アレキサンドライトの夜
【Ⅰ】夜さりに残りて
《1章》 毒牙の罪―どくがのつみ―
タバンタの勇気の泉は高い台地にある。城から四方に散る泉を順に回る禊ぎ。すでに三つの泉を回ったが、今日も成果はない。こんなにも祈っているというのに何が足りないというのだろう。
きっと……私の信心が足りないんだわ。
誰を責めることもできない。これは自分の責。運命であり、逃れることのできない天命。今日は特に水が冷たい。脚の感覚が失われていくことにも、もう慣れてしまった。こんな風に雑念が多いから、私に力は与えられないのだろうか。
ガーディアンの研究も禁止され、自分にできることは厄災を封じる力に目覚める努力をするだけだというのに。無才の姫と陰で言われていることをもう嘆いてはいない。けれど、やはり心が折れそうになる。
ざーと風が吹いて水面が揺れた。波紋が広がり、背後に仕える彼の姿も揺らがせた。
リンク……。
毎日、彼は黙ってゼルダを護ってくれている。
多くを語らないリンクに勝手な私心をぶつけて腹を立てた時もあった。でも、今はもう彼がそんな人ではないと知っている。知っているからこそ、こうして迂遠とも思える禊ぎにつきあわせるのは、騎士である彼を無為に縛り付けているだけなのかも知れない。
水面の揺らぎの中に雲間から僅かに零れたオレンジ色が滲んだ。
もう日没が近い。
本当は意識途切れるまで祈っていたい。けれどこんな私でも心配してくれる人がいる。姫だからではなくゼルダとして。私自身を心配してくれる人がいることがどんなに嬉しいことか。だからせめて毎日無事に帰ることだけは、私が護らなければならない約束なのだ。とゼルダは堅く凝った指を解いた。
体を反転させようとした瞬間、チクリと右の膝上に痛みを感じた。わずかに体が傾く。その肩を、いつの間にこんな近くにいたのかリンクが支えてくれた。岸へと肩を抱かれるようにして引き上げられた。
「大丈夫です」
そう言ったけれど、彼は黙って私を大樹にもたれさせるようにして座らせた。きっと水没した枝が刺さったのだ。
小さな声で彼が「失礼」と言った。その声に反応した瞬間、水で張り付いた裾が持ち上がるのに気づいた。風が肌と布地の間に吹き込んでくる。ひやりとした感覚と同時に、重だるい鈍痛が左脚に広がっていくのを感じた。膝より下はもう痛みというより、締めつられる感覚に近かった。これはただの傷じゃない。そう理解した時、ふいに温かいものが患部に触れた。
「んっ」
鼻にかかった甘ったるい声が喉の奥を震わせた。私は驚いてすぐにきゅっと唇を引き結んだ。
私、なんて声を。
その温かいものは彼の唇だった。指は足を抱えるように掴み、傷口から何かを押し出すように圧迫しながら、再び肌に吸い付いた。
「……っ」
今度は我慢できた。彼がしているのは解毒だ。枝が刺さったと思った痛みはおそらく蛇に噛まれた痛みだったのだ。
リンクはなんでもない顔をして、何度か毒を吸っては吐き出すと患部に軽く布を当てた。腰の麻袋に手を掛けた。中からポカポカの実をカゴに空けると、彼は器用にそれを裂いて紐状にしていく。そのどれもが手慣れていて手早く、多くの経験値と冷静な理知を感じずにはいられなかった。彼が口をつけた傷口は熱く、痛みよりも皮膚下から突き上げるような脈動の衝撃ばかりが伝わってくる。
どんな時でも……リンクはリンクなのね。
「失礼します」
意識の外で声がして返事をする間もなく、彼の大きな手の平がするりと肌の上を滑った。思わず声を出しそうになったのを堪える。解毒の為、すでに捲り上げられた濡れた裾が、さらに上部にずらされ血色の悪い太股が露出していた。そこに彼の手が滑り込んでくる。悟られぬように視線を外した。頬の赤らみを髪が隠してくれる。
麻袋から作った紐が太股の付け根近くに強く締め付けられた。同時に私の胸もギュッと締め付けられた。毒が全身に回らない為の正しい処置。
何度、これは手当てなのだと自分に言い聞かせなければならないのか。
私が感じること以上のことを、彼は感じてはいないのに。
温かな布が私の脚を拭いていく。泉での禊ぎ終わりはいつもそうだ。彼は火を焚き、水から上がった私の為に拭き布を温めておいてくれるのだ。温かな布触れると自分がどんなに冷えていたのかを知る。泉に浸かっている間は何も感じないのに。むしろ、もっと冷えればいいとさえ思っているのに。
温かい……。
痛みへの恐怖も、先の定まらない想いへの不安も、与えられた温もりに全部包まれて薄らいでいく。彼の手が手繰る布の優しい感触、洗い立ての匂い、時折触れる彼の髪や指先に私の意識はぼんやりと霞み始めた。
一頻り私の濡れた体を拭いた後、ふわりと大きな毛布が掛けられた。暮れ方の薄闇。鈍い金色の下の表情は読めない。
「ありがとうリンク」
彼は無言で傅いた。それが務めですとでも言いたいのだろう。こんな時、言葉が欲しい。それは私のわがままだ。分かっている。彼は真摯に私の身を案じ、尽くしてくれている。それが彼の仕事であり、少なからず私を守護の対象として見てくれている証なのだと。
そこで私の意識は一度途切れた。
次に目を覚ましたのは、馬車の音が聞こえた時だった。
リンクがすぐ近くの馬屋から呼んだのだろう。愛馬の嘶き。この場所まではリンクが運んでくれたに違いない。リンクに支えられ馬車へと乗り込む。固い背もたれと窓枠にもたれれば、窓からこちらを見守る青緑の瞳が見えた。ズクズクと続く鈍い痛み。それとは違う痛みが再び私の胸を締め付けた。
これ以上何を望むというのか。私の体は何を求めているというのか。
馬車のカーテンが閉められ、リンクの姿は見えなくなった。
*……*……*
異変に気づいたのは、姫がわずかにこちらを振り向かれた時だった。体は心が感じるよりも早く動き出していた。
今日の役目は「勇気の泉」に赴き泉に祈りを捧げる姫をお護りすることだった。専属の騎士としてようやく得た信頼は、俺が思っていた以上に己を支える大切な要素となっていた。どんな叱責、どんな目で見られようとも姫をお護りできればそれでよかった。この立ち位置に来るまでの長い長い年月を思えばなんでもないことだと、そう思っていた。
もう日が傾く。
タバンタは寒暖の差が大きな地域だ。準備しておいた薪と火打ち石に、一番静かに射れる弓を選んで火の矢を放った。薪に火が移ったことを確認して、今一度背後を確認した。
背で護るは泉に腰下まで浸かり真摯に祈りを捧げられている後ろ姿。
さすがです。
矢を射たことも、日が暮れようとしていることも、耳には入っていないのだ。姫の真面目さはよく知っているし、とても尊敬できるところだ。だが、同時に俺には心配な要素でもあった。
周囲の姫のへの世評。それを姫の真面目さは真正面から受け取ってしまう。時にそれは姫の心を傷つけ、自己犠牲へと走らせる要因となっているからだ。無茶をして欲しくないと思う反面、力を得られ安堵される顔を見たいという気持ちとが混じり合い、俺の心は揺らいでいた。鍛錬で得た「感情を顔に出さない」という特技が、これほど役に立つ騎士もいないだろう。姫は国にとっても、英傑にとっても大切な存在だ。必ず護らなければならない。
しかし、さすがに長いな。
姫は俺を信頼してくれている。この信頼を損ねることだけは決してしないと改めて誓った時を思い出していた。
ようやく指が解かれたのを見て、俺はどんなに安堵したか知れない。今宵は特に季節よりもずっと冷えている。ましてや姫は沸き出でる水に御身を浸していたからだ。
姫は祈りを中断されることを良しとはしない。それが御身を心配する騎士の申し出であっても、だ。俺はそれをよく理解している。姫が考え行動されることを己の想いだけで遮ることはできない。ただ――。
ざーと風が吹いて水面が揺れた。姫を中心に波紋が広がり、水に映った俺の姿も揺れる。その規則正しい波紋に僅かな切れ目を見た。
「!」
考えるより先に体は重力から放たれ、泉に足を踏み入れていた。姫の視線が波紋に添って動く、その折り返しの刹那僅かに眉がひそめられた。
右だ。
俺の見立てと同じ右へと姫の体は傾く。細い肩に腕を回ししっかりと支えた。姫は歩けますと気丈に告げられたが、おそらく事態を把握されていない。
自分の判断が正しければ時間との戦いになる。俺は有無を言わさず、体を寄せ姫を支えた。本当は抱きかかえたかったが、まだ重篤な状況と知らぬ姫は驚き戸惑われるだろう。説明している時間の方が惜しい。
あれは蛇だ。傷口を見ないと分からないが、あの水の轍……他は考えられない。
姫へと向かう緩い波線。目にした瞬間ゾッと背を寒気が走った。間に合わなかった分、かならず姫の公務に支障のでないように対処しなければならない。それは何よりも民の為に祈り続ける姫の強い意志であり、俺の胸底に沈む私意でもあった。
姫を大樹の傍に座らせ、俺はすぐ傍に膝をついた。
ほんの一瞬。
一弾指の迷い。
小さく無礼を詫び、俺は濡れた白絹に手を掛けた。血はさほど出ていない。布地は白いままで姫の肌を隠している。その布の端を俺はそっとつまみ上げた。傷は姫のかばう動作から鑑みて右の膝上。お叱りなら後で受ける。俺はその水を含んだ布を捲り上げた。
白く丸い膝頭。男のそれとは違う滑らかな円形。その上の皮膚に二つの小さな牙痕。やはり蛇だ。触れた傷口付近の肌は熱を持ち、反対に傷より末端は冷えて血の気が失せ始めていた。悪い予感ほど当たる。毒を持つ種だ。
姫を護ることが近衛騎士である俺にとっての最優先。躊躇してる場合か。
自我を封じ、傷口を指で押さえると、俺は二つの牙痕を覆うように唇で塞いだ。咬まれて時間はまだそう経っていない。冷えて収縮した血管。毒の回りは遅いはずだ。まだ十分に間に合う。吸い上げた瞬間、頭上で姫の唇から息が漏れた。
「んっ」
それは甘く襟首に落ち、背筋を痺れとなって下る。俺は身を固くして、傷口に集中するよう務めた。邪心に囚われている時間はないのだから。
掴んだ姫のふくらはぎの筋肉が凝る。これ以上姫に負担を掛けられない。俺は無心で毒を吸い上げては吐き出し、吐き出しては吸い上げた。数回繰り返すと、傷口の熱は残るもののわずかだが下肢の血流が戻ったようだった。ほっと息をつく。
だが、まだ処置は続く。
腰の麻袋を破いて紐にすると、今度は一瞬も躊躇することなく太股に残った白布を手の平でたくし上げた。皮膚を滑らかな感触が走り抜ける。それを無視して、傷より手の長さほど離れた場所に麻紐を結んだ。鬱血する可能性よりも、まずは毒が回らぬ処置。結び終わり視線を上げると、髪で隠された姫の横顔が見えた。チクンと胸に針が刺さる。
背けられる顔には慣れているだろ。俺はバカか。
心の中で頭を振った。次の処置を考えなければならない。傷の手当てが終わった姫に今から必要なのは体温を保持することだ。
ポカポカの実か。いや、まずは濡れた体だ。
姫の体はすでに泉での禊ぎで濡れている。火のそばに準備しておいた拭き布を手に持った。幹にもたれた姫は意識が朦朧としているようだ。これでは手渡しても満足拭けない。水滴は姫の体温を奪う。俺は布を姫の足や着衣に押し当てた。優しく、痛みのある箇所は特に慎重に水滴を拭く。濡れている布を完全に乾かすことはできない。せめてもっと近くに火を起こしておけば。
様々のことが悔やまれたが、今できる最善をするしかない。拭き上げると温かくしておいた毛布を姫を包むように掛けた。血色を確認しようと屈み込んだ時、姫と目が合った。
「ありがとうリンク」
意識は朦朧としているのに、姫ははっきりとした言葉で労いの言葉を掛けてくれた。
気遣いなどいらない。いらないのに姫はいつでもこうして言葉を与えてくれる。それに自分は見合う働きをしなければならない。幼少の頃見た姫の姿に、必ずあそこに辿り着くと誓ったこと忘れてはいない。
だからその場所に胡座をかくことなく、努力し続けなければならない。
城への帰還を準備している間、姫は懇々と眠り続けた。毒の効果、体温の低下それもあるが、一番は相当無理をなされていたのだろう。整った寝息に俺はただ安堵した。
馬の横に石を積み上げ、抱きかかえた姫ごと鞍にまたがった。姫は深い眠りに入っている。痩身が寄りかかった胸元が暖かい。手綱を捌き、慎重に走り出すと後は姫に振動ができるだけ伝わらないことだけを考えて馬を走らせた。姫の愛馬は心配そうに後を追ってくる。姫と俺の二人きりでなければ、こんな状況はもっと早く解消できただろう。他の英傑が揃っていたなら。
今、厄災はひたひたと近づいて来ている。各地に起こり始めた異変がそれを物語っている。二人では危険だと諭しても、姫の指示であれば他の者は従う。それだけ自分への信頼が厚いのだと自覚しているからこそ、今回の出来事は俺自身、酷く不甲斐なさを感じていた。
なのに。
馬宿に着くと、待機していた城の馬車が姫を乗せて走り出す。カーテンが従者の手によって閉められる間際に、姫と目が合った気がした。緑濃い青い瞳。澄んだその色は暮夜にあっても輝くように眩しかった。
「どうして俺は」
馬車が順調に走り出したのを確認して、俺も馬に跨った。
城に帰還した俺の前で、姫が侍女に抱えられて自室へと戻られていく。その歩みはしっかりとしていて、自分の施した解毒の処置が正しかったことを教えてくれた。
「おい、なんかあったのか」
城の兵士から掛かる声に答える気など起きず、自室に戻る気もなく、俺はまっすぐに食堂へと向かった。
もう食堂は壁の灯りがいくつか点っているだけだった。冷えた食事が夜勤の兵士の為に用意されている。俺はありったけの皿をテーブルに置いた。腹が減っている。そう、俺は腹が減っているんだ。
「おいおい、帰るなりそれかよ」
呆れ声の兵士の言いたいことくらい分かる。だから俺は食べ続けた。息つく瞬間に声を掛けてやろう、反応を見てやろうとしていた兵士達は一人また一人と去っていく。それもそうだ。時間的に言えばもう朝が近い時間。
長い時間、俺は食べ物を手当たり次第口に運んでいた。
*……*……*
長い廊下。
宵かがりの城はまだ眠ってはいない。読んだばかりの本に続く内容を探して、私は歩いていた。
「御ひい様っ!」
その声に私は軽く飛び上がった。振り向かなくても分かる。それは赤い髪の私の大切な仲間。そしてこれから言われる言葉も予測できていた。
「御ひい様、もう少し療養が必要だよ」
「わかっています」
「なら、その手の本はなんだい?」
ウルボザの優しい怒り顔に私は微笑んで見せた。きっとうまくは笑えていないだろう。それでもこんな不器用な笑みを返せるのは城で数人しかいない。だからこそ、見つかったのが彼女でよかったのだ。
私の笑みの意味を汲み取ってウルボザは肩をすくめた。腰を折り視線を合わせ、言葉を選んで話してくれる。
「別に読むなとは言ってないんだよ。でもね、まだ熱が下がって間もないだろ。せめて本を読むなら自分のベッドで……と思ってね」
「はい。ベッドで読みますね」
「いい子だ」
あやすように髪を撫でられ、私は図書館に向かっていた足を自室へと向けた。続きは諦めることにしよう。また明日読めばいい。
「おやすみなさい、ウルボザ」
「おやすみ御ひい様、よく寝るんだよ」
温かな視線に見守られているのを感じながら、私は歩き続けた。そうこの人たちの為に私はここにいつでも元気に戻らなければならない。厄災を封じる者としてだけではなく、姫としてだけでなく、ゼルダとしていられる仲間の元に。
部屋に戻るとベッドサイドのランプに火を灯した。油の匂いがわずかに香る。私はベッドに滑り込んだ。もう読み尽くした本を広げて、再び文字を追う。何度も指で追った文字は頭をすり抜けて、脳は別の記憶を呼び出してしまう。
「……もう三日経つんだわ」
リンクは今どうしているだろう。姫付きの近衛騎士であるリンクは、私が出かけられない間何をしているのだろう。そして迷惑を掛けたこと、助けてくれたことにまだちゃんとお礼と謝罪をできていない。彼にとっては当たり前であっても、自分にとっては――。
あ……。
身を起こした拍子にシーツがはだけた。あの時を思わせる白い布と膝頭。私はそっと裾を持ち上げた。咬み傷のあった場所に薬油と薬草を塗った包帯が巻いてある。診察した医師の話では「咬まれてからの対処が素早く行われたことでなんの後遺症もない」との太鼓判を押された。それでも患部は熱を持ち、全身の倦怠感で二日間のベッド療養を余儀なくされた。
「リン……ク」
思わず唇から零れた名前。
自分の声なのに胸がドキンと鳴った。
肌に彼の唇が触れた感触が蘇り、私は慌てて膝頭を押さえた。頬が熱い。忘れようとすればするほど、体は忘れまいとするように何度も肌に彼の感触を呼び戻させてしまう。
支えてくれた温かな腕。自分以外触れたことのない肌を滑った大きな手のひら。柔らかく熱い唇の感触と肌を吸い上げた時の音が、三日経った今も、こうして私を翻弄する。本は学びの為じゃない。忘れる為に読んでいたのに。
「……リンクは、こんなの困るでしょう?」
誰に問いかけるでもなく呟いて、私はパタンと本を閉じた。寝よう。もう眠った方がいい。
そう心の中で唱えながら、ランプに息を吹きかけた。炎は消え、煙の匂いが立ち上る。窓から差し込んでくる白々とした月光。
主従以外の感情をきっと彼は望んでいない。だからこの気持ちは仕舞って置かなければならない。胸の小さな箱の中に。
シーツの中に潜り込むと私は強引に目を閉じた。瞼裏の闇の中に、リンクの無感情な顔が浮かんだ。そうそれがリンク。私付きの近衛騎士。きっとこの想いをぶつけても彼はそんな顔をするだろう。
だけど。
そんな彼に私は会いたい――。
*…*…*
ガヤガヤと大人数が食事をしている音がしている。俺の前にはたくさんの皿。何人かで座るテーブルを占領している認識はあるが、こうすることで誰にも邪魔されることなく食事が取れる。元より、俺と一緒に食事を取ろうなどと考えている者は英傑を除けば、城には誰もいないだろうが。
隣のテーブルで兵士が三人、大きな声で話しをしている。噂話とするには大き過ぎる声は、わざと聞こえるようにしているに違いない。聞かせたい相手はもちろん俺だ。
「姫を抱きかかえて帰って来たんだと」
「それってゼルダ様がケガしてたからって聞いたけど」
「んなの、荷台でも馬車でも呼べばいいだろ? いくら高台だってリト族の運び屋もいるんだぜ」
「急を要すってのを盾にお触りでもしてんじゃねぇの」
「言い過ぎだって」
「いいだろ、そんくらい。あいつ、ゼルダ姫が意識ないのをいいことに――」
ドンと飲みきった樽を置いた。会話を遮るほど特段大きな音ではなかったが、会話はピタリと止まった。
苛立っていることは重々承知している。だがここで反論したところで、火に油を注ぐようなものだ。静観するのが正解だ。だが、体の内にとどめておけぬ苛立ちは全身から滲み出る。目が合うと兵士達は慌ただしく食事を終え立ち去って行った。残されたのは空になったたくさんの皿。あの日と同じ胃に詰め込むだけの食事。
頬についた食べかすを手で拭うと、指先が唇に触れた。
その瞬間、五感が記憶を再生する。治療だ、処置だと何度も念じた行為を、本能はそう受け取らなかったようだ。履き違えるのもいい加減にしろと自分を恫喝しても、言うことを聞くはずもない。
俺は俺、なんだから。
心を無にし、無視を決め込んだはずのきめ細かい柔らかな肌の感触は、今になって鮮明に蘇ってくる。それは鍛錬を積んだはずの俺でさえ抗うことのできない何かを宿していた。
ゼルダ……様。
名を呼ぶ。
心の中で呼んだだけなのに、胸が熱く苦しくなる。もう三日、会っていない。
侍女に支えられ遠ざかっていく後ろ姿を見送ったのが最後だ。姿を見ることができない理由を自分が一番知っている。
この気持ちはなんだ。
痛いような苦しいような、逃げ出したいような感覚。それでいて消し去りたくないという明確な想いだけは、しっかりと俺の中にある。不思議な感覚。くいと水を飲んだ。
水と共に流し込んだ言葉が頭の中を巡る。声に出すことはできない。ただ時間が過ぎるのを待つだけ。鍛錬し、次こそは必ずかすり傷すらさせぬように守り抜く。俺はコップを置いた。今度は音もしない。
空になった透明なガラスに雫がひとつ伝い落ちる。俺の心は静かに呟いていた。
会いたい。
と。