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    小説家の蟻生(32)
    大学生の凛(19)
    が同じアパートに住んでいて隣人だったらいいな〜!蟻生くんに煙草吸ってほしいな〜!という願望です

    猫飼いは煙草を吸わないべきですが、BLはファンタジーなので許してください

    小説家隣人パロ その男は、まるで風景でも見るかのように俺を一瞥して通り過ぎたあと、ぎょっとした顔をして振り返った。頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと濡れて、古びて少し傾いたアパートの外廊下に座り込んでいる人間を見たら誰でも驚くだろう。驚かせて申し訳ない、と思った。
     しかしそいつはその後、何事もなかったかのようにドアノブに手をかけると手前に引き、その隙間に薄い体を滑り込ませると静かに扉を閉めて姿を消した。それで俺はやっと、そいつがアパートの左隣の部屋に住む人間だったことを知る。
     数ヶ月、前引っ越しの挨拶をするために訪ねた時は留守にしていたそいつの顔を、俺はこれまで一度も見たことがなかった。ドアに鍵をかけていないのか。不用心な奴だ。こんなボロアパートの鍵などあってないようなものだが、なるほど。鍵をかけなければ俺は今こんな状況に陥っていないわけだから、あいつのやり方も道理にあっているのかもしれないと、冷えた体でぼんやりと考えながら今日の災難について思い返していた。



     今日の朝は晴れだった。通っている大学まで自転車で十分ほどの位置にあるこの古いアパートは今年の四月、入学を機に引っ越してきて、俺は雨予報の日以外は毎日自転車で通学をしている。だから普段は朝の天気予報を必ず確認してから家を出ていた。それを今日は寝坊のせいで怠ってしまった。それが全てだ。
     朝天気予報を見ていなかった俺は五限の授業中に、外の雲行きがどうやら怪しいということに気が付いた。そして講義が終わる数分前から、ごろごろという雷の音が外で響き始めたんだ。このままだと帰りに雨に降られそうだが、急いで自転車に乗ってスピードを飛ばして帰ればギリギリ間に合うかもしれない。そう思った俺は講義が終わるや否や荷物を引っ掴んで立ち上がった。その時に鞄の口が閉まっていることを確認していなかったせいで、中身をぶちまけちまったんだ。
     その時に俺はきっと、家の鍵を落としてしまった。

     そんな災難を経て自転車に跨った俺は、惜しいかな、帰路の半分程度まで差し掛かったところで雨に降られてしまった。それも、結構な大粒の雨。顔にべちべちと雨粒を浴びながら懸命にペダルを漕ぎ、やっと家の玄関の前に立ったところで、鍵の存在が見当たらないことと、それをおそらく大学に落としてきてしまったということに気がついた。
     鍵は大学にある。取りに戻るには雨の中歩いていかなければならない。傘は家の中だ。コンビニで買おうにも、ちょうどバイトの給料日前日で金がなかった。俺は全てがどうでも良くなり、夜には雨が止むというスマートフォンの天気予報を信じて、それまではアパートの廊下で雨宿りをしていようと決めたんだ。



    「はあ……」

     小さなため息の音をかき消すようにしとしとと降り続く雨が、古いアパートの壁や屋根を叩く。ぐっしょりと濡れた衣服は重さを増して体温を奪い、夏だというのにやけに肌寒かった。普段から人通りの少ない通りに人影はなく、ぱたぱたと叩きつける雨が全ての音をかき消して、この世界には自分一人しかいないのではないかという錯覚に陥っていたその時、静かな世界にカン、カン、という高い音を響かせながら、一人の男が外階段を登ってきた。
     ビニール傘を右手で持ち、もう一方の手はスウェットのポケットへと突っ込まれている。黒いインナーに黒い長袖のカーディガン、黒いよれたズボンに長い黒髪。耳から上の髪はくるりと団子になって、無造作にゴムで留められていた。若干の猫背で、長い手脚を持て余すようにだらだらと歩くその男の纏う雰囲気は、だらしなくともどこか美しかった。

     その男は、まるで風景でも見るかのように俺を一瞥して通り過ぎたあと、ぎょっとした顔をして振り返り、その後何事もなかったかのように自分の部屋へと消えていった。俺はというと、こうして今日のこの不運を思い返しながら、初めて見た隣人の姿に驚いていた。こんな安くて汚い、傾いたアパートに住んでいるのなんて、俺と同じように金のない学生だけだと思っていたからだ。あの男は、学生という年齢ではない。先ほどの一瞬では顔までよく見えなかったが、おそらく俺から十は離れた年齢だろう。やることもなく暇だった俺は、降りしきる雨を眺めながらその隣人についてぼんやりと考えていた。

    「お前、その部屋の住人か?」

     低くて掠れた声が突然左側から飛んできたので、俺は驚いて体をびくりと震わせた。視線を声の方向に向けると、音もなく扉を開けた隣の男が、ゆらりと影のように首を覗かせている。黒い服と、黒い髪。本当に、影のようだった。

    「あ……はい。はじめまして……」

     恐る恐る言葉を返すと、ドアの隙間からぬるりと、長い腕が伸びてくる。その手にはこれまた黒い何かが握られていて、何だろうと目を凝らしてみると、それはどうやら黒いバスタオルのようだった。

    「ん、」
    「ええと……。使っていいのか?」
    「拭け。風邪をひくぞ」
    「あ、りがとうございます……」

     そうっと手を伸ばしてタオルを受け取り顔を拭くと、微かに白檀の香りと湿った部屋の香り、そしてインクと煙草の混じり合ったような、不思議な香りがした。俺が立ち上がって濡れた体や服を拭いていく様子を、男はドアにもたれ長い脚を立ったまま交差して、じいっと見つめている。その視線は品定めをするかのように鋭くもあり、子供を見守る親のように慈悲深くもあり、何とも言い難い奇妙なものだった。
     俺は一通り体の水分を拭き取った後、タオルを抱えたまま彼の方向へ向かって軽く頭を下げた。

    「あの、ありがとうございました。タオルは今度洗って、」
    「入れ」

     俺の言葉を遮るようにしてそう言った男は自身の部屋の中を親指で指すと、「体を冷やすぞ」と低い声で付け足す。そこで初めて気が付いたが、彼の指の爪は黒いマニキュアか何かで塗られているようだった。全身真っ黒の異様な雰囲気の男。切長の彼の瞳には表情といったものがなく、じいっと見つめられると居心地が悪かった。俺が戸惑っていると、小さくため息を漏らした彼が口を開く。

    「鍵をどこかに置き忘れてしまったとか、そんな理由だろう? 雨はまだ止まない。外にいたら風邪をひくぞ」

     全てを見透かしているかのようにそう言われて、俺は驚いた。男はもう俺が部屋の中に入るということを決定事項のように捉えており、ドアにもたれていた体を起こして部屋の中、玄関へと戻ると、長い腕だけをふらりと外に出してちょいちょいと手招きをした。白くて細長い、美しい指だ。それに誘われるままそろりと玄関を覗き込むと突然腕を引かれ、体を支えるために足を一歩前へ踏み出してしまった。その隙に背後でドアの閉まる音がして、扉を引いて閉めた彼の体が眼前に迫る。黒いスウェットからはタオルと同じ香りがしたが、煙草と湿った空気の匂いが強いように感じた。

    「そんなに怯えるな。男色の趣味はないから安心しろ……取って食ったりはしない」

     俺の耳元でそう言うと彼はゆらりと体を離し、履いていた靴を脱ぐと、玄関の奥へと進んでいった。

    「その、なんで分かったんだ。鍵を忘れたって……」

     先ほどから不思議に思っていたことを背中へ向かって問いかける。その痩せた背中の男はぐるりと振り返ると、片方の口角を上げて不敵に笑い、「人間観察が趣味……だからな」と答えた。



     古い六畳のワンルーム。俺の部屋と同じ間取りの部屋に招き入れられた俺は、「お邪魔します」と小さく呟いて、借りたタオルを抱えたままそろりと足を進める。洗濯機や小さなガスコンロ、シンクなどが並ぶ廊下は意外にもとても綺麗で、使用の形跡が見られなかった。その先にある生活スペースは俺の部屋と同じ畳貼りで、ベランダに面する大きな窓から入る微かな太陽の光が、部屋全体をぼんやりと薄暗く照らしている。

    「、わ」

     廊下を抜けた先の少し開けた空間で初めに目に入ったのは、壁一面に立て付けられた大きな本棚だった。窓と押し入れ以外の全ての壁の前に、天井まで届くような高さの本棚が置かれていて、中にはたくさんの書籍がぎゅうぎゅうに押し込められていた。この古いアパートが傾いているのはこの大量の本たちのせいなのではないかと思ってしまうほど、それは圧倒的な量だった。入り切らなかった本たちは床に積まれ、小さなタワーが乱立している。まるで昔からある古本屋のようなその風景に、俺は目を奪われた。
     次に目がいったのは、白い薄手のカーテンがかけられた窓の前に置かれている小さなローテーブル。いや、これは座卓と呼ぶべきなのかもしれない。濃い茶色の古びた四角い座卓が窓に向かって置かれ、その前にはこれもまた古びてよれよれになった薄い座布団が一枚、無造作に置かれていた。机の上には床と同じく書籍が積み上がり、脇にあるごみ箱には紙屑が詰まっている。座卓の中で唯一物が積まれていない、座布団の正面の位置には、白い紙の束と万年筆、そしてインクのボトルが置かれていた。

    「にゃあ」
    「っ……⁉︎」

     部屋の中を見回して眺めていると、足元に生温かいふわふわしたものが擦り寄ってきて、鳴き声を上げた。驚いてそちらへ視線を向けると、ビー玉のような青い目をした黒猫が一匹、俺のことを見上げている。くるりと光るその目が不思議そうに俺の顔を見つめてくるので、俺も同じように見つめ返すことしかできなかった。

    「こら、夜空。彼が驚いているだろう」

     俺の背後で押し入れの中をごそごそと漁っていた部屋の持ち主が、こちらに視線をやることもなくそう言う。夜空、というのはどうやらこの黒猫の名前らしい。なるほど、この黒い体と青い瞳は確かに、澄んだ夜空と煌めく星を連想させる。夜空はまた小さく鳴くと男の方へと歩いて行き、彼の痩せた青白い足首に頭を擦り付けた。彼はずっと、押し入れの中で何かを探しているようだった。

    「ああ、あった。お前、まだ服が濡れているだろう。新しいスウェットがあるから、風呂場で着替えてくるといい」

     そういって押し入れの方から放り投げられた黒い塊を、咄嗟に手を伸ばして受け止める。彼の言う通りそれはまだタグが付いたままの新しいもので、しかしそこには日本人であればほとんどの人が知っている、有名なモード系高級ブランドのロゴが印刷されていた。目の前の退廃的な雰囲気を纏う男と高級ブランドのスウェットというアンバランスさに、俺は困惑する。

    「これ、高いやつだろ。流石に借りるのは……」
    「む? そうなのか? 貰い物だからよく分からん」
    「ええ……」

     ひょろりとした体躯を折り曲げてしゃがんだ男は、足元に擦り寄る夜空をわしゃわしゃと少し乱暴な手つきで撫でながら、黒い瞳を丸くしてそう答える。俺はさらに困惑した。
     いくらスウェットとはいえ、新品の高級ブランドのものをおろすのは気が引けるが、雨に濡れたせいで体が冷えていることも事実だ。借りたバスタオルで水分を拭き取った後も、湿った衣服はじわじわと体温を奪っていく。この時期にスウェットを着るの暑いかもしれないが、体が冷え切った今なら丁度良いだろう。

    「……まあ、あんたが構わないならいいけど」
    「そうしてくれ。鋏はそこの卓上、風呂場は玄関の手前だ。脱いだ服は浴槽の中に置いておけ」
    「はあ、ありがとうございます」

     窓際の座卓に近寄れば、ペン立てと思わしき筒の中に金属製の鋏が入っているのが見えた。それを手に取ってタグを切り落とすと、横のゴミ箱へと入れる。黒猫と戯れている男を横目に、俺は着替えのため風呂場に向かった。
     俺の部屋と同じ、小さくて窮屈なユニットバス。キッチンとは異なりここには若干の生活感があったが、置いてある物はかなり少ない。しかしやけにトリートメント類の瓶やボトルが多く、あの長い黒髪を維持するためにはこんなにも色々なものが必要なのかと感心した。

     洋服を着替えて元の部屋へ戻ると、男は座卓の前に置かれた座布団に座っていた。雨の夕方。まだ少しだけ明るい時間帯の微かな太陽の光が、窓からレースのカーテンを通して、男の輪郭をぼんやりと浮き上がらせる。ふらりゆらりと動く体が影のようだ。
     男は右のポケットに手を入れると中から小さな箱を取り出し、さらにその中から何か細長いものを引き抜いた。その動作を黙って見つめていると不意にこちらに視線を向けられ、思わずひゅっと息を呑む。

    「失敬」

     そう言って彼は口に咥えた細長いものにライターで火をつけたので、俺はそれが煙草であることを理解した。仄暗い部屋の中で、橙色の小さな火がちりちりと燃えている。彼はため息のようにゆっくりと煙を吐くと、再び部屋の入り口に突っ立っている俺の方へと視線を向けた。

    「……糸師、だったか」
    「え?」
    「名前」
    「まあ、そうですけど……。なんで知ってるんだ」
    「引越しの挨拶の手土産に、そう書いてあった」
    「ああ」

     突然名前を当てられて驚いたが、男の言葉を聞いて納得した。そういえば引っ越してきた頃、何度挨拶に来ても不在だったこの隣の家には手土産を渡すことができず、表に簡単な挨拶の言葉を書いた紙袋をドアノブに引っ掛けておいたのだ。手土産には、地元である鎌倉で有名な洋菓子を選んだ。

    「ちゃんと受け取ってたのか。直接渡せなくて悪かった」
    「こちらこそ留守にしていて悪かったな。あの胡桃菓子は美味かった」
    「はあ、良かったです……」
    「狭くて悪いが、適当な場所に座ってくれ」

     そう言われて俺は、先程までこの男が黒猫に構っていた、押し入れの前のスペースに腰を下ろした。男から少し距離を取り、窓際のその影を見つめる。
     暗い部屋の中で火のついた煙草を弄びながら話す男の姿は恐ろしいほど絵になっていて、俺は知らない世界に迷い込んでしまったのではないかと本気で思った。この男の長い髪も、影のようにひょろ長い痩せた体も、残暑が厳しい季節だというのにカーディガンを羽織って出かけていた様子も、あの有名ブランドを知らないのも。全てが浮世離れしていて、無気力でだらけた見た目にも関わらず、不思議な優雅さを纏っていた。
     その不思議で優雅な男は、黒い、ぽっかりと空いた穴のような瞳で俺のことをじいっと見つめている。この男は危険だ、あまり関わらない方がいい、と脳の奥で何かが警鐘を鳴らしていたが、それとは裏腹に俺はこの男に興味を持ってしまっていた。

    「あんたの、名前は?」

     そう問いかけると彼は視線だけこちらに寄越して、指に挟んだ煙草を唇に咥える。目を閉じて深く息を吸って、それを吐き切った後、紫煙の向こうで「ありゅう」という声がした。

    「え?」
    「名前。蟻生、だ」
    「蟻生さん」
    「呼び捨てでいい。あと敬語もやめてくれ。」

    「そういう堅苦しいのは好きじゃないんだ」と言いながら、蟻生と名乗った男はまた煙草を片手の指で弄ぶ。先程の煙は僅かに開けられた窓の隙間から逃げてゆき、今は彼の姿をはっきりと捉えることができた。

    「お前もそういう質だろう? 糸師少年」

     慣れない呼び名で呼ばれ、背筋がむず痒くなる。それに、俺は糸師という名前の響きが「愛し」と同じだというのがあまり好きではなかった。少し考えた後で、俺は蟻生へ向かって呼び方を変えるように言った。

    「……下の名前は凛だ。凛でいい」
    「ふむ。凛、か。オシャな名前だな」
    「オシャ?」
    「美しくて洒落ているという意味だ」

     蟻生はどうやらおかしな言葉を使うらしい。その低い声で紡がれた「オシャ」という妙な響きが耳に残った。彼は短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、座卓に向き合い、卓上に置いてあった細い黒縁の眼鏡をかけて手元のランプに灯りを点けてから口を開いた。

    「俺はこれから作業をするが、雨があがるまではここにいると良い。ついでに夜空の相手をしてくれると、作業が捗るので助かる」
    「ああ」
    「雨が止んだら、好きな時に出て行って構わないからな」
    「分かった」

     蟻生は万年筆を取り上げてキャップを開けると、何やら書き物を始めたようだった。俺は部屋の隅で体育座りをして、それを邪魔しないように眺めている。
     しとしとと降り続く雨の音と、微かに聞こえるペン先と紙の擦れる音。しんと静まり返った部屋の中にそれ以外の音はなく、やはり、今日は世界から取り残されているような気がした。
     時折机に積まれた書籍を開いて目を通す彼の横顔は卓上のランプに照らされ、ぼんやりとしか見えていなかった夕方よりもはっきりと浮かび上がり、そこでようやく、俺はこの男の顔が恐ろしいほどに整っているということに気がついた。日はすっかり沈み外も部屋の中も暗くなっていたが、部屋の灯りを点けては彼のこの不思議な雰囲気が損なわれてしまう気がして、俺はずっと暗い部屋の隅で小さくなっている。ふわりと体を寄せてきた夜空の頭を撫でてやると、こぼれ落ちそうなほど大きな青い瞳が暗闇の中でぱちくりと瞬いた。
     そのじんわりとした温かな体に触れていると朝からの疲れがどっと押し寄せてきて、初対面の人間の家の中だというのに俺は、眠りに落ちてしまったのだった。


     もぞりと体の脇で何かが動く気配がして、目を覚ます。気配を感じた方向へ視線をやると、俺と同じように眠っていた夜空が体勢を変えて、再び眠りに落ちていくところであった。はっと気が付いて、腕時計に目をやる。時刻はこの男の家に上がる前、最後に確認した時から三時間以上が経過していて、つまり俺はここで二時間程度寝こけていたことになるようだった。

    「……雨はあがったぞ」

     眠りに落ちる前と変わらない位置で作業を続けていた蟻生は、眼鏡の奥からちらりと視線をこちらへむけてそう言ったあと、また黙って机に向き合う。ランプに照らされたそのかんばせは、やはり美しい。カリカリ、カリカリと、雨の音が消えて静寂に包まれた部屋の中で、彼が紙に何かを綴っていく音だけが不規則に響く。座卓の周りには丸まった白い紙の塊が数個、落ちていた。

    「寝てた……。悪い、」
    「構わないさ。この時間ならまだ大学の門も開いているだろう? 取りに向かうなら急いだ方がいい」
    「ああ。ありがとう、助かった」

     礼を伝えて、鍵を取りに戻るため立ち上がる。それに驚いた夜空がびくりと体を震わせて目を覚ましてしまったので、俺は「悪い」と言ってその小さな頭を軽く撫でた。

    「みゃあ」

     可愛らしい声で鳴いたその猫は蟻生の側まで歩いて行くと、胡座をかいた彼の膝の上に乗る。そこに伏せて丸くなると、ビー玉みたいな目を世界から隠して、穏やかな寝息を立てはじめたようだった。

    「タオルとスウェットは洗ってから今度返しにくる。あんたは……いや、蟻生は、日中この部屋にいるか?」

     夜空の眠りを覚ましてしまわないよう少し小さな声でそう尋ねると、蟻生は少し考え込むようにして万年筆を指先でくるくると回し、やがてそれをぴたりと止めると、「ああ」と答えた。

    「しばらくはこの部屋にいるようにするつもりだ」

     それは、他にも部屋があるということなのだろうか。浮世離れした男の発言は、掴みどころがなくて不思議だ。しかし出会ったその日に詮索するようなことをするのも失礼だと思ったので、俺はその疑問を頭から追い出し、当たり障りのない返事をする。

    「わかった。じゃあ、明日か明後日には返しにくると思う」
    「承知した」

     そう言ったあと蟻生は膝の上に座る黒い毛並みを左手でさらさらと撫でた。

    「すまないが夜空のせいで俺は今立ち上がれない。玄関の鍵は閉めない主義だから、そのまま気にせず出て行ってもらって構わないぞ」
    「分かった。邪魔したな、ありがとう」
    「では、また」

     左手をひらりと振った彼にぺこりと軽く頭を下げてから廊下を進み、風呂場で脱いでいた服を回収したあとに玄関へと向かう。靴を履く途中、奥の部屋に座る彼をちらりと盗み見ると、暗闇の中、ランプでやわらかに照らされながら書き物をする姿が幻想的だと思った。本当に美しい男だ。

     そっとドアノブを捻って押し、外の世界へ足を踏み出す。ふと、その瞬間に彼も、彼の部屋も、霧のようになって消えてしまうのではないかと心配になった。それほど儚く、異様で、優雅な空間だったのだ。閉じようとした扉を少し引いて覗き込めば、先程と変わらずに猫を撫でながら机に向かっている背中が見えて安心した。
    音を立てないように扉を閉め、借りたバスタオルを抱きながら、雨が止んだ外の景色を眺める。

     俺はこの奇妙な隣人に対しての興味を抑えられそうになかった。
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    猫飼いは煙草を吸わないべきですが、BLはファンタジーなので許してください
    小説家隣人パロ その男は、まるで風景でも見るかのように俺を一瞥して通り過ぎたあと、ぎょっとした顔をして振り返った。頭のてっぺんから爪先までぐっしょりと濡れて、古びて少し傾いたアパートの外廊下に座り込んでいる人間を見たら誰でも驚くだろう。驚かせて申し訳ない、と思った。
     しかしそいつはその後、何事もなかったかのようにドアノブに手をかけると手前に引き、その隙間に薄い体を滑り込ませると静かに扉を閉めて姿を消した。それで俺はやっと、そいつがアパートの左隣の部屋に住む人間だったことを知る。
     数ヶ月、前引っ越しの挨拶をするために訪ねた時は留守にしていたそいつの顔を、俺はこれまで一度も見たことがなかった。ドアに鍵をかけていないのか。不用心な奴だ。こんなボロアパートの鍵などあってないようなものだが、なるほど。鍵をかけなければ俺は今こんな状況に陥っていないわけだから、あいつのやり方も道理にあっているのかもしれないと、冷えた体でぼんやりと考えながら今日の災難について思い返していた。
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