今は、傍にいよう ハチドリはベッドに横たわっている。汗が噴き出して玉になって流れ、長い髪に吸い込まれていく。ツルは氷水を張った桶に新しいタオルを浸け、固く絞る。ハチドリの湿った額を数回撫でると、心底気持ち良さそうに息を吐いた。
「 、ぁ…ー、ぅ……」
「辛いですね……」
「やだー…、あそぶ……」
「熱が引いたらお好きなだけ遊んでください」
「ツルのいじわる……」
「あらあら。今日は言葉のチョイスが可愛いらしいですね」
いつもなら「けち」とか、訳を話した後に間髪入れずに「なんで」と言ってくるが、さすがに今は堪えているのか、いやに弱い。思わずツルが笑うと、ハチドリは潤んだライムグリーンの目を細め、また額の汗を拭くように強請った。
医療班によると、どうやらハチドリの発熱はウイルス性のものではないようで、診察の後は薬を処方されるだけに至った。医務室への移動も勧められたが、何故かハチドリはそれを拒んだ。「放っておけば治る」と言ってそっぽを向いていたがどうにも心配で、ツルは面倒を看ることにした。
ツルの予想通り、ハチドリを放っておかないで正解だった。
時折不意に起き上がっては、何かを呟いて無理矢理どこかに行こうとするから、制止をするのに苦労する。食事をする余裕もないようで、発熱が判明した今朝からハチドリが口にしたものは、処方された錠剤とツルが薬呑器から与える水だけだった。
ツルは再度冷やして絞ったタオルを畳み、ハチドリの額に置く。医療班が置いていった冷却シートを貼ろうとしたら、ありえないほど抵抗をされたので、すぐに温まっては効果が薄れるタオルを使っている。
「ベタベタする……」
「身体も拭きましょうか。起き上がれますか?」
「んー…、めんど…」
「先程まで起き上がっていたではないですか」
「服脱ぐのがめんどー……」
「脱がして差し上げますから、起き上がってください」
「…ぁははは…なんかやらしいね…」
「何をふざけたことを言っているんですか」
無表情でそんなことを言ったハチドリに特に取り合うことなく、ツルは席を立って簡易キッチンに向かう。蛇口を捻り、新しいタオルを濡らして電子レンジに入れる。タオルを温めている最中にベッドを見ると、ハチドリは起き上がっていて、左右に揺れながら服を捲り上げていた。頭がつかえたようで、無理矢理裾を引っ張って、最終的にベッドに倒れた。そもそも支給されている服は前開きのタイプのため、ハチドリのやり方では脱げるわけがない。ハチドリは捲った服をそのままにしているから、顔が隠れて腹部が露出し、ツルには何か別の生き物のように見えた。
レンジからタオルを取り、ツルはベッドへ戻る。倒れて動かないハチドリを起こし、汗で濡れた服の紐を解き、留め具を外して脱がせた。ハチドリは前のめりになってツルに寄りかかってくる。ツルはベッドに乗り上げて、ハチドリの身体を支えた。
引き締まった身体は、汗で濡れていた。苦しげなか細い呼吸が耳元で聴こえる。タオルで汗を拭い軽く撫でると、心なしか息が緩やかになった。
「きもちいー……」
「少しは楽になりましたか?」
「ぅん……」
「服も変えましょう」
湿った服が取り替えられ不快感が減り、やっと眠れるまでに落ち着いてきたのか、ハチドリは微睡んでいた。ツルは椅子に腰掛け、徐々に柔らかくなる表情を眺めていた。
「――ツル、ごめんね」
眠りにつく寸前のように見えたハチドリは、不意にそう呟いた。
「…どうして謝るのですか?」
「うーん…熱出しちゃったから?」
「それでどうして、ハチドリさんが謝ることになるのですか?」
「…ぇぇー…、なんでだろ…、ちっちゃいときに体調崩したら、お母さんに結構怒られたから、悪いことだと思ってた……」
「……」
「アタシが熱出したり風邪引くと、めんどーで遊びにいけないんだって。とか言ってたけど、薬と食べ物おいて夜に出かけてたけどねー。熱出てる時に甘いパン食べても全然味しないんだよ。知ってた?」
ハチドリは薄目を開け、どこかを見つめている。昔を思い出していることは、ツルにはわかった。ツルの目には、薄暗い部屋の中でシーツに包まり、母親の帰りを待つ少女の姿が見えていた。
……自分も以前、同じようなことを姉に言った。
熱にうなされる自分を、「だらしない」と両親は詰った。
ただ、姉だけは味方でいてくれた。
傍にいてくれた。
枕元で聴こえた氷の音と姉の声が、唯一の救いだった。
「……悪いと思う必要はないのですよ……」
ツルはハチドリの手に触れる。駄々を捏ねるハチドリの手を引く時とは違う、高い温度を知った。
「……そうなの?」
「ええ…」
「…そっかあ……」
「だから、何もお気になさらず眠ってください」
「うん…」
重なるツルの手に、ハチドリは指を絡める。ツルも自ら動き、優しく、そしてきつくハチドリの手を握った。
「――……ツルの声ってさ、落ち着くよね…」
「そうですか」
「うん、今気づいた……」
ハチドリは緩やかに瞼を閉じる。柔らかく、笑っていた。
しばらくすると、薄いハチドリの唇から、規則的な寝息が聴こえてきた。
ツルは目を伏せる。触れ合った指から、ハチドリの脈が伝わる。確かな生を感じた。
「…完璧とはとても言い切れませんが、私たちは、自由のはずです……。少なくとも、逃れることができています……」
ハチドリは母親から、ツルは両親から。
――「家族」から。
ハチドリが母親をどう思っているのかはわからない。どうも思っていないのかもしれない。逃れたという自覚もないのかもしれない。
ツルは家から、両親から距離を置いたと同時に、愛していた姉からも離れることになった。ツルはここに来て早々に、解放というものは、喪失と同じ意味を持つと知った。
だが、
だから、こうして出会うことができた。
この出会いには、大きな価値がある。意味がある。
「私、ハチドリさんのことは結構憎からず思っているのですよ……」
聴こえるはずもないハチドリに、ツルは言う。だからこそ、本音を口にする。
ハチドリの手が、僅かに動く。求めるように、さらに指を絡める。ツルも応え、根本に食い込むほど強く、ハチドリの手を握った。
「私も貴方も、ひとりではないのですから…――今は、貴方の傍にいます、ハチドリさん」
「ツール起きてー、ツールー」
いつの間にかベッドに伏せていたツルは、ハチドリの声で目を覚ます。身体を起こすと、いつものハチドリがこちらを見ていた。
「全快、といった感じですね」
「うん」
完全に汗は引いている。何故かツルには、ライムグリーンの目がチカチカと点滅しているようにも見えた。
「もう元気」
ハチドリは得意気にそう言う。握ったままの手を持ち上げ、軽く振る。しばらく離すことはせず、何が面白いのか指を絡めたり指の腹を撫でたりと遊んでいた。
ツルはその間に片方の手で、ハチドリの額に触れる。指先には自分と同様の体温が伝わってきた。
「そういえばツルさ、アタシが寝る時に何か言ってた?」
「いいえ? 何も」
「そっか。なんかぼそぼそ聴こえたような気がするんだけどなあ」
「幻聴ですよ」
「ふうん……、…あ、」
妙に納得のいかないハチドリだったが、ツルに都合よく、きゅうと腹が鳴った。
「お腹減った」
「長時間何も食べていませんから、柔らかいものでも作りますよ」
「やったあ」
「お粥とうどん、どちらにしますか?」
「うーん、どっちも」
「ハチドリさんらしいですね」
返事の内容を予想していたのか、ツルは軽く笑い立ち上がる。少々乱れたハチドリの頭を撫で、「いい子にしていてくださいね」と釘を刺し、部屋から出ていった。
扉が閉まりきると、ハチドリは枕元の薬呑器に口をつけ、水を飲み干す。喉が冷え、再びベッドに寝転ぶ。病み上がりだが妙に満たされている気がして、目を伏せる。暗い瞼の裏で、頭を撫でてくるツルの姿が浮かんだ。
自分に微笑んでいた。
ツルは、帰ってくる。
帰ってきてくれると、信じることができた。
遠い日の夜に欲しかったものは、もしかすると「これ」なのかもしれない。
ハチドリが知らない、ハチドリの意識のどこかで、長く欠けていたピースが、静かにはまった。
嬉しかった。
何故嬉しいのかは、ハチドリ自身にもわからない。わかろうともしなかった。
ハチドリはベッドの上で身体を伸ばす。自由な猫のようだった。
「ツルといるのってさー、本当最高だよ」
終わり