夏の逃避行 2日間も休みが被ったことだし、遠出でもしようとどちらからともなく言い出した。行きたいところがあるわけでも、やりたいことがあるわけでもなかったから、話し合いは随分ぼんやりとしたスタートになった。それすら楽しいと思うのはなぜなのか。結局のところ、こうやって顔合わせて過ごせるならなんだっていいと思ってしまう。
どうせなら車借りて、ドライブがてらどっか行くのはどう?そう提案すると紬さんは「いいね」と笑った。
「でもそれなら、近場がいいな。俺、運転できないし……」
「俺がするんだから良くね?」
「万里くんが運転するからこそだよ」
そう言いながら、紬さんは関東近郊の観光地を次々に挙げていく。免許を持たない紬さんは車での所要分数を把握しているわけではないため、いちいちマップを確認して「意外と時間かかる」「ここだとすぐ行けるね」などとぶつぶつ言っている。
「あんまり近ぇとつまんねーだろ。ドライブなんだし」
「だって、疲れちゃわない?」
「そうなったら紬さんが癒して」
ふざけて言うと、「今の万里くん、おじさんみたいだったよ」と紬さんが苦笑した。
結局、高速使って3時間くらいの避暑地を拠点にしよう、ということになった。何をするでもなしに、適当に観光して一泊して帰るつもりで。じゃあ探すのは俺が、と意気込んで宿を調べていた紬さんが顔を上げる。
「ねえ見て、ここのペンションすごくお洒落だよ」
相変わらずぎこちない手つきでスマートフォンを操作していた紬さんが見せてきたその宿は、とある山の麓に佇む英国風の洋館だった。オーナーの趣味なのだろう。外観はもちろん、室内はアンティークのインテリアで統一されており、湖を目前にするロケーションも相まっていい雰囲気だ。
「へえ、いいじゃん」
「庭がすごく綺麗だよね。オーナーかご家族の趣味なのかな。お料理も美味しいんだって。部屋はこんな感じ」
「あー……なる」
「? 気になることでもある?」
「いや、こういうとこの部屋って、あんま防音はしてねーよなと思って」
「防音?」
紬さんはきょとんとした顔で俺を見上げる。何も考えていないらしい表情が、幼く見えて思わず頬が緩む。
「そ、防音」
頬杖をついたまま、紬さんの目をじっと見つめる。紬さんは口を開けたまま俺を見つめていたが、「……ああ、」と何か思い当たったように呟くと、ゆっくりと俯いていく。表情はよく見えないが、耳が真っ赤に染まっていた。
「そうか。そうだね……」
他の探してみようか、と呟いてスマートフォンを手にしようとした紬さんは、手元を狂わせ何度か端末を床に落とした。その動揺っぷりにはさすがに苦笑した。
「うそ。せっかく紬さんがいいっていうんだからここにしよーぜ」
「え、でも……」
「メインはドライブなんで。ゆっくり楽しみましょ」
そう言うと、紬さんは嬉しそうにはにかむ。
まあその気になれば帰りの高速でいくらでも立ち寄れるところあるんで。言おうとしていた冗談は黙っておくことにした。紬さんの笑顔を見てると、言わなくて正解だったと思う。
◇
途中で2、3回パーキングエリアに立ち寄ったものの、渋滞もなくスムーズに目的地に到着した。ネットで見た通りのいい感じの宿で、案内された部屋はこじんまりとしていながらも居心地が良さそうだ。寝室を覗くと小さなベッドが2つ、ナイトテーブルを間に挟むように配置されていた。
恰幅のいいオーナーが「夕飯は7時からご用意してますので、それまでお寛ぎください」と言って部屋を出ていく。
「夕飯かぁ……」ソファに腰掛けて紬さんが呟く。
道中、パーキングエリアでソフトクリームやら名物のコロッケやらを買い、分けて食べたのだが、すでに紬さんは満腹らしい。そうなるんじゃないかと懸念はしていたが、助手席で珍しくはしゃぐ紬さんを見たら水を差すようなことは言えなかった。
「まだ少し時間あるし、少し散歩すれば腹も減るんじゃね」
「そうだね」
紬さんは「よし!」と意気込んで立ち上がる。
「ふ、腹ごなしにそんな気合い入れんの」
「だってあと3時間もないよ」
財布とスマホだけ持って、俺たちは外に出た。玄関先で、紬さんはやっぱりご自慢のガーデンが気になるのか、繋いでいた手をギュッと握って俺を引き留める。
「見たいの?」
「少しだけ、いい?」
「いいっすよ」
庭に咲いている花をあれこれ観察している間、俺はここで飼われているらしい大型犬を撫でていた。金色の毛先がくるんとカールした、ゴールデンレトリバーだ。オーナーの奥さんらしき女性が顔を出す。
「こんにちは、ようこそいらっしゃい」
挨拶を返す俺たちの前で、小さな花壇に生っているトマトをひとつひとつ摘んでいく。
「この辺り、あまり派手なものがないからつまらないでしょう。湖の方には行きました?」
「いえ、まだです」
「ボート乗り場とかお土産ショップがありますよ。でもボートなんて若い人たちは乗らないかしら」
「せっかくなので、見に行ってみます」
「天気が崩れやすいから気をつけて」と奥さんが裏戸から中に入っていくのを見送った後、教えてもらった道をゆっくり歩いていく。快晴で、風もなかったが木陰の下に入ると妙に涼しい。
「山の中って不思議だね。同じ県なのに、さっきのパーキングエリアと全然暑さが違う」
「な。意外と過ごしやすいわ」
10分も歩いたところで、湖の前に出た。看板によると人口湖らしい。ウッドデッキの広場には家族連れやカップルの姿も多く見られた。
「あ、アヒルさんボートがあるよ」
「あれって白鳥じゃねえ?」
そう大きくない湖の上にはカラフルなスワンボートの他に、手漕ぎボートに乗っているカップルの姿もあった。受付前のメニューボードを紬さんがじっと見上げる。乗る気なのだろうか。
「ここのボート、カップルで乗ると破局するらしい」
突然背後から聞こえた声に振り返る。近くでソフトクリームを舐めていた学生らしきグループが、ぎゃはは、と笑い声をあげた。
「ありがちすぎるだろ。どこでも聞くよなそれ」
「じゃあ今乗ってるあいつらも別れんじゃん」
でけぇ声。場所考えろよクソガキ。ソフトクリームのゴミをゴミ箱に向かって投げ、外してまたぎゃはは、と笑うそいつらに思わず「おい、ちゃんと拾え」と声を荒げる。身内だけで構成される世界で、まさか見知らぬ人間から声を掛けられるなんて思っていなかったのか、全員電気を流されたように体を震わせ、先ほどまでのイキりっぷりが嘘のようにゴミを捨てなおすとそそくさとその場を去った。聞こえるか聞こえないかの距離で「なにマジになってんの、ダル」とぼそりと呟く声が聞こえた。この距離でもはっきりともののひとつも言えないのか。ため息をつく。紬さんはまだ真剣に看板を見ていた。今のを聞いて、気分が削がれていなければいい、と思った。
「よし。すみません、スワンボートひとつ貸してください」
「はぁ!?そっち?」
声をあげる俺を気にすることなく、紬さんは料金を支払った。
「ええ……ふつー手漕ぎの方じゃね?」
やはり先ほどの会話を気にしているのだろうか、と心配になる。しかし、紬さんは「足で漕ぐ方がお腹減りそうだから」と得意げにしているので力が抜けた。
スタッフから説明を受け、ふんふんと頷く紬さんの横で、俺はこれから乗るらしい水色の馬鹿でかい白鳥をまじまじと見つめていた。意外にも操作にコツがいるということで、ハンドルのある右側の席には俺が座ることになった。
「漕ぐのは俺に任せて!万里くんは何もしなくていいからね。あ、ハンドルだけお願い」
「張り切ってんな~……」
「じゃあ行くよ」
後方に体重をかけ、脚を動かす紬さん。俺は言われた通りハンドルだけを操作していたのだが、あまりにも進みが遅い。
ふんふん、と鼻息荒く懸命に漕いでいる紬さんは、額に汗を浮かべて必死だった。良かれと思ってペダルを漕ぐと「こら!だめだよ!」とお叱りを受ける始末だ。お言葉に甘えて寛ぎながら横目で見守る。細身のデニムでもゆとりのある紬さんの両脚が、ペダルを踏みこむたびにプルプルと震えている。これは筋肉痛決定だな。
ようやく湖の真ん中まで来た辺りで、突然水面が輪を描いた。
「雨か……あんなに晴れてたのにな」
「にわか雨だね。結構激しくなりそう」
「帰るか?俺が漕ぐから」
「待って」
ペダルを漕ごうとした瞬間、腿に紬さんの手が置かれる。
「もう少しだけ居ようよ。屋根もあるし」
少しずつ、雨音が強くなっていく。屋根がついているとは言え、開口部が多いのでそこそこ振り込んでくる。できるだけ内側に入るよう、紬さんの肩を抱き寄せる。
「寒くねぇ?」
「大丈夫」
他の人たちは慌てて戻ったのだろう。いつのまにか湖には俺たちしかいなくなっていた。雨の中、スワンボートという狭い空間に閉じ込められた俺たちは、ただ降り続く雨の景を見ていた。岸の向こうの並木道にランニングしていた人も、犬と散歩していた人も今はもういない。
外を眺めていた紬さんが、くるりとこちらを向いた。
「どした」
「脚、ぱんぱん」
真顔で言うもんだから、思わず吹き出す。ポンポン、と紬さんの足を軽く叩きながら「後でストレッチすりゃ少しマシになるだろ」と言う。
「万里くん」
「ん?」
呼びかけに応じた瞬間、紬さんがスッと首を伸ばして俺にキスをした。真横に並んでいたせいで、変な体勢のまま数秒、紬さんの体温を感じていた。
この人は、外でこういうことするのが好きじゃない。誰かに見られちゃうかもしれないし、恥ずかしいから。そんなことを言っていた。小さな頭を抱きよせながら応じると、くすぐったそうに身をよじる。呼吸をしながら何回か触れ合ったあと、名残惜しさを感じながら離れる。
「……珍し」
「誰もいなかったから、つい」
そんな風に笑っていた。
結局雨は止まなくて、ボートを返すと俺たちは濡れながら走って宿に戻った。風呂に入る時間はなかったので、部屋に戻ってさっとシャワーを浴びるとダイニングへ向かった。出てきた食事はいいところのフレンチにも劣らないくらい綺麗で、味もなかなかだった。魚料理に添えられたトマトを見て「この子、さっきのかなぁ」と紬さんが言う。少し眠そうだった。食後に出された珈琲(これも美味かった)を飲んだ後、部屋に戻った。
「俺はシャワー浴びなおすけど、紬さんどうする?」
バスルームからそう聞いたけど、返事は返ってこなかった。風呂から出ると、先ほど「はー、お腹いっぱい……」とベッドに倒れ込んだままの姿で寝ていた。布団を掛けなおしてやると、ゆっくりと目を開く。
「わり。起こしたか」
「……ばんりくん」
「ん?」
「防音……してないけどさ」
「うん」
「一緒に寝るだけならいいのかも」
「……そうだな。ちょっとベッドちいせーけど」
「もし……もし、防音が必要なことするならね」
「……ん」
「来るときにさ、高速道路の近くにいろいろあったから……帰りに寄っていったらいいかも」
それだけ言うと紬さんはすやすやと寝てしまったのだが、俺は腕の中にいる紬さんを起こさないよう、笑いを堪えるのに必死だったのは言うまでもない。
おわり