信一夢SS 九龍城砦の新しい区画の一角にある彼女の小さな店は、閉店時間を過ぎても蛍光灯の白い明かりを路地に漏らしていた。俺は髪を整えると店のシャッター前に立ち、いつもの軽い態度を装って声をかけた。
「まだ帰ってなかったのか」
店の奥で商品を並べ替えている彼女が、棚の陰から顔を上げて振り返った瞬間心拍数が跳ね上がった。
付き合って初めて一緒に朝を迎えたあの日から何日かぶりに会う彼女は、いつも通りの無造作にまとめた髪と、作業に没頭する真剣な目つきでそこにいた。
同じはずなのに、以前とはどこか違う。記憶の中の彼女の掠れた声と触れた肌の柔らかさ、乱れた髪の感触が頭を離れない。ここ数日間はずっと落ち着かないままだった。
「ちょっとレイアウトを変えたくて色々試してるの。信一はまたサボり?」
彼女の声は相変わらず素っ気なく、わずかに棘がある。俺は苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「またとか言うな。見回りだ」
「そう」
短い返事も慣れたものだ。
カウンター脇の丸椅子に腰を下ろし、兄貴の店から拝借してきた古びた雑誌を広げた。ページをめくるふりをしながら、彼女を視線で追う。商品を一つ一つ手に取り、棚に並べ替える手つきは丁寧で、蛍光灯の白い光が彼女の細い指先に反射する。集中している時の横顔は妙にきれいだ。
あの夜の続きが欲しい。そう素直に求めれば応じてくれるかもしれない。考えただけで身体が熱くなり、ネクタイを緩めて息を吐いた。
一度許されたからこそ、距離感が分からない。付き合っているのだから好きな時に触れ合うのは自然なことかもしれない。でも、幼馴染から恋人になるまでがあまりにも長すぎた。彼女と過ごした時間の中で、ようやく手に入れた関係だ。照れくさいし、壊したくない。
がっつきすぎて引かれるのは絶対に嫌だし、軽い男だとも思われたくない。かといって、消極的すぎて意気地無しと見られるのも困る。惚れた女には、かっこいいところだけを見せたいものだ。
「帰りは送る」
何気なく言うと、彼女が手を止めてこっちを見た。
「見回りの途中なんじゃなかったの?」
「だから、ついでに」
「じゃあすぐ終わらせるね。ありがと」
「ん」
彼女の返事に小さく頷き、俺は雑誌に目を落とした。だが、頭の中は彼女のことでいっぱいだ。
もし彼女が、仮にだ。「今夜、どう?」なんて言ってきたら、俺は理性なんか吹っ飛ばして、前言撤回で尻尾を振って彼女の部屋に直行だ。でも、そんなことあるわけない。もしも誘われるようなことがあれば俺は歯止めが効かなくなってとんでもないことをしでかしそうだ。あの夜だって、ちゃんと付き合ってからの流れとはいえ、じっくり段階を踏んだつもりでも最後の最後で我慢しきれなかった。勢いに任せて彼女を抱いた時の感触が、今でも鮮明に残ってる。ダメだ。じゃあ、やっぱり俺から行くしかないのか。でも、どうすりゃいい? タイミングが分からない。
思春期のガキみたいに悶々と考えてばかりで、いたたまれなくなる。
彼女はこっちを一切振り返らず、黙々と作業を進めている。棚に並んだ商品の間から見える白い項が、目に飛び込んできた。目の毒だ。あの夜、彼女の首筋に触れた時の滑らかな感触が蘇ってきて、喉が渇いて仕方がない。いてもたってもいられなくなって俺は雑誌を閉じ、立ち上がって彼女に近づいた。
「なあ、手伝おうか」
「いい」
相変わらずそっけない返事だ。
「でもさ、疲れてないか?」
「平気だってば」
彼女の隣に立って、商品を手に取って見よう見まねでやってみるがすぐに取り上げられてしまった。こっちは少しでも近くにいたいって気持ちが抑えきれないというのに。彼女はちらっと俺を見て、ため息をついた。
「信一⋯邪魔しないでって言ったよね」
「そうか? 俺、役に立ってるつもりなのに」
「突っ立ってるだけでしょ。掃除なら大歓迎よ」
壁に立て掛けた箒を指さした彼女が目を細めて俺を睨む。自分に向けられた視線は全然そんな意図はないはずなのに妙に落ち着かなくて、俺はたまらず目を逸らしてしまった。
「それはお前の仕事だろうが」
*
男って生き物が豹変するものだっていうのは、頭のどこかで分かってた。でも、信一は信一だし、信一に限ってそんな大したことないだろうって思ってた私が甘かった。
あの夜、確かに嬉しかったけど同じくらい、いやそれ以上に恥ずかしかった。普段は他の男友達と同じように接してくる信一が、ベッドの上ではまるで別人みたいに甘ったるい言葉を素面で囁くし、優しいから、すごく困った。終わった後、信一の腕の中で泣いてしまったのは、感情がぐちゃぐちゃになったからだ。あれ以来、彼に会うのが気恥ずかしくて、でも会わないのも寂しくて、複雑な気持ちで数日を過ごしてきた。
だから、店先に現れたのがいつもの信一だった時、ほっとした。いつもの軽い態度で「まだ帰ってなかったのか」なんて言ってくる彼を見て、肩の力が少し抜けた。信一は信一だ。恋人になったからって急に別人になったわけじゃない。その安心感が、私を落ち着かせてくれる。
「まだ?」
狭い店内を落ち着きなく信一は行ったり来たりしながら、こっちを見ている。棚のレイアウトをいじってる私の手元を、じっと見つめてるみたいだ。
「あとちょっと。急いでるなら私ひとりで帰るから大丈夫だよ」
「待つのは待つけど」
そう言うと、信一が近づいてきて、腰の後ろで結んでたエプロンの紐を引っ張って解いてしまった。
「何すんの」
私が驚いて振り返ると、彼はニヤリと笑った。
「帰る準備を手伝おうかと思って」
「もう! じゃあこれ畳んでて」
頭から引き抜いたエプロンを信一に向かって投げつけた。彼は片手でそれを受け止めて、端と端を摘んで適当に畳み始めた。信一の不器用な手つきが、妙に愛おしく感じて私は思わず笑ってしまった。
信一が店に来てくれるのは嬉しい。付き合ってるんだから当たり前かもしれないけど、あの夜から気恥ずかしくて、忙しさを理由に照れ隠ししてる自分がいる。商品棚のレイアウトをいじるのも、半分は気を紛らわすためだ。でも、こうやって信一がいつもの調子で絡んでくれるのは、なんだか安心する。子どもみたいないたずらも信一らしいけど、近い距離に心臓がドキッとしたのも事実だ。
レイアウト変更の続きは、明日の朝早く来てやろう。今日はもう信一と一緒に帰りたい気持ちが勝ってしまった。
「終わったよ。送ってくれるんだよね?」
「当たり前だろ。ほら、行こうぜ」
なんとも言えない形に仕上がったエプロンを信一はカウンターに置いて、私の背中を軽く押す。私は店のシャッターを下ろして、彼と一緒に歩き出した。
夜の路地は静かで、遠くの喧騒がかすかに聞こえるだけ。ビルの隙間から漏れる街灯の光が、コンクリートの地面に細長い影をふたつ落とす。
信一が私の隣に並んで歩く。いつもより少し近い気がして、肩が触れそうな距離にドキドキする。黙って歩いてると、彼が突然私の手をつかんだ。
「何?」
「いや、別に。手、冷たいなって」
信一が照れくさそうに笑って指を絡めてくるから、私は顔が熱くなって、つないだ手をぎゅっと握り返した。
「信一の手はあったかいね」
「そうか?」
彼が少し驚いた顔でこっちを見る。私は目を逸らして、黙って歩き続けた。信一の手の温もりが心地良くて、離したくない気持ちが湧いてくる。でも、それを口に出すのは恥ずかしくて、ただ黙って歩いた。部屋の前まで来ると、私は立ち止まって信一を見上げた。
「じゃあな」
「ほんとに見回りだったんだ」
「そりゃまあ、日課だし」
そう答えた信一の目が泳いでいる。革ジャンのポケットに手を突っ込んで、何か言いたそうに口を動しているけど、言葉になっていない。
「おやすみ信一」
名残惜しい気持ちを押し込めて、ドアを閉めようとした瞬間、信一の手がスッと滑り込んできた。私は挟んでしまったのかと仰天して慌ててドアを開けると、全然そんなことはなくて。俯いた信一はぽつぽつと歯切れの悪い言葉を絞り出した。
「見回り終わって、その、水浴びしてくるから⋯お前がまだ起きてて、いいってんなら⋯ドア、開けてくれ」
その言葉を聞いて、数秒考えた。
「嫌だったら無視して寝ろ」
彼が何を言おうとしてるのか、何をしようとしてるのかが分かった瞬間、心臓が有り得ないくらい早く動き出す。
「わ、わかった」
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい、またあと⋯で⋯⋯あ」
当然のように口から出た「また」に、自分でも驚いた。こんなの、待ってるって宣言したようなものじゃないか。
「お前な⋯せっかく猶予をやったのに意味ないだろ」
そう呟いた次の瞬間、信一が一歩踏み込み、私の肩を掴んで唇を奪った。抑えきれない衝動が彼の動きに滲み出ているようだった。彼の指が私の肩をぎゅっと掴み、まるで逃がすまいとするかのように力がこもる。
信一の熱に押されて、思わず広い彼の背中に腕を回した。信一の唇が一度離れて、またすぐに角度を変えて重なり、彼の動きひとつひとつがまだ足りないと言わんばかりに深く探ってくる。目を瞑るとだんだんと頭がぼーっとしてきて、信一の手が肩から背中に滑り、ぎゅっと抱き寄せられた。
「煽ったのはお前だからな」
唇を離した信一の目が欲に濡れたように熱っぽく私を見つめる。指が私の頬に触れ、ゆっくりと髪を撫ぜた。その仕草が、さっきの衝動とは裏腹に優しくて胸が締め付けられる。
しばらくそうやって恋人同士の時間を堪能してると、彼が耳元で囁いた。
「すぐ戻る」
掠れた声に、私は小さく頷いた。