俺の彼氏(26歳180↑㎝)がちかんされたってまじ?臭い気持ち悪い。八木は口を噤んでなるべく息を止めていた。
自分が周りよりも背が高くて良かったとこういう時に実感したりする。
絶対転勤する。心の中で毎日毎日決意し、そことなく上司にほのめかしているし希望も出しているがなかなか声はかからない。本社勤務なんてろくなことがない。
なにせ、八木は毎朝毎朝これが大嫌いなのだ。こんなことを続けていたらどうにかなる。
地下に滞留し電車と共に吹き込んでくるあの生温かい濁った空気も嫌い。
へんな臭いも嫌い、臭い。喉が痛くなりそう。肺が汚れそう。
自然にかこまれ人混みにも遭遇しない田舎育ちの八木には苛酷な環境だった。
だいきらい、満員電車。なんとかならんか。
老若男女ごった返す地獄。ぎりぎり身体が触れぬか触れないかの距離に人がいる。
近くに女性が居て八木は真面目に両手を上げ、つり革を掴んで目を閉じる。はやく出たい。
おまけにこのつり革も人肌に温かくてきもい。触るのきもちわるい。早くして。
ガタン、ガタん。電車がゆらりと大きくうねって動き人の塊が揺れる。どこから揺れてきたのか八木の前に体格のいい男が現れ身体がぶつかった。なんだか湿気た頭が顎の下にきて青褪める。さっきよかったと思っていたはずの自分の背の高さを呪う。くさいしぬ。俺は匂いに敏感なんだ。男は狭い車内で汗ばみティーシャツにうっすら汗染みをつくっている。まじで勘弁してください。このスーツ高いんです。汗も皮脂もつけないでほしいです。泣きそうになりながら祈るが願い届かず。電車はまた大きく揺れて、男がまた八木にぶつかった。湿気た身体が八木のスーツにぶつかってくる。てらてらしている顔が八木の胸元にべしゃりとへばりついた。辛い。頭もくさい。辛い。
男が小さな声で「すみません」と謝るのに「いえ、大丈夫です」と必死に答えてまた息を止めそれとなく上を向く。たすけて。この満員電車地獄は十五分ほどだ。毎日この十五分で八木はその日一日丸ごとの体力を殆ど失った状態で出勤している。むりなんだが。
はぁ……まじで気持ち悪い。
駅で止まるたび少しずつ人が入れ替わり、でかい駅で人はごっそりと降り、代わりにまたごっそりぎゅうぎゅうに乗ってくる。ここを乗り越えれば終わる。八木は隙を見てつり革から逃げ出しげっそりとドア際にくっついていた。くさいおじさんとくっつかなくてよくなり息を吐いていた。八木は人とくっつくのもすきじゃない。人に触られるのも苦手だ。
やっぱり壁が一番だなと詰め込まれ、と畜場へ連れられる家畜のような気持ちで外の景色を見ていた。このまま今日はドアと仲良くして逃げ切る――――と、
背後に誰かがくっついてきた。首筋に呼吸がはぁはぁ当たって鳥肌が立つ。
ぎょっとして振り向こうとするが人がぎゅうぎゅうで身じろぎにくい。横目でなんとかそいつを確認しようとすると。恐ろしいことに腕が八木の腹に回ってきた。ごつい手をしている。大きな男の手だ。八木の腹筋確認するようにべたべたと撫で回している。
は???? 八木は混乱していた。これはなんだ。怖気だつ。何。
思考停止というやつだ。会社の同僚である女性社員が痴漢されたと激怒して話すのを聞きながら、女性は大変だなぁなんてのんきに思っていた。言わないだけで男だってそういう目にあうことはあるのだとかいう話もその輪の中で話題になっていた。若く小柄な後輩が「実は俺もそれっぽいことされたことありますよ、なんか女の人にちんこ摑まれた」などと恐ろしい話を聞いて戦慄いていた、が。正直に言って八木は関係のない世界だと思っていたのだ。その被害にあった後輩は見た目も柔らかな好青年だし。
だって、自分で言うのもなんだが八木は見るからに近づきにくい。背も高い、がたいもいい、坊主、目つき最悪。見ているだけで「何睨んでるんだ」と言われるし、何も話してないのに目が合っただけで目を逸らされる。間違いなく対象にされないだろう。
そこで自分の恋人である志津摩が浮かんだ。
志津摩のやつなら見た目も雰囲気も無害そうで痴漢されかねない。浮かんで、もし痴漢されたら志津摩は爆笑しそうだなと溜息が出た。彼奴はああ見えてものすごく強いから締め上げるのも朝飯前だろう。まあ、こういう満員電車には気を付けろと言っておこう。
なんて。かんぜんにひとごとだったのに。これは今――――。
いや、まて俺か??一周回って首を傾げる。そうこう混乱している内に男の手が胸元にあがってきた。胸筋を揉みしだくように掴まれて。総毛だってぞわりとした。反射的に手首を掴む。
「があっクソッ!」
ものすごい力で藻掻き手首を捻って逃げられて。振り向くが人だらけでどれが誰でどれなのかもうわからない。目を合わせないよう俯いた人や、ぼうっと無になっている人、スマホを見ている人しかいない。気分が最悪になる。もとから大嫌いな電車に揺られて吐きそうなのに。
~俺の彼氏(26歳/180↑㎝)がちかんされたってまじ?~
「なぁ、志津摩!」
帰った途端に玄関で八木は叫んだ。
「わあ~~、おかえりなさ~い!」
玄関で革靴を脱ぎ捨てる。志津摩がスーツの上を取るとおかえりのはぐをされた。
志津摩の肩に顔を埋めて、ぎゅうううっと抱きすくめスンスン志津摩の匂いを堪能する。
仕事終わりの志津摩吸いこそ八木の心のオアシスである。
石鹸のような清潔な匂いになんとなく志津摩の匂いだろう甘い薫りがする。好き。落ち着く。
「ううう、おれは、志津摩の匂いがいちばんすき!」
「ははは、なんですか、もう!」
志津摩は呆れ笑いして八木の背中をとんとん叩いて宥めた。
「もうクセェ電車ヤダムリいきたくない」
めそめそ弱音を吐きながらスンスン志津摩を吸い込む。
「はは、八木さんお疲れ様」
「なぁ俺もくさくなった? あのやべえ臭い俺についてねえ? もうまじでむり」
ええ、と志津摩は戸惑いながら、真面目に答える。
「し、仕事帰りの八木さんは、確かに外の臭いになってますね」
「いいいいいッ、きもい、風呂! 風呂行く!!」
慌てて風呂に入りがしごし身体を洗いまくる。
そこでふと、朝のことを思い出す。あれは……もしかして。
「ほんとに……ちかん!?」
寒気がした。今頃きもちわるさに眩暈がする。え、この八木に。痴漢。狂気!
目を剥いてがしがし身体を洗い流し風呂を出た。
「志津摩!」
まだほかほかと濡れたまま出てきた八木に志津摩は目を丸くする。
「ねえ、ちゃんと着替えてから出て来てくださいよ~!」
八木は腰にタオル巻いただけだ。夕飯をテーブルにならべている志津摩は八木にタオルを投げてよこす。八木はふきふき拭いながらバタバタ志津摩に駆け寄る。
「ちょっと、床濡れますってば! どうしたんですかぁ!」
「な、なぁ志津摩、」
「だからなんです? 今日はよっぽど疲れたんですね八木さん、」
こっちに来なさいと志津摩に呼ばれてソファへ座らされる。
「とりあえずぱんつくらい履いてください、ほら」
窓際に干されたパンツを取って志津摩が八木に押しつける。
八木はうんうん。ととりあずパンツに足を突っ込みながらまた志津摩の肩を掴んだ。
「俺さ、俺がよ、」
「ええ?? はい、どうしました??」
「今日、痴漢された!!!!」
志津摩は八木の肩をタオルで拭いていた手を止めた。
「やぎさんが、痴漢??? された??」
志津摩は眉を寄せて。大きく瞬いて。
「あはは! まさかぁ! あははははっ! やぎさんですよ!? まさかあ!」
志津摩が腹を抱えて笑うが、パンツ一丁でソファに腰掛けた八木は深刻に腕を組む。
「そう、そうなんだよ……、俺よ? ええ……」
頭を抱えるので志津摩は隣に腰掛けて、またまだ湿っている八木の背を拭う。
「ほ、ほんとですか? 八木さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃねえよ、きもちわるい……、こう、腹とかべたべた触ってきて、うえ……」
八木が人に触られるのが苦手なことを知っている志津摩は血相を変え心配する。
「ううう、ゆるせない! 八木さん触るなんて、やだ、もう電車やめません?」
「やめたい、ただでさえ毎日はきそう……」
けれど電車がどう考えても一番便利、最強。
「八木さんよしよし!」
ぎゅっと志津摩に抱きしめられて慰められた。
「俺は触られるより、さわるほうがすき」
「わ、なに!」
志津摩を抱き上げて膝に乗せると志津摩は頬を膨らませる。
「ねえ~~! 俺は心配してるんですよ!?」
「うれしい志津摩、慰めろ。もう俺がんばれない」
志津摩の服の中に手を突っ込むとその手を掴まれ阻止される。
「やだぁ! ね、ひとまず、先ごはん食べましょ!」
その後も八木は毎日毎日電車に揺られ家畜の気分よろしく通勤したわけである。
嫌すぎて電車に乗る気持ちが余計に削げ削げで嫌でたまらなくなっていた。またあんな風にべたべた触られるのかと思うと、そういう目を向けられ触られるのは、気持ちが悪くて吐き気がして。事件のすぐあとは怖気づいていたのだが、再びそういう目にあうこともなく。
結局いつも通りの毎日に揺れていた。
「わぁこの時間ってこんなに混むんですね……」
志津摩の小さな声に「うんうん」と頷く。もう酔いそう。
「恐い顔になってますよ、八木さん。がんばりましょ、」
休みの日、やむを得ず電車を使い志津摩と目的地へ向かっていた。休日の電車は平日通勤時よりましとは言え時間帯や区間によりぎゅうぎゅうになる。
白目剥きそう。志津摩をドア側に押し込み八木は魂をどっかへやったつもりで突っ立っている。目の前の志津摩の首元に顔を埋めてしまいたいが、あまりにも公共の場すぎて我慢している。はやくしてはやくして。電車が大きく揺れる度にひとの塊が八木の背中にぶつかる。今日も元気にぎゅうぎゅう電車だ。
「うわっ」
ガタン!と激しい揺れにバランスが崩れ志津摩のくっつくドアにダン、と手をつく。志津摩に覆い被さるみたいになり見下ろす。助けて志津摩。むり。志津摩はこちらを見上げて何やら楽しそうにニコニコ頬を染めているのだから呑気なやつだ。八木の背には何者かもしれない人がぶつかるし寄り掛かる。これくらいならしょうがない、耐えられるのだが。八木はこの生温く濁った空気が大嫌いだった。
早く着かんかな。と青褪めげっそりとしているが、今日は志津摩が目の前にいるから幾らか気分はマシだった。志津摩はスマホをみて目的地の下調べをしている。美味しい店を探すんだと鼻息あらく調べている。八木は目を閉じ無になることにした。
そうして数分。八木はバッと目を開く。
妙に背にべったりとくっついている何者かがいる。まさかと思うがそのまさかで。
今度は躊躇う様子もなく、八木の身体へ手を伸ばしてきた。さわさわとまた腹筋を撫でつけ太腿を掴まれた。はぁ!? また!? ほんとに!? 正気か!? また凍り付いてしまう。一瞬、脳が考えたくないと拒絶するのか停止してしまうのだ。
「――――ッ!!!」
目を見開く。耳の後ろへふうふうと息を吹き掛けられている。
ぞっとする。鳥肌が立って寒気がした。ぶるぶるしていると何を思ったか、ちかんの手が八木の尻をがしりと掴んだ。たいした肉もない固い尻である。八木はますます混乱した。
え、正気こいつ。まじ?? 混乱で固まってしまう。こわいのかもしれない。
呆然としていると、乱暴な手は裾から手を滑り込ませ地肌の腹に触れた。
「おいっ!」
びくりと驚いたのは八木だ。
目の前の志津摩が怒鳴って八木に触れている野太い腕を握りしめている。腕はものすごい力と勢いで逃げようと暴れ出すが志津摩は速かった。
「こらぁ! なにするんですか!」
てこの原理で手首を捩じって捻り上げがしりと掴む。
「俺の八木さんにさわんな!」
八木はハッとして怒り心頭の志津摩を宥める。ちかんおじさんは志津摩に引きずり出され首を垂れている。どこにでもいる普通のスーツのおじさんだ。
「八木さん、この人つきだしますからね!」
「え、おう……」
「きのせいだよ、僕がこんなこわい人にそんなこと、いっ!!」
おじさんが焦りだすと志津摩はまた軽々おじさんの手をぐきりと捻る。
「すみませんけど、俺証拠動画撮ってますから」
「いいいちがう、ぼくじゃない! こんな男に興奮するわけないでしょう!!」
言い逃れしようと藻掻くおじさんに八木はこっちが聞きたいんだがと苦笑いする。
「え……する、しますよ???」
ふと志津摩が心底不思議そうに答えて八木は笑ってしまう。
「おい、志津摩wwwww」
電車が止まるなり志津摩は屈強な足取りで自分よりも一回り以上大柄なおじさんをひきずり、駅員に突き出した。
「八木さんこわかったですね、もう電車なんて止めましょ! 引っ越ししましょうよ、あのあたり混みすぎです、おかしいです。あの区間乗らなくていいとこに引っ越そう、そうしよう、ね! 八木さん!!」
志津摩は八木の手を引いてこっちを見上げニコニコ話している。
「あ、ああ、ありがと……志津摩」
「八木さんはかわいいから心配だなぁホントに!」
~俺の彼氏(8歳年下、童顔)が「すぱだり」ってまじ?~