新宿駅のど真ん中で、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンは途方に暮れていた。
用事を済ませてさっさとロンドンへ帰ろうとしていた彼を言いくるめ、観光に引き込んだまではいい。彼はある程度日本語が読めるし、地形にも詳しいから移動にはさして苦労しなかった。
退屈だと喚くかと思ったら、新鮮な環境は彼の頭脳にも程よい刺激を与えたらしかった。「あれはなんだ」「あっちの建物は」と尋ねれば、彼は喜んで知識を披露してくれる。それにシャーロックは美味い料理店を見つけるのが上手だ。食べたいものを列挙すれば、彼は観察眼とモバイルをフル活用して手頃な店を探してくれた。こちらは美味しいものが食べられて、彼は退屈しないのでウィン・ウィンというわけだ。ここまでは順調だった。
さて、別の場所に移動しようとしたところで、ちょっとしたトラブルが生じた。端的に言えば、迷った。それも駅の中でだ。ロンドン・ウォータールー駅もここまで複雑じゃない。標識どおりに進んでも別の出口に出てしまうし、何なら出口が多すぎてどれが正解かもわからない。さすがはギネス世界記録に名を連ねる駅。迷子にならないほうがおかしい。
「だから僕は地下鉄は使わないって言ったろ」
うんざりしたようにシャーロックが言った。彼は人混みが嫌いだ。ロンドンも常に人でごった返しているが、東京とはベクトルが違う。ここは人の流れが早く、密度が高い。殆どの場合は避けて歩いてくれるが、ぶつかってくるときは容赦がない。
普段から人混みを避けていて免疫がないせいか、彼はあっという間に人酔いしてしまった。早いところ連れ出してやりたいが、出口がわからない。案内板の細かい文字を見ただけで呻き声を上げたので、彼に地図を読んでもらうのも早々に諦めた。これでは探偵の頭脳も形無しだ。
「だったら……いや、現地の人に聞いたほうが早い。君はここで待ってろ。いいか、絶対にそこを動くなよ」
「何? おい、待てジョン!」
喚くシャーロックを放置して、教えてくれそうな人を探し歩いた。不機嫌なシャーロックを連れ歩くのは危険だ。すぐ人に突っかかるから。突然異国語で何かをまくし立てたら不審者扱いされてしまうかもしれないし、通報されてはたまったものではない。ここには口添えしてくれる警部も、誰かさんの兄もいないので。
「失礼、聞きたいことが」
「なんでしょう?」
声をかけ、振り返ったのは赤毛の少年だった。ルビーみたいな変わった色の瞳をしている。意外と言っては失礼だが、随分と流暢な英語だった。留学経験があるのかもしれない。人好きのする笑顔を浮かべ、さり気なく人の波の邪魔にならないところまで誘導してくれる。
改めて見ると、額の大きな痣が目を引いた。おそらく火傷の上から更に怪我を負ったものだ。範囲が広く目立つのに、不思議と少年の愛嬌を損なうことはない。こちらの視線に気づいているはずだが、少年が気にする様子はなかった。いつものことなのだろう。だからこちらも気にしないことにした。
「地上に行きたいんだけど、出口にはどうやって行けばいいかな。できれば丸ノ内線の近くが嬉しいな」
「それならこっちですよ。ちょうどおれもそっちに行くので、案内します」
「ありがとう! 助かるよ」
こんなにすぐ解決するとは。他の国ならもっと警戒するところだが、シャーロックに言わせればここはお人好しの国だ。よりによって連れて行かれた先が悪の組織のアジトなんてことはないだろう。
シャーロックに向かって手招きをすると、彼は緩慢な動きでこちらへ歩いてきた。本当におとなしく待っていたことには驚きだが、裏を返せばそれだけ気分が悪いのだろう。後で冷たいコーヒーでも買ってやろう、と思いながら先導してくれる少年の後を追った。
屋根がなくなり、空が見えると、シャーロックは深く深呼吸をした。人でいっぱいの閉鎖空間はどうしても空気が悪くなる。車だらけの町中も決していいとは言えないが、それでもロンドンの排気ガスを吸い込むよりはマシだ。
地上に出た途端シャーロックがピクリとも動かなくなってしまったので、少年は心配そうに眉尻を下げた。優しい子だ。見ず知らずの異邦人を案じてくれる。
「大丈夫ですか?」
「人混みに目を回したんだ。ああいう場所が苦手でね」
「ちょっと待っててください」
いうが早いか、少年は身を翻して地下に戻っていってしまった。往来に棒立ちは邪魔になるから、少し脇に避けて待つ。
戻ってきた少年がどうぞ、と差し出したのは二つの缶コーヒーだった。一つは無糖、もう一つは微糖だ。当然のように微糖をシャーロックに渡すので、探偵の食指が僅かに動く。
シャーロックが言うには、ただの偶然とそうでないものには明確に違いがある。彼はただの偶然の産物には目を向けない。つまり、少年は正しく二人の好みを把握した上で、コーヒーを買ってきたというわけだ。そもそもなぜコーヒーなのか、水でもお茶でもなく。口に出して言った覚えはないのだが。
「ベーカー」
シャーロックが不意につぶやいた。少年が不思議そうに首を傾げるのを見て、好機と言わんばかりに暇を持て余した探偵の口が開く。バカ、先に礼を言え。でも止める間もない。
「モバイルの持ち方、バッグのかけ方から見るに君は右利きだが、左手が腱鞘炎一歩手前。利き手をかばって作業をするからだ。あまり日に焼けていないから室内の仕事、しかし足もよく使う。肩こりと腰痛の傾向がある。同じ姿勢を続けたり重いものを持ち運んだりするから。指先は荒れているが、オイルや金属の類が原因ではない、粉だ。ああ、頻繁に消毒するから薬品でもあるな。爪は短く清潔に整えられている。室内の立ち仕事で力がいり、両手を使う、衛生管理が必要なものは料理人だが、決め手は粉、もっと言えば小麦粉。つまりベーカー」
「わあ、すごいですね!」
いつもどおり鬱陶しがられる予定だったシャーロックは、手放しに称賛されて固まった。稀な反応だ、双方とも。褒められ慣れていない天才は面食らっているし、少年はべらべらと暴露し始める大人を恐れるどころか感激している。続きの展開が気になって静観していたものの、シャーロックは何度か瞬きを繰り返した後、「簡単な推理だ」と述べるに留まった。
「炭治郎!」
と、そこへ長駆の男がやってきた。この国の人にしては珍しく、目も髪も金色をしている。少年がぱっとひときわ明るい顔をするので、知り合いのようだ。もっと親しいかも知れない。男は明らかにこちらを警戒していて、さり気なく少年を遠ざけるように間に割り込んだ。
「煉獄さん」
「遅くなってすまない。で、何をしているんだ?」
「道案内ですよ。地下鉄で迷っちゃったんですって」
「ふむ……」
日本語はさっぱりわからないが、「レンゴク」というのが多分彼の名だ。「サン」は敬称。ついこの間シャーロックに教わった。
男は探るような視線をこちらに向けた。少年が異邦人二人に絡まれていると思ったのだろう。実際に助けを求めるふりをして誘拐する手口はあるので、当然の警戒である。別に悪いことをしたわけではないのに、思わず姿勢を正してしまう。
男の両腕は鍛え上げられていて、多分武術に長けている。テレビで見たことがあるジュードーの選手みたいだ。シャーロックならもっとちゃんと区別できるだろうけど、なんて思っていると、シャーロックの方から正解を教えてくれた。わざわざ警戒している人の前で。
「ジョン、剣道だ。柔道じゃない」
「ああ、ケンドーね。刀使うほうね」
「違う、竹刀だ。刀を使うのは居合道」
「わかったわかった、とにかくマーシャルアーツの一種だろ」
柔道だの剣道だの言い始めた異邦人を前に、男は最高に怪訝そうな顔をして少年の肩を抱いた。耳元で何かを囁いている。こいつら怪しいだとか、もう行こう、あたりが妥当だろう。ところが少年の方はあまり気にしていないようで、にこにこと笑いながら男をなだめた。誓って悪いことを企んでなどいないが、ちょっと警戒心がなさすぎじゃないだろうか。男の気苦労が知れるようだ。
「どうしてわかったんですか、剣道だって」
そうして少年がまた無邪気な声を上げた。これには男も驚いたようで、拍子抜けした顔で少年とシャーロックを交互に見る。シャーロックも一瞬困惑の表情を浮かべたが、二回目ともなれば若干耐性がつくらしく、薄く笑いながら「耳と手を見ればわかる」と言った。