の婆ちゃんとか。そう思うと、悪くはないような気もしてくる。
    じゃあ、と言いかけたところで、しかし、とゆるく首を振ったのは真ん中に座っていた安西先生似の男だった。穏やかに微笑んだままで、君にはあまりお勧めしない、と告げる。どうして、と尋ねるよりも早く、その答えをくれたのは隣の女性だった。
    「貴方は生前、メディア等でもよく顔を知られている素晴らしいスポーツ選手でした。ここで働いていてもすぐに顔を指されることでしょう。こちらとしても不要なトラブルはなるべく避けたい、ということです」
    「あー……まあ、それはそうかもしんねえけど」
    確かにさっき、受付や窓口で怒鳴り込んでいる輩やさめざめと泣き続ける人の姿を見たばかりだ。それを宥めながら手続きを促し数をこなすだけでも大変だろうに、その上顔まで指されて有名人だからとめちゃくちゃな要求をされても困る。その上死んでいるものだから、どんなに忙しくしても報酬はゼロ。果たしてそんな仕事がしたいかと問われれば、答えは否と言わざるを得なかった。
    答えに窮する俺に、白衣の男は三本目の指を立てる。
    「そこで三井さんに提示する最後の案なのですが。順番を待つ間、一旦現世に戻るというのはいかがでしょう?」
    「……は?」
    思わず聞き返す。現世に戻る、ってなんだ。生き返るってことか?
    「けど、俺の体は……」
    「ええもちろん、三井さんの肉体は損傷が激しく、戻ることはできません。あの身体で起き上がられてはご家族も病院もパニックになるでしょうね」
    困惑しながら口にすると、女性はさらりと怖いことを言った。高所からコンクリートに打ち付けられてぐちゃぐちゃになった体が起き上がってくる、なんてジョージ・ロメロもびっくりのスプラッターホラーだ。想像するだけでぞっとする。
    さすがにそんなことにはできない、と慌てて首を振る俺に、真ん中の男はほっほっと笑って続けた。
    「だからね、地上へ帰るのは魂だけだよ」
    「魂だけ……」
    「そう悪いことでもありませんよ。生前行けなかった世界遺産を回るのも良い、貴方なら全国のバスケ選手の試合を同じコートの中で楽しむのも良いでしょう。相手から存在は認知されないので試合に挑むことはできませんが、時間潰しとしては十分に楽しめます」
    なるほど。言われてみると、これまで二つの案に比べれば確かに悪くない提案のようにも思えた。
    しかし魂だけが帰るということは、つまり俺は幽霊というものになるということなのだろうか。尋ねると、女性はあっさりと頷いた。
    幽霊。幽霊か、と自分の中で繰り返してみる。その存在に良い印象はない。実際に生前の自分がそういったものに何か悪さをされたというわけではなかったが、お化け屋敷やホラー映画はどちらかといえば苦手な部類だ。怖いし、気味が悪いし、ゾッとする。そんなものに、自分がなるのか。
    どうでしょうか? と尋ねられ、俺は考え込む。正直なところを言うと、あまり気乗りはしなかった。
    黙ってしまった俺に、何も悪霊になるわけではないよ、と穏やかな口調で真ん中の男が告げる。
    「お盆や彼岸に帰省してくる先祖の霊なんかに近い。彼らは悪さをしに地上へ戻るわけではないだろう?」
    「生きているうちには行きにくかった場所へ行ってみるというのは如何でしょう。……例えば、想いを告げられずにいた初恋の人のところですとか」
    続けられた白衣の男の言葉に、ハッと息を呑む。
    脳内に思い浮かんだ一人の男。高校時代の思い出のまま止まってしまった、俺の初恋。死ぬ間際、蓋をしておいた想いがパカリと開いて記憶に蘇った、リーゼントヘアに短ランの生意気な後輩。
    俺は深く息を吐いた。最後にもう一度アイツの顔を見たいと思ったのは、確かに俺だ。そのチャンスが今、与えられている。それも相手の目に見られることなく。俺は暫くの間、自分の存在を知られないまま、水戸の人生をこっそりと見守ることを許されたのだ。
    気付けば、自然と返事をしていた。
    「……わかった。じゃあ、それで頼む」
    三人は顔を見合わせ、それから深く頷く。どこかホッとしたような、安堵の表情を浮かべたのは気のせいだろうか。もしかしたら、俺が思っている以上に俺の存在というのは彼らにとって厄介なものだったのかもしれない。
    ふと、本来なら自分はあとどのくらい生きたのだろうと考える。例えば日本人男性の平均寿命くらいだとして、あと五十年弱。その年数を考えると、確かにずっとここで順番とやらを待ち続けられるのも嫌だろう。働いていても文句を言い出しそうな自分が容易に想像できる。
    一人でそんなふうに納得していると、白衣の男が何か冊子を差し出してきた。手帳のようなそれは表面が黒の革製で、随分と分厚い。
    受け取り、パラパラと中を捲ってみる。辞書に使われるような薄い紙には文字がびっしりと詰まっていて、あらゆる項目に分かれて記載されていた。どうやら説明書のようなものらしい。
    「これは?」
    「こちらは地上で過ごす際のルールブックのようなものです。禁止事項などが記載されていますで、必ず目を通すようにしてください」
    それまでよりも少し厳しい声で言い含められ、こくりと頷く。活字を読むのは好きでも得意でもなかったが、時間はいくらでもあるのだから後で読んでおけばいいだろう。
    「では、準備が宜しければこちらへ」
    女性が立ち上がり、さらに奥のドアを開けた。その先がどうなっているのか、目を凝らしてもよくは分からない。暗い闇が広がっているようでもあり、渦を巻いているようにも見える。
    見た目の禍々しさに眉を顰めた俺に、真ん中の男は優しく微笑みかけた。
    「大丈夫、これはただのゲートだ。こちらとあちらを繋ぐね」
    俺の背中を押す声に、感じていた不安が和らぐ。何故安西先生に似ているというだけでこれほど安心感を覚えるのだろう。俺は覚悟を決めるみたいに大きく息を吸い込んで椅子から立ち上がった。
    ゆっくりとドアの方へ近付いていく。ドアを支える女性が、その先へと俺を促す。
    「時間になりましたらこちらからお迎えにあがります」
    「良い旅路を」
    白衣の男と女性の言葉に見送られ、俺は一つ息を飲み、意を決して右足を踏み出した。
    ドアの向こう。一歩踏み入れたその瞬間に、ぐわんと視界が歪む。時空の捩れというものが本当に存在するのなら、それはまさしくこういうものなのだろうと思う。気持ち悪さを感じる間もなく、俺の意識はフッと遠のいた。

    辺りを見渡すまでもなく、降りてきた場所が見知った部屋の中だと気付く。シングルサイズのベッドにテーブル、型の古くなったテレビ、そのほか諸々。間違いようもなく、さっき飛び降りたマンションの俺の部屋。
    「マジで戻ってきた……」
    思わず呟く。どうやら本当に現世に戻ることができたらしい。
    自分の身体を見下ろす。死ぬ間際と同じ服装。そこに血や汚れは付着していない。体のどこにも新しい傷はなく、試しにグッパッと手を握ったり開いたりしてもやはり違和感は生じない。今まで夢を見ていたのだと言われても信じてしまいそうなほど、俺自身に変わった様子は感じられなかった。
    しかし、部屋の中は警察が踏み入れた後だったらしく、その痕跡を見るにやっぱり俺の死は間違いないのだと知る。せっかく死ぬ直前に整えたというのに、無惨にもあちこち土足で見聞された室内にはがっかりした。
    足をあげ、踏み出し、床の上を歩いてみる。いつも通りの足取りだ。魂だけだからといって別にふわふわと浮いたりするわけではないらしい。
    寝室から続くドアが開けっ放しになっていたため、そのまま脱衣所へ向かい、洗面台で鏡を見る。損傷が激しいと言われた凄惨な顔が映ったらどうしよう、と思っていたけれど、そこには今朝起きた時と同じ顔の自分がいて安心した。肉体はなくても鏡に映るものなのかという疑問は、きっと心霊写真などと同じ原理なのだろうと一人納得する。
    部屋をあちこち移動してみたが、既に警察も事件性がないことを確認し終えていたらしく、誰ともすれ違うことはなかった。特殊清掃員や両親、管理人の姿も見ない。もしかしたら、マスコミが押し掛けるからと今日のところは帰らせたのかもしれなかった。引退した身とはいえ一応昨日まではプロのバスケチームに所属していた選手ではあるので。
    ところで今は何時だと、寝室に戻る。ベッドヘッドに置いてある目覚まし時計を確認すると、アナログ時計の短針は真下へ向こうとしていた。俺が飛び降りてから、既に九時間が経とうとしている。
    ふと思い立ち、時計に手を伸ばしてみた。手を触れたはずのそれに接した感覚がない。当然持ち上げることも出来ず、しかし自分の手が時計をすり抜けるわけでもなかった。確かにそこにあるものを触っているはずなのに触れた感覚がないというのが、どうにも不思議に思える。
    自分の手のひらをまじまじと見るけれど、特に異変は感じられなかった。一先ず、近くにある物にぺたぺたと触れてみる。どうやら時計に限ったことではなく、壁も床もベッドもその他の物も全て同じらしい。動かしたり持ち上げたりといった事象に影響を与えることは何もできなかった。
    あれ? と困ったことに気が付く。じゃあ俺はどうやってこの部屋を出ればいいのか。
    窓も玄関もきちんと施錠されているマンションの一室。誰かがドアを開けてくれなければ、俺はここから出ることが出来ない。
    「どうすっかな……」
    ガリガリと頭を掻く。地上に降りてきていきなり詰んだ。幽霊がこんなに不便だとは聞いていない。
    部屋の中をぐるぐる動いていても仕方がないと、ベッドに腰掛け腕を組む。多分数日もすれば親なり管理会社なりが置いてあるものの処分等で訪れるとは思うのだが、いかんせんそれがいつになるかはわからない。
    「とりあえず、誰か来んのを待つしかねーのかな」
    呟き、はぁ、と大きな溜め息を吐く。いつ来るとも知れない相手をただひたすら待ち続けることは、考えるだけで相当な苦痛だった。ううん、と呻きながらそのまま後ろに倒れ、ごろんとベッドに横になる。
    なんとも奇妙なことだが、マットレスの上で横になっているという実感はあるのだ。しかし布ずれの感触だとか沈み込む感覚なんかは得られない。多分それは、俺が感覚としては生きた人間の時のままのつもりでいるのに、実体としての体を持っていないから生まれる齟齬なのだろう。
    仰向けになったまま、天井を眺める。電気がついていないせいで薄暗いそこは、何の変哲もなかった。もう暫くして日が沈めば部屋の中は真っ暗になる。
    目を閉じ、ごろんと寝返りを打つ。やることがないからとりあえず今日のところは寝るしかない。そう思っていた俺の足元で、パサリと何かが落ちる音がした。
    えっ? と思って音のした方を見る。俺の干渉できるものなんて何もねーはずだけど、と首を傾げながら落ちたものの正体を確認した。
    「あ……!」
    思わず声が漏れる。黒いカバーの分厚い冊子。さっきの今ですっかり存在を忘れていたが、それは死後の世界で読んでおけと渡されたものだ。
    拾い上げ、パラパラとページを捲る。この部屋にある他の物とは違い、物体に触れているという感覚が、この冊子にはあった。どうやらあちらの世界のものになら俺は触れることができるらしい。
    さて、この窮地を脱する方法がどこかに載っているだろうかと、やたらに分厚いルールブックの羅列された文字を流し見ていく。どれくらいかページを捲ったところで、ようやく該当の項目を見つけた。
    『障壁や物体を擦り抜ける方法』と太字で書かれた見出しの、その先に続く内容を目で追う。そこに書かれている内容はこうだった。
    擦り抜けたい対象に両手を付き、目を閉じてその向こう側をイメージする。脳内に描くビジョンが明確で鮮明であるほど空間の歪みが大きく広がり、そこを自分が通り抜けるイメージを持ちながら両手を押し進めることで対象を擦り抜けることが出来る。ただし、多量のエネルギーを消費するため多大な疲労感を伴うと共にその回復には時間を要する。エネルギーの回復及びその時間については該当項目を参照。
    なんとなく理解して冊子を閉じる。何か手近なところで練習してみようかとも思ったが、多大な疲労感という文言に首を振った。無駄に疲れるのは御免だ。ぶっつけ本番。玄関に向かい、分厚いドアに両手を当てる。六年住んだ部屋の外の景色だ。頭に思い描くのは容易い。
    ゆっくりと深呼吸し、両目を閉じて夢想する。手を置いた場所がぐにゃりと歪む感覚がして、次第にそこへ自分自身が溶け込んでいくような未知の体感。
    なぜ、今だ、と分かったのかは知れない。けれど、そう思った瞬間、ぐっと両腕に力を入れた。
    ずるん、と滑るような抵抗を感じ、全身が引っ張られるように前のめりになる。身体が投げ出されるように転がって、次の瞬間には途轍もない疲労感に襲われた。
    「……っは、あ」
    膝が頽れ、咄嗟に瞼を上げて両手を伸ばし、床に手をつく。全力で試合に臨んだ後と同等か、下手をするとそれ以上の脱力感。自分の身体を支えることすらできず、そのままべしゃりとうつ伏せに潰れた。
    ぜぇ、はぁ、と荒い息を繰り返し、なんとか顔を上げる。そこは思い描いた通りの見慣れたマンションの廊下だった。どうやら部屋からの脱出に成功したらしい。
    「……っんな、疲れるもんかよ」
    息を弾ませながら悪態をつく。正直言って、これはかなり辛い。肉体なんてないはずなのに全身が重いというのはどういうことだ。
    ずるずると這うようにして壁際に向かい、どうにか背中を預けて座り込む。息が整うまで待つうち、少しずつ体力が回復してきたらしく、やがてゆっくりと立ち上がることが出来た。
    ちら、とエレベーターを見る。あれのドアを擦り抜け、エントランスまで降りてまたドアを擦り抜けるのは御免被りたい。廊下を渡った奥、普段使用することのない非常階段を使って一段ずつ十二階分を下りることにした。
    エントランスまで辿り着くと、タイミングよく他の入居者がマンション内へ入って来ようする姿が見えた。認証性の自動ドアが開いた隙に、急いでそこを通り抜ける。横切る俺になんの反応も示さなかったあたり、本当に俺の存在は見えていないのだろう。通り過ぎざま、あの、と一応声を掛けてみたが、相手は何も聞こえていない様子で通り過ぎて行った。
    マンションを出た先、記者らしき人の影を幾つか見つける。ただのいちスポーツ選手の自殺でもテレビや雑誌なんかで数日は騒いでくれるのだろうか。なんだか芸能人にでもなった気分だ。
    さて、とこれから先のことを考える。自分の家を出たは良いが行く当てがない。初恋の相手である水戸の姿を見たいなんて思いで現世に戻ってはきたものの、俺は水戸の家なんて知らなかった。高校卒業以来もう十年も会ってないのだから、当然といえば当然だ。誰かに尋ねようにも俺の存在は誰にも認識されないし、移動するにも自分の足で歩くしかない。駅まで行って電車に乗ったり、誰かが乗ろうとしているタクシーに便乗させてもらったりはできるのだろうが、明確な目的地もないのではどうしようもなかった。幽霊というのは俺が思っていたよりもずっと不便だ。
    ひとまず地元にでも帰るべきか。湘南には知った顔も多く、その辺りを彷徨いているうちに何か水戸に繋がる手掛かりを得られるかもしれない。そう思い立ち、駅の方面に向かって歩き出す。
    すぐに足を止めた。
    俺の出てきた正面の出入り口ではなく、キープアウトのテープが張り巡らされたベランダ側。少し離れた場所に佇んで、じっと上の方の階を見上げている男がいる。マスコミや記者とはどこか雰囲気が違う。そいつが、どうやら俺の住んでいた部屋を眺めているらしいと気が付き、もしかして知り合いか? と首を傾げた。
    そっと近付いてみる。瞼より上がキャップの影になって隠れた横顔。目に入って、俺は思わず声をあげた。
    「お前、水戸……!?」
    黒いキャップに幅広のジーンズ、無地の白インナーの上に薄手の青い半袖シャツを羽織った青年。人違いではないはずだ。背格好は記憶にある頃とそう変わらない。いや、少しくらい身長が伸びただろうか。キャップの下に収められた黒髪は当時に見たリーゼントスタイルではないだろうが、顔は驚くほどあの頃のままだ。最後に会った俺の卒業式から十年が経ち、水戸も二十代の半ばを迎えているはずなのに、その童顔はまだ十代だと言われても信じられそうだった。
    何でこんなところにいるんだと目を瞬く。さらに驚くことには、水戸は俺の声に反応してこっちを振り向いた。
    「……え?」
    ぽかりと空いた口。大きく見開かれた目が俺を捉える。
    聞こえているはずがない。実際、さっきすれ違ったマンションの住人に俺は存在を認識されなかった。そのはずなのに、水戸はまんまるの黒目で俺を見つめたまま動きを止めている。
    「み、つい……さん? あんた、死んだんじゃ……」
    呆然とした声に名前を呼ばれ、やっぱり水戸には俺の姿が見えているのだと確信した。
    「おー……死んだ。死んでるはず。なんで見えてんの、お前?」
    聞いてみたら、水戸が変な顔をした。だって他の奴には見えてねーのに、お前にだけ見えてるっておかしいだろ。
    「水戸って霊感強ぇーの?」
    「いや……そんなことねぇと思うけど」
    眉を顰める水戸に、そうかと答えて首を傾げる。霊感があるわけではないなら、なぜ水戸にだけ俺が見えているのだろう。
    正直なところ、理由は別に何だって構わないのだ。ただ、水戸に俺の姿が見えるとなると大きな問題が生じてしまう。なにしろ俺が地上へ降りてきた目的は水戸なのだ。水戸を探し出して一目見る、という目的を早々に果たせたのは良い。もう二度と会話することもないと思っていたから、十年ぶりに会ったというのにこうして普通に話せていることも嬉しく思う。ただ、俺は水戸を見つけることができたら暫くの間こっそり水戸の生活を見守りたいと思っていたのだ。
    例えば、水戸が今どんな家に住んでいて、どんな暮らしをしているのか、ちょっと家にお邪魔してみたりだとか。どんな職場で何の仕事をしているのか、仕事中の姿を眺めてみたりだとか。変わらず桜木の応援をする姿や軍団の連中と楽しく過ごしたりする姿があるのであれば、ひっそりと輪の中に混じって雰囲気を味わってみたりだとか。
    列挙するほどにストーカーじみている気がするが、そんなつもりはない。断じて。
    そんな俺の思惑も、水戸に俺の姿が見えているとなると話が変わる。さすがの俺も自分の存在を認識している相手の後を付け、気にしなくていいからいつも通り生活してくれ、とは言えない。
    困った。まさか地上に降りて一時間も経たずに目的を失うとは。これから先、順番がくるまでの膨大な時間をどう過ごせというのか。
    ううん、と一人頭を悩ませる。水戸はまだこの状況が飲み込めていないらしく、俺をまじまじと見つめては短い眉を寄せ、怪訝な顔をしていた。そんな水戸の様子に、ふと、あれ? そういえば何でコイツここに居るんだ? と最初の疑問が戻ってくる。それを素直にそのまま尋ねると、水戸は何とも言えない顔のままで、花道が、と告げた。
    「三井さんのこと知って、でもさすがにすぐにアメリカからは飛んで来られないから家の様子だけでも見てきてほしいって連絡があって。急ぎの仕事だけ終わらせて来たら……死んでるはずの三井さんに話しかけられた」
    ねえ、これどういう状況? と、水戸は困惑というよりももはや半ば呆れ顔になっている。
    水戸の説明には納得がいった。確かに桜木には自宅マンションの住所を知らせていたし、俺が死んだとなれば国内にいる元湘北バスケ部の誰かから連絡くらいはいくだろう。幾らオフシーズン中といえど訃報から数時間でアメリカから即帰国というわけにもいかない。そこで桜木にとって一番仲が良く、一応は俺のことも知っている水戸に白羽の矢が立ったということだろう。
    それにしたって、十年も顔を合わせていない上、直接の先輩でもない相手の自殺現場に駆けつけてくれるとは、水戸もなかなかに義理堅い男だと思う。そういうところも好きだったんだと、俺は例の襲撃事件で全ての責任を負った水戸の姿を思い出した。
    「あー、まあ、俺にもよく分かんねー」
    誤魔化すように笑って返す。水戸は相変わらず複雑そうな表情をしていたが、それ以上追及しても無駄だと思ったのだろう。やがて一つ息を吐き、肩を竦めた。
    「四十九日くらいまでこっちにいるの?」
    「いや、多分もっと長く……」
    「なに、あんた成仏出来なかったってこと?」
    「うっせーな。あっちの世界に行ったら順番待ちだとかで帰されちまったんだよ」
    「なにそれ」
    水戸が片目を細めて笑う。昔と変わらない表情にドキリとした。
    三井さん、と言いかけた水戸が何かに気付く。みついの『つ』の形で口の動きを止めた水戸の視線の先。何かあるのかと、振り返って目で追った。
    少し離れた場所に立ち止まっていた二人組の若い女性。奇異なものでも見るような視線が、俺を通り越して水戸に注がれている。
    「……あー。やっぱお前以外には見えてねーんだな」
    彼女たちには一人で表情を変えたり何かに向かって話しかけている水戸の姿が奇妙に映ったのだろう。こそこそと水戸に視線を向けたままで何か耳打ちをしている。ふと、彼女たちの身に付けている服が、俺の所属していたチームのカラーである青と白を基調としたデザインだと気が付いた。手元には百合を中心としたささやかな花束が握られている。
    もしかすると、俺のファンだった子達なのかもしれない。どんな報道のされ方をしたのかは分からないが、周囲をぼかした映像でも近くに住んでいる人間ならマンションを特定することは容易いだろう。俺の死を知って、わざわざここまで来てくれたのだろうか。
    「あの人達、あんたに会いに来たんじゃない?」
    顰めた声で水戸が言う。
    お前もそう思う? と視線で問えば、そうでしょ、と小さな声が返ってくる。徳男たちのせいもあって普段からどちらかといえば男のファンの姿ばかりが目に付いていたのだが、俺にもこうして花を手向けに来てくれるような女性ファンがいたらしい。何だか擽ったかった。
    俺はゆっくりと歩き、彼女達に近付く。見えはしないと分かっていながらも目の前に立ち、深々と頭を下げた。応援してくれてありがとうの気持ちと、こんな形で会いに来させて申し訳ないという謝罪を込めて。
    水戸はその場から動かず俺の行動を見守っていた。あまりじっと見ているとまた彼女たちに不審がられるからと、徐に取り出した携帯の中身を確認する振りをしながら。
    彼女たちはマンションの道の向かい側、俺の住んでいた部屋の窓から見下ろせばちょうど見えるくらいの位置に花束を置いた。静かに手を合わせ、部屋を見上げて、二人で慰め合うようにして立ち去っていく。
    「……良いファンだね」
    「ほんとにな」
    彼女たちの姿が完全に見えなくなってから、水戸は俺の方へやって来ると隣に立ちながらぽつりと呟いた。俺は花束を眺め、同意する。
    水戸は何か言いたげな様子で俺を見たが、結局は何も言わなかった。俺はそのことに気が付かないふりをして、これからどうすっかな、と呟く。
    せっかく苦労して出てきたのに、すぐにまた自分の住んでいた部屋に戻るというのはあまりに骨折り損だ。とはいえ、ここから移動して実家に顔を出し、両親の姿を見るだけの気概は俺にはなかった。
    大切に育てられてきた自覚はある。幼い頃から、やりたいことは何でもさせてもらって生きてきた。グレてまともに家にも帰らず、散々親不孝をした時期もある。それでもバスケ部に復帰すると告げた時には自分のことのように喜んで、大学もプロ入りも誰より応援してくれた。一度は捩れて曲がった道を、無事に正すことができたと、きっと安心してくれたことだろう。それなのに、今度は何も言わずに命を絶った。どんなに俺の面の皮が厚くたって、俺のせいで憔悴しているだろう親の顔をすぐに見に行くだけの勇気はない。
    ふう、と深く息を吐く。こっちの世界へ降りてくる際、白衣の男は時間になったら迎えに来ると言った。状況が変わったからやっぱりそっちで働かせてくれと言いたくても、俺から向こうへはコンタクトの取りようがない。
    早まったかな、という後悔は、果たして現世に戻って来てしまったことに対してか、それともマンションから飛び降りたことに対してか。
    そんな詮無いことを考えていたら、あのさぁ、と水戸が口を開いた。
    「もしかして三井さん、行くとこなくて困ってたりする?」
    「ゔ……。まあ、そうだな」
    的確に図星を突かれ、一瞬言葉に詰まる。水戸は少しだけ考える素振りを見せ、ならさ、と続けた。
    「うちに来る?」
    「は?」
    さらりと告げられた水戸からの提案は全く予想外のもので、思わず間抜けな声が出る。
    「だって、死後の世界に行ったけど順番待ちだとかで戻されて、こっちに帰ってきたはいいけど俺以外の誰にも見えないからって困ってんでしょ?」
    「ん、まぁ……」
    「だったら暫くうちにいれば? そのうち花道たちにも会えるかもしれねーよ?」
    呆然と目を瞬く俺に水戸は続ける。どう? なんて聞かれるまでもなく、俺にとっては願ってもない申し出だ。だって俺ははじめから、水戸に会いたくてこの世界に戻ってきている。
    だけど。
    「……良いのかよ?」
    俺、お前のこと好きなんだけど。とはさすがに言えず、中途半端に口籠る。
    水戸は俺の言葉の意味などまるで理解していないようで、軽く頷いた。
    「うん。もてなしたりはしねーけど」
    「そんなもん、全然いらねー」
    「じゃ、決まり」
    そう言って水戸はへらりと笑う。あまりにも都合のいい展開の連続に、夢なんじゃないかと頬をつねった。
    歩き出す水戸の半歩後ろをついて行き、ここまで乗って来たという車の助手席に乗り込んだ。俺のために助手席のドアを開けて閉める水戸の姿は、他人から見れば奇怪に映ったことだろう。
    だけど何で俺にだけ見えてるんだろうね? とハンドルを握りながら横目で俺を見ながら笑った水戸に、俺は無い心臓をドキリとときめかせた。



    水戸の住むアパートは俺の住んでいたマンションから車で二十分ほど離れた場所に建っていた。
    軽量鉄骨造の二階建て。各階に部屋は二つずつ、計四世帯が住める造りになっている。築年数はそれなりに経っているようで、外壁はところどころ塗装が剥げかけていた。
    アパートの目の前、番号の振られた駐車場の一スペースに車を停める。運転席を出た水戸が助手席のドアを開けてくれるのを待ち、エスコートされている気分で車を降りた。
    足場の急な外階段を登り、二階右側の部屋の前で水戸の足が止まる。自由の女神が松明の代わりにバスケットボールを掲げているシュールなキーホルダーを付けた鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで右に九十度。ガチャンと音を立てたドアを開け、どうぞ、と中へ入るよう促された。
    飾り気のない玄関。揃えて置かれた靴は仕事で使うのだろう革靴と、ちょっと外へ出る時用らしいスリッポン。そこへたった今脱いだばかりのスニーカーを揃えて置く。恋人がいる気配はなさそうだ。
    お邪魔します、と呟いて、そこで初めて自分が素足だったことに気が付いた。部屋から飛び降りた時そのままの格好のため、靴は履いていない。外を歩いてもコンクリートや砂利を踏みしめる感覚がなかったせいで今の今まで気付かなかった。
    それから、じゃあ今着ているこの服は着脱できるのだろうかと疑問を抱く。試しにシャツに手をかけてみると、これにはしっかりとした手触りを感じた。死ぬ時に身に付けていたものに関してはこれまで通りに使用できるらしい。
    ふーん、と思いながらシャツやらズボンやらに触れていると、先に部屋へ上がっていた水戸が玄関まで戻ってきて、何してんの? と聞いてきた。ここで服が着替えられるか試してました、と言うのもおかしい気がしたので、いや、と言葉を濁す。
    「あー……足、拭いたほうがいいかと思って」
    片足をあげ、足の裏を見る。肉体があるわけではないから当然汚れもついてはいない。ただ、外を歩いてきた足でそのまま家の中へ上がるのは気分的に良くないだろうと思ってそう言った。
    しかし水戸はあっけらかんとした顔で、なんだそんなこと、と笑う。
    「別に気にしないよ。本当に汚れてるわけじゃないんでしょ?」
    家主がそう言うならと、俺はそのまま玄関を上がった。水戸の後を追い、部屋へ続くドアをくぐる。
    1Kのアパートは間取りがシンプルで、部屋は一つしかないものの、随分と広い。俺の住んでいたマンションよりに比べれば古く、部屋数もないけれど、二十代の男が一人で暮らすには十分な部屋だった。部屋の中央ではよほど長く使っているのか、それともリサイクルショップででも買ってきたのか、色の褪せた扇風機が首を振っている。
    部屋の中に物は少ない。それが余計に部屋を広く見せている。置いてあるのは、テレビと背の低いテーブル。ベッドはなく、端の方に畳んであるマットレスを敷いて寝ているらしかった。水戸の私生活なんて知らないはずなのに、何故だか水戸っぽいなと感じる。
    適当にしてていいよ、と言い置いて、水戸は部屋を出ていった。手持ち無沙汰に座椅子へ腰掛け、ぐるりと室内を見渡す。水戸の家に自分がいるということが、まだ信じられなかった。
    水戸が出て行って幾らもしないうち、部屋の向こうからくぐもった水音が聞こえだす。水戸がシャワーを浴びているのだと分かり、暫くは戻らないだろうと細く長く息を吐いた。どうやら俺は自分で思っているよりも水戸との再会に緊張していたらしい。
    改めて室内を観察する。意外なことにCDやゲームといった趣味の類のものは殆どない。散らかっているわけではないけれど、整頓されたわけでもなく、必要最低限の物だけが置かれている。生活感があるような、ないような、不思議な部屋。
    その部屋の端の方に、何冊か積み上げられた雑誌を見つける。俺を部屋に上げるのに隠しもしなかったということは、おそらく見られても問題のないものなのだろう。座椅子から離れ、そろそろと雑誌に近付く。よく見れば、それは見覚えのある月刊発行のバスケ雑誌だった。
    バスケを始めたばかりの頃からつい先日まで、不良として生活していた二年間を除いて毎月購読してきた雑誌。何度となく読み返したそれらは、号数を見ればどんな内容だったかをすぐに思い出せる。重なっていたのは今年発行のものばかり。全て、桜木か桜木の所属するチームが特集されている号だった。
    一番上の一冊を手に取ろうとして、自分では触れられないことを思い出す。まだ体を失ったという実感がないせいか、この数時間で何度も同じようなことを繰り返していた。読めない雑誌にがっかりとして、仕方なく座椅子に戻る。
    膝を抱えて座り込み、やることもなくうつらうつらとしていると、そのうち水の音が止んでドアが開いた。首にタオルをかけ、下ろした髪から水を滴らせた水戸が戻ってくる。小さくなって座っている俺の姿を見て少し驚いた顔をした。
    「好きにしてていいって言ったのに」
    「つっても、出来るコトがねーんだよ。物触ったり動かしたりできねーから」
    膝を立てて座り、顔の半分を腕の中に埋めたまま、目だけで水戸を見上げる。思いがけず拗ねたような言い方になってしまった。
    水戸は短い眉尻を下げる。申し訳なさそうな顔をした。
    「テレビでも点けて行けばよかったね」
    ごめん、と謝られ、俺は慌てて首を振る。こんな殊勝な態度を取られるとは思っていなかった。
    「いや、別にそういうつもりじゃ……」
    「うん?」
    「だから、えっと、お前が悪いとかじゃなくて、むしろ、なんか、気ぃ遣わせて悪かったなと思って……」
    自分でも何を言っているのか分からなくなりながら、とにかく水戸が謝ることじゃないんだと伝えようと言い募る。水戸はきょとんとして、それから何が面白かったのかくすりと小さく笑みを零した。
    俺の座る座椅子の横、フローリングの床に直に腰を下ろす。胡坐をかき、濡れた髪を右手が掻き上げる。そうするとかつて自分が恋をした高校生の頃の水戸のようで、胸の奥がざわつくような感じがした。
    水戸の家で、風呂上がりの水戸が隣に座っている。なんだかとんでもない状況な気がして、落ち着かない気分になりながら、ちらちらと水戸の様子を窺う。
    テーブルの上のリモコンを手にした水戸が、テレビの電源を入れた。明るくなった画面の中、なんとかいう最近売り出し中の芸人が大げさなリアクションを取りながら喋る声が部屋に響く。バラエティ番組特有の笑い声は、静かだった部屋を途端に騒がしくした。
    水戸がリモコンを操作し、チャンネルをいくつか変えていく。子供向けの国民的アニメや、話題のドラマ、クイズ番組。家族が揃って夕食を摂るこの時間はどのテレビ局もこぞって力を注いでいる。水戸はそれらにはあまり興味を示さず、最終的にスポーツニュースしかやっていない局にチャンネルを合わせて手を止めた。
    真夏の甲子園。ちょうど今日が最終日だったらしい。アナウンサーが試合結果を読み上げ、映像は試合の様子に切り替わる。坊主頭の日に焼けた高校生たちが躍動し、ボールを追い、歓声を上げた。
    同じスポーツではあっても、野球なんて体育の授業くらいしか経験はない。高校時代、湘北の野球部はさほど強くはなかったし、室内スポーツと屋外スポーツという違いもあって部としてもあまり関わることはなかった。それでも、テレビの中で繰り広げられる白熱した戦いには込み上げてくるものがある。
    暑い夏の日。一度きりの全国大会。夢も努力も青春も、全てを賭けて戦う選手たち。懐かしい記憶が蘇る。
    ブラスバンドが高らかに奏でる校歌と、チアリーディング部の華やかな応援。応援団の太鼓の音と、はためく横断幕に真っ白な長ラン。彼ら彼女ら応援席にとっても、一番必死で熱い夏。俺たち湘北バスケ部の応援には、いつでも不良の集団がいて、その中にあった水戸の姿をよく覚えている。
    水戸は黙って画面を見つめていた。俺と同じように、水戸にも何か思うところがあるのだろうか。流れる沈黙は、居心地の悪さを感じさせなかった。俺はかつて自分たちが部活に明け暮れた記憶と重ね合わせながら、テレビの中の光景に見入る。
    やがて試合のハイライトを終えると画面はスタジオに戻り、優勝校を讃えるアナウンサーの姿が映される。キャスターが今年の高校野球の大会について解説と総評を始めるその右上に、小さな文字で次のニュースの見出しが表示された。
    そこにあったのは、人気プロバスケットボール選手訃報の文字。甲子園の優勝という華々しいニュースに続けるにしてはあまりに暗いその内容。大会に挑んできた少年たちに、少し申し訳ない気持ちになる。
    「……三井さん」
    テレビからは目を離さず、水戸が口を開く。俺も水戸の方を見ることはなく、なんだよ、と返した。
    それきりまた、少しの沈黙。やがてニュースが切り替わる。
    『本日午前10時ごろ、国内プロバスケットボールリーグで活躍してきた三井寿選手28歳が、自宅マンションから転落死しているところを発見されました。死因は自殺と見られ、自宅には家族やチームに宛てた手紙が残されていたということです。』
    淡々とした口調で原稿を読み上げるアナウンサーの声。周囲をぼかした自宅マンションの映像が流れる。多分この映像は既に他の番組でも何度か使われているはずだ。
    画面は切り替わり、試合中やバラエティ番組に出演した時の俺の写真や映像が短く流れる。その後はバスケファンだという一般人へのインタビューに移った。
    「……何で死のうと思ったの?」
    さっきの言葉の続きを、水戸が尋ねた。俺は何と答えるべきか少し悩んで、結局のところうまい言葉が思い浮かばず、なんでだろうな、と他人事のような言葉を呟く。
    番組内ではキャスターが俺の引退と死因を絡め、自殺の原因は何かと考察していた。怪我を苦に、だとか、選手であることを諦めきれず絶望して、だとか、様々な憶測が飛び交う。どれも正解に近くて、どれも不正解だった。
    俺は苦しんで死を選んだわけじゃない。バスケを、自分の体を、所属していたチームを恨んだわけでもない。三井寿として、十分に生きたと思えたから、ただそれだけだ。
    「バスケをやってねー自分が想像できなかったからかもな」
    多分この先を生きていれば、もっとバスケがやりたかったと未練がましく思う日が来る。怪我した左膝を抱え込み何で俺なんだと活躍する選手たちを妬む日が来る。いつか、バスケをしていない自分に耐えられなくなる時が必ずやって来る。そうなるよりは、あー俺のバスケ人生楽しかったな、と笑って終わらせてしまいたかった。
    生きてさえいれば何だってできると言ったのは誰だっただろう。コーチへの道も、監督への道も、まだまだバスケと関わる術はあっただろうにと人は言う。だけど、そうじゃないんだ。俺がこの足でコートを駆ける感覚も、チームメイトからのパスを受ける感触も、指先の一本まで神経を張り巡らせてシュートを放つ瞬間も、ボールがネットを潜るその音も。全部、俺がコートに立つことでしか味わえないものだった。
    だから、死は解放だ。バスケから離れた自分を見なくて済む。もう二度とバスケはできないのだということを、自覚しなくて済む。
    アナウンサーとキャスターが、俺の冥福を祈ると頭を下げた。まさか祈られている本人が見ているとは思ってもいないだろう。
    「そっか」
    水戸は短く言って頷いた。
    あれこれ追求してこないところが水戸らしいと思う。受け入れられているようで心地良かった。俺に興味がないだけかもしれねーけど。
    ニュースはまた切り替わる。水戸はチャンネルを最初のバラエティに戻した。途端に騒々しい音が戻ってくる。
    「何か見たいのあったら変えていいよ。……って、触れないんだっけ?」
    リモコンを俺に渡そうとして、途中で気付いたらしい水戸が尋ねる。
    「ん、まぁな」
    「じゃあポルターガイストみたいなのって出来ないの? ほら、映画とかでよくやるじゃん。勝手にドア開いたり、電話鳴ったりするヤツ」
    「どうだろうな。やってみりゃ出来んのかもしんねーけど、壁通り抜けるのもかなりエネルギー使ったし」
    なってみて分かったのは、幽霊というのは思ったほど何でも出来るわけではないのだということ。自宅の玄関を擦り抜けるのさえ一試合にフル出場していた時以上の疲れを感じた。もうやりたいとも思えないが、どんなに急を要しても一日に二度が限度だろう。物を動かしたり音を鳴らしたり、そういうことをする霊はそれだけのエネルギーを持っているか、或いはそうしてまで生きている人間に何かを訴えかけようという強い思念があるのかもしれない。あいにく俺には持ち合わせていないものなので何とも言えないところだった。
    ふうん、と納得したのだかしてないのだがイマイチ判断のつかない相槌が返る。水戸が床に手をつき、覗き込むようにして俺を見た。距離が近付き、思わず背を反る。座椅子の背凭れに背中がぶつかり、それ以上は下がれなかった。
    何ビビってんの、と水戸が目を細める。咄嗟にビビってねーよと否定した声が上ずってしまって格好がつかない。くすくすと笑いながら、水戸の手が俺の顔に向かって伸びてきた。
    「触られるのは? どんな感じ?」
    水戸の手が頬へ触れる。腕とか足とか、他に幾らでも触る場所はあるというのに、何でわざわざ顔を選ぶかな。
    俺に心臓があったならドキドキと跳ねる音が水戸にも聞こえるほど煩かっただろう。触れられている部分からありもしない鼓動が伝わるのを恐れ、伏目がちに目を逸らす。
    「べ、つに、何も感じねー。なんか触られてんなってのは分かるけど、感触とかは特に」
    「ふーん? 俺も不思議な感じ。見えてるし触ってんのに触れてる感じが何もない」
    肌の感触だとか、体温だとか、空気の揺れだとか、普通あるべきそういったものは何もない。互いに相手が見えているからそこにあると認識しているだけで、見えていなければきっと水戸の側からは俺に触れていることにも気付かない。
    だけど一つ分かったのは、こっちから触る時と違って向こうから触れられている時にはこちら側への干渉があるということ。肌や熱の感触はなくても、何かに押されているとかそこに何かがあるという感覚はある。そもそものエネルギーが生きた人間の方がずっと強いんだろう。水戸が強く押せば俺はこの場に留まることは出来ず避けるしかない。押し退けられるとか、押し出されるとか、そういう感じ。だから俺がどんなに水戸の手を払おうとしても、水戸が俺に触れるのを辞めさせることは不可能だ。
    頬に触れていた手がするりと前髪を避け、指先が耳朶を挟む。見えているものと触っているものの感覚の差を試しているだけだろうに、距離が近過ぎてその行為の意味を勘違いしそうになる。
    「み、水戸……」
    耐え切れず名前を呼ぶと、水戸は視線を上げた。目がかち合う。黒い瞳はどこまでも深い色をしていて、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
    目線が合ったままで、水戸は何も言わずに更に顔を近付ける。吐息がかかりそうな距離。きゅうと唇を閉じ、両の手を握り込む。
    しかし訪れるかもしれないと身構えた感触はなく、水戸はぱっと触れていた手を離した。すぐに体を戻し、距離が生まれる。
    「んー、やっぱ近付いても分かんねーな。何もねーとこ触ってる感じ」
    自分の手をぐっぱっと閉じて開くことを繰り返しながら水戸が言った。
    「……そーかよ」
    一気に押し寄せる脱力感。緊張して損した。肩の力を抜き、触れられたばかりの頬を揉む。自分の手の感触はよく分かる。
    まだ落ち着かないどこかそわそわとした気分で開いて閉じてを繰り返す水戸の指先を眺めた。あの手が俺に触れたのだと思うと、感触なんてまるでなかったのに触れられた場所が妙に熱い気がしてくる。込み上げてくる感情を誤魔化すように、俺の方からも水戸へ手を伸ばした。
    俺から顔に触れる勇気はなくて、水戸の視線が向かう先の手にそっと手を重ねる。小指の先をきゅっと握り、どうだよ、と尋ねてみた。
    水戸が顔をあげ、少し驚いた顔をする。どういう表情だ? と首を傾げていると、水戸は俺の顔と俺の掴む指とを交互に見比べ、それから同じように首を傾げた。
    「うーん……。なんていうか、こう、空気の歪みとか揺れみたいなのが……ないような?」
    「ないんじゃねーか」
    「ないね。分かんない」
    ふは、と互いに顔を見合わせて笑う。さっきまでの妙な空気が霧散して、俺は少しホッとした。
    腹減ったなと呟いた水戸が立ち上がり、キッチンに向かう。どうしようかと迷って、結局俺もついて行くことにした。
    二口コンロのキッチンはそれなりに使われているようで、鍋やら食器やらがきちんと揃っている。片手鍋を一つコンロの上に置き、冷蔵庫の中から食材を取り出している水戸の姿を眺め、料理なんかするんだなと少し意外に思う。
    洗った野菜をまな板に乗せ、水戸は手慣れた様子で包丁を扱い始めた。トン、トトン、と規則的な音が響く。
    「お前、普段から自炊してんの?」
    「簡単なものだけね。その方が経済的だし」
    車にバイクに桜木の応援に、とかかる金は尽きない。一人暮らしでもまとめて作って冷凍にでもすれば食費は随分節約できるのだと言った。
    偉いなと思う。俺は今までそういうことは考えたことがない。
    「三井さんは? 料理とかしそうにないね」
    尋ねながら鍋にごま油を入れ、火を掛けてからぐるりと回す。その中へ玉ねぎを投入すると、ジュワッと音を立てて香りが広がった。
    「大学入って最初の頃はやってみたりもしたけどな。上手く作れねーし、時間はかかるし……面倒臭くなってやめた」
    マンションに移り住んだ際に一通り揃えてもらった調理器具を扱いきれず、すぐに投げ出したのを思い出す。実家にいた時は母親が作っていたし、一人暮らしを始めてからは買ったものを食べるか弁当で済ませていた。栄養面での偏りを指摘され、プロ入りしてからは外注することも増えたので健康的には過ごしている。
    正直に話すと、アスリートだもんね、と水戸が言う。それが引退をした俺を揶揄するものでも馬鹿にするものでもなく、ただ思ったことを口にしただけだと分かる声だったから、俺は嫌な気持ちにはならず、そうだなと返事をしておいた。
    鍋に水を料理酒を入れ、火をかけたそこに切ったチンゲンサイと白葱が投入される。粉末の出汁とみりんが加えられ、醤油が少し垂らされた。
    そうして煮込んでいる間に冷凍庫を開け、凍った鶏肉を取り出す。レンジに入れて解凍しながら、水戸は空いているコンロにフライパンをセットする。そうしている間に沸騰した鍋の火を弱め、味噌を溶く。おたまに掬った味噌汁の味をみて、水戸は小さく頷いた。
    俺が見ている前でも水戸はテキパキと動き、あっという間に食事が作られていく。解凍した鶏肉は油を敷いたフライパンの上で炒められ、醤油と砂糖で味付けされ、最後に一味唐辛子が振り掛けられた。更に細切りにしたにんじんを溶き卵で絡めたどこだかの郷土料理に似たものが皿に盛られる。炊飯器を開けて茶碗に米を盛り、箸を添えて居室へ運べば、それほど時間がかかっていないにも関わらずテーブルの上には立派な夕食が並んでいた。
    「すげぇな」
    零した言葉に、水戸は苦笑する。照れ臭そうに、大したものは作ってないよと謙遜するけれど、これを当たり前のように毎日こなしているのだと思うと俺は素直に感心した。
    水戸は再び床の上に腰を落ち着けると箸を手に取る。出来たばかりの食事を口に運ぼうとして、途中でその動きをぴたりと止めた。隣でじっと様子を見ていた俺が、どうかしたのかと首を傾げる。水戸はすいと箸の先を俺に向けた。
    「三井さんは? 食べない?」
    「いや、普通に食えねーと思うけど」
    肉体がないのだ。物自体に触れられないということは、きっと食べられもしないだろう。別に腹が空いたという感覚もないし、困りはしない。
    否定したというのに水戸が箸を引っ込める気配はなく、俺は困って箸の先と水戸の顔を見比べる。突き付けられている鶏肉は照りよく焼き目を付けられて美味しそうだとは思うが、どんなに食欲をそそられようが物理的に食べられないのだから仕方ない。どうしたもんかと思っていると、水戸は箸の先を更に俺の口元へ近付けた。
    「一応試してみなって、ほら」
    あーん、と促され、少し恥ずかしい気持ちになりながら口を開く。唇の隙間から肉を挟んだ箸が差し込まれ、俺はぱくりと唇を閉じた。
    予想していた通り、舌の上に乗せてみても味は感じない。水戸が箸で摘んだままにしてくれているから口の中へは落ちてこないが、一応歯を立て咀嚼の真似事をしてみる。当然噛み砕けるはずもない。
    暫くそうしてからごくんと喉を鳴らし、嚥下のふりをした。俺が口を開いて水戸が箸を引き抜く。口に入れる前と同じ状態の肉の塊がそこにはあった。
    「やっぱ無理だって」
    予想していた通りの結果に肩を竦める。しかし、味も温度も分からなかったとはいえ水戸の作った料理をその手で食べさせてもらったという事実の方がなんだかとんでもないことのように思えて、俺は内心かなり動揺していた。
    表面上はどうにか平静を保ち、呆れた顔を装う。水戸は、そうみたいだね、とさして残念そうでもなく呟いて、箸に挟んだままの鶏肉をぱくんと自分の口の中へ放り込んだ。
    「なっ……!?」
    今度こそ声が出た。俺が口に含み、真似事とはいえ噛み砕いて飲み込んだものを、水戸がそのまま食べたのだ。
    あまりの衝撃に口をパクパクとさせて言葉にならない声を発していると、水戸はなんでもないことのように、だって勿体無いじゃん、と言った。なんでもないことな訳あるか。
    「おま、おっ、おまえ、そそそそれっ、俺が食ったの……!」
    「いや慌てすぎでしょ」
    「慌てもするわボケ! それ俺が口に入れたやつだぞ!? 何考えてんだ!!」
    血液が沸騰する、というのはこういうことなのかと初めて知った。耳の奥で心臓の音が喧しく鳴り響き、急速に顔へと熱が集まる。俺にはもう流れる血液も心臓もないはずなのに。
    気持ち悪くねーのかよ、と半ば泣きそうな気分で尋ねると、水戸は不思議そうな顔をする。
    「だって別に唾液がついてるわけでもないし」
    「なっ、だ……っ!」
    「三井さん顔真っ赤。幽霊でも顔って赤くなるんだ?」
    水戸が目を細めて笑った。俺の反応を面白がっている。
    すっと伸びてきた手がまっすぐ俺の頬へ向かってきて、俺は咄嗟に身を引いた。揶揄われていると分かっていたけれど、これ以上近付かれるのはまずい気がした。何がまずいのかは、分からない。
    「なんで逃げるの」
    「お前が触ろうとしてきたからだろーが」
    「触らせてよ。もしかしたらさっきと違って体温感じるかも」
    そんなわけあるかバカ。ギッと睨み付けると水戸はあっさり手を引っ込め、ごめんごめんと軽い調子で謝る。
    こんなに性格の悪い奴だったか、と水戸から距離をとった場所で膝を抱えてぎゅっと縮こまりながら思った。といっても、俺は水戸のことをよくは知らない。高校時代、俺が見てきた水戸の姿といえば、応援席で試合を観戦している姿か、桜木や軍団たちとふざけ合っているところか、あの日バスケ部を襲撃した俺を殴り付けた冷たい瞳。その程度だ。
    知り合ってから卒業まで、一年弱。好きだと自覚してからは半年足らず。一方的に目で追って、チームを応援してくれていると嬉しくて、たまにたわいもない会話が出来ればその日は一日幸せで。それだけで満足だった。俺たちに特別なやりとりなんて何もない。
    俺の卒業から十年。それから一度も顔を合わせなかった相手を、知り合いが困っているという状況だったとはいえ、よく家に上げたなと今更ながらに思う。
    水戸は優しい。大切な友人の大事なものを壊しにきた俺を、桜木のためとはいえ庇ってくれた。自分には何の得もないのに謹慎を受けて、それを恩に着せることも文句を言うこともせず、謝罪以外の何も返せなかった俺を試合では当たり前のように応援してくれた。そしてそんな水戸の優しさに、俺はまた助けられている。
    「三井さん?」
    考え込んでいると名前を呼ばれ、ハッとした。水戸が食事の手を止め、訝しそうに俺を見ている。どうかした? と尋ねられ、俺は何でもないと首を振った。
    「お前のこと考えてた」
    「俺のこと?」
    「おう。お前には迷惑ばっかかけてんなと思って」
    水戸は一瞬きょとんとして、すぐに吹き出す。なにそれ、と笑う表情は初めて見るもので、こいつはこんな風にも笑うんだなと新たな一面を知った。軍団の連中や桜木とふざけて笑い合っている時とは違う、眉尻を下げた優しい笑顔。
    「迷惑だと思ってたらうちにまで呼んでねーよ」
    口元が弧を描く。俺は膝を抱え込む腕にギュッと力を込めた。
    また一つ、水戸のことが好きになる。
    遠い昔の初恋を昇華させるためにこの地へ降りてきたはずなのに、今改めて恋に落ちた。俺はもう、死んでいるのに。

    食べ終えた食器を洗う水戸の姿を少し後ろから眺め、それから特にやることもなく二人してぼんやりとテレビを眺めた。
    週末のこの時間に放送される人気映画の再放送。今日は金曜日だったかと、番組が始まってから気が付いた。水戸に明日は休みなのかと尋ねたら、そうだよと返される。そんな顔は見せないが、きっと水戸も疲れているだろう。こんなイレギュラーなこと、せめて休みの前の日で良かったと少しホッとした。
    字幕の映画を観るのはあんまり得意じゃない。文字を追っている間に映像が進んで、映像を見ている間に文字が流れていって、結局何が何だか分からなくなってしまうからだ。隣で煙草を蒸かしながら洋画を眺めている水戸の姿はどこか様になっていて、それが余計に俺の集中力を削いだ。
    映画に見入っているふりをしながら、チラチラと水戸の横顔を盗み見る。見れば見るほどに高校時代と変わらない。俺自身老けない方だと言われていたけれど、水戸のそれは不思議なほどに。
    「……どうしたの?」
    視線に気付いたらしい水戸が、前触れなくこっちを振り向いた。至近距離で目が合うとそれだけでドキリとする。慌ててテレビ画面へと向き直り、なんでもねー、と返す。
    水戸が更に何か言おうと口を開いた時、それを遮るように電子音が鳴り響いた。俺と水戸は同時に音の発信源を目で追う。音楽を鳴らしながら振動していたのは、棚の上で充電器に繋がれた携帯電話。言葉を飲み込んだ水戸が立ち上がり、音の出所であるそれを手に取った。ディスプレイに表示された名前を見て、忘れてたな、と小さく呟く。
    「花道から。あのあと連絡入れるの忘れてたから、多分その電話。ちょっと出てくるね」
    誰からと聞いたわけではなかったのに律儀にそう言って携帯をひらひらと振る。俺が頷くと、半分ほど吸い終えた煙草の灰を落として口に咥え直し、水戸は部屋を後にした。
    別に目の前で話してくれても良かったのだが、話す内容は俺のことだろうから、不用意な言葉が出ないようにと気を利かせてくれたんだろう。水戸はどこまでも優しくて良い奴だ。本人にそう言えば、きっと否定されてしまうだろうが。
    液晶の中ではその世界の主人公たちが英語で何か言い合っている。字幕を追うことをやめた俺には、言い争いの理由も何を話しているのかも分からない。そんな自分に馴染みのない言葉よりも、キッチンの方からポツポツと漏れ聞こえてくるはっきりとしない水戸の声に耳を澄ませている方がずっと有意義だった。
    水戸の声は案外に低くて穏やかだ。何を言っているのかまでは分からないが、時折、花道、と嗜めるように桜木の名前を呼んでいる。電話の向こうで感情を剥き出しにして喋っている桜木の姿が容易に想像できて、俺は小さく笑った。
    ドアの向こうの声に集中したくて目を閉じる。そうしているうち、なんだかうとうととしてきて、俺は一つ欠伸を溢した。テーブルに組んだ腕を乗せて枕代わりにし、そこに頭を預ける。
    ドアを擦り抜けるという、ひどく疲れる行為をしたからか、それとも今日一日で信じられないような出来事が次々と起こったからか。心地よい疲労感が体にのし掛かり、それが眠気に変わっていく。幽霊でも眠くなるんだな、とどこか他人事のように考えながら、俺は揺蕩う意識に身を任せた。
    どのくらいそうしていただろう。遠く、膜を張ったような声が聞こえる。それが自分の名前を呼んでいることに気が付いて、俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
    顔を上げ、ぼんやりする意識と視界で声の主を探す。
    「三井さん」
    今度はさっきよりもはっきりとした声が耳に届く。水戸がいた。桜木との電話は終えたらしい。
    掠れる声で、おう、と答えると、疲れちゃった? と尋ねられる。柔らかな声が妙に甘ったるくて、あーこいつモテるんだろうな、とどうでもいい感想を抱く。
    「幽霊でも眠くなるもんなんだね」
    さっき俺が思ったのと同じことを言って水戸が笑った。それから、寝るならこっちでちゃんと寝な、と促される。目線だけを動かして水戸の示す先を見れば、床にマットレスが敷かれていた。
    あれ、と首を傾げる。他に客用布団のようなものはなく、きょろきょろと室内を見渡しても寝床はそこだけしか見当たらない。
    「お前は?」
    「ん?」
    「水戸は何処で寝んだ、って」
    ああ、と納得した様子で水戸が笑う。それから当たり前のように、一緒に寝るけど、と言った。
    「は……?」
    思わず溢れた声。水戸の言葉を処理できずに問い返した俺は、多分世界一間抜けな顔をしていたと思う。水戸は気にする素振りもなく、だって他に寝る場所ないし、なんて言いながら俺を布団へと追いやった。
    水戸が使っているマットレスのサイズはセミダブル。成人済みの男が二人、ぎゅうぎゅうと引っ付きあって眠れば寝られないことはないだろうが、どう見たって狭い。俺は首を横に振った。
    別に何処で寝たって体が痛むわけでも風邪をひくわけでもないのだから、わざわざ二人で狭い思いをしなくても、俺は床にでも転がっていればいい。そう告げれば、水戸は眉を寄せ、一応お客さんなんだからそういうわけにもいかないでしょ、と言う。
    「いいから、ほら行った行った」
    「ちょ、……おい」
    追い立てられるようにして半ば強引に布団の上へと移動させられる。引く気のない水戸に一つ大きなため息を吐いて諦めた。せめて、と半身をずらしてスペースを空け、水戸に背を向けて横になる。
    水戸が隣に寝転がり、狭くない? と尋ねた。狭いに決まってんだろ。告げると、幽霊のくせに文句言わないでよ、と返される。好きな相手の隣で寝るにしては色気のないやりとり。それに少しホッとした。
    埒が開かないので目を閉じる。すぐに睡魔は再びやってきて、あっという間に眠りに落ちた。やっぱり疲れていたんだろう、深い眠りは隣に水戸がいることを忘れさせた。
    そして目が覚めたら、朝だった。




    ぴくりと瞼が動く。意識の浮上と共にゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が視界に広がった。
    次いで、ふわりと鼻腔を擽る煙草の匂い。自分が何処にいるのか一瞬分からず、もしかして何かやらかしたかと慌てて飛び起きた。
    カーテンの隙間から差し込む早朝の光。ヤニでうっすらと黄ばんだ古い壁紙。狭いマットレスの上、隣で眠る水戸の姿を認めて、俺はあっと小さく呟く。
    洪水のように流れ込んできた昨日の記憶。そうだ。俺は死んで、あの世と呼ばれる場所に行った。そこで順番待ちだとか言われて魂だけの状態で地上に戻されて、せっかくなら叶わなかった初恋の相手の顔でも見に行こうと思って……。そうして何故だか今、その相手である水戸の家に厄介になっている。
    健やかな寝息がすぐ近くから聞こえて、そっと寝顔を覗き込む。短い眉毛は普段よりも下がり、閉じた目元は穏やかだった。つるりとした頬や顎は脱毛でもしているのか生えかけの髭もない。下ろした前髪は瞼にかかるほどに長く、それが余計に幼く見える。
    高校時代は常にガチガチに固めたリーゼントヘアだった水戸だけれど、元々の髪質はさらりとしているらしく、触り心地が良さそうだった。伸ばしていた頃の俺の髪と近いかもしれない、と思って手を伸ばす。指先で毛先を摘もうとして、そこに感触を得られないことを思い出した。
    手のひらを広げ、視線を落とす。触れられないことがもどかしく、同時に期待をする余地もないことに安堵する。好きだなんて、伝えるつもりは最初からない。それでも初めて見る寝顔をいつまでも見ていたくて、さっきまで身体を横たえていた場所にぺたりと座り込み、水戸の寝姿をじっと見下ろした。
    暫くそうして見詰めていると、不意に水戸の瞼が持ち上がる。何の前触れもないそれに、俺は視線を逸らすことも出来ず、バチンと黒い瞳にかち合った。
    ぼんやりとした顔が俺を見て、瞬きを二度。それからゆっくりと口元が弧を描き、ふっ、ふふっ、と笑い出す。
    「見過ぎだよ、三井さん」
    可笑しそうに肩を震わせる水戸に、俺は咄嗟の言い訳も思い付かなかった。それほど見入ってしまっていたことを恥じ、苦し紛れに、うっせ、と唇を尖らせる。
    水戸は笑いを収めて目を細め、それから枕元の携帯に腕を伸ばした。画面を表示させ、時刻を確認する。
    まだ五時だよ、と言って、水戸は大きな欠伸を溢す。告げられた時間に、何も死んでまで今までと同じ時間に起きなくてもいいのにな、と自嘲した。
    掛け布団を引き寄せ、もう一度寝る体制に入った水戸を眺め、俺ももう少し寝ようかと考える。しかし頭の方はもうすっきりと目覚めてしまったらしく、待てども睡魔はやってきそうにない。どうしたもんかと考えて、結局はいつも通りロードワークに出ることしか思い浮かばなかった。
    寝入りかけた水戸を呼ぶ。うん、と答える声は既に半分眠っていて、申し訳ない気持ちになりながら、ちょっと外走ってきてぇんだけど、と告げる。水戸は欠伸をしながら緩慢な動作で起き上がり、気を付けてね、と玄関のドアを開けてくれた。
    一歩外へ踏み出すと、まだ低い位置にある朝日が晩夏の暑さと共に降り注ぐ。雲は少ないけれどじっとりと湿度が高い。その割に不快感を感じないのは、俺が死んでいて既に肉体を持っていないからかもしれなかった。
    俺はもう暫く寝てるから、と告げる水戸に見送られ、アパートの階段を降りる。見知らぬ土地で迷子にならないよう目印を覚えながら、裸足の足裏でアスファルトを踏み締めた。
    早朝の住宅街に人は疎で、時折ランニング中の若い男や犬の散歩をしている高校生とすれ違う。どんなに近くを走り抜けても、誰も俺に視線を向けない。俺が走るには向いていない服装なことにも、裸足なことにも、誰もが気付かず通り過ぎていく。やっぱり俺の姿は水戸以外の誰にも見えていないらしいと改めて実感した。
    目的地はなく、ただ気の済むまで道なりに走って行く。暫く行った先に大きな川が見えて、土手沿いに下りると河川敷に出た。野球やサッカーが出来そうな広いグラウンドがあって、朝も早いのに荷物を積んだ軽トラックが乗り入れてくる。土曜日ということもあり、試合でもあるのかもな、と思いながらまた足を進めた。橋のかかっている方へと進み、ぐるりと大回りしてまた同じ道を引き返す。
    そういえば、もう何年も続けている朝のロードワークを、昨日の朝は行わなかった。昨日は、もう死ぬと決めていたから。走りに行こうだなんて頭にすら浮かばなかった。それが、死んでからまた走っているのだからおかしなものだ。今更走ったところで、肉体を持たない俺は汗を流すことも出来ないというのに。
    空を見上げればいつの間にか太陽の位置は随分高くなっていた。流石に疲れて、適当な所で切り上げることにする。息も上がらない、汗もかかない、地面を蹴り出す感覚すらないのに、疲れた気分になるのはどうしてだろう。
    来た道を辿って水戸の住むアパートへ戻る。水戸はまだ寝ているだろうか。そういえば、戻ったらどうやってそれを伝えればいいんだろう。水戸が起きてきてドアを開けてくれるまで、玄関先で待ちぼうけを食らうことになるかもしれない。俺は自分がここにいると伝える方法さえ持たないんだなと、そんなことを考えながら走り続ける。なんだか急に孤独になったような気がした。
    アパート近くの児童公園横を通り過ぎると大きな時計が目に入る。時刻は七時。どうやらいつもと同じくきっちり二時間走ってきたらしい。そのままアパートを目指し、錆びた外階段を登る。
    部屋の前まで辿り着き、俺は驚いて足を止めた。玄関の扉が半開きになっている。ストッパー代わりに水をいっぱいに入れた2リットルのペットボトルが二本立っていて、それは当然俺が朝家を出た時にはなかったものだ。
    部屋を覗けば、ベッドの上に水戸の姿はなかった。どこに行ったのだろうと思っているうち水の音がして、洗面所から水戸が出てくる。
    「あ、帰ってきてたんだ。おかえり」
    髪を後ろに撫で付け、シャツの袖を捲った姿で水戸は言う。おかえり、なんて水戸から言われる日がくるとは、と感動しかけ、そうじゃないだろと首を振る。
    「お前、玄関……」
    「ああ。だっていつ帰ってくるか分かんなかったから」
    待たせるのも悪いし、ずっと玄関にいるわけにもいかないし、となんでもないことのように言う。
    「不用心だろ」
    「わざわざこんなボロアパートに泥棒に入る物好きもいないよ」
    さらりと笑って返し、水戸は俺が入ってきたばかりの玄関ドアを閉めに向かった。
    水戸は何も言わないが、おそらく七時という時間の起床は休日の水戸にとって普段より早いものなのだろう。ドアを開けて待っていてくれた玄関も、俺を気遣ってくれてのことだと分かっている。素直に嬉しいと、ありがとうと言えれば良かったのに、俺は何も言えなかった。そういう水戸が起こしてくれる行動の一つ一つに心をときめかせていると認めるのが嫌だったから。昨日からずっと、俺は水戸に心乱され続けている。

    「俺、今日は出掛けようと思ってるんだけど三井さんも来る?」
    朝食用に焼いたトーストを齧りながら水戸が尋ねた。隣で水戸に時折ページを捲ってもらいながら雑誌を眺めていた俺は、突然の誘いに顔を上げる。
    「あ? 俺も行っていいのかよ?」
    「いいよ、別に。って言っても、忠のとこだけど」
    「チュウ……?」
    出てきた名前には覚えがない。そんな名前の知り合いいただろうかと首を傾げると、水戸が笑って補足する。
    「野間だよ。覚えてない? 俺らと一緒にいた、髭の」
    「あー! 野間、アイツか!」
    桜木の友人集団の中にいた、長ランに髭の、高校一年生にしては少し老けた奴。思い出して、アイツらと水戸は今でも仲良くしているんだなと感慨深くなる。
    「アイツ、今は実家の酒屋継いでるんだけどさ。この前注文した酒が届いたって言うから取りに行こうと思ってて」
    「へぇ」
    懐かしい名前に興味を引かれた。ついて行ったところで向こうに俺の姿は見えないから思い出話ができるわけではないけれど、他にやることもないのでそれなら俺も行くと返事をする。水戸は頷き、残りのトーストを頬張った。
    それから水戸はのんびりと準備をして、家を出たのが十時前。昨日と同じく水戸の運転する車の助手席に乗り込む。シートベルトを引っ張ろうとして触れないことに気付き、あっと思ったら水戸が肩を震わせて笑っていた。うるせぇな、まだ慣れてねーんだよ。
    危なげなく運転する姿を隣で眺める。無理にスピードを出したりしない、丁寧で落ち着いた走行。不良らしくないといえばらしくなく、水戸らしいといえばそうとも思える運転だった。
    ふと、高校時代に水戸が愛用していた派手な色の原付を思い出す。軍団全員で、時には桜木も含めた五人分の体重を運んでいた水戸の愛馬。水戸はバイクが好きなんだろうと勝手に思っていたから、車に乗っているのは少し意外だった。
    尋ねてみると少し目を丸くして、よく覚えてるね、と水戸は言った。覚えているに決まってる。あの頃の水戸のことならなんだって。そうは言えず、目立ってたからな、と言葉を濁す。
    車に乗り込んで一時間。高速道路も使いながら、事故や渋滞に巻き込まれることもなく穏やかでスムーズな走行が続き、次第に見慣れた湘南の道に入っていく。
    地元と呼べる場所に戻ってくるのはいつ以来だろうか。去年の冬は帰らなかった。その前の年もなんだかんだと理由をつけて帰っていなかったから、もう二年半くらいになるかもしれない。調子が良くないことを知られるのが怖くて、大丈夫なのかと心配されることに耐えられなくて、ぐすぐずと帰れないでいるうち、結局そのまま命を絶った。両親としてはどんなに遣る瀬無かったことだろう。
    ひとり俯いていると、やがて水戸は車を停めた。着いたよ、と声をかけられ顔を上げる。古い看板に褪せた文字で、野間酒店の四文字が書かれていた。
    車を降り、水戸がガラガラとガラスの嵌め込まれた引き戸を開けて中に入る。続いて店に入ると、レジ前で壊れかけの椅子に腰掛け、やる気なさげに煙草を蒸している男が一人。
    「おう。相変わらずしみったれてんなー」
    「うるせー。うちは午前中は開店休業中なんだよ」
    水戸が片手を上げて声をかける。やり取りから察するに、レジで寛いでいるこのやる気のない男が野間なんだろう。
    野間からは俺の姿が見えていないのをいいことに、近付いてじっと観察する。高校の頃の記憶と照らし合わせると、こんな顔だったような気もするし、もう少し違ったような気もする。鼻の下には相変わらず口髭を生やしていて、それはなんとなく覚えているけれど、何しろあの頃は水戸がいればそっちばかり気にして見ていたから他の軍団の顔ぶれは記憶が曖昧でしかない。
    うーん、と更に顔を近付けて首を傾げていると横から水戸に押し除けられた。おい、と抗議の声をあげる。水戸はこっちを見もせず、俺を追いやるように手の甲を向けてしっしっと動かす。ムッとして唇を尖らせつつ、邪魔して悪かったなと悪態をついてカウンターの前から退いた。
    水戸が注文していたという酒を出してもらっている間、ふらふらと店内を歩いて並べられた馴染みのない酒瓶のラベルを眺める。日本酒も焼酎もワインも、生前殆ど口にしなかった。ビールだけは何度か付き合いで飲むこともあったけれど、口に広がる苦味が好きではなくて、スポーツドリンクの方がよっぽど美味いと感じる。酒屋で働く野間には悪いが、結局死ぬまで酒の美味さは理解できないままだった。
    「洋平。聞いたかよ、ミッチーのこと」
    不意に懐かしい名で呼ばれ、思わず振り返る。
    ガラス製の灰皿に煙草の先を押し付けた野間が、苦々しい顔をしていた。水戸の方は俺に背を向けていて表情が見えない。
    昨日テレビで知った時にはびっくりして、何かの間違いじゃねーのかってネットニュースなんかを調べまくった、と野間が言う。高校時代の後輩の友人でしかなかった野間が、それほど俺のことを気にかけてくれているとは思ってもいなかった。
    今日になってもまだ信じられないでいる、と野間が顔を顰める。水戸はそうだな、と抑揚のない声で同意した。
    「俺、花道に頼まれて昨日の夜ミッチーの住んでたマンション見に行ってきたよ」
    「あぁ!? えっ、で……どうだった?」
    ガタンッ。大きな音を立て、野間が手にしていたビール箱を落とす。大事な商品を落としたことよりも水戸から告げられた発言に驚愕しながら、怖々その時の様子を問いただそうと顔を寄せた。
    「どうもなにも。俺が行った時にはもう殆ど綺麗に片付けられてた。フツーに外からマンション眺めてきただけ」
    期待するような答えはないと水戸が首を振る。
    マンションを眺めていた結果死んだはずの俺と会い、話の流れで暫く家に置くことになったしなんなら今ここに連れてきている、なんてことはさすがに言葉にしなかった。言ったところで信じてもらえるはずもない。何言ってんだと、それこそ水戸の方が心配されてしまうだろう。
    「じゃ、やっぱミッチーは……」
    野間が落胆の色を滲ませる。散々ニュースを見て、それでも一抹の望みを持っていてくれたのだろうが、水戸は肯定するように小さく頷いた。
    深く長く、ため息が溢される。天を仰いで目を閉じ、暫くそうしたままで野間は動かなかった。水戸はそれに何を言うでもなく、黙って見守っている。
    やがて、ゆっくりと目を開けた野間が、真っ直ぐにこっちを見た。思わずびくりと体を強張らせる。しかし当然俺の姿が見えているわけではない。
    野間は落としたビール箱をよいせと拾い上げてカウンターに乗せると、俺のいる方へと近付いて来た。そのまますっと横を通り過ぎ、日本酒の瓶がずらりと並んだ棚の前に立つ。
    「なんで死んじまったかねぇ。テレビとか雑誌とか結構出てたろ。選手としてじゃなくてもまだまだ出来ることはあっただろーに」
    棚の酒瓶を物色しながら、惜しむように、呆れたように、野間は独り言ちる。
    確かに、試合に出られる時間が短くなり始めた頃から、少しずつ広報や指導に回ることが増えていた。選手としての役目を終えても監督やコーチ、元選手としての経歴を持って仕事ができるようにと、上はチームでの立場を築いてくれようとしていた。雑誌やらテレビのバラエティ番組やらで広報活動の一環としてモデルやタレントの真似事をしたこともある。元野球選手で今では解説兼タレントとして活動している人物の具体例を挙げ、ああいう道もあるのだと言ってきたのはチームのスポンサーだった。
    それでも。俺のために駆け回り手を尽くしてくれた人たちには申し訳ないが、残念なことに俺はそんなものには微塵も興味が湧かなかった。
    勿体ねーなぁ、と言いながら、野間が一本の酒瓶を手に取る。瓶の底とくびれた部分を持ち、水戸の元へつかつかと歩み寄った。水戸が頼んでいた酒とはまた別のものらしいそれを、ずいと押しつける。
    「ミッチーの墓参りに行くことがあったら供えといてくれや」
    思わずと言った様子で受け取ったそれを、水戸は手の中でぐるりと回す。ラベルを確認し、はっ、と眉を下げて笑った。
    その反応に興味を引かれ、水戸の後ろに回り込み、ラベルを覗く。日本酒らしいそれを、俺は初めて見た。赤いラベルに黒い字で書かれた銘柄。俺と同じの名前の酒。
    「俺、ミッチーの墓の場所なんか知らねーよ」
    困り顔で笑う水戸に、そりゃそうかと野間も笑った。それから、でも俺よりは行く可能性あるだろ、と肩を叩く。
    水戸は野間に気付かれないよう俺を見た。一つ頷く。それに水戸も小さく頷き返し、じゃあ一応預かっとくかな、と答え、他の酒と一緒に受け取った。
    酒を後部座席に積み込み、水戸は野間といくつか言葉を交わしてからまた連絡すると告げて店を出る。無駄に助手席のドアを開け閉めすると変に思われるからと、俺も酒と一緒に後部座席へ乗り込んだ。
    揺れる車内。割れないようにと丁寧に梱包された酒瓶を指先でつつく。こんなところで俺のことを気にしてくれていたヤツがいたということに、何だか胸の奥がツンと痛んだ。
    膝を抱えるようにして黙ったまま座っていると、バックミラー越しに水戸が俺の姿を見て、その酒知ってた? と声を掛けてくる。知らねー、と答えると、今度一緒に供えに行こうね、と慰めのつもりなんだか分からない約束を取り付けられ、俺は黙って曖昧に頷いた。

    無言の続く車内。やがて赤信号に引っ掛かり、車が止まる。水戸はそれが青に変わるのに合わせ、さてと、と俺たちを取り巻く空気を切り替えるように明るい声を発した。
    「三井さん、どっか行きたいとことかある?」
    尋ねられ、顔を上げる。ルームミラー越しに水戸と目が合った。行きたいところなんて別にない。強いていうなら、早めに地元から去りたくて、もっと言うなら知り合いに会わない場所が良かった。
    「別にない」
    答えた声は素っ気なく、自分でも感じ悪ぃなと思う。けれども水戸はそんな俺を気にした様子もなく、穏やかに会話を続けてくれる。
    「そっか。じゃ、買い物に付き合ってよ」
    「……いいけど、何買うんだよ?」
    「んー、服とか。一人だとなかなか休みに出かけて買いに行こうとも思わないしさ」
    水戸がそうしたいと言うなら俺に断る理由はない。提案を受け入れると、ありがと、と微笑まれる。目的地が大型のショッピングモールへと決まり、車は進路を変えた。
    後部座席で背凭れに寄り掛かり、窓から流れていく景色を眺める。会話のない空間を埋めるように、水戸はオーディオから音楽を流した。耳に馴染みのない音楽が車内に響く。海外のロックバンドらしいその曲が何を訴えているのか俺には理解ができなかったけれど、水戸は普段こういう曲を聴くのかとぼんやり思った。
    懐かしい地元の風景を通り過ぎ、やがて高速道路に向かう。水戸はETCレーンに車を滑り込ませ、スムーズに料金所を通過して行った。それからは高速道路特有の殆ど景色の変わらない真っ直ぐな道が続く。面白みのないガードレールが続いているのをじっと眺めているうちにうとうととし始め、気付けば俺は眠りに落ちていた。
    次に目を覚ました時には既に車は高速を降りていて、ちょうど目的の商業施設へと入っていくところだった。
    休日のショッピングモール。駐車場は混み合っていて、建物を出入りする人の多さに目が眩む。停車させる場所を探してゆっくり動いていると、ちょうど目の前で駐車場から出て行こうとする車があった。水戸は窓から顔を出して周囲を確認し、空いた場所へと車を滑り込ませる。
    枠線内にぴったりと収まる車。エンジンを切った水戸に、おつかれ、と声をかける。振り返る水戸は驚いた顔をしていて、なんだか少し笑えた。
    「寝てたんじゃないの」
    「今起きた」
    「三井さん、幽霊の割によく寝るよね」
    「うっせー」
    軽いやりとりの後、水戸が運転席のドアを開けて外へ出た。後部座席のドアを開けてもらうのを待って俺も車を出る。途端にむわりとした熱気が漂う。
    アスファルトの地面をじりじりと照り付ける日差し。俺以外、周囲を歩く誰もが汗をかいている。暑、と水戸が独り言を零し、さっさと中へ入ろうと自動ドアを潜る。すぐに冷えた空気が俺たちを迎え入れた。
    モール内は賑やかで、こういうところには久しく来てなかったなときょろきょろ辺りを見回す。休日の昼間ということもあり、家族連れやカップルが殆どだった。それから学生らしい集団も多い。メンズファッションのフロアを目指して進む水戸を一歩引いたところから眺めてみる。こんな休日の日中にひとりで歩いている若い男は珍しかった。
    水戸は普段もこういった場所へよく訪れるのだろうか。一人暮らしの家へ簡単に俺を受け入れたくらいだから結婚はしていないのだろうが、恋人くらいはいるのかもしれない。そういう相手と出かける時にはバイクよりも車の方が便利なのだろうと思うと、水戸がバイクから車に乗り換えたのにも納得がいく。
    前を歩く水戸の隣に、並んで歩く彼女の姿を想像する。さほど背の高くない水戸よりも更に小柄な、華奢で可愛らしい女の子。腕を絡めて表情を綻ばせる彼女と、それに応えてエスコートする水戸の姿が脳内で生成される。それがあまりにお似合いで、俺なんかと一緒に歩くよりよっぽど有意義に思えて、俺は自分が勝手に生み出した想像に唇を噛んだ。
    水戸がモテないわけがないんだ。そんなのは俺が一番よく知っている。
    急に焦燥感にも似た寂しさを覚え、俺は足早に水戸の隣へと並んだ。不思議そうな顔を向ける水戸を無視し、さっきまでの距離を埋めるようにぴったりとくっつく。
    ふと、目線の先に一つの店舗が映った。そこに飾られていた青いスカジャンが目に止まる。
    「なあ、アレ」
    俺はくいと水戸の服の裾を摘んだ。別にそうしたからといって水戸の腕を引けるわけではなかったけれど、水戸はすぐに気付いて立ち止まってくれる。
    「あーいうの、お前似合いそう」
    背中部分には黒と金の刺繍で虎が描かれている、青地に銀色のラインが入ったスカジャン。専門店らしく、他にも様々な色やキャラクターとのコラボ商品が並んでいたが、水戸に似合いそうなのは指を差したそれだった。
    俺の指先を目線が辿り、ああ、と水戸が小さく笑う。こういうの高校生の頃なんかよく着てたよ、と小声で言いながら店の中へと足を踏み出した。
    俺が指差したスカジャンをマネキンから脱がせ、羽織って見せる。鏡を見るふりをしながら体を捻り、どう? と水戸は表情だけで俺に尋ねた。
    似合っている。かっこいい。俺がそう口を開こうとするところへ割り込むように、よくお似合いですよと店員の声がかかった。若い男で、へらりとした笑顔が軽薄そうに見える。
    ありがとうございます、と水戸は愛想良く笑って礼を言う。俺は口を噤むしかなくなって、他にも新作が……と勧め始める店員と水戸のやりとりをただ見ていた。
    促されるまま幾つか試着はしていたものの、やっぱり最初に俺が選んだものが水戸には一番似合う。見る目がない店員にぶすくれていると、水戸は俺の様子を見て口元を押さえ、可笑しそうに肩を震わせた。
    結局何も買わずに店を後にし、もう少し落ち着いた感じの服が見たいと言う水戸に付き合って別の店舗を見て回る。秋物のカーディガンやジャケットを見繕いながら水戸は楽しげに店内を歩き回った。時々俺の方を振り向いてはどれが良い? と意見を求める。あれこれ考えながら一緒に服を見て回るのは楽しくて、水戸の方も、三井さんにはこういうのが似合いそう、なんて言いながら着られもしないのにこっちに服を向けてきたりもした。
    フロア内のショップを一通り見終える頃には水戸の腕にかけられた紙袋の数は増えていて、できることなら持ってやろうかと言いたくなる。その方がデートっぽいのに、と思って、自分の思考に首を振った。
    他に寄りたい店も特には思い付かず、買い物を終えて車に戻る。水戸は酒の乗った後部座席へと持っていた荷物を詰め込んだ。
    今度は俺も助手席に座り、水戸とさっき買った服の話なんかをしながら家路を目指す。途中、レンタルショップへ寄って映画でも借り、明日の休みは一緒にそれを観て過ごそうかと水戸が提案してきた。いいんじゃねぇの、と返すと、じゃあそれで決まりねと水戸は嬉しそうに笑う。車はアパートから程近いレンタルショップへと向かった。
    古い建物は自動ドアが開くたびにカタンとどこかが引っかかるような音を立てる。店内の照明も薄暗い。独特の匂いがする店の中はそこそこに広く、水戸は慣れた様子で棚の間をすり抜けていく。そして洋画の新作コーナーで足を止めた。
    「三井さんの観たいのも選んでよ」
    振り返り、水戸が告げる。
    「観たいのっつってもなー……」
    「別のコーナーのでもいいよ。三井さんの選んだのと俺の選んだのと、せっかくなら両方観よう」
    「あー……そうだな」
    昨夜、テレビで映画の再放送を観たのを思い出す。聞いたことはなかったが、案外水戸は映画好きなのかもしれない。提案を断るのも悪い気がして、俺は水戸と並んで棚を眺めた。
    目の前の棚を一通り目で辿るけれど、タイトルはどれも聞いたことのないものばかり。これといって興味を惹かれるものは見つからず、物に触れることができないせいでどんな映画なのかとDVDジャケットを手に取ることもできない。
    ここは正直に、洋画が、特に字幕映画が得意ではないと水戸に伝えるべきか。悩み、隣に立つ水戸をちらりと伺い見る。ジャケットの裏面を確認しながら映画を選ぶ水戸の横顔が思っていたよりも楽しそうで、水を差したくない俺は結局何も言えなくなってしまった。
    しかたなく、せめて俺が選ぶ分くらいは集中して観られそうなものにするかと、邦画コーナーへ向かうことにする。場所を離れることを水戸に伝えると、水戸は一瞬だけ俺の方へ視線を向け、分かったと頷いた。
    「こっち選び終わったら探しに行くね」
    「おう」
    手を挙げて応え、邦画の旧作コーナーへと足を向ける。さっきよりは気分も軽かった。
    ジャンルごとに五十音順で作品の並べられた棚。迷わずスポーツもののコーナーへ向かおうとして、俺はふと立ち止まった。バスケが出来なくなったことをきっかけに自殺した人間を隣に置いてスポーツ映画を観せられる水戸の心境を想像すると、何とも言えない気分になる。俺は踵を返し、アクション映画の並ぶ棚へと目的地を変えた。
    ジャケットの背表紙をざっと流し見る。カ行の半分を過ぎたところで、一つのタイトルが目に留まった。一度も観たことはないはずだが、随分昔にどこかで聞いたことがあるような気がするタイトル。どこで聞いたんだっけ、と首を傾げ、それからすぐに思い出す。
    あれは高校時代だ。バスケから離れ、ずるずると髪を伸ばして中途半端な不良の真似事をやっていた、俺の人生のうちで最も不毛な時間。よく鉄男たちと過ごした溜まり場で、もう顔も思い出せない仲間の一人が、もうじき公開される映画だとこのタイトルを話題にしていた。
    漫画原作の不良映画。主演の俳優がどうだとか、出てくるバイクがどこのだとか、いかにもな世界観が逆にリアルでいいんだとか、そんな話をしていた。あんまり原作が面白いと勧めてくるもんだから、じゃあ公開されたら観に行くかと返した覚えがある。
    そんな話をしたのが春先で、公開されたのが梅雨の時期だったから、その頃にはバスケ部に戻っていた俺は結局その映画を見損ねたまま。今の今まですっかり忘れていた。別に何か感慨があったわけではないが、他に観たいと思うものもなかったし、思い出したからには十年越しにあの頃見逃した映画を観てみるのも悪くはないかと、俺はその映画に決める。水戸も学生時代は長らく不良をやっていたのだから、きっとこの手の作品を嫌がることもないだろう。
    「決まった?」
    タイミングよく後ろから声を掛けられ振り返る。水戸の手にはディスクの入った透明なプラスチック製のパッケージが数枚握られていた。
    これ、と指差す先のタイトルを見て、水戸はああと声を上げる。
    「懐かしー。これ、俺らが高校生くらいの時だっけ?」
    「おー。ダチと観に行く約束してたけど結局行かなかったヤツ」
    水戸がジャケットを手に取りくるりと裏返すのを横から覗き込む。そこに名前を連ねている役者のうちの何人かは、この数年テレビでよく見かける人気俳優になっていた。現役時代に呼ばれたバラエティ番組で実際に会ったことのある人物もいる。
    「お前はコレ観たことあんのか?」
    「うん。花道たちと観に行った。大楠が……あ、金髪の奴ね。アイツがあの頃これのヒロイン役やってたアイドルの子にハマっててさ。でもこの映画の後すぐ彼氏との写真すっぱ抜かれてファン辞めちまったんだよなー」
    水戸はおかしそうに笑いながら言う。
    ディスクの入ったパッケージを抜き出す水戸に、観たことあるなら別のにするかと問うが、水戸は笑顔のままで手にしていたDVDにそれを重ねた。
    「いーじゃん、俺ももうあんま覚えてねーし。三井さんはまだ観てないんでしょ?」
    水戸がいいなら、と頷く。他には何かないかと聞かれ、特に思いつかなかったので首を振った。水戸はそのことを気にする風もなく、分かったと一言だけ返してレジへと向かう。
    水戸が店員に渡したDVDは全部で五枚。アルバイトらしき眼鏡をかけた若い女性店員が一枚ずつバーコードを読み取っていく。そんなに観るのかよ、とつい口から本音が溢れた。水戸は俺に何も答えず、黒の皮財布を取り出して会計を続けている。
    店員がDVDをレシートと一緒に専用の貸出袋に詰め、水戸へ渡した。水戸は小さく頭を下げて袋を受け取り、出口に向かう。水戸の背中に向けられる、ありがとうございましたと告げる声。水戸は数歩進んで他に誰の目もないことを確認してから、別に全部一日で観る必要ねぇからさ、とさっきの呟きに対する応えを俺に告げた。
    「ここに置いてある映画、全部観終わるまでには順番が来るといいね」
    がたつく自動ドアに見送られながら店を出る。
    俺を振り返り、実年齢よりもずっと幼く見える笑顔で言った水戸。全部ってどんだけ時間かかるんだよ、とか、お前それまで俺に付き合い続けるつもりなのかよ、とか、色んな言葉が頭に浮かんだ。そのどれもを飲み込んで、そーだな、とだけ返す。
    車のキーを開け、水戸は助手席のドアを開けた。 俺は礼を言ってそこへ乗り込む。
    助手席のドアを閉め、運転席側に回り込んだ水戸が乗車し、エンジンを掛ける。映画といえばポップコーンとコーラでしょ、と楽しげな顔を見せる水戸に付き合っているうち、陽は少しずつ傾いていった。




    水戸の家に住まわせてもらうようになって三週間が経つ。夏の暑さは少しずつ収束し、残暑の中にも心地良い秋風が吹くようになった。季節がひとつ、移り変わろうとしている。
    突然の再会と成り行き上の居候生活は、案外つつがなく続いていた。水戸が俺を追い出す気配は今のところ見られない。
    「……くぁ、」
    大きな欠伸を一つして横になっていたマットレスから身を起こす。
    隣で眠る水戸の姿にびっくりして飛び起きていたのも三日目まで。その数が片手の指の本数を超える頃には同じ布団で眠ることにも慣れ、十日目を超えたあたりで何年も続いていた五時起きの習慣さえ水戸の起きる時間に修正された。初恋の相手が、そしてこの数日で今なお好きだと思い知らされた相手がすぐ横で寝ているというのに、よくもまあ慣れられるものだと我ながら呆れる。高校時代、宮城から下された図太いという評価は健在らしかった。
    カーテンの隙間から差し込む朝日。平日は六時半、休日は午前中であれば大健闘。これが水戸の、そして今の俺の起床時間だ。俺がこの家に来た初日、いかに水戸が無理をして俺の起床に合わせてくれていたのかが分かる。とはいえ、俺の方はいくら五時起きの習慣がなくなったとはいっても昼までには確実に目が覚めてしまうのだが。
    健やかな寝息を立てている水戸の頬を指先でツンとつつく。触れた感触があるわけでもなく、水戸の頬を押せるわけでもない。全くと言っていいほど無意味な行動。
    「水戸ー。朝だぞ、起きろ」
    宿代がわりのモーニングコールも習慣になったことのひとつだ。目覚まし時計のけたたましい音が嫌いだと零した水戸のために始めたことだが、一度の声掛けで水戸が目を覚ましたことはない。
    「みーと。水戸、水戸、みとー!」
    耳元に顔を寄せて繰り返し名前を呼ぶ。ぅん、とむずかるような声をあげ、水戸は短い眉をぎゅうと寄せた。普段は見せない幼い仕草に胸の奥がきゅっと鳴る。
    「起きろよ。なぁ、起きねーと、」
    キスしちまうぞ。言いかけて、ぐっと口を噤んだ。冗談でもそれを言ってしまったら、今ある何かが崩れてしまう気がしたから。
    俺が身を引くのに合わせ、ぴくりと水戸の瞼が動いた。
    「……起きねーと、なに?」
    水戸が薄く目を開く。少し掠れた寝起きの声。
    さっきの欲望を口に出さなくて良かったと安堵しながら、俺は誤魔化すように水戸の額を軽く弾いた。いて、と水戸は小さく呟く。嘘つけ、触られた感覚もねぇくせに。
    「起きねーと、仕事遅れんだろーが」
    「んー……」
    それらしい続きを言ってやれば、水戸は眠そうに瞼を瞬かせながらもゆっくりと上体を起こした。上掛けを剥いで雑に畳み、欠伸をしながらぴょんぴょんと髪の跳ねた後頭を掻いている。
    時計を見れば既に六時四十五分。朝の時間というのはどうしてこうもあっという間に過ぎてしまうのか。
    やべ、と声を上げ、水戸は洗面所へ向かった。ざばざばという洗顔の音が部屋の向こう側から聞こえ、そのあと暫くして歯磨き後のうがいをする水の音。戻ってきた水戸がパジャマ代わりにしているTシャツを何の躊躇もなくバサリと脱いで着替えるのを、俺は慌てて顔を逸らすことで視界の外に追いやった。
    胸元のボタンを二つ開けた水色の襟付きシャツに黒のチノパン。ネクタイはなく、シャツの裾も外に出している。仕事に行くにしては随分とカジュアルな格好だが、水戸にはよく似合っていた。
    ここに住まわせてもらうようになってから、何度か水戸の仕事について聞いてみたことがある。その度に上手くはぐらかされて、結局水戸がどんな仕事をしているのかは未だにまるで知らない。一度、一緒に家を出て水戸の職場まで着いて行こうとした時には、良い子で待ってな、と冷たい目で静かに言い含められた。それ以来、水戸の仕事について尋ねることはしていない。水戸を怒らせると怖いということは、誰よりも身に沁みてよく知っているので。
    では水戸のいない日中を俺がどのように過ごしているかというと、それはその日によってまちまちだった。
    基本的には暇を持て余すので外に出る。ふらりと電車に乗って目に付いた人の向かう先について行ってみたり、水族館や動物園なんかを一人でうろついてみたり、公園のベンチに腰掛けて虚空に向かってワンカップ酒片手に一人喋っているおっさんの隣に座って話に相槌をうってみたり。時々は一日中家にいて、水戸の点けて行ってくれたテレビをぼーっと眺めたり、今となっては全く意味のない筋トレなんかをしたりもする。
    いつだったか、仕事人間だった爺さんが定年退職したらやることがなくなってしまい時間を持て余して困る、というような話を耳にしたことがあったが、その気持ちがなんとなく分かる気がした。昔から俺にはバスケだけだったから、そのバスケがなくなると何をして良いのかが分からない。グレていた時に覚えた遊びなんかも、肉体を持たない俺にはもうできなかった。
    「俺、もう出るけど。三井さんは今日どうするの?」
    寝癖の付いていた髪を後ろへ流して整えた水戸は出掛ける支度ができたらしい。グラスに注いだ牛乳を喉へ流し込みながら、時計をちらりと確認して声を掛けてきた。
    仕事がある日、水戸は基本的に朝食を摂らない。食べる時間があるならギリギリまで寝ていたいと言う水戸に、それならせめて飲み物だけでも腹に入れて行けと告げてから、朝の牛乳一杯分が習慣になった。冷蔵庫の中には、一緒に買い物に行った際に俺が勧めた牛乳のパックが常備されている。
    水戸からの問い掛けに、俺はどうしようかと顎に手を当て首を捻った。昨日は少し前まで所属していたチームの様子を見に行ってきたばかりだ。俺が死んで暫くは色々な対応に追われていたようだが、最近ようやく落ち着いて練習を開始できるようになったらしい。迷惑をかけたことを心苦しく思いながらも、練習に励むかつてのチームメイトたちの姿に安堵の気持ちもあった。
    今日は特に出掛けたい場所があるわけでもない。昨日かつてのチームメイト達の姿に色々と考えたところもあって、今日はゆっくり過ごすのも良いかと思う。
    「あー……。特に行きてぇとこもねーし、今日は残ってる」
    「そ? じゃあテレビだけ点けとくね。あと他に欲しいものとかある?」
    「いーって。遅れんぞ、早く行けよ」
    ひらひらと手を振れば、水戸ははいはいと苦笑してあまり物が入っているようには見えない薄い鞄を手に取った。それからテレビの前に置いてあったレンタルショップの袋を取り、無造作に鞄の中へと突っ込む。
    「帰り、新しい映画借りてくるから。七時前くらいになるかな」
    「ん。気を付けてな」
    水戸が玄関に向かうのに付いて行き、靴を履き終えるのを見届ける。いってきます、と振り返った水戸が、俺の顔を見るなり可笑しそうに噴き出した。
    「なんだよ」
    「だって、まさかあのミッチーに送り出される日がくるなんてさ」
    なんか変な感じ、と水戸が肩を揺らして笑う。またそれかと呆れ、肩を竦めた。以前に水戸が出掛ける際、一人残る選択をした時にも同じことを言っていた。よっぽどこのシチュエーションがツボにハマっているらしい。
    いいからさっさと行けよと家主を追い出す。水戸はまだ笑ったまま、改めて行ってきますと告げる。バタンと音を立ててドアが閉められた。鍵のかけられる音を聞き届けてから部屋に戻る。厚みのあるドアの向こう側で、カンカンと古い外階段を降りていく足音が小さく響いた。
    部屋に戻れば水戸が点けて行ったテレビが朝の報道番組を流している。スポーツの話題はプロ野球選手の誰それが試合中に肘を故障したというものだった。幸い大した怪我ではないようで、少しの間通院とリハビリを受けることで数ヶ月先には復帰できる見込みだと告げている。
    番組中、俺の名前は一度も登場しなかった。既に俺の自殺からは三週間も経っている。数年前に国内プロリーグが発足したとはいえ、未だメジャーなスポーツではないバスケットボール。怪我で引退した一選手の訃報は、もう取り沙汰されることもなかった。
    その後、関心のない政治的な話題に移ったテレビから視線を外し、さて今日一日何をして過ごそうか、と考える。悩んでみたところで別に何が出来るわけでもない。結局はつい一時間ほど前まで水戸と共に横になっていたマットレスへ戻り、ごろんと寝転がった。
    経年劣化で染みの浮いた天井を眺めながら、物に触れたり動かしたりすることが可能なら水戸が出掛けているこの時間に掃除や洗濯くらいの手伝いができるのに、と詮無いことを思う。死んで魂だけになってしまった俺には、もう到底人間らしい生活はできない。
    目的もなくただゴロゴロとしているだけでも時間は経つ。ふと、物を動かすにはどの程度のエネルギーが必要なのだろうかと気になった。壁を擦り抜けることができるくらいだから、きっと物体を動かすことも丸切り無理というわけではないだろう。
    布団から体を起こし、部屋の隅に重ねられた雑誌に触れてみる。壁を擦り抜けた時もイメージが大事だったはずだと思い出し、動け動けと念じながら集中力を持ってページを捲る仕草をする。ひらりと一枚、表紙が動いた。
    「おお……!」
    思わず感嘆の声が漏れる。今まで無理だと決めつけて試していなかっただけで、案外やろうと思えば動かせるものらしい。面白くなって、近くにある物に次々と触れてみた。
    暫くそうして分かったことは、紙や布なんかの軽いものは案外簡単に動かせるということ。重いものほど、そして長く動かそうとするほど集中力とエネルギーが必要になる。テーブルくらいの重量になると動かすことはほぼ不可能に近く、軽い物でも動かせるのは集中力が続く限りのようで、精々五分が限界だった。
    ドアを擦り抜けた時ほどの途方もない疲労感はなかったが、それでも結構な倦怠感を感じる。しかし、これなら暇潰しに雑誌や本を読んだりするくらいのことは可能だろう。慣れてくれば水戸の外出中に洗濯物や皿洗い程度なら手伝えそうだった。
    もう少し早くに試してみれば良かったな、と思い、ふと周りを見渡す。気付けば部屋の中は俺の動かしたもので散らかっていた。
    慌てて全てを元に戻す頃には昼を過ぎていて、一つ一つの物を動かすにも生きていた頃よりかなり時間を要するのだと新たな発見を得る。同時に、一度に色々と動かし過ぎてずっしりとした疲れが俺の身を襲った。
    歩くことも億劫なほどの疲労感に、その場でゴロンと仰向けに転がる。使い過ぎたエネルギーの回復には時間の経過を待つしかない。耳の端で流れている平日昼の連続ドラマを聞き流しているうち、いつの間にか眠ってしまったようだった。
    目が覚めたのは日が沈み始めた頃で、随分長い時間眠ってしまっていたことを知る。幽霊のくせによく寝る、と以前水戸に言われたが、生前よりもむしろ寝る頻度も時間も多くなったと俺自身感じていた。おそらく、単純にエネルギーの所持量と消費量のバランスが生きていた頃とは大きく違うのだろう。スタミナ不足、と言われると、バスケ部に復帰したばかりの頃のことを思い出す。大事な試合の途中でバテて倒れ使い物にならなくなったこともあったなと、苦くも懐かしい記憶に苦笑した。
    昼寝というには長過ぎる睡眠をとったお陰か、全身にのしかかってきていた怠さはすっかり消え去っている。身を起こしてカーテンの隙間から外を覗いた。あと二時間もすれば水戸が帰ってくるだろう。
    そういえば水戸が出掛けに映画を借りてから帰ってくると言っていたことを思い出す。水戸が例のレンタルショップへ映画を借りにいくのは、これで四度目だ。水戸と共に出掛け、その帰りにレンタルショップへ寄ったその日から、毎日一本、二人並んで映画を観ることが日課になっていた。
    仕事を終えて帰った水戸が風呂を出て、手早く作った夕飯と缶ビールを用意して室内の電気を絞る。俺はその横に座って、一緒にテレビを眺めるのが常だった。
    水戸の選ぶ映画はどれも面白い。ちゃんと最後まで観られるだろうかと不安に思ったことが嘘のように、今では今日はどんな映画だろうと楽しみに水戸の帰りを待つようになっている。
    今まで一緒に観た映画の大半はアクションもので、SFやミステリーなどがそれに次ぐ。時々は邦画やアニメ映画、アメコミ作品の実写版なんかを観ることもあって、水戸は幅広いジャンルに精通しているらしかった。俺は字幕が苦手だとは一言も言わなかったのに、再生される映画はどれも日本語に吹き替えてあるものばかりで、一度どうしてかと尋ねたら、こっちの方が見やすいでしょ、と微笑された。俺が普段あまり映画を観ないということに水戸はとっくに気が付いていて、字幕を追うことが苦手なこともきっとバレている。さりげない優しさが嬉しくて、同時に俺なんかがこんなに優しい水戸を独占していていいのだろうかと罪悪感を抱いた。
    水戸は毎日仕事から直帰して俺と二人で夜の時間を過ごし、朝は俺に起こされて仕事に向かう。俺が水戸と暮らし始めて今日までにあった計六回の休日も、結局は全て一緒に過ごしていた。彼女がいるような気配はない。話題に上がる友人は俺も知っている高校当時の奴らのことばかり。惚れた欲目を抜きにしたって、水戸がモテないとは思えないのに。
    いいのか、と何度聞こうとしたことか。ずっと俺なんかに構ってていいのかよ、と、人生を棒に振ってんじゃねーのか、と。言ってやりたくて、だけどそれを口にして、じゃあ女の子と遊んでこようかなと言われることが怖くて、結局は出かけた言葉を飲み込んだ。
    もう少しだけ、あと少しだけ。水戸と過ごす時間の居心地の良さにどんどん欲が湧いてくる。一目見られたら嬉しいと思って現世に戻ってきたはずが、いつの間にか、もっと長く、もっと近く、水戸と一緒にいたいと願うようになっていた。欲深過ぎて自分に呆れる。
    そんな俺の心情を知ってか知らずが、その日水戸が選んだ映画は有名なラブストーリーだった。
    「こういうの、あんまり観ないかもしれないけど名作だよ」
    映画に疎い俺でもタイトルを知っているような有名作。1950年代にアメリカで公開されたその作品は、イタリアを舞台に身分違いの男女が辿るたった一日の恋の物語。観光気分にはしゃぐ異国の王女と、その正体を知りながらローマを案内する記者の男。次第に惹かれ合い、けれどその想いを交わすことはなく、最後にはそれぞれのあるべき場所へと戻っていく二人の切なくも美しい恋の物語。
    エンドロールが流れる中、俺は隣にいる水戸の、ビールの缶を持つ手に触れた。やっぱり感触なんてありはしない。
    「どうしたの?」
    水戸が不思議そうに俺を見る。
    なあ、お前。どういうつもりでこれを俺に観せたんだよ。俺の気持ちに気付いてて、それでこんなの選んだのか。身分差どころか男同士で、それより何より俺はもう生きてもいなくて、俺とお前が結ばれるはずがないって言いてえのか。
    「三井さん?」
    分かってるよ。分かってんだよ。最初からお前とどうこうなりてーとか思ってなかったんだよ、俺は。それなのに、お前が俺を受け入れるから、家にまで呼んで隣にいることを許すから。お前に俺が見えなかったら、見えたとしても放っておいてくれたら、家に住まわせたりしなければ、隣で寝ることを許したりしなかったら、毎日一緒に過ごす時間なんか作らずにいてくれたら。そうしたら、今更こんなに、昔よりもずっと好きになったりなんか、しなかったのに。
    何も言わずにいる俺に、水戸が困惑した顔で呼びかけてくる。
    なあ、お前、俺の気持ちどこまで分かってんの。それとも本当は何にも分かってねーの。聞いてやりたくて、だけどやっぱり聞けなくて、俺は諦めて目を伏せる。
    「映画良くなかった? それとも何か……」
    「水戸」
    心配そうな声を遮り、水戸の名前を呼んだ。水戸は続く言葉を飲み込んで俺を見たまま次の言葉を待っている。けれど俺は言葉を返さない。代わりに、強く念を込めて水戸の手を握った。今日一番に集中して、強く強く握り締める。
    やがてフッと力が抜けた。手を離し、水戸の顔を窺う。
    「なんか感じたかよ?」
    「なんか、って……?」
    水戸は俺の触れていた部分に目をやり、それから俺に視線を戻す。俺は苦笑した。そこら辺に置いてある物と違って、やっぱり人間には、水戸には、俺の触れる感覚は伝わらないらしい。
    「あー……、ちょっとした実験。お前が仕事行ってる間に紙とか軽いもんなら動かせることに気付いたからよ。人にも触れんのかな、って」
    「え? あ、そうなの?」
    「ん。けどやっぱ生きた人間のが強ぇんだろーな。ダメみてぇ」
    ひらひらと手首を振ってみせる。誤魔化しが半分。あとは本当に残念な気持ちと、ほんの少しの安堵と、自分でもよく分からない感情と。
    俺と水戸とはどうあっても交わることはないんだと、再確認させられた気がした。
    水戸が何かを言う前に、畳み掛けるように見てろよと告げる。部屋の隅で積み重ねられた雑誌の山に移動して、一番上に置いてある雑誌に触れ、念を込めながらページを一枚捲った。
    俺の意思に従い、ぺらりと表紙が捲られる。カラー扉に使われている写真は、俺も何度か試合したことのある国内チームの選手がレイアップシュートを決めている瞬間を切り取ったもの。
    おお、と水戸から感嘆の声が上がる。これが偶然の現象ではないと示すため、続け様にもう一ページ捲ってみせた。
    「な。軽いもんとかなら、やろうと思えば割と触れるみてえ」
    だからお前が留守の間にも少しくらい何か手伝えることがあるかも、と言いかけて、ふと水戸がそんなことは望まないのではないかと気が付いた。家の中のごく私的な持ち物を、水戸の大切な物やなんかを、あちこち触れまわるような奴が家の中にずっと居座っているというのは、気持ちのいいものじゃないだろう。まして俺は、水戸のことが好きなのだ。
    一度そんなことを考えてしまうと、思考はどんどん良くない方面へと向かっていく。水戸は俺を気味悪がるのではないか。もしかしたら、それならここじゃなくてもやっていけるでしょ、とでも言って突き放されるかもしれない。考えて、ありもしない血の気がサーッと引いていった。
    なかなか次の言葉が出て来ない。何を言うべきか言わないべきか、分からなくなって少し俯き、自分の手元を見やった。
    「じゃあさ、」
    俺が言葉を紡ぐよりも先に、水戸が口を開く。
    好きな相手から出て行けと言われてしまうかもしれない、と怯えた俺は、ぎゅっと目を瞑って水戸からの言葉に備えた。
    けれど、水戸は俺が考えていたような言葉を口にすることはなく、名案でも思い付いたように、じゃあさぁ、と繰り返す。
    「バスケ、出来るんじゃない?」
    「……は?」
    思わず顔を上げた。間抜けな声を発した俺を気にせず、水戸は続ける。
    「他の人に見えないんじゃ試合はできないだろうけどさ。ボール持ったりするくらいはできるってことでしょ? シュート練習、できるじゃん」
    やることができて良かったね、と水戸が微笑む。俺が普段暇だのやることがないだのとぼやいているのを聞いているからの発言か、もっと他に意味を含んでの言葉なのかは分からない。
    俺はぽかんと口を開けた。ぱちりと瞬きをひとつ。何を言われているのか脳が咀嚼できず、頭の中で水戸の言葉を復唱する。それからようやく理解して、いや、いやいや、と首を振った。
    「どこでやんだよ。俺見えねーんだって。勝手にボールが動いてたらホラーだろーが」
    戸外のストバスでボールが一人でにリングを潜っていたらあまりに目立ち過ぎる。かといってどこかの学校の体育館にでも忍び込めば、誰かに見つかった時には学校中大騒ぎになることだろう。七不思議の一つに数えられるのは冗談じゃない。
    俺の反論に、水戸はそれもそっかと少し残念そうに納得した。そーだろ、と俺も頷き返す。バスケができなくなって死んだのに、死んでからもう一度バスケをやろうなんて考えもしなかった。
    「それによぉ、なんでも触れる訳じゃねーんだって。軽いもんしか持てねーし、動かすにもめちゃくちゃ集中力いるし」
    「バスケしてる時以上に三井さんが集中することなんてあるの?」
    「……ねーけど」
    答えた俺に、水戸が笑う。バスケ馬鹿、と言われたようで唇を尖らせた。間違っていない分、否定することもできやしない。
    じゃあさ、と再び言って、水戸は俺の顔を覗き込む。黒い瞳を三日月型に細め、柔らかい声で続けた。
    「今度どこかの体育館貸し切ってあげるよ。俺しかいないなら問題ないでしょ?」
    俺の真似なのか、腕だけでシュートを打つ動きをしてみせる。指先まですっと伸ばされたシュートフォームは、さすがに長年間近で桜木の応援をしているだけあって様になっていた。
    水戸の申し出に、俺は眉を寄せる。何故水戸がそんなことを言い出すのか分からなかった。個人で体育館をレンタルしようと思えばそれなりに金もかかるし手続きの手間もある。自分がバスケをやるわけでもない水戸が、そんなことをする理由がない。
    俺の表情を見てそんな困惑を汲み取ったのか、水戸はそっと俺の手に自分の手を重ねた。緩く握り込む仕草は、残念なことに視覚以上の感覚を与えてはくれない。
    「俺が見てーの。三井さんのシュート、好きだったから」
    好き、という言葉に、気持ちが揺らぐ。さっき戒めたばかりの心が、また勘違いしそうになる。
    水戸の手を振り払う手段を持たない俺は、代わりにふいと顔を逸らした。今、間近で水戸の顔を見て平常心でいられる自信がない。
    気が向いたらな、と小さな声で返す。水戸は、うん、と素直に頷いて、感触もないくせに俺の手の甲をひと撫でし、それからそっと手を離した。
    なあ、出てけって言わねーの。口を開いたらそんなことを尋ねてしまいそうで、きゅっと唇を噛み締める。ただ、もし尋ねてしまったとしても、水戸なら何で急にそんな話になるの、と笑ってくれるだろうと今なら冷静に考えられた。
    ふ、と息を吐く。体温なんてないはずの自分の手が、水戸に触れられた場所からじんと熱を持った気がした。

    その日、夜明けにはまだ程遠い時間帯に目が覚めたのは、日中の殆どを寝て過ごした所為だろう。疲れれば眠くなり、昼間眠り過ぎると夜に目が冴える。生きていた頃と何も変わらない。
    くる、と体勢を変え、隣に眠る水戸を見た。成人男性二人が一緒に寝るには随分狭いセミダブルのマットレス。俺がここに来てそれなりの日にちが経つが、水戸が寝具を買い替えたり買い足したりする様子は今のところない。それが現状に不満がないということなのか、それともただ面倒であるのか、或いはもっと別の何かなのか、俺には水戸の意図するところが理解が出来なかった。
    穏やかな寝息を立てる横顔。前髪のかかった瞼は開く様子もなく、薄手のブランケットを腹から下にかけ、寝巻き代わりのシャツを纏った胸を静かに上下させている。
    水戸、と唇の動きだけで小さく名前を呼んだ。毎朝耳元に顔を近付けて繰り返し大声で呼び掛けなければ目を覚まさない水戸には、そんな小さな声は届かない。分かっていて、俺はもう一度声を掛けた。さっきよりもほんの少し声を大きくして、だけど水戸が目を覚ますことはないと知っている声量で。
    眠る水戸に覆い被さるようにして顔を近付ける。俺の気配を察知することもなく、規則正しい呼吸が続く。更にもう少し顔を寄せれば、俺の視界は水戸の寝顔でいっぱいになった。
    整った輪郭、すっと通った鼻筋、黒々とした瞳は閉じられていて、その上には短い眉が乗っている。触れた感触も痕跡も残らないのなら、今俺が何をしても水戸に知られることはない。
    そ、と頬に手を当ててみる。するりと撫でてみても水戸の体温は分からない。肌の質感も、柔らかさも。それでも、自分の手が好きな相手に触れていることに気持ちが昂った。
    ゆっくりとその唇に向かって顔を近付ける。どくん、どくん、と大きく跳ねる心臓の音がやけに煩い。本当はもう動く心臓なんて持ち合わせていないから、それはただの錯覚にすぎないのだけれど。
    「水戸。なぁ、起きなくていいのかよ?」
    顰めた声で問いかける。起きないでくれと願いながら、起きないように小さな声で呼びかけているのに、水戸の意思を確認するかのような言葉。寝続けているってことは同意なんだよな、と、起こすつもりもないくせに狡いことをする自分に反吐が出そうだった。
    水戸は瞼を閉じたまま、すう、と気持ち良さそうな寝息を漏らす。薄く開いた唇。昨日の朝と同じことをしようとしている俺と、昨日とは違って目を覚まさない水戸。
    「水戸、」
    もう一度呼び掛けて、それからゆっくりと顔の角度を変え、近付ける。
    自分の唇に触れた水戸の唇の感触は、やはり分からない。体温も、柔らかさも、弾力やかさつきも、何も。目を閉じてしまえば、自分の唇が何に当たっているのかも分からないだろう。それでも、好きな人とキスをしているという事実だけでじわりと目頭が熱くなった。
    触れて、離れて、もう一度触れる。タガが外れてしまったみたいに抑えが効かなくなって、唇を押し付け、湿った吐息を零しながら水戸の下唇に舌を這わせた。
    「っは、みと、水戸……っ」
    好きだ、と。声にして伝えてはならない思いが、荒い吐息に混じって零れる。はふはふと下手くそな呼吸をしながら何度もキスを繰り返し、水戸の名前を紡ぐ。
    ずっと触れたかったそこに自らの唇で触れてみて改めて思った。俺はやっぱり水戸のことが好きだ。今も昔も変わらず、きっとこれからだってずっと水戸のことが好きだ。自分ではもうこの気持ちを抑えることができないほど。
    けれどそれは決して知られるわけにはいかない感情だから、俺は小さく呻きながら何度も何度も深い眠りの中にいる水戸にぶつけた。起きないで、気付かないで、と願いながら。
    こんなことをされているとも知らずに眠り続けている水戸へ背を向け、ずるりと力無く座り込む。今の俺に、水戸の隣へ潜り込んで何食わぬ顔で眠るなんてできるはずもない。立てた膝の間に顔を埋め、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。それでもまだ疼く唇が切なく、憎らしい。
    膝を抱えて蹲り、罪の意識に苛まれてなお水戸の傍からは離れられずにいる。俺は朝が来るのをじっと待ち、日が昇ればきっといつも通りの顔をして水戸を起こすんだ。何事もなかったみたいに笑って、水戸に何も気付かれていないことを願いながら、自分の居場所を手放すことを恐れる。浅ましい。醜い。汚い。最低の男だ、俺は。
    こんな俺が何で地獄に堕ちてないんだ、と呟いた声も、静かな夜の中で水戸の寝息に紛れて消えた。




    今夜は帰らないから。
    水戸が思い出したように告げたのは、街の木々が赤や黄色に色付きはじめ、世間がハロウィンの飾りで賑わい出した十月半ばのことだった。
    水曜日の朝。いつものように隣に眠る水戸を起こす。何度目かの声掛けで目を覚ました水戸が顔を洗い、先日やっと秋物に衣替えしたコットン素材のシャツに袖を通しているのを、布団の上に座って何をするともなく見守っていた。
    水戸は家を出る準備をしながら、今日はどうするの、とその日の予定を俺に尋ねる。これはもはや平日の恒例となっていて、俺はその問い掛けに対し、家に残るか外に出るかの二択で答えを出す。俺の答えを聞いた水戸がその日の帰宅時間を告げ、一緒に家を出るかもしくは玄関先で水戸が出て行く姿を見送る。そんな朝のやりとりが平日の定番となって暫くが経つが、水戸が家を空けると言い出したのは三井が水戸のアパートに住まうようになって初めてのことだった。
    袖のボタンを留めながら顔を上げることもなく告げた水戸に、えっ、と思わず声を上げる。
    「出掛けるのか?」
    「うん」
    「明日も仕事だろ?」
    「ううん、休みとったから。昼過ぎには帰ってくるつもり」
    水戸はずっと前から決まっていた予定であるみたいにさらりと答える。俺がぽかんとしているうち、支度を終えた水戸はあまり荷物が入っているようには見えない鞄を手に取った。
    誰と、と口から出そうになる問い掛けをすんでのところで飲み込む。この二ヶ月を一緒に過ごし、それらしい存在はいないと思っていたけれど、もしかすると遠距離か何かでそうそう会えない相手がいたのかもしれない。水戸が休みを取って会うほどの、誰か、が。
    無闇なことを聞いてわざわざ自分から傷付きにいく必要はない。努めて自然に、珍しいな、とだけ返事をする。へらりとした笑みは正しく作れているだろうか。
    水戸が不意に顔を上げ、俺の方へと詰め寄ってくる。じ、と覗き込むようにして見つめられ、たじろいだ。黒々とした瞳に映る自分の顔が困惑に揺れる。
    「誰のところに行ってくると思う?」
    静かな声に問いかけられ、ドクンと心臓が嫌な音を立てて跳ねた気がした。
    「……さあ、」
    知らねーよ、と返す声は喉が渇いてひりついている。全てを見通すような視線から逃れたくて目を逸らす。それを許さず追い詰めるかのように、水戸はさらに一歩距離を詰めた。
    「三井さんは、俺が誰のところに行くのか知りたい?」
    「……別に」
    興味ねぇから、と吐いた言葉が少し震えてしまい、舌打ちしたい気分になった。これ以上詰め寄られれば隠している気持ちが暴かれてしまいそうで、顔を背けたまま早く行けよと捲し立てる。
    水戸は感情の読めない顔で俺を見下ろし、ふぅん? と意味ありげに呟く。居た堪れない気持ちになり、逃げ場のない布団の上で右手を付いて一歩分後ろへと擦り退がる。水戸はじっと俺の顔を見つめ、それから不意に、堪え切れないとでも言わんばかりに吹き出した。
    急に笑い出した水戸に困惑し、思わず顔を顰める。水戸はごめんごめん冗談だよと軽い調子で謝りながら、俺の体をパシパシと叩く真似をした。当然、痛みなんてものはない。
    「大楠のとこだよ。忠と高宮も一緒にね。今日、花道のチームの試合があんだって」
    水戸はそう言いながらひとしきり笑い、笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭った。
    十月中旬。国内リーグの開幕から約一月ほど遅れ、アメリカではつい先日NBAのシーズンが開幕した。桜木の所属するチームは今日が今シーズン初戦で、水戸たち桜木軍団はその中継を観戦するために集まるらしい。アメリカと日本、遠く離れてはいても親友を応援する思いは高校時代と変わらないようで、全試合とはいかないもののせめて初戦と勝ち進めばプレーオフくらいは応援しようと翌日の休みを取ってテレビの前で大騒ぎするのだという。
    なんだ、と気が抜けそうになる俺にニヤリと笑い、安心した? と水戸が尋ねる。ドキンと音を立てた心臓はさっきとは違う意味で脈打った。
    「別に。興味ねーって」
    安心したかと言われれば間違いようもなく安堵したし、拍子抜けしたかと問われればその通りだ。けれどそれを正直に告げる気にはなれなくて、誤魔化すように唇を尖らせた。水戸はそんな俺を見ておかしそうに肩を揺らす。
    また水戸に翻弄されている。俺の気持ちも知らないで、と悔しく思いながら、早く仕事に行けと水戸の体を押した。
    俺から触れられている感触なんてないくせに、水戸はハイハイと軽く返事をしながら押し出されるみたいにして玄関へと足を向ける。履き慣れた靴に足を入れ、ドアを開けた。
    「じゃあ、行ってくるね。明日まで帰らないけど、いつも通り好きに過ごしてていいから」
    見送りに立った俺に水戸はそれだけを言い残してドアの向こうへと姿を消した。バタン、と閉まる音に続き、カンカンと階段を降りていく足音が響く。その音も次第に小さくなってやがて消えた。
    玄関のドアが閉まった後も暫くその場に立ち尽くしていた俺は、水戸の気配がなくなってから大きく息を吐き出し、しゃがみ込む。
    バスケの試合か、と二ヶ月前までは当たり前に自分のものだった光景を脳裏に描いた。ボールの感触も、コート上でキュッキュッと鳴るバッシュの音も、チームメイトたちの息遣いも、シュートを放つ瞬間の手指の感覚も、試合中に訪れる高揚感も、どれも鮮やかなまま魂に刻み込まれている。
    手のひらをそっと目の前にかざした。目を閉じれば容易く思い描くことができる、バスケに興じる自分の姿。しかしこの感覚は過去のもので、今の俺にはもはや縁遠いものになってしまった。
    ぐっと力を込めて拳を握る。それからゆっくりとまた開き、この手でボールを放つあの感覚が二度と戻ってはこないことに深く息を吐いた。その選択をしたのは、紛れもない自分自身だ。
    今夜、正しく言えば日付を越えた明日の未明、アメリカではかつての後輩が試合を行う。
    思い出すのは人懐こい赤頭。応援してやりたい気持ちと、自分が手放さざるを得なかったものを直視するのが恐ろしい気持ちとが拮抗し、俺の肩に重くのしかかった。
    玄関の向こうからバイクの排気音が聞こえてくる。それから、学校へ向かう賑やかな子どもたちの声。朝の住宅街は騒がしい。
    俺はようやく腰を上げ、のろのろとした足取りでリビングへと戻った。
    水戸のいない部屋の中。テレビのリモコンに手を翳してみては触れる前に手を引くことを繰り返す。踏ん切りの付かない自分にため息を吐き、一旦別のことをして気持ちを切り替えようとやることを探した。
    普段は手を付けない水戸のバイク雑誌を捲ってみたり、今日に限ってほとんど溜まっていないシンクの中の食器を洗ってみたり。けれども気持ちは落ち着かないままで、気付けばまたテレビの前に戻ってきてしまっている。いっそ疲れ果てて眠ってしまえばいいかと部屋中の壁をすり抜けてみようとしたが、結局試合のことが気になって集中力が足りずに何もできやしなかった。
    うろうろと意味もなく部屋の中を歩き回り、所在なく布団の上に座り込む。意識しないようにと思ったところで目線はチラチラとテレビを追う始末で、どうしようもない。俺は深くため息を吐いた。
    やり場のない苛立ちを向ける場所もなく、ガリガリと頭を掻く。かつての生意気ながらに可愛い後輩がアメリカで頑張っているのだから素直に応援してやればいいだろ、と心の狭い自分を責め立てる俺がいて、けれども、うるせーんだよと耳を塞ぐ俺もいる。
    「あー、クソッ!」
    誰もいない空間に吐き捨てた声を拾ってくれるものはない。
    そもそも、俺はこの世に思い残すことがなくなったから死んだはずだった。選手としての引退を機に、自分の人生にもバスケにも満足したから死を選んだんだ。そのはずだった。
    ああ、と引き絞るような声が漏れる。泣きたい気持ちで顔を覆う。
    何が思い残すことがなくなった、だ。何がまあいい人生だったよな、だ。情けなくて、惨めで、こんな自分が嫌になる。本当は未練タラタラのくせに。水戸のことも、バスケのことも。
    朝夕と日中の寒暖差が激しくなったこの季節。昨年までの俺なら、国内リーグの真っ只中だった。自身のチームでプレーしながら、少し遅れて始まったNBAの試合をテレビ越しに観戦し、渡米した後輩たちの活躍を応援しているところだったろう。
    今はもう、俺の存在なんてどこにもない。俺の所属していたチームは俺がいなくなっても試合をしているし、世間は次第に俺を忘れていく。同じ時を歩めなくなったことが、酷く悲しかった。置いていかれることがこの上なく寂しい。バスケットボール選手三井寿は、もういない。
    分かっていた。本当は、その事実に気付くことが怖くて、何でもないふりをして身を投げたんだ。

    日が暮れるのが随分早くなった。四時を過ぎた頃には太陽が空を赤く染め始め、五時を過ぎればあっという間に月が出る。結局試合を観るか観ないかも決められないまま、夜はやってきてしまった。
    水戸は今夜帰ってこない。試合を観るも観ないも、自分で選ぶ他にはない。どちらを選択しても苦しいことには変わりなく、時間だけが過ぎていく。
    時計の針がどちらも真上を向いた頃、意を決してリモコンの電源ボタンを押した。深夜のニュースを告げるアナウンサーの声が耳を擦り抜ける。内容は少しも頭に入ってこなかった。
    試合開始までは残り三時間ほど。少しずつ差し迫ってくるその時を前に、テレビの正面を陣取る自身の体がどんどんと背を丸め縮こまっていく。ぎゅうと膝を抱えて顔を俯け、震える体を小さくした。
    そうしている間にも時は経ち、もうじき試合が始まる。今日の見どころを解説するスポーツキャスターの声。中継のカメラが桜木の所属するチームの試合前の様子を捉えてテレビに映し出す。
    ボールを抱える見知った赤頭。昔から変わらない自信に満ちた笑顔が、試合前のインタビューに答えている。
    息が、止まりそうになった。
    なんで。鍋の中に張った水が突然沸騰するかのように、急速に理不尽な気持ちが湧いてくる。
    なんでお前がそこに立てるんだ。俺はもうバスケができないのに。俺はコートを駆けることもボールを触ることも奪われたのに。俺だってもっとバスケがしたかった。俺の方がバスケを愛してる。お前がバスケを知るよりずっと前から、俺の方がよっぽどバスケに人生を捧げてきたのに。
    ああ、と零れ落ちる声が一人きりの部屋に虚しく響く。それは殆ど嗚咽だった。
    俺は、今、バスケを続ける桜木に嫉妬している。大切な後輩を妬んでいる。そんふうにはなりたくなくて、そんな自分には耐えられないと、死という逃げ道を選んだはずだったのに。
    水戸。祈るように口から溢れたのは、今日は帰って来ない男の名前だった。水戸、水戸。縋るように、助けを求めるように、繰り返す。
    会いたい。水戸に会いたい。今すぐ帰ってきて、バカな俺を殴ってほしい。いつかみたいに、何度も、俺の気持ちが折れるまで。
    水戸。水戸、水戸。
    不意に、玄関で鍵の回る音がした。弾かれたように顔を上げる。どくん、と存在しない心臓が大きく鳴った。
    ガタンッ、とドアの開く大きな音。それに続いて慌ただしい足音が古いアパート内に響く。バタバタと駆け込んできたのは、今日は帰らないと言ったはずの水戸だった。
    「三井さん……!」
    息急き切って帰ってきたらしい水戸は、部屋のドアを開いたのと同時に俺の名前を呼ぶ。その勢いに思わず仰け反ると、水戸はぽかんとする俺の前で顔を歪め、膝に手をつきながら深く息を吐き出した。
    「なんで、お前……」
    今日は軍団の奴らと桜木の試合を観るんじゃなかったのか。困惑する俺に手のひらを向け、ちょっと待ってと制し、水戸は上がった息を整えながら俺の正面に尻をつけて座った。テレビ画面が水戸の体で隠れる。
    水戸は整ってきた呼吸に胸をトントンと叩き、ふー、と細く長く息を吐く。それから短い眉を下げ、へらりと力の抜けた笑みを零した。
    「なんか、三井さんが俺のこと呼んでる気がしてさ。帰ってきちゃった」
    「は……?」
    「朝行く時も寂しそうな顔してたし」
    帰ってきて正解だった、と言いながら、水戸が俺の顔を覗き込む。伸びてきた手のひらが、優しい手付きで頬を撫でた。触れられている感覚なんてないはずなのに、水戸の汗ばんだ手のひらの温度を感じた気がして泣きそうになる。殴って欲しいと求めた手が、こんなにも優しい。
    「んだよ、それ……」
    喉に引っ掛かったような声が震えて、酷く情けない。ふつふつと、込み上げてくる感情が熱く泡立った。
    なんで俺なんかに優しくするんだ。恋人でもない、今となっては生きてもいない俺なんかに。俺のことなんか放っておいて、気のおけない仲間たちと桜木の応援をしてくれば良かったのに。
    そんなことを考えるくせに、本当は嬉しくて仕方がない。俺のために長年の連れを差し置いてこんな真夜中に急いで帰ってきてくれた。そう思うと、叫び出したくなるほど嬉しかった。
    意識から外れていたテレビの中、試合開始のホイッスルが鳴り響く。その音に、俺も水戸も互いから視線を外し、液晶画面に意識を向けた。
    一際目立つ赤い頭が映っている。今シーズン初試合、桜木はスタメンに選ばれていたらしい。
    「一緒に観ようか」
    水戸はそう言って、ちょっと待っててと立ち上がった。キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける音が聞こえる。すぐに戻ってきた水戸の手には二本の冷えた缶ビール。水戸は俺の隣に腰を下ろし、ローテーブルにそれを置く。それからプルタブを開け、うち一本を俺の方へと寄越した。
    「飲めねーって」
    「いいんだよ。こういうのは気分が大事なんだから」
    乾杯、と言いながら水戸は自分の持つ缶をテーブルの上に置いたままの缶にぶつける。カン、と涼やかな音が部屋に響いた。
    あんなに観るかどうかと悩んだ試合だったというのに、始まってしまえば途端にバスケに引き込まれていく。ボールが床に弾む音、バッシュのスキール音、観客の声援。桜木の手にボールが渡ると前のめりになって拳を握る。試合開始早々にダンクシュートを決めた随分調子の良さそうな桜木の姿に、水戸と二人してよしっと口角を上げた。
    桜木のチームに日本人は桜木しかいない。それでもパスは回ってくるしアイコンタクトでの意思疎通も上手くいっている。監督の指示もよく通って、試合運びは上々だった。信頼関係が構築されていることが一目で分かる、良いチームだと思う。それは桜木がアメリカで一人頑張ってきた何よりの証拠だ。
    こうして試合を観ていると、桜木がどれほどバスケが上手くなったのかがよく分かる。勿論、プロになってからの桜木の試合を観たことがないわけではない。そうではないけれど、どうしても印象に残っているのは、自分が高校三年生だったあの年、一年にも満たない湘北バスケ部での桜木の姿だった。
    無鉄砲で、無計画で、素質だけは超一流のど素人。あの頃の大胆さはそのままに、持っていた体力や跳躍力、走力といった素質を自分の武器として研ぎ澄ませ、乏しかった技術面も改善した。もうあの頃の素人臭さやつけ入る隙はどこにもない。桜木花道はバスケの本場でも十分過ぎるほどに活躍できる、超一流の選手に成った。
    果たして一対一で向き合った時、自分はあの桜木相手にどこまで通用するだろうか。わくわくとした気持ちで桜木が次に帰国するならいつかと考え、自分の手がボールを掴む感覚を思い出しながら自身の手のひらに視線を落とし、それから自分の置かれた状況を思い出した。
    高揚した気分が一気に萎んでいく。自分は怪我で引退をして、自ら命を絶った幽霊だ。どんなにバスケをしたいと願っても、もうコートに立つことは叶わない。そういう選択を、自分でした。
    「……水戸」
    弱々しく掠れた声が零れ落ちる。
    隣で一緒に試合を眺める水戸は、高校生の頃にコートから見上げた応援席での姿とは違い、随分静かだった。けれどもじっと試合の行く末を見守る目は真剣で、桜木のプレイを食い入るように見つめている。それは友人の試合を観戦するというよりも、なにか、もっと大事なものを見る眼差しだった。
    「水戸」
    再び名前を呼ぶ。水戸はテレビを眺めたままで、うん、と答える。それは素っ気ないようにも思えたけれど、こっちを向かないでくれていることが今は有難かった。
    「俺、バスケしてる桜木に嫉妬した」
    自身の最大の罪を告白するように、ポツリと呟く。ぎゅ、と膝の上で拳を作った。
    水戸は何も言わないままテレビに視線を向けている。大きな歓声が沸いて、誰かがシュートを決めたのだということが画面を見なくても知れた。
    「あんなことをしておいて、俺は、また……」
    カタカタと震える握りしめた手に力が籠る。爪先が皮膚に食い込んで痛いくらいだった。
    高校時代の苦い記憶。膝を壊して絶望し、自らバスケを捨てたくせ、一つ下の代に入学してきた宮城に嫉妬した。怪我が完治した後も部に戻らないという選択をしたのは自分だったはずなのに、コートに立つ宮城を酷く妬んだ。
    俺が宮城に何かをされたわけじゃない。一方的な逆恨み。無性に腹が立つのは全部自分のせいだったのに、俺は宮城に責任を押し付け、恨み、憎んだ。俺がバスケを失ったのにどうしてこんなチビが期待の新人面をしてそこにいるんだと、自分がいるはずだった場所を当たり前のような顔をして宮城が埋めていることに腸が煮え繰り返った。そして癇癪を起こした子供のように、宮城もバスケ部も全部壊そうとした。
    ひどく幼く、愚かだったと思う。
    馬鹿な俺を何度も殴ったソイツが、バスケがしたいと泣いた俺を庇い、救い上げてくれた時。もう二度とこんな馬鹿なまねはしないと誓った。自分の心に、恩師に、バスケに誓った。だというのに、俺はまた、間違えた。自分の身を苦しみが襲った時、俺はいつも選択肢を間違える。そしてまたあの時と同じように、醜くも他人を妬んでしまった。自分で全てを捨て去って、もうこの世に未練はないなんて嘘を吐き死なんてものに逃げておいて、かつての大切な後輩である桜木にまで嫉妬した。桜木もまた、俺をバスケの世界に引き戻してくれた恩人の一人であるというのに。
    両手で顔を覆う。恥ずかしくて、惨めで、今すぐ消えてなくなりたかった。自分がどんどんどす黒く渦巻く醜い感情の塊になっていくのを感じる。どうして自分がここにいるのかも分からない。さっさと地獄に堕ちてしまえばいいと思うのに、そうなることもまた怖い。
    黒々とした感情が瘴気となってじわじわと自身の身体を蝕み、覆い尽くしていく。指先は氷のように冷え切って、凍てつくような寒さに体が縮こまる。
    「……三井さん」
    ふと、呑み込まれてしまいそうな暗闇の中、ポツンと灯る蝋燭の火のような静かな声が落ちた。水戸の声は穏やかで、俺は感情と共にどろりと溶け落ちてしまいそうになっていた自身の顔を持ち上げる。
    テレビ画面の中、いつの間にか桜木はベンチに下がっていた。第三クォーター開始から三分。既に三つ目のファールをもらったらしい桜木は、控えていたディフェンス特化型の選手と交代している。けれどもそれは高校時代の無鉄砲が故のファールではない。体格の良い欧米の選手が相手でも当たり負けしないパワフルさを持つ桜木は、ファールをもらうことを躊躇わず果敢に攻め、その結果生まれた数字だった。自分に与えられた仕事を十分に果たし、桜木は交代している。
    すいと水戸の指差した先。桜木たちの相手チームがボールを運ぶ。スリーポイントラインの手前でパスが渡り、受け取った黒人選手は中へと切り込んでゴール下のセンターへとパスを出した。
    無駄のない動きで二点が入る。けれども水戸は、あれさぁ、と言って俺を見た。
    「三井さんなら、スリーポイント決めてたんじゃない?」
    細めた目元が射抜くように鋭い。
    「……どう、だったかな」
    つい、はぐらかすような言葉になった。自分でも、あそこでボールをもらったならそのままシュートに持ち込んだなと思ったからだ。
    水戸は言葉で俺を追求することはせず、視線をテレビに戻す。それを追うように俺の視線も液晶画面に向いた。
    早い展開の応酬。コート上で両チームにボールが行き交う。それは俺が所属していた頃の湘北バスケ部が得意としていたプレイスタイルによく似ていて、頭の中で時折チカチカと在りし日の記憶が重なる。
    あの瞬間。俺もあそこでボールを貰ったら、きっと俺は。
    そう思った瞬間、先程と同じようなパスが渡る。スリーポイントラインの手前に走り込んできた選手に向かい、ボールを渡そうとするオフェンス側の選手。
    「三井さん!」
    瞬間、水戸が俺の名前を呼んだ。
    振り向いた先、真横で一緒にテレビを観ていた水戸が、柔らかな仕草でそこにあるはずのないボールを俺に向かって放り投げる。咄嗟に受け取る仕草をした俺の手にボールの感触は当然ない。けれども、水戸の放ったボールを受け取るために伸ばした指は、確かによく知る感触を得たように思った。
    すぐに正面を向き、何度となく見上げたリングのある位置へと目を向ける。そこには部屋の壁ではなく、確かに見慣れたリングが見えた。肘を曲げ、リングを目指して指先までまっすぐに伸ばす。音もなく放つボール。全く同時に、画面の中でもシュートが放たれる。
    ボールの描く放物線。やがてテレビの中、ガンッ、と音を響かせてリングの淵に当たったボールが落ちる。けれども俺の視線の先では、理想通りの美しい軌道を描いたボールが確かにリングを潜り抜けた。雑音のない静寂の中、パツンッ、とネットを擦り抜ける音だけが耳に届く。
    俺の幻覚でしかないはずのそれを、水戸の目も確かに追っていた。
    「ああ、やっぱり世界一綺麗だね」
    穏やかな声に告げられて、俺は掲げた腕を下ろすことも忘れて振り返る。黒々とした優しい瞳は俺を見ていた。じっと俺だけを見て、微笑んでいる。
    「どんなに凄い試合を見ても、他の選手のシュートを何回見ても、三井さんのシュートが一番綺麗」
    ゆっくりと噛み締めるように水戸は告げる。
    かつては喧嘩に明け暮れた、スポーツとは縁遠い硬い指先が伸びてきて、宝物に触れるみたいに俺の手にそっと触れた。だけどそこには、体温も、感触も、何もない。
    「言ったでしょ。俺、三井さんのシュート好きだったって」
    目線を合わせて優しく笑う水戸に、俺は返す言葉が見つからなかった。
    ぐちゃぐちゃのどろどろに渦巻いていた真っ黒な感情が、水戸の言葉でいとも容易く掬い上げられ、凪いでいく。硬い拳が顔面を打ち付けるよりもずっと強く、深く、優しく、俺の心を抉り、救い出す。
    試合は第四クォーター。ラスト七分でコートに戻った桜木が、渾身のダンクで今日一番の見せ場を作る。そのままチームを今シーズン最初の勝利へと導いて、俺と水戸は黙ったままで液晶画面越しにそのプレイを見届けた。
    歓声の沸く試合会場。中継先からスタジオへと映像が切り替わり、興奮気味のスポーツキャスターが選手たちを労う言葉に続け、試合の解説を始める。水戸がリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。
    プツン、と音を立てて液晶画面が真っ暗になる。そこへ映る、水戸とその隣に座る俺の姿。画面越しに視線がかち合う。互いに何も言わないまま暫くじっと真っ暗な液晶を見つめ、やがて沈黙を破ったのは水戸だった。
    「三井さん。俺、明日休みなんだけど」
    「……おう」
    「三井さんの実家、一緒に行かない? それで、お墓の場所とかさ、聞けたらそっちにも一緒に行こう」
    忠から預かってる酒もそろそろ供えに行かないと、と水戸は静かに、けれども明るく告げる。黙って視線を落とす俺の答えを急かすことはせず、大丈夫、一緒にいるよ、と水戸は励ましの言葉をくれた。
    遂に自分の死や両親と正面から向き合わなければならない時が来たのかと思う。夏の終わりにマンションを飛び降りてから、二ヶ月が経つ。随分長く先延ばしにしてしまったような気もするし、まだそこに向き合う覚悟をするには短い期間なような気もした。けれど、水戸が一緒に行ってくれるというのなら、きっとこれ以上のタイミングはないのだろう。
    俺は顔を上げ、水戸の目を見た。黒い瞳は誠実に、じっと俺を見つめ返してくれている。
    肌寒い朝方の、真っ暗な窓の外。数時間と待たずとも、もうじき夜明けはやってくる。
    俺は静かに覚悟を決め、一つ、確かに頷いた。




    懐かしい夢を見た。夢、というよりも、記憶を辿った、と言うべきかもしれない。
    高校三年の三月、卒業式の日。校庭に植えられた桜の木はタイミングよく満開を迎えていた。
    卒業証書の入った筒を片手に、バスケ部の連中と並んで写真を撮る。真ん中に赤木。その両隣に俺と木暮。俺たちの前後左右を固めるように後輩たちとマネージャー。ついでに徳男たちにも声をかけ、サポーター枠だと一緒に並ばせる。
    こっち向いて、とカメラのファインダーを覗きながら水戸が言った。その隣では軍団の連中が変顔やらポージングやらで向かい合う俺たちを笑わせようとしていて、卒業の感傷やしんみりとした空気なんてものはまるでない。
    撮るよー、という間延びした水戸の声。俺はじっとカメラのレンズを見つめる。そうすると水戸と見つめ合えた気がして、レンズに向かってドキドキする気持ちで唇を引き結んだ。
    ミッチー表情硬いぞー、とヤジを飛ばす大楠の声。水戸が小さく笑い、三井さん笑顔だよ、と告げた。名前を呼ばれ、またドキリと心臓を鳴らす。頬が熱くなるのを感じながら、うるせー分かってるよ、と答えて笑顔を作ると、はいチーズ、の言葉と共にシャッターが切られた。
    高校卒業。バスケ部の後輩でもない水戸との繋がりは、これで完全に断ち切れる。この数ヶ月、一方的に抱いてきた恋心を告白する気はない。誰にもこの感情を知られないようにと上手く隠してきたつもりだ。俺にとって水戸は人生最大の恩人であり特別な男であったけれど、それは俺が卒業してからも会うだけの理由にはならなかった。
    最後の思い出に一枚だけ、水戸とのツーショットが撮りたい。そう思って、けれども声を掛ける勇気が出なかった。何も言えないまま、桜木と一緒になって赤木たちと話している横顔をじっと眺める。そうしているうち、俺は宮城に話しかけられた。この後の打ち上げだけど、と言われ、それに応じる。
    俺が宮城との会話で少し目を離していた間に、水戸はバイトがあるからと言ってさっさと帰ってしまったらしい。話し終えて水戸の居たはずの場所を見た時には、もうその姿はなくなっていた。
    それから十年が経つ。水戸とは卒業式以来、一度も顔を合わせていない。結局、俺と水戸が言葉を交わしたのは、あのやりとりが最後になった。

    三井さん。どこか遠くから名前を呼ばれるような感覚に、ぼんやりと目を開ける。
    ぱちりと一つ瞬きをすると、夢の中で見た姿と殆ど変わらない水戸がそこにいた。当時と変わったことといえば、髪型と着ている服くらいのものだろうか。十年も前の記憶と照らし合わせてみても、水戸は驚くほどあの頃のままだ。
    「おはよ。そろそろ出ようかと思うけど大丈夫?」
    桜木の所属するチームの試合を観戦した後、二人して夜明けに近い時間帯になってから寝ついたというのに、水戸は既に外出の準備まで整えていた。
    時計を確認すればまだ九時を回ったばかり。睡眠時間は四時間にも満たないと知る。
    「眠かったら車の中で寝てていいから」
    行こう、と促す水戸の方こそ殆ど眠っていないに違いない。俺は水戸の布団から体を起こし、うん、と返事をした。
    湘南の地へ向かうのは水戸と一緒に野間の営む酒屋に行った時以来になる。水戸に開けてもらったドアを潜り、車の助手席に乗り込んだ。
    この二ヶ月の間で水戸の運転する姿にもすっかり慣れたけれど、今日ばかりは何を話していいものか分からない。寝ててもいいと水戸は言ったが、とてもそんな気分にはなれなかった。水戸がオーディオから曲を流してくれているのが車内を埋める唯一の音で、それが強張る心に有り難い。
    平日の午前中。車通りはさほど多くなく、高速道路は空いていた。車を走らせ続け、一時間もすれば知った道が見えてくる。俺たちの通った高校に近い、海沿いの道。時々、こっちであってる? と俺の実家のある方面を尋ねられ、そこから俺は数年ぶりに帰る実家への道案内をした。
    「そこの交差点を右。二つ目の角を左に曲がったら、すぐのとこ」
    「了解。車停めるところある?」
    「ん、一台くれぇなら家の前に停められると思う」
    「ふぅん? いい家住んでたんだ」
    水戸が片眉をあげ、興味深そうに言う。やがて車は緩いカーブを曲がり、一つの家の前で停車した。
    住宅街の中でもそれなりに大きな庭付きの一軒家。ガレージに収まる車は母親のもので、仕事に出ているのか父の車はない。水戸へはガレージ前の開けたスペースへ駐車してくれと告げた。
    久し振りの実家は、記憶の中にある姿と殆ど変わらない。庭を彩っていたプランターの花が少し減ったくらいだろうか。庭先に置いてある、幼い頃に使っていた家庭用のバスケットリングさえそのままだった。
    車を降りた水戸が助手席側に回り込んでドアを開けてくれる。俺は緊張からか少し重く感じる足で車を降り、水戸と共に実家の玄関へ向かう。半歩先を歩く水戸に続く形で二つの段差を上り、ドアの前に立った。
    「押すよ」
    「……おう」
    ドアホンのボタンに指を触れ、水戸が俺を振り返る。こくりと頷くと、水戸の人差し指がそれを押し込み、ピンポーン、と明るい音が響いた。
    これでもう引き返せない。きゅ、と唇を噛んで永遠にも思える時を待つ。さほど時間はかからずに、プツッ、とインターホンが繋がる音がする。
    「───はぁい」
    スピーカーから聞こえてきたのは、少し間延びした柔らかな声。耳に馴染む、母さんの声だった。
    思わず、隣に立つ水戸の服の裾をキュッと握る。水戸はそのことには気付かずに、はじめまして、とインターホン越しに俺の母親へ挨拶をした。
    「寿さんの高校時代の後輩で、水戸といいます。ご家族の方にお渡ししたいものがあったのと……できれば、お墓の場所を教えて頂きたくて伺いました」
    水戸が穏やかに告げるのを聞いて驚いた。そんな丁寧な言葉の使い方もできるのかと意外に思う。
    カメラに向かってぺこりと頭を下げる水戸に、母さんはあら、と声を零した。
    「あの子の後輩さん?」
    「はい。自分はバスケ部ではありませんでしたが、友人がバスケ部だったのでよく試合を観に行ったりして。部のみなさんにはよくして頂いてました」
    まあ、と感嘆の声を上げた母さんが、ちょっと待っていてね、と告げてスピーカーを切る。すぐにドアの向こうでパタパタとスリッパの音が近付いてきて、それからガチャリと鍵の開く音がした。
    ゆっくりとドアが開く。数年ぶりに目にした母さんの姿にハッとした。
    ドアの隙間から顔を覗かせた母さんは、俺の記憶にある顔よりもずっと老けて見える。まっすぐに下ろした長い髪には、以前にはなかった白髪が幾つも混ざっていた。
    「はじめまして。突然お訪ねしてしまってすみません」
    母さんと顔を合わせた水戸が改めて挨拶をする。母さんは、まぁ、と僅かに驚いたような声を上げて口元に手を当て、それから柔らかにふふっと笑みを零した。
    「よく来てくれたわ」
    「本当はもっと早くに来れたらよかったんですけど……。急なことだったので色々と大変かと思いまして。あの、マスコミとか大丈夫でしたか?」
    おずおずと顔を上げながら尋ねる水戸に、母さんは僅かに眉尻を下げる。その表情に隠しきれない疲労が滲んでいる様子が見てとれ、俺は思わず水戸の隣で目を伏せた。
    「そのあたりのことはね、夫が対応してくれていたから。それからチームの皆さんもね、うちの方へは来ないようにって気を回してくれていたみたいで」
    だから大丈夫、と告げる母さんに、水戸はそれ以上深く尋ねることはしなかった。ただ、そうなんですね、と頷く。ええ、と母さんもただ頷き返した。
    水戸と母さんの間に、僅かな沈黙が生まれる。水戸は一つ静かに息を吐き、それから神妙な顔をして深々と頭を下げた。
    「この度はご愁傷様でした」
    固い声で紡がれるお悔やみの言葉。この度は、の先は殆ど聞き取れない小さな声だった。ありがとうございます、と穏やかに返す母さんの口元は緩く弧を描いている。表情は柔らかではあったけれど、目元は僅かに赤らんでいて、俺はそのことがひどく心苦しい。
    どうぞ上がって行って、と母さんが言う。ドアの向こうには見慣れた玄関とその先に続く廊下が見えている。水戸ははいと頷いて、俺が隙間から入ってこられるようにとドアを広く開けてゆっくりとした仕草で家に上がった。
    「お邪魔します」
    水戸の少し後ろについて玄関へ入り、三和土で靴を脱ぐ。廊下を進み、リビングへと向かうと、俺がプロになってすぐに両親へ贈ったガラステーブルが迎えてくれた。
    どうぞ、と母さんに促されて水戸がソファに腰掛ける。俺もその隣にそっと座った。柔らかに体重を受け止めてくれるファブリック素材のソファは気に入っていたけれど、今は俺の体重に沈み込むこともない。
    気に入りのカップに紅茶を淹れて運んできた母さんは、水戸と自分の前にだけそれを置いた。そうしてようやく水戸の向かいに腰を落ち着ける。
    「ええと、それで……お墓の場所だったかしら」
    母さんが問いかけ、水戸は湯気の立つカップにミルクポットからミルクを注ぎながら、はいと答えた。そして母さんがその返答を口にするよりも早く、その前に、と続ける。
    「お渡ししたいものがあって」
    「渡したいもの?」
    なんだそれ、と首を傾げて声を発したら、図らずも母さんと言葉と仕草が重なった。傾げた首の向きと角度まで一緒で、鏡写しにしたようなそれに気恥ずかしくなる。
    ぶふ、と思わずといった様子で水戸が噴き出した。込み上げる笑いを誤魔化すみたいに手で口元を覆う。母さんと俺から顔を背けて何度か空咳をするその肩が小刻みに震えていた。
    「……おい」
    「っぐ、ぅ、ンンッ!」
    ツン、と指先で脇腹を突く。そうしたところで水戸に感触が伝わることはないが、胡乱な目で見遣れば水戸はわざとらしく大きな咳払いをした。
    すみません、と母さんに告げてからカップを持ち上げて紅茶を啜る。ふぅと小さく息を吐き、それからもう一度咳払いをすると、母さんは大丈夫? と少し心配そうな顔をした。
    「はい、大丈夫です。ちょっと噎せちゃって」
    さっきの奇行をなかったことにするように、水戸はやけに爽やかな笑顔でそう答える。少し天然なところのある母さんはそれで納得したらしく、おかわりもあるからと水戸の手元にある紅茶を示し、喉を潤すよう勧めた。
    「ありがとうございます。いただきます」
    水戸はそう言いながら、もう一度カップに口を付ける。失礼がない程度にそれを喉へ流し込み、半分ほど減らしてソーサーへ戻した。
    さて、と水戸は空気を切り替えるみたいに言いおいて、持ってきていた紙袋を取り出した。俺はそれを、水戸が母さんたちへの手土産に用意したものだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
    紙袋の中身がテーブルへと並べてられていく。その大半は写真で、それから幾つかのディスクもあった。
    そっとソファから立ち上がり、母さんの後ろへ回る。差し出された写真を受け取り、一枚ずつ手に取って目を凝らす母さんの背後から覗き込んだ。
    目を見開き、俺は驚く。数十枚に及ぶそれは、どれも俺を写したもの。
    水戸の差し出した写真のうち、大半は試合中のもので、そこに写る俺は懐かしい湘北バスケ部のユニフォームを身に纏っている。よく見てみればそれは選抜やウインターカップの時の写真ばかりで、そういえば夏のインターハイが終わったすぐ後にカメラを買ったと話していたのを思い出す。応援席にいる水戸がカメラを持っていることは知っていたし、俺が卒業した日に集合写真を撮ってくれたのもそのカメラだった。けれど、まさかこんなに自分の写真を撮られているとは。水戸のカメラが構える先は、いつでも桜木なのだとばかり思っていた。
    「こっちのディスクは試合の映像です。高校の時の……あと、プロになってからの試合の録画もあります」
    「あの子の試合の……。こんなに?」
    「俺、好きだったんです。寿さんのバスケしてる姿。泣くほどバスケが好きな人、初めて見たんで」
    懐かしむように水戸が目を細める。あの日。初めて水戸と出会った、俺が人生最大のバカをやらかしたあの日のことが、鮮明に蘇る。二度と体育館には近寄るなと告げ、殺されなきゃ分かんねーのかと俺を殴った水戸は、けれどもバスケがしたいと泣き崩れた俺を前に、もう同じことは言わなかった。そうしてバスケ部諸共、俺のことを救ってくれたのだ。
    母さんは手にしていた写真に目を落とし、それからリングに向けてシュートを放とうとする俺の姿を指でなぞった。それから、分かるわ、と静かに笑う。
    「あなたの撮った写真を見たら。あの子をどのくらい好きでいてくれたのか」
    水戸が照れ臭そうに頬を掻く。
    シュートを放つ瞬間。パスを受ける後ろ姿。仲間に向けて何か声を発している俺。幾つもの場面が瞬間的に切り取られたコートの上。写真の中で俺は大好きなバスケに興じている。
    ふと、最後の一枚を捲った母さんの手が止まった。あら、と零れ落ちた小さな声。俺と同じくっきりとした二重の瞼をぱちりと瞬かせる。母さんの後ろで、俺も同じ写真に目を奪われた。
    その一枚だけ、他の写真とは違い俺は制服を身に付けている。写っているのは肩から上だけではあるけれど、見切れている黒い筒状のものと校庭の桜が俺の卒業式の日の写真であることを示していた。
    いつの間にこんな写真を撮ったのだろう。俺は誰かと話しているのか横を向き、大きく口を開けて笑っている。その視線はカメラを捉えてはおらず、撮られていることにも全く気付いていなかった。
    「……いい写真ね」
    母さんの指先が写真の中の俺を撫でる。
    「はい。俺もいい写真だと思ってます」
    こくりと頷いた水戸は、恥ずかしげもなくそう答えた。そんな水戸の様子に母さんはくすりと笑って、それから本当に貰ってもいいのかと尋ねる。水戸はもう一度、はい、と頷いた。
    母さんの後ろから手を伸ばし、写真の中で満面の笑みを浮かべるかつての俺を指先で弾く。軽い紙切れは揺らぎもしない。
    バカヤロウ。なんで気付いてないんだ。ちゃんと水戸のこと見とけよ。と、呑気にもそこに写っていない誰かと笑い合っている当時の自分に心の中で文句を言う。
    水戸も水戸だ。こんな写真を撮るくらいなら、声をかけてくれればよかった。そしたら俺は、一緒に撮ろうぜ、なんて何でもない風を装って、水戸とのツーショットを撮れたかもしれないのに。
    水戸が持ってきた写真の中、バスケ部の他の連中と一緒に写っているものは幾つもあった。試合前か試合後か、徳男や赤木の妹や軍団の他の連中まで一緒に写っている写真があるのに、水戸と一緒に写っているものは一枚もない。当然だった。シャッターを切っているのが水戸なのだから。
    「……実は、寿さんと会ったのはその日が最後なんです。十年前の、寿さんの卒業式の日」
    水戸は重大な秘密を打ち明けるかのようにこっそりと母さんに告げる。二ヶ月前、俺が死んでから俄かには信じ難い再会を果たすことにはなったけれど、確かに生きているうちに水戸と顔を合わせたのはそれが最後だった。
    母さんは、あら、と僅かに驚いたような声を発して顔を上げる。それから水戸の顔をじっと見て、目元を緩め、愛おしむように柔らかな声を紡いだ。
    「言えなかったのね?」
    尋ねる母さんに、水戸はゆるゆると首を振る。いいえ、と静かに否定した。
    「言わなかったんです。あの時は」
    何を、と俺が問う前に、水戸は視線をずらして俺を捉える。それから悪戯っ子のような笑みを浮かべ、人差し指を口元に当てた。しぃ、と母さんに向けて内緒のポーズをして見せる。
    「それ以上は言わないでください。あの人、どこかで聞いてるかもしれませんから」
    俺がそこにいると知っていて、水戸はそんな風に嘯く。母さんはまるで少女のようにくすくすと笑って、そうね、と答えた。そのやりとりの意味は分からなかったけれど、母さんがなんだかとても楽しそうで、水戸に来てもらってよかったなと俺は思う。
    手にしていた写真をテーブルの上でトンと揃え、母さんは既に温くなっている紅茶のカップを口元へと運んだ。水戸も同じように残っていた紅茶を飲み下し、ご馳走様ですと告げる。
    カップをソーサーの上に戻した母さんは、優雅な仕草で腰を上げた。
    「あの子の部屋、そのままにしてあるの。見て行ってくれる?」
    「ぜひ」
    水戸は即答し、ソファから立ち上がる。母さんに促されて二階へと続く階段を上がり、それから廊下を歩いて一番奥、左手のドアの前に立った。俺が大学生になって一人暮らしを始めるまで使っていた部屋だ。
    部屋の主はもういないのに、母さんは俺がいた頃と変わらずにコンコンコンと優しい音で三度ノックをした。ひーくん、入るわね? と中にはいない俺に断ってドアを開ける。
    がちゃりと開いたドアの先、目に飛び込んできたのは高校生の頃に使っていたままの状態で残されている俺の部屋。まるでそこだけ、時が止まっているみたいだった。
    十年前と変わらない空間は、母さんが時折風を通してくれていたのか、埃っぽさは感じない。気付けば俺は部屋の中へと足を踏み出していた。懐かしい自室に心がざわつく。壁に貼ったポスターも、本棚に並んだバスケ雑誌も、クリーニング屋のビニールがかけられた吊るしてある学生服も、何一つ変わらず俺が家を出た時のまま。
    俺に続き、水戸が部屋の中へと一歩を踏み入れる。初めて訪れる俺の部屋を、水戸はぐるりと見渡した。
    「どうぞ、ゆっくりして行って。私は下にいるから……もし、何か持って行きたいものがあったら遠慮せずに言ってちょうだいね」
    母さんはドアの前で足を止めたまま水戸にそう告げ、水戸の返事も待たずに踵を返し、歩いてきた廊下を戻って行く。パタパタと階段を下りていくスリッパの音を聞きながら、水戸はパタンとドアを閉めた。途端にこの部屋だけが他の空間と隔絶されたかのように、しんと静けさが満ちる。
    感傷的になりそうな空気感の中、先に静寂を破ったのは水戸の方だった。
    「……意外と綺麗にしてたんだね」
    月毎に並んだバスケ雑誌だとか、物を置いていない床だとか、そういったものを順に眺めて、水戸は感心したように呟く。俺は自分があまり使っていた記憶のない勉強机へと近寄り、埃一つかぶっていないそこを指先でなぞった。
    「別に。部屋に篭ってる時間も殆どなかったしな」
    高校最後の年は、朝日が昇るより早く朝練前の自主練に出掛け、放課後は部活後にまた個人練習をして帰って来ていた。あの頃の記憶を辿ってみても、自分の部屋は殆ど寝ることにしか使っていない。その前の荒れていた時期は、バスケを辞めた自分の姿を見る両親の目から逃れたくて、鉄男や徳男の家や溜まり場をうろうろとしていたから、家には寄り付きもしなかった。
    だから、この部屋をまともに自室として使っていたのはもっと昔の、中学生の頃までと言える。その頃は友達を呼んだり勉強机に向かったりすることも頻繁にあったように思うけれど、もう遠い過去のことだからか記憶は曖昧だった。
    「ふぅん」
    水戸は相槌を打ちながら、そう広くはない、けれども高校生が持つ部屋にしては十分な広さと物の揃っている部屋の中を、ゆっくりと歩き回る。
    部屋に飾ってあるポスターは当時憧れていた海外選手のもの。本棚に並べられた本や雑誌もバスケ関連のものばかりで、もう一つの棚にはかつて手にした賞状やらチームメイトとの写真やらトロフィーやらが並んでいる。一度は全て投げ捨てるように視界から追いやったそれを、再び飾り直したのは自分を鼓舞するためと、あの頃の自分を戒めるためでもあった。
    殆どがバスケ関連のもので埋め尽くされた部屋。水戸と同じように自分の部屋だった場所を眺めていると、その中にバスケとはまるで関係のない懐かしいものを見つけた。思わず、あ、と声が溢れる。
    「すげ、懐かし……」
    「何? カセットテープ?」
    口にした声は独り言のつもりだったが、耳に入ったらしい水戸が近付いてきて俺の背後から覗き込む。
    写真立てやらを並べてある棚の、一つ下の段。高校に入学してすぐの頃、一度目の入院に際して暇をしないようにと当時最新で買ったもらったCDラジカセ。それに立てかけるようにして並んだ二本のカセットテープがあった。透明なプラスチックケースに入れられたそれは、俺が買ったものでも録音したものでもない。
    俺の代わりに伸びてきた水戸の手が、テープの一本をすっと引き抜く。白いラベルステッカーには汚い手書きの文字でバンド名だけが書かれている。十年ほど前、持ち主に無断で俺が書いたものだ。
    「三井さんこういうの聴くんだ?」
    水戸は少し意外そうに言った。
    あまり有名ではない、インディーズのバンドだ。当時は小さな箱で定期的にライブを行なっていたようだが、今も活動しているのかどうかは知らない。偶然水戸も知っているバンドだったのか、それとも不良界隈では有名なバンドだったのか。
    当時入り浸っていた鉄男の家は地震でも起きたらすぐに崩れ去りそうなボロアパートの二階で、バイク雑誌と映りの悪いテレビと敷きっぱなしのせんべい布団、それからどこかのゴミ捨て場で拾ってきたのかと思うような小汚いラジカセくらいしか置いていなかった。そこは鍵なんか掛けなくても空き巣だって見向きもしないような家で、だから俺は鉄男がいようがいまいがお構いなく家に上がり込んでいたし、鉄男がそれに文句を言ったこともない。鉄男が出掛けていないとき、俺は乱雑に積まれたカセットテープを再生して過ごす。耳馴染みのなかった曲は繰り返すうち、いつの間にやら俺の脳裏に染み付いていった。
    この部屋に置いてある二本のテープは、鉄男に貸してくれよと言ったら嫌だと素気無く断られたため、無断で拝借してきたものだ。鉄男はなくなったことにも気付いていないかもしれない。そのうちこっそり返しておくつもりが、今になって存在を思い出した。
    「借りたまんまになっちまってたなー」
    鉄男とは、例の襲撃事件後に病院の前で一度顔を合わせて以来、それきりだ。あの無精髭と伸びっぱなしの長髪を思い出し、元気にしているだろうかと懐かしく思う。
    後悔と呵責から、バスケを捨てた二年間を無駄な時間と言い捨ててしまうこともあったけれど、その時間を共に過ごした連中のことは今でも友達だと思っているし感謝もしている。水戸や木暮、宮城たちとは別に、怪我をした直後の俺を孤独の闇から救ってくれたのは、鉄男や徳男たちだ。
    水戸はそんな俺に何を思ったのか、徐にラジカセへと手を伸ばし、巻き付けて纏めていたコードを伸ばし始めた。それから近くのコンセントを探し、プラグを差し込む。十年ぶりに電源の入れられたラジカセは当時と同じように起動して、水戸は手にしていたカセットテープをスロットへと差し込んだ。
    「再生していい?」
    一応は伺いを立ててくる水戸に、好きにしろよと答える。人差し指が再生ボタンをカチリと押し込むと、ややあって、多少のノイズと共に聴き覚えのある音楽が流れ始めた。
    懐かしさに、ところどころ覚えている歌詞を小さな声で口遊む。いかにこの世がくだらなくて、どれほどの不条理に溢れているかと嘆く唄。それを打開する方法を持たないことへの悲嘆と破壊衝動。不良少年の鬱屈した感情を綴ったその曲は、けれども最後には自身の周りに溢れる愛に気が付くのだ。
    「このバンド、昔大楠が好きでさ。ライブも行ったことあるよ」
    「へえ」
    「いかにも不良の代弁者って感じだよね。ベースの金髪が人気あってさぁ、それでアイツ、中学の卒業式前に突然金髪に染めてきたんだよな」
    今では金髪の定着した付き合いの長い友人の話を、水戸は楽しそうに話した。もしも、俺と水戸が同い年で、同じ不良グループだったなら、高校生当時にもこんなふうに笑い合ったり、なんてことない話をしたりしたんだろうか。
    曲が終わると、水戸はカチリと停止ボタンを押し込んだ。ラジカセはテープを巻くのをやめ、沈黙する。
    「こういう、同じ曲聴いてたんだなー、とかさ。出会う前の三井さんのこと知れるの、嬉しいよ」
    水戸は目を細めて笑った。ドキリとして、それから、俺も、と言いかけ慌てて口を噤む。
    本棚に立て掛けてあった中学の頃の卒業アルバムを見つけた水戸が、これも見ていい? と尋ねて、拒否する理由もなく俺は頷く。ぺらぺらとページをめくりながら、水戸は俺を見つけるたびに嬉しそうに指差した。まだ膝に手術痕のない、長い前髪を真ん中で分けた幼い俺が写真の中で笑っている。いかにもクラスの中心人物といった顔をしていて、それがなんだか恥ずかしい。文化祭や体育祭といった行事写真には、二ページに一枚は俺の写っている写真があって、卒業アルバムってこんなに写ってるもん? と水戸が首を傾げた。
    「俺なんかクラス写真くらいしか写ってないよ」
    「お前、中学ん時から不良なんだろ? じゃあそんなもんじゃねーの?」
    「でも花道は割と写ってる」
    アイツらしいなと顔を見合わせて笑い、それからまたページを捲る。あれは、これは、水戸のいた中学では、と色々と喋っているうち、それなりに時間は経っていた。
    パタンと音を立てアルバムを閉じ、水戸はそれを元あった場所へと戻す。
    「そろそろ行こうか」
    告げられて、俺も腰を上げた。
    部屋の中をぐるりと見渡す。多分もう二度と、俺がこの部屋に戻ってくることはない。そう思うと、もう何年もそのままの状態だったくせになんだか少し寂しいような気がしてくるから不思議だ。
    水戸が部屋を先に出て、それに次いで俺も廊下へ出る。ドアが閉められる直前、もう一度振り返って部屋の外から室内を目に焼き付けた。
    多分、両親はこれからも暫くの間、この部屋を今のまま残し続けるのだろう。それが何ヶ月先か、それとも何年か先なのか、それよりももっと先になるのかは解らない。俺の面影を、思い出を、消してしまわないようにと形に残してくれることが嬉しくて、同時に少し、辛い。出来ることなら、なるべく早くこの部屋と共に俺への気持ちに整理をつけて、二人の先の人生を歩んでほしい。水戸がドアを閉めるのを眺めながら、そんなことを思った。
    階段を降りると、母さんは俺の墓のある墓地までの地図を用意してくれていた。それほど遠くはないが道が入り組んでいて少し分かりづらい場所にあるからと水戸に説明する母さんの目元は赤くて、ついでに化粧が少しよれている。きっと泣いていたのだろうとすぐに分かったけれど、水戸はそのことには何も気付かないふりをしていた。
    またいつでも遊びに来てねと水戸へ告げる母さんに送り出され、家を出る。水戸が靴を履き、玄関のドアを開けたところで、そういえば、と思い出したように母さんは言った。
    「あの子のお葬式ね、チームの人たちだけじゃなくて、高校や大学の時のお友達もいっぱい来てくれたの。特に……水戸くんは知ってるかしら、あの子の高校生の時の同級生の子で、恰幅のいい太眉の」
    「堀田さん?」
    「そう、堀田くん。堀田くんなんて、あの子が飛び降りたその日のうちに血相変えてうちに来てくれてね。お葬式でも何でも出来ることは何でも手伝わせて欲しいって言ってくれて……」
    徳男。あんな、俺の一方的な逆恨みから起こしたバスケ部襲撃に巻き込んでおいて、自分だけ都合よく部に戻った俺を、怒りもせずに応援してくれた俺の友人。高校を卒業してすぐに就職し、顔を合わせる機会も随分減って、それでも大学やプロになってからの試合にも欠かさず応援に駆けつけてくれていた。どんなに俺の調子が悪くても、結果を残せなくなっても、俺が焦らないよう腐らないよう励まし続けてくれた俺の一番の理解者。
    三っちゃん、と俺に呼びかける徳男の顔が頭を過ぎる。きっと俺の訃報を聞き、家族と同じくらいの悲しみを背負ってくれたことだろう。俺が死ぬ直前に残した手紙を、徳男は読んでくれただろうか。
    「昨日はあの子の月命日だったから、もしかしたらお墓にも来てくれたかもしれないわね」
    「……ですね。あの人は寿さんの一番の親友でしたから」
    穏やかに告げる母さんには不自然に思われないようさりげなく、水戸は俺の背を撫でた。ずっと応援してくれていた徳男へ不義理を働いたことを今更後悔する俺を慰めるその手は、感触はなくても確かに温かかった。

    俺を乗せた水戸の車は住宅街を離れて広い道に合流する。それから五分もしないうち、すぐにまた細い路地へと入り込み、緩やかな坂道を上って行った。
    母さんが言った通り少し分かりにくい場所ではあったが、寺の名前や住所が書かれた立て札に助けられながら辿り着いた墓地は、年季は入っているけれど綺麗に管理されているようだった。
    そういえばずっと昔、父方の祖父の納骨で訪れたことがあるかもしれない。あれはまだ小学生の頃だった。俺の記憶では随分前に訪れたきりだが、両親は毎年盆正月にはお墓参りに行ってくると出掛けていたのを思い出す。一緒に着いて行っていたのは遠い昔の話で、中学以降は盆正月に関わりなく俺はバスケで忙しく、例の二年間はグレていたためそれに付き合うともしなかった。そういえばまだ生きている父方の祖母や地方にいる母方の祖父母の顔も、もうずっと見ていないなと今更ながらに思う。俺が試合に出るたび、テレビの前を陣取って大喜びで応援してくれていると母から聞いたのは、いつのことだったか。
    水戸が助手席のドアを開け、外へ降りるよう促す。降り立つと、びゅうと強く秋風が吹き、肌寒さを感じた。
    「三井さんのお墓ってどこ?」
    尋ねられ、古い記憶を辿る。広い墓所の中、確かあっちの方だったような、と指差す。違っていたら一つ一つの墓に刻まれた名前を全部確認することになるのだろうかと少しうんざりした気持ちになりながら、頼りない記憶を元に歩き出した。
    幾つか大きく区切られた墓石のある区画を通り過ぎると、一箇所だけやけに目立つ墓があった。真新しく綺麗な墓石だから、という理由だけでなく、やたらに目立つ赤と白の布らしきものが巻き付けられている。それから、まだ供えられて間もないらしい花々やら、果物やら。
    ぷ、と隣を歩いていた水戸が吹き出した。
    「いいね、分かりやすくて」
    「……うっせー」
    どう見ても、そこが自分の墓だった。近付いてみれば、肩へかけるみたいに墓石に巻き付けられている布が、高校時代から見慣れた『炎の男 三っちゃん』と書かれている応援旗だと気付く。風にばさりとはためいて、徳男が応援席でそれを振るう姿が目に浮かぶ。日に焼けて褪せた感じも、雨に打たれて色を変えた部分もない。おそらくは、昨日か今日の朝にでも俺の月命日だからとこの旗を持って来て広げたのだろう。
    墓石の横には、バスケットボールも置いてあった。風で飛んで行かないようネットに入れ、紐の部分が墓石に掛けられている。立て掛けられた最新号の月刊バスケットボールの雑誌に、これは木暮だなと、高校時代に膝の怪我で入院した俺へ雑誌を差し入れに来てくれた木暮の顔を思い出した。
    それから、高校時代のスコアブック。これはマネージャーをしていた彩子か赤木の妹だろう。大学時代のスコアブックと、プロになってからの戦績やチームの集合写真。それぞれ、当時のチームメイトの誰かが持って来てくれたものだと知る。
    「……あ、」
    置かれたもの一つ一つを俺に確認させるように手に取っていた水戸が、何かに気付いたような声を上げた。
    「なに?」
    「三井さん、これ」
    スコアブックや雑誌に紛れさせてこっそりと、隠すように置いてあったそれ。俺と水戸は顔を合わせて目を瞬き、それから同時に、ふはっと笑った。
    水戸が手にしていたのは、さっき俺の部屋で聴いたのと同じバンドの、手書きでラベルを貼ったカセットテープ。俺と同じくらい汚い字で書かれた、俺の字ではないそれ。俺がすぐ分かるようにと、書いてくれたのだろうか。
    「アイツも来てたのかよ」
    どうやってこの場所を知ったのだろう。徳男にでも聞いたのか、それとも徳男が探し出してここまで連れて来たのか。燻る煙草の匂いが残ってはしないかと、すんと鼻を鳴らしてみる。残念なことに、線香と供えられた花の匂いしか感じられなかった。
    ごく身近な人間にしか伝えられていないだろう俺の墓は、驚くほど賑やかに彩られている。旗を纏っていない墓石の上部をつるりと撫で、まるで他人にそう告げるみたいに、愛されてるなお前、と呟く。冷たいはずの墓石の感触は俺の手には伝わってこなかったけれど、水戸は何か神々しいものでも見るみたいに目を細めていた。
    「これも、やっと供えることができて良かったよ」
    言いながら、水戸は持って来ていた酒のキャップを捻り、ペキリと音を立てて封を切る。野間から預かっていた、俺と同じ名前を持つ日本酒だ。
    水戸はそれを、何の躊躇いもなく水鉢へと注いだ。透明の瓶からトクトクと流れ出た日本酒は、数センチの窪みに溜められる。
    「せめてコップかなんかに注げよ」
    「だってそんなもん持ってないし。目的は一緒でしょ。飲むための水入れる窪みだよ、コレ」
    中身を僅かに減らした瓶に再びキャップをして、水戸はそれをボールの隣に置いた。
    水鉢に顔を寄せ、匂いを嗅いでみる。アルコールのツンとした刺激臭。そっと唇を寄せてみると濡れた感触がして、試しに舌先を伸ばせば日本酒特有の香りが口内に広がった。
    どうやらこうして供えられたものは死ぬ直前に身に付けていた服やなんかと同じで俺のものとして触れたり口に含んだりすることが可能らしい。その割にスコアブックやボールには触れられなかったので、そのあたりの判定基準がどういうことになっているのかはよく分からなかった。ただ、やっぱりコップに入れて欲しかったなとは思う。
    水戸はいつの間に用意していたのか、線香と蝋燭の箱を取り出した。小さな蝋燭を二本、燭台に刺して火をつける。蝋燭に灯りが点ると、今度は線香も二本取り出して半分に折り、四本にしてから蝋燭の火を移した。
    ふわりと、白い煙が細く立ち上る。線香特有の香ばしい匂い。
    水戸が墓石の前で膝を折り、隣に立つ俺ではなく俺の骨が収まっているらしい墓に向かって手を合わせる。自分はここにいるのに、目の前で俺のために手を合わせられているというのは、何だか不思議な気分だった。
    先程よりも勢いを無くし、穏やかになった風が吹き抜ける。墓石に巻きつけられた旗や供えられた花々、線香の煙を優しく揺らす涼やかな風は、俺の凪いだ心の内を表しているようだった。
    すとん、と憑き物が落ちたような心地だ。水戸に実家まで連れて来てもらえて良かったと思う。父さんには会えなかったけれど母さんの顔を見ることができ、墓には俺を想ってこんなにも大勢の人が来てくれたのだと知ることができた。静かに手を合わせてくれる水戸の姿に、やっと俺は、本当に全ての未練を断ち切ることができたのだと知る。
    ここで、水戸とはお別れだ。色々悩みもしたが、楽しい二ヶ月を過ごさせてもらったと思う。俺はもう、大丈夫だ。
    これから先はこの場所で、時々俺に会いに来てくれる懐かしい顔を喜びながら、あの世から自分の順番がきたとの知らせが来るのを待とう。皆、暫くの間はこの場所へ足繁く通ってくれるに違いない。だけど少しずつ足は遠のき、やがて俺の存在はそれぞれの記憶の中から薄れていくことだろう。
    年に一度、誰かがここへやって来てくれればいいくらいの寂しい場所になることを、悲しいとは思わない。俺の大切な人たちが、俺といた過去よりも自分の生きる未来に想いを馳せてくれるようになることを、俺はきっと喜べる。
    「……水戸」
    呼んだ声は、自分でも驚くほど柔らかだった。合わせていた手を下げ、水戸は俺を見上げる。ぱちりと瞬いた瞳が驚きの色を映していて、俺は自分が声だけではなく表情までもすっきりとしたものに変わったのだろうと知った。
    改めて自身の墓の周囲を見渡す。俺には過ぎるほどの、愛情の証。
    「連れて来てくれてありがとな」
    一人ではここに帰ってくる勇気はなかった。母さんと顔を合わせることができたのも、懐かしい自室で思い出に浸ることができたのも、こうして自分の墓に手向けられた沢山の想いを見ることができたのも、全部水戸のおかげだ。
    否、礼を言うならもっと前から。初めて出会ったあの日にも、死んで行き場をなくしていた時にも、桜木に対し醜く嫉妬する自分に嫌気が差した瞬間にも。俺を救ってくれるのは、いつだって水戸洋平だった。
    「俺も、一緒に来れて良かったよ。俺の知らない三井さんのことを知ることができたし……三井さんのお母さんにも挨拶できたしね」
    冗談めかして笑いながら水戸が立ち上がる。下ろした前髪が風に揺られて、いつにも増して幼く見える表情にじわりと感慨が滲んでいく。
    「好きだ」
    今まで胸の内に押し留めていた言葉が、するりと舌から零れて音になった。
    「お前のことが好きだった。ずっと」
    決して告げてはならないと恐れていた言葉は、口にしてみれば案外に、自然な響きで空気を揺らす。秋晴れの青空の下、俺の告白は透き通る心地の良い空気に溶けた。
    俺はじっと水戸の反応を待つ。冗談にして笑い飛ばすか、気持ちが悪いと困惑するか。それとも騙して家に居着いていたのかと怒り、詰るだろうか。どう応じられても全てありのまま受け止めるつもりだった。ただ、静かにごめんねと優しく振られるよりは、何でもいいから感情を露わにしてくれた方が嬉しいとは思う。そうして俺には見向きもせずに踵を返して、もう二度とここへは来ないで欲しかった。
    俺はもう、十分過ぎるほどのものを水戸からもらっている。本当に、思い残すことはもうない。散々迷惑をかけて今更だけれど、水戸には俺の存在も一緒に過ごしたこの二ヶ月のこともさっさと忘れて、水戸の生きるべき正しい明日への道を真っ直ぐ歩んでほしいと思う。それが俺の、最後の願いだ。
    黒々とした瞳は俺を捉えたままで、唇が一度だけはくりと空気を噛む。水戸は声を荒げも、憤りもしなかった。ただ、一雫だけほろりと、零れ落ちた涙が頬を伝っていく。
    俺ははっとして、咄嗟に手を伸ばした。水戸の頬に触れた手は、けれども肌の感触を知ることはない。俺の手のひらは水戸の涙に濡れることもできないまま、その頬をするりと撫で落ちる。
    「三井さん」
    名前を呼んだ水戸の声は凛として、俺の想像したどの答えも寄越さなかった。見つめ合ったまま、一歩、水戸が俺との距離を詰める。
    ひゅるり、俺と水戸の間を吹き抜ける風。水戸の髪を揺らし、俺の何をも揺らさない。生きるものと死んだもの、その差をはっきりと決定付けながら過ぎ去っていく。
    水戸は更にもう一歩、足を前に動かす。俺の体にぶつかりそうな距離にまで迫って、ぴたりと足を止めた。一筋だけ流れた涙の跡が、日の光に反射する。それがなんだかとても綺麗で、見惚れた俺は後ろへ退くこともできずに息の触れそうな距離で立ち尽くす。
    「俺も、三井さんが好き」
    静かな声は、やけにはっきりと俺の耳に届いた。だというのに、まるで水中で音を聴いているようにぼんやりとして、俺の頭は内容を上手く処理できない。
    呼吸が止まり、喉が詰まる。ただ瞬きを繰り返すだけの俺に向かい、水戸の腕が伸びてきた。抱き締められたのだと気付いた時には水戸の丸っこい頭のてっぺんが見下ろせる位置にあって、まるで四方から空気の圧に押されているような圧迫感だけが、巻きつく腕の力強さを俺に知らせる。
    「俺は、あんたが湘北にいた頃から、ずっと三井さんのことが好きだよ」
    告げる水戸に、何か音を紡がなければと口を開く。けれどやっぱり声は出なくて、震える息が零れただけだった。
    水戸の右手が背中を離れて俺の頬に触れる。さっき俺が水戸の涙を拭おうとしてできなかったのと同じに、やっぱり水戸の体温は俺には伝わらない。けれど、水戸はそこに触れるものを感じているみたいに、幾度もするすると指先を滑らせる。
    「俺が、なんであんたばっかり馬鹿みたいに写真に撮ってたか、分かる? プロになってからの試合も、録画までしてるのなんてあんたのだけなんだよ」
    物分かりの悪い子供に言い聞かせるかのように、一つずつ丁寧に、水戸がゆっくりと言葉を紡ぐ。俺はやっぱり何も言えなくて、間近にある黒い瞳に視線を縫い留めたまま、呆然と水戸の声を聴いた。
    「三井さんのことが好きだから、あの日あんたの住んでたマンションに行ったの。そうじゃなかったら、いくら花道に言われたって他人の自殺現場に行ったりしてない」
    ねえ、分かる? と尋ねる声は優しくて、けれども分からないと言って逃げることを許してはくれない厳しさも含んでいる。
    俺の頬を辿り、顎のラインをなぞった水戸の指が、今度は耳の付け根へと辿り着く。優しく触れ続けてくれるその手の温もりの分からないことが悲しくて、せっかくすっきりと無くしたはずの未練が、胸の奥からまた這い出してきた。
    「三井さんじゃなかったら、たとえ知り合いでも死んでる人間を家に連れて帰ったりしなかった。三井さんだから、三井さんが好きだから、俺はあんたと一緒にいたいって思ったんだよ」
    眼球の奥が熱い。鼻の奥がつんと痛む。水戸が何を言っているのか、少しずつ脳が理解し始める。
    「三井さん」
    水戸が、俺を呼ぶ。柔らかな声が耳の奥に絡みつく。体温なんてないはずの俺の体が、水戸に触れられた場所から熱を持ちはじめる。胸の奥から込み上げてきたものが、ああ、と嗚咽のような音になって口から溢れた。
    もうこれ以上はないと思っていた欲が、また一つ湧いて出る。俺はまた、間違えた。水戸の幸せを願いながらここに一人で残り続けることは、もうできない。
    「帰ろ。俺たちの家に」
    水戸の手が再び頬へ戻ってくる。親指の腹で俺の目元を拭うような仕草。
    俺の目からは零れ落ちる雫も生まれなければ、水戸の手が濡れることもない。それでも水戸は愛おしそうに目を細めて、真っ赤な目、と小さな子供を相手にするように囁いた。
    「一緒に帰ろ、三井さん」
    もう一度そう言って、一歩後ろに下がった水戸がすっと右手を宙に差し出す。俺は導かれるように、そっと手のひらをそこに重ねた。
    唇の端を緩やかに持ち上げ、水戸が嬉しそうに笑う。傾き始めた太陽を背にする水戸が眩しくて、俺はきゅうと目を細める。
    手を引かれる感覚はなかったけれど、繋いだ手を確かめるように握り合った。強い風がこの場から俺たちを押し出すみたいに背を撫でて、バサバサと音を立てた赤と白の旗が俺たちに手を振っている。
    日の光が差す方向へ、二人並んで足を踏み出す。じゃり、と敷き詰められた足元の小石を踏む音は、一人分。それでも確かに俺たちは並んで歩き、帰るべき場所へと二人で向かった。



    水戸のアパートに帰り着く頃、夕陽は辺りを赤く染め上げていた。
    駐車場に停めた車の影がアスファルトの路面に長く伸びている。電線に止まり、集まり始めたムクドリたちの鳴き声が騒がしい。通学路になっている裏の道からは、友達に別れを告げる小学生の声や軽やかな足音が入り混じって聞こえた。
    助手席のドアを開けてもらい、そこから身を滑らせるようにして降りる。水戸は俺に向かって、そうするのが当然であるみたいに手を差し出してきた。墓地から車までの短い距離をそうしたのと同じように、そっと手を重ねる。
    バタンと閉まる車のドア。遠隔でキーをかけ、アパートの裏手に回って階段を上る。カンカンと響く足音はやっぱり水戸一人のものだけで、俺がどんなに強く足を踏みしめても音は鳴らない。
    玄関の鍵を開け、ドアを引く。促されて先に部屋へ上がった。水戸もすぐに続き、ドアを閉めて鍵をかける。そうして二人きり部屋の中に閉じ込もると、まるで外の世界から隔絶されたような気分になった。
    昨日も今朝も、この二ヶ月の間ずっとこの部屋で水戸と生活をしてきた。だというのに、今俺たちの間には初めてここへ訪れた時のような緊張が満ちている。
    向かい合い、手のひらを合わせた。黒々とした瞳に映る、俺の顔。水戸もまた、俺の榛の中に自身の姿を探しているのだろうか。体温を分け合うことは叶わなくても、互いの存在が確かに互いの中にあると分かる。そのことがこんなにも嬉しい。
    首を傾け、背を曲げる。高校時代から殆ど変わらない身長差。水戸が顎を上げ、背伸びをした。
    目は閉じない。距離が近付いて、焦点が合わなくなっても。閉じた途端に水戸の存在を感じられなくなってしまうから。視覚だけが、俺たちに互いの存在を教えてくれる。
    唇の先が触れ合う。夜毎、眠っている水戸に気付かれないようこっそりと繰り返した俺の罪。水戸が想いを返してくれる日がくるだなんて、思ってもみなかった。
    確かめるように触れて、離れて、また触れる。それでもやっぱり、温もりも、柔らかさも、何も感じ取ることはできない。せっかく水戸が同じ想いを抱いてくれているというのに、俺が幽霊だから、この身体は感触も体温も持たない希薄な存在でしかない。
    それが悔しくて、悲しい。どんなに絡め合う指に力を込めても、どれほど深く唇を追っても、この身体が水戸に熱を伝えることはない。水戸から体温を受け取ることもない。
    「……死ななきゃよかった」
    口から零れ落ちた声は、悲哀に満ちていた。
    こんなことなら、こんなに後悔するのなら、死ななければよかった。
    俺はマンションから飛び降りたことを、今一番後悔している。どんなに苦しい現実がそこにあっても、醜い嫉妬に狂っても、やりきれない気持ちが襲っても、生きてさえいれば未来はあった。納得のいかない未来でも、どうにか折り合いをつけながら生きていければ、きっとそこにはこんな幸せもあったのに。
    投げ出してしまった人生が惜しい。もう取り戻せないものを、今になって知ってしまった。
    「ほんと、バカだね。あんた」
    柔らかな声は慈しみを持って、俺の耳元で溶けていく。水戸は慰めるように俺の頬を撫でた。幼い子供をいい子いい子と甘やかすみたいに、繰り返し優しく撫でてくる。その温もりも肌の滑らかさも、何もかも感じ取ることができなくて、俺はひくっとしゃくり上げた。
    込み上げてくる感情とは裏腹に、涙が水滴となって溢れて出すことはない。引き攣る喉からは嗚咽ばかりが零れ落ちる。水戸、水戸、と何度も名前を呼び、縋るように水戸の背に回した腕が、案外に逞しい体の厚みを感じ取ることはなかった。
    声を堪えられずに泣く俺に、水戸はいつまでも付き合ってくれた。頬を摩り続ける手が溢れ出ることのない涙を拭ってくれているようで、その優しさにまた想いが込み上げる。
    泣いて、泣いて、泣き疲れて頭がぼんやりとするまで泣き喚いて、ぐず、と垂れることのない鼻を啜った。水戸はようやく落ち着いた俺に柔らかく笑う。それから唇へ触れるだけのキスをした。
    「ね、三井さん」
    至近距離で視線を合わせ、水戸がこっそりと内緒話をするみたいに声を潜める。悪戯っぽく三日月型に目を細め、頬に添えていた手をするりと唇に滑らせた。
    つつ、と下唇を伝う指先の感触は分からないはずなのに、じわりと身体に熱が灯る。
    「シよっか」
    「……え」
    「セックス。してみようよ」
    せっかく好き同士なんだから、と水戸が言う。
    死んでいる俺と、生きている水戸。どこまでできるのかなんて分からないけれど、そもそも触れる感覚さえ伝わらないのに何ができるのかなんて分からないけれど。
    すいと水戸の顔が動き、つられて向けた視線の先。セミダブルのマットレスは、この二月の間、水戸と共に寝起きをしてきた場所だった。
    途端に顔が熱くなる。ドキドキとあるはずのない心臓が喧しく騒ぎ立て、はっと短く息を吐き出した。
    「でも、俺、死んでんのに……」
    「うん。したくない?」
    そんなふうに尋ねるのは、狡い。
    したくないわけがなかった。ずっと、水戸のことが好きだったのだから。
    俺の顔を下から覗き込み、水戸が返事を待っている。その表情は俺の答えを知っている顔で、俺はこくんと溢れてもいない唾液を飲み込んだ。
    「……シ、たい」
    「うん、俺も」
    嬉しそうに頷いて、水戸は俺を床に直接敷かれたマットレスへと導く。掛かっていた上掛けを剥ぎ、今朝そこから抜け出した時のままの少しよれたシーツの上に腰を下ろした。
    緊張した面持ちで向かい合う。ぎくしゃくと滅多にしない正座なんかをしてしまい、水戸が笑った。
    「いいね、それ。初夜って感じ」
    「バ……ッ!」
    かあ、と顔が一気に熱くなる。くすくすと肩を揺らす水戸に、揶揄われたと気が付いた。
    チッと舌打ちをして足を崩し、胡座をかく。むす、と不機嫌に突き出た唇に、水戸が顔を寄せて、ちゅっと音を立てながら軽く啄むだけのキスをした。
    「怒んないで。初々しくて唆るって意味だよ」
    「うっせー、バカ」
    俺の機嫌をとるように、また唇が重なる。キス一つで容易く機嫌が直ってしまう簡単な男だと思われているのが悔しい。だけど、事実その通りだった。
    鳥が囀るような音を立て、繰り返し唇が触れては離れる。何度かそうされているうちに俺の方からも唇を突き出して、二人してちゅ、ちゅ、と戯れのような音を鳴らした。唇をくっつけ合っている感触なんてないのだから、戯れどころかただキスの真似事をしているだけに過ぎない。それでも、水戸とキスをしているのだと思えばそれだけで十分幸せだった。
    「あぁ、あ、みと、水戸……すきだ、みと」
    「俺も好きだよ、三井さん」
    ぽたり、水戸の顎先から汗が垂れる。好きだ、と思うほどにふわふわとした気持ちよさが広がって、喉がきゅうと鳴った。
    ああ、幸せだ。俺、いま幸せなんだ。生きてるとか死んでるとか、もうそんなのどうでもいいくらい水戸が好きで、幸せなんだよ。
    ぐらり、視界が歪む。落ちていく意識の向こう側、おやすみ、と告げる水戸の声。最後にそれだけを聞き届けて、ふつん、とテレビの電源を切ったように意識が途絶えた。

    「おにーちゃん、だいじょうぶ?」
    幼い女の子の声がした。揺蕩うような微睡の中、薄らと目を開ける。ぼんやりとした視界の先に、眩しいほど真っ白な天井と、不思議そうな顔で俺を見下ろす4、5歳くらいの女の子。
    「……あ?」
    どこだここ、と思いながら上体を起こす。固い床へ直に放り出されたように横になっていた体は、どこにも痛みや違和感を伝えてこない。
    少女は丸い大きな瞳をきょときょとと愛らしく瞬き、もう一度、だいじょうぶ? と首を傾げる。白い丸襟のついた赤いワンピースに、白い靴下、赤い靴。ウサギをモチーフにしているらしいキャラクターのついた髪留めで前髪を留め、如何にもこれからお出かけですといった装いだった。
    「……あー、悪い。えーと、ここは?」
    確か実家に向かったあと、水戸の家へ共に帰宅して……とぼんやりする頭で記憶を辿る。思い出そうと額に手を当てていると、それを頭痛がしているとでも思ったのか、少女は座り込んだまま俺の顔をじっと眺め、それからよしよしと小さな手で俺の頭を撫でた。
    「あのね、ばあばのおうちにいくの。パパと、ママと、ママのおなかにね、おとうとがいるの」
    「え? ああ、おう?」
    「でもね、きづいたらここにいたの。パパとママもいなくてまいごみたいなの。おにいちゃんも?」
    少女の言葉にハッとする。顔を上げ、少女の体の向こう側、騒つく人々の影と役所風の景色を視界に入れて、そこでようやく自分の置かれた状況を理解した。
    「あのねぇ、さっきスーツのおじちゃんがまいごセンターはあっちだよっておしえてくれたの。おにいちゃんもいっしょにいく?」
    少女の指差した先、交通事故課の文字は、この子には読めないのだろう。
    ここは、俺がマンションを飛び降りてすぐに来た場所だ。死んだ人間の魂が集まり、振り分けられる場所。少女は自分が死んだことには気付かずここに来てしまったらしかった。
    「いや、俺は大丈夫。ありがとな」
    立ち上がり、少女の頭をくしゃりと撫でる。可哀想に、と思う気持ちが伝わらないよう少女の体を抱き上げる。肩に乗せると、わあ、と驚きの声をあげ、楽しそうに俺の首に腕を回してしがみついた。
    「すごいすごい! たかーい!」
    無邪気な声で少女がはしゃぐ。184センチの目線は、少女にとっては初めての光景らしい。
    「パパとママ、見えるか?」
    人に溢れ、混雑している交通事故課の前。少女はきょろきょろと周囲を見回してから、ううん、と首を振った。
    「いないみたい」
    そっか、と俺は少女を肩に乗せたままで方向転換する。あちこちの課を回り、並ぶ人の中に少女の両親を探した。けれども結局、どこにもその姿は見つけられない。両親がいないことを確認して、少女は俺の肩の上でしょんぼりと項垂れた。
    ここにいないということは、きっとこの子の両親はまだ生きているんだろう。一緒に事故に遭って怪我をしたのか、それとも少女だけが車に跳ねられでもしたのかは分からない。少女にとってその真実が、いいことなのかどうか判断は付かなかった。
    しょうがねぇな、と交通事故課の前に戻る。やっぱ迷子センターの人に呼び出してもらえ、と告げると、少女はうんと頷いた。
    「おにーちゃん、ありがとー」
    「おう」
    「おにーちゃんもさがしてるひとみつかるといーね!」
    バイバイ、と手を振って窓口へと向かっていく少女。俺は迷子じゃねーけど、という声は拾ってはもらえなかった。
    探している人。水戸とは、もう会えた。二ヶ月も共に過ごすことができて、自分の想いを伝え、水戸からも好きだったと言ってもらえた。体を繋げるだなんて考えたこともなかったのに、水戸は俺がもう生きていないことを分かっていて、それでも俺を抱いてくれた。
    これ以上ない幸福だったな、と瞼を下ろす。感慨に耽ろうとしたのも束の間、背後からトントンと背中を叩かれた。
    振り返った先、白衣の男が立っている。
    「三井寿さん。こちらです」
    告げられ、ああ自分の番が来たのかとようやく思い至った。思っていたよりも随分早かったなと内心驚きながら、白衣の男に続いて歩く。
    最後に水戸へ別れを告げられなかったことだけが気掛かりだった。アイツは急に消えた俺のことを探したりはしていないだろうか。
    無言で先を行く白衣の男の後ろ、幾つもの窓口を横切って進む。一番端の窓口の、さらに奥にあるドアが開かれた。足を踏み入れた先、俺を迎え入れる壁一面真っ白な広い部屋は二ヶ月前と何も変わらない。会社の面接室を彷彿とさせるパイプ椅子と、そこに座る顔ぶれも。
    あの時と一つ違うのは、彼らがひどく険しい顔をしていることだった。
    しんとした室内。以前訪れた時の和やかさはない。口を開こうとする者はなく、ただ俺を咎めるような視線だけが全身に突き刺さった。
    「あの、俺……」
    「三井寿さん」
    おずおずと口を開いた俺の声を、凛とした鋭い声が遮る。右端に座る眼鏡をかけた女性だった。
    「お座りください」
    冷たい声音が簡潔に告げる。俺を応援していたと言ってくれた時の優しさはそこにはない。俺はなぜ彼らがこんな顔をするのか理解ができず、ただ言われるがままにパイプ椅子に腰掛けた。
    俺を案内した白衣の男が、何やら書類らしきものの挟まれたバインダーを些か乱暴に机に置く。それから俺を見据え、重々しい口振りで告げた。
    「最初にお渡ししたルールブックは、きちんと読まれましたか?」
    「ルール……あっ、」
    黒いカバーの分厚い冊子。初めてここに来た直後に数ページだけ読んでそのまま存在を忘れていた。
    どこにしまったっけ、と慌ててポケットを探る。見当たらないそれをどうしたのか、全く覚えていない。水戸の部屋では一度も読んだ記憶がないため、マンションの部屋を出たときに置いてきたのかもしれないと思い至る。もしかして俺はまずいことをしてしまったのかと、今更気付いた。
    白衣の男が深くため息を吐く。ギッ、とパイプ椅子が音を立て、真ん中に座るふくよかな男が机の上で指を組んだ。安西先生を思わせる鷹揚な笑みは、今はどこにも見当たらない。
    「三井さん。貴方はご自分の違反行為を理解していますか?」
    「違反行為……」
    告げられた言葉を口の中で繰り返す。自分は何かとんでもないことをしでかしたらしい。ただ、ルールブックをまともに読んでいなかった俺には一体自分のした何が彼の言う違反行為に該当するのかが分からず、肩を竦ませて小さくなることしかできなかった。
    「ええと、あの……」
    「『地上に降りた死者は生ける者を惑わしてはならない』」
    言葉に詰まる俺に、真ん中に座った男が静かな声で、しかしきっぱりと告げる。すぐに水戸のことだと分かった。
    「貴方は地上に降りた後、特定の人物と長く時間を共にした。それだけでなく、心を通わせ、体まで重ねた。本来あってはならないことです。死者と生者の交わりは、倫理的にも道義的にも禁じられている」
    「彼が貴方の後を追うかもしれないということを、貴方は考えましたか?」
    女性が言葉を補い、それに続けて真ん中の男が尋ねる。俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
    水戸が、俺の後を追う。考えてもみなかった。もしも水戸が俺を追って、自ら命を絶つなんて、そんなことになったら。
    ゾッとした。心臓がバクバクとうるさい。動揺に唇が戦慄く。頭に幾つも顔の見えない自死の光景が過り、その全てに水戸の姿が重なった。そんなことはあり得ないと否定したかったけれど、水戸が俺に告げた好きという言葉を思い出す。水戸がどんな覚悟を持って俺の気持ちを受け入れ、行為に及んだのか、分からないことが怖かった。
    「貴方はルールを知らなかった。貴方が敢えて禁忌を侵そうとしたとは思っていません。ただ好きな相手と再会し、惹かれ合い、自然とそうなった。我々は理解しています」
    それまでよりも幾分柔らかい声音で、真ん中の男が言う。灰色の瞳が穏やかに見つめてくるのが諭すようで、そこには多少の同情が含まれていた。
    しかし、と言葉が続く。
    「貴方がそれを知らなくても、ルールはルールです。貴方が侵した禁忌を見過ごすわけにはいかない」
    男の両隣で、女性と白衣の男も頷いた。
    俺は力無く目を伏せる。どう考えても俺が悪い。最初に言われた通りにきちんとルールブックを読まなかったことも、自分の立場を分かっていて水戸に近付いたことも、想いを通わせて舞い上がってしまったことも。
    じゃあこれから俺はどうなるのだろうか。水戸には何か影響があるのだろうか。自分が地獄に堕ちるのは仕方がない。いや、ここに地獄という制度はないのだったか。だとすると彼らのようにずっとここで働くことになるのかもしれない。そうしたら、いつか水戸が死んだとき、一目だけでも会えたりするんだろうか。
    こんな時でもそうやって水戸に会える時を夢見てしまう自分が少し可笑しかった。
    俺の考えを甘いとでも言うみたいに、白衣の男が首を振る。机の上に置いたバインダーを、指先でコツコツと叩いた。
    「三井さん。貴方の魂は即刻抹消されることになります」
    抹消。それはつまり、どういうことか。揺らいだ視線の先で眼鏡の女性が言葉を付け足す。
    「これから貴方の魂を消滅させます。今後蘇ることはありません。貴方の……三井寿以前の存在も含め、貴方の魂が無かったものとなり、貴方と関わった全ての人々から貴方の記憶が抹消されます」
    消滅。存在しなかったことになる。
    ぽかりと口が開く。頭が上手く回らず、告げられていることを処理できなかった。いや、言われていることは分かる。理解はできるが、それを受け止めきれなかった。
    「水戸、も……?」
    絞り出した声が紡いだのは、それだけだった。水戸も俺のことを忘れてしまうのか。水戸の中から俺の存在がなくなってしまうのかと。
    女性は迷わず頷いた。そこに一考の余地は感じられない。
    「当然、水戸洋平の記憶からも消されます。というよりも、貴方は喜ぶべきです。彼に対してそれ以上のペナルティーが課されないことを」
    淡々と続ける女性に、俺はだらりと項垂れた。
    喜ぶべき。俺のせいで水戸の記憶が消されてしまうことが、喜ぶべきことなのか。ああでも、それで水戸がこれから先の本来あるべき未来を生きられるなら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。俺のことは忘れてほしいと、自分でもそう願ったはずだった。
    顔を覆う。ゆっくりと息を吸い、吐き出した。俺が失くなる。三井寿という存在が、この魂が生物として歩んできた存在が、全て失われる。
    そうか、と俺が目の前の現実を飲み込み納得するまで待っていてくれている眼前の彼らは、きっと優しい。もう一度深く息を吐いた。それから、小さく笑った。
    まあいい人生だったよな。
    マンションから飛び降りる前にも思ったことを再び思う。好きなことをやれたし、死んでからとはいえ初恋の相手と再会できて、想いを通わせることまで叶った。十分だろう。たとえ水戸の中から俺という存在がなくなっても、十分過ぎるほど幸せな時間が確かにあった。
    顔を上げる。どこかすっきりした俺の顔を見て、彼らは少し面食らった表情をした。
    「分かりました。俺はどうすれば?」
    ここに来て初めてしっかりとした受け答えができた気がする。白衣の男は瞬きをし、何か言いたそうに口を開閉して、それから一つ咳払いをした。
    「こちらです。このドアの先で、貴方の消滅が始まります」
    彼の示した先、一つのドアがそこにあった。それは俺が地上に降りた時に通った、こちらとあちらを繋ぐゲートと同じもの。
    「ご安心ください。痛みも恐怖もありません。一瞬で終わります」
    眼鏡の女性が労わるように告げる。俺は苦笑して頷いた。
    立ち上がり、迷わずドアに向かい歩いて行く。ノブに手をかけ、一つ深呼吸をした。恐れるな、と自分に言い聞かせ、ドアを引く。
    目に入ったのはスモークを焚いたような白い靄。そこからぬっと何かが伸びてきて、あっと思う間に引き寄せられた。
    何が起こったのか分からない。分からないけれど、くすくすと笑う声がよく知るものだったから、俺は靄の向こうに問い掛けた。
    「水戸?」
    「びっくりした?」
    すう、と靄が晴れていく。はっきりと目の前に現れた姿は間違いなく水戸のもので、俺を抱き締める腕には確かな感触があった。
    「おま、え、まさか……」
    死んだのか。俺の後を追って?
    一気に血の気が引くのが分かる。しかし水戸は呑気にけらけらと笑いながら、違う違う、と言った。
    「俺、死んでないよ」
    「は? え、でも……」
    「だけどごめんね、生きてもない」
    「はあ?」
    言われていることの意味が理解できず、眉を寄せる。水戸は俺の顔を見て、可笑しそうに目を細めた。
    実はね、とこっそり秘密を打ち明けるみたいに耳元へ声が吹き込まれる。
    「俺は桜木花道っていう天才を見護る神様なの。まあ勿論それだけが仕事じゃないけど、俺のいま一番大事な役割はアイツを護ること」
    「は……? なに、言って……」
    「三井さんと出会ったのは本当に偶然。花道を見守ってたら会っちゃっただけ。でも一目で気に入って、絶対欲しいと思っちゃった」
    水戸の手がするりと俺の腕を撫で、肘を辿って手首を滑り、指先に絡む。手のひらを合わせて握り、愛おしそうに繋いだ指を口元に引き寄せた。
    「……神様?」
    「そう。本当はすぐにでも欲しかったけど、あんまりバスケに夢中だからさ。生きてる間は見逃してあげようと思ってた。死んだらすぐに迎えに行って、びっくりした? って驚かしてやるつもりだったのにさあ」
    水戸が笑う。短い眉尻を少し下げて、困ったような優しい笑顔。
    こつん、と額を合わされて、間近で視線が絡んだ。黒々とした瞳は底が見えないほど深い色をして、けれどとても温かで、怖いとは思わない。
    「予想外にさっさと自分で死んじゃうし、こっちがびっくりしたよ。だからちょっと意地悪してやるつもりで一緒に住んでみたらあんたも俺のこと好きだったとか言うからさあ」
    ちゅ、と音を立てて唇が触れる。柔らかな唇の感触を、初めて知った。
    「もういいかって、連れ去りに来ちゃった」
    悪戯っぽく笑う顔は俺のよく知る水戸に違いない。俺は呆然として、それからドアの向こうを振り返る。
    目に入ったのは頭を下げる白衣の男と眼鏡の女性。穏やかに微笑みながらこちらに手を振るふくよかな男も、みんな水戸のことを知ってのことだったのだろうか。
    「順番待ち、ってのは……?」
    「嘘に決まってんじゃん。年間何人の日本人が自殺してると思ってんの」
    よそ見をするなと言うみたいに、水戸が俺の顎を掴んで引き寄せる。
    「……水戸が、神様?」
    「そうだよ」
    「俺……俺、神様には嫌われてるんだと思ってた。二回もバスケをできなくなって、それで……」
    「愛してるよ」
    俺はバスケの神様じゃないけど、と水戸は笑う。残念なことに三井さんの守護神でもないんだよなあ、と本当に口惜しそうに言って、また唇を塞がれた。
    薄い唇は柔らかで、優しい温もりを纏っている。感触を確かめたくて繋がれていない方の腕を水戸の背に伸ばし、瞳を閉じてその熱に浸った。もう目を開いていなくても、そこに水戸を感じられる。
    唇の表面を押し付け合う。触れて、離れて、追いかけて。何度もそうしているうち水戸の唇が薄く開いて、濡れた舌先が俺の唇を舐めとった。びっくりして顔を離すと、水戸が面白そうに笑っている。
    ぽろ、と熱いものが頬を伝った。それが自分の涙なのだと気が付いて、ここでは涙も零すことができるのかと知る。
    「なんか、夢見てるみてえ」
    「こんなの都合良すぎるって?」
    尋ねる水戸にこくりと頷く。
    だってそうだろう。俺は死んで、それなのにまた水戸に会うことができた。それどころか水戸が俺を好きだと言ってくれて、目眩く時間を与えてくれた。もう二度と会えないんだと覚悟したのに、今こうしてまた抱き締めてくれている。
    こんな、俺にばかり都合のいい、夢みたいな話があるか。こんな、まるで。
    「物語の主人公みたいだ、って思ってる?」
    水戸が俺の考えを見透かしたみたいに問いかける。きゅうと細められた瞳が意地悪で、それも俺が好きな顔。
    「残念。三井さんは主人公なんかじゃないよ」
    水戸の手が絡めていた指をするりと抜け出し、そのまま両頬を挟まれる。俺が目を逸らさないよう、逃げられないよう。
    「この世界は三井さんじゃなくて俺に都合の良いようにできてる。俺は神様で、俺がこの物語の主人公。だからあんたは、俺のヒロイン」
    ごめんね、と告げる声に謝意は感じない。愉快そうに、満足そうに口元を歪めて、ゆっくりと俺に自覚させるみたいなキスをした。
    「一生どころか永遠に手放してやらねーから、覚悟して」
    こんな甘美な脅しってあるだろうか。水戸の言葉は蕩けるように、俺の心にじわじわと染み込んでいく。
    もう何処でもいい。お前がいるとこなら何処だって。
    連れて行ってくれと言葉にする代わりに水戸の背に腕を回し、瞼を閉じて深く深くキスをした。
    俺たち二人の体を靄が覆って、それから先は、永遠に続く光の中。果てない世界での、愛の話。


    end
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    963_krkr

    DONEX(Twitter)連載していた幽霊になった三の洋三、全年齢ver.です。
    エッチシーンも含めて読みたいよという方は https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21285956 こちらをご覧下さい。

    ※自殺表現がありますのでご注意ください。
    ※2006年ごろの設定で書いていますが既に国内プロリーグが発足し、三が所属している設定です。
    Goodbye, my love.中学生の頃、俺は無敵の存在だった。
    同級生は全員気軽に話せる友達で、教師や顧問といった身近な大人からの信頼も厚く、小学生の頃から続けているバスケでは負け知らずで、勉強だってそれなりにできる方。他人に言わせれば俺はイケメンに入る部類らしく、女の子にだってそれなりにモテた。それを自慢するつもりも鼻にかける気もなかったけど、心のどこかではずっと、自分はこの世界の主人公なんだと思ってた。
    チームメイトもライバル校も、バスケをやる奴はみんな友達。この世のどこかで戦争や災害が起こっていたって、自分の周りだけはずっと平和で、争いごとなんてきっと話し合いで解決する。苦手なこともやりたくないことも山程あるけど、ちょっと努力すればそれらは綺麗に報われる。俺はいつだって皆の中心に立っていて、泣いて怒って笑って、そうして今日も明日も俺の世界を回していく。
    90151

    related works

    recommended works