蝶の舞(第一章サンプル) 舞台はグリーゼ移動船団、ノーマルエンド後の宇宙に降り立ち一年後のレムナンと、弊宇宙オリジナル主人公「スズ」のお話(付き合ってない)です。
グリーゼの地で生活しながら、並行宇宙で起きたD.Q.O.での出来事に「夢」で触れ、自分の過去と感情に向き合うレムナンのお話となります。
以下、第一章のサンプルになります。
――グリーゼ移動船団。ここでの生活にもだいぶ慣れてきた。
大災害として宇宙規模で報道された「グノーシア騒動」――被災の地、ルゥアンから僕が命からがら脱出してから早、一年。
ふ、と息を吐き、腰のホルダーから水のボトルを取る。もうそろそろ今日の作業は終わりにしてもいいだろう。納期にはまだ余裕がある。帰ってのんびりとゲームの続きでもしよう。
あの日、絶望の渦中にいた僕には想像もつかなかった。まさか騒動をきっかけに別の星に降り立ち、そのうえ見知らぬ社会に根を下ろすとは。さらにはこうして過去のことをゆったりと振り返るような生活のゆとりができるなんて、一年前には予想だにしなかった。
僕はルゥアンでの騒動に巻き込まれたせいで仕事を急に失った。というのも僕が乗るはずだった船はグノーシア騒動に巻き込まれてしまったからだ。
パニックでごった返す人の中、脱出した人間のほとんどいない大災害の果て。
ルゥアンから出発し、無事でいられたのはD.Q.O.に避難したわずかな人間のみだった。
騒動に巻き込まれたことは災難だったが、その後グリーゼに降り立ったことは正解だっただろう。珍しく厄介事ひとつなく、星から星へ移動できたのだ。
軍の脅威から離れられた安心感は、何より心を豊かにしてくれる。昔のように、計器の確認や機器の調整で過ごす日々の穏やかさ。
移民としての働き口が限られているグリーゼの中で、早くに安定した仕事に就けたのは運が良かったのだろう。ここでの生活は今までに積み重なってきた不運を全て帳消しにするかのように順調だ。
――ひどく順調すぎる。僕は良い事が続く事が少ないのに慣れ過ぎてしまって。だから次の瞬間には貧乏くじを引くんじゃないか……そんなことを思ったりもするけれど。
「レムナン。お疲れ様! そろそろ上がる時間でしょ? ちょっと話、いいかな」
「! スズさん。お疲れ様、です。……はい、大丈夫、ですよ」
機材の山の向こう側からかけられた声に返事をする。
屋外での点検作業にあたっていた僕は、こんな時に限っては屋内より屋外での作業で良かったなと思う。同じ職場でなくとも屋外作業なら気軽に話しやすい。
――スズさん。
一緒に異星からの来訪者としてグリーゼに降り立った、僕の……友人、だ。
彼女はグノーシア騒動時に僕と同じくルゥアンで騒ぎに巻き込まれ、たまたま同じ船に避難した。あの時彼女はひどい怪我を負っていたから、避難して船に乗り込んだと言うよりは船に運び込まれた……が正しいだろうか。医療ポッドの技術進歩は目覚ましい。今やあんな絶望的な怪我でさえも跡形も無く綺麗に治ってしまうのだから。
騒動の後、船は即座にルゥアン星系から離れてグノーシア汚染者がいないことを確認していた。確認ができた後はゆっくりと時間をかけ……避難した乗員達を住処へと送るため、星々を巡る旅を始めた。
だからスズさんと僕はそれなりに長い間、同じ空間で暮らしていたとも言える。グリーゼに降り立ってからも職場は違うが職種が似ていることもあって、交流の機会は多い。
気さくで友達を作るのが上手い彼女は、このグリーゼでも少し歩けば様々な人に声をかけられる。たった一年でグリーゼ国内は彼女の知り合いばかりだ。
それに避難した船の中でも、まるで長年を共にした友人のように乗員全員と交流を持っていた。しかも聞けば彼女には船に乗る前からの知り合いは一人もいないと言うのだから、僕は驚いた。
全ての乗員とあんなにも長く過ごしていたのは彼女くらいのものだろう。避難生活でピリピリとした乗員達の空気が、ちょっと彼女が声をかけるだけで誰もかれも、ぴたりと嘘のように警戒を緩和させるのだ。それなのに初対面だなんて……恐ろしいほどだ。
女性ではあるけれど、船の中にいた頃から彼女は男性と偽って過ごしていた。それもあって、僕は異性として彼女を警戒することはなかった。
今となってはグリーゼに降り立った僕とラキオさんは彼女の性別と、ある程度の背景を知っているけれど……本人が普段は男として扱ってくれと言ってくれたこともあり、いくらか接しやすい。彼女が男性に見えることを意識した格好をしてるのも相まって、まるで同性の友人のように彼女のことを思っている。
一緒にいると……楽しい。僕と彼女は趣味や嗜好が似ているところが多くて。細かな心配りが上手い。僕は何かと助けられることが多くて。……それに。
『俺は……人身売買の組織から逃げ延びた身だ。でもまだ完全に逃げられたとは言えない。だから対抗する技能を身につけられる場所に、降りたい。これからお世話になるから、二人には最低限のことを話しておくよ』
彼女は自分に似ている。無視をできないほどの仲間意識。……過去の記憶。
なのに、彼女は僕よりずっと強い。いつまでも過去に怯えては逃げてるだけの僕とは違う。力を得て、敵と戦うためにここを選んで渡航してきたのだ。……それが、すごく格好いいと思って。そんな彼女を今もずっと目で追っている。
――僕は、彼女に……憧れている。
自分とどこか似た過去を持つ彼女がきらきら眩しいと、なんだか僕まで過去のことなんか忘れて暮らしていける、そんな気がしてくる。僕にとって彼女は、凄惨な過去を乗り越え生きる『理想』そのものだった。
僕が逆立ちしてもうなれないような、理想の姿。自分もこんな人になれたら。憧れと尊敬の気持ちに、それ以上も以下もない。……だって。そうでなければ。
『……本来、男性である君に言うべき話ではないかもしれない。だけど訊かれた以上は答えるつもりだよ。そもそもレムナンは勘が鋭いから、嘘をついても気付かれちゃう気がする。だからね……無用な嘘で関係を壊すよりも、なるべく君には誠実でいたい』
その前がどんな話の流れだったか、記憶が曖昧になってしまっている。何より僕はこの後の話にあまりにも衝撃を受け過ぎてしまって。畏まった会話をしていたわけではない。きっとありふれた雑談の末、何か触れてはならない質問を僕はしたのだろう。
『あー……あのね。俺は基本的には男って生き物は低俗でどうしようもないドブの底のようなものだと思ってる。残念ながら、俺は今までろくでなしにしか会う機会がなかったからね。もちろんこの世の全ての男がそんなんじゃないって……理解はしているつもりなんだけど』
彼女の答えの鋭さが、妙に胸を抉った。
前置きとして「気を悪くしないでほしいんだけど……」と控えめに話し始めた彼女の、そんな前置きが消し飛ぶほどの回答。
グリーゼに降り立つ前の船内。動力室の機器の機械音だけがやたらと耳に響いてくる。さっと血の気が引いて、手先が冷たくなっていった。
『……だけど、レムナンのことを信頼してる。性別がどうかって事とは別に、一人の人間として』
彼女の視線は躊躇うようにぶれて、それから真っ直ぐに僕を射抜いた。
『信頼、ですか……?』
彼女の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。彼女は人を褒めるのも上手いし、好意を口にするのもよくやる。けれど、信用や信頼……そういう言葉を口にしているのを聞くと、何だか耳慣れない。とはいえ船での避難生活で見た姿しか、僕は彼女を知らないのだけど。
『そう、信頼。……短い付き合いで何言ってるんだって思うかもしれないけど』
『そ、そんなこと……! あの、ぼ、僕も……スズさんのことっ、信頼……しています』
とにかく彼女が僕に向ける「信頼」は……彼女の厭う異性でありながらその評価を得たのは、何にも変え難いものだった。
普段の態度からはあまり見えないが、基本的に彼女は男性を嫌っている。それも少し苦手だなんてレベルの話ではない。憎悪とも呼べるほどの感情を巻き込んで、『低俗でどうしようもないドブの底』と言い放ったのだから。
そんな彼女の『ドブの底』の括りに自分が分類上で属している事実は……正直なところ、それだけで相当気落ちする。
けれど異性を苦手とする姿勢……それすらもやっぱり僕と彼女はどこか似通っている。
僕はそんな彼女の友人であるなら。あり続けたいのなら、彼女に抱く気持ちは憧れや尊敬以外にあってはならない。何より僕は、彼女が僕に向けた信頼に応えられる人間でありたい。
だから、これは。――恋では、ないのだ。
彼女は僕が身勝手に気持ちを寄せて、気軽に触れられるような人ではない。彼女の信用が軽蔑に変わらないよう振る舞わなくては、こんな風に雑談するのも二度と叶わないだろう。信頼のおける友人から鼻持ちならない男に彼女の評価が挿げ替えられるのは、ひどく苦しいことだった。
気の合う、趣味の合う友人。
こんな風になりたい、憧れの人。
彼女へ向ける心はそれだけで充分だ。そう、思っている。
「ごめんね、急に誘って。予定は大丈夫?」
「はい。……後は、帰るだけですから」
「そう? それなら良かった」
グリーゼの人口太陽はもうすぐ沈む時間。こうして温かな夕暮れのオレンジ色で包まれると、この明るさが人口的に作られた環境だと忘れてしまいそうだ。
こんなふうに彼女とグリーゼの市街を並んで歩くのは珍しくない。グリーゼへの移民がはじめに住む区画は狭いから、僕らは近所に住んでいる。ラキオさんを合わせた三人で食事に行くことも(と言ってもあの人はほとんどドリンクだけで食事を摂らないけれど)、船で出会った方々も合わせて通信でゲームをすることもある。
ただ、できるだけ二人きりで屋内で過ごすことは避けていた。信頼があると言っても、彼女に不要なストレスを与えることは避けたかったから。
「ちょっと長くなるんだけど、付き合ってほしい。……急なことだからいい場所がなくて、その……座り心地は悪いかもしれないけど」
「座り心地……ですか?」
住処の方面へ向けて歩きながら話すものだとばかり思っていた。
本題の話が分からないまま、彼女に合わせるように歩いているこの道は……そこそこ馴染みのある場所。どこへ向かっているのかも、それとなく察することができた。
――目的地は教育施設だ。僕と彼女に馴染みの深い、共通の……あの人を友人、と表現していいのかは分からないが、そんな人が在籍している場所だ。
「その。何から話せばいいか……俺は君のことを友人だと思うから。だから一方的なのはフェアじゃないかもと思って。俺の身の上話をもう少しだけ伝えておこうと思ったんだ」
教育施設の屋内、小部屋の中には会議用の折りたたみテーブルとクッション材の一切ない椅子が何脚か。僕は室内の椅子に腰掛けて、彼女の話に耳を傾ける。
「大事な話なんだ。でも、そんなに気持ちのいい話ではないから、まずは少し聞いて考えてもらえればと思って……」
言いづらそうに彼女が発した言葉に、目を白黒させている。彼女は自分の事をあまり話さない人だ。それを彼女が「話したい」だなんて。大事な、話だなんてこの人は言うのだ。
この国に来る前、掻い摘んで彼女の「事情」を聞かされた以外には……ほとんど知らない。こうしてわざわざ時間を作って話そうと、そう思ってもらえるだけの、彼女から僕への「信頼」がここにあるのだろうか。
そう思うとなんだか、胸が締め付けられるようだ。それを、ただの友人である自分が知ってしまって良いのだろうか。特別に扱われている、みたいだ。
「さ、前置きはいいから本題に入りなよ。会議室の予約時間は有限なンだから」
……別に、特別ではないか。自分一人が彼女の話を聞くわけではないのだ。
僕とラキオさんが並んで座る。向かいにスズさんが座っている。テーブルに肘をついて俯く彼女の表情は読めない。
そもそも目的地がこの学び舎であった以上、何かしらこの人も関係する話なのだろうなとは思っていた。時折、スズさんとラキオさんは二人で何かを話し合っている事がある。
内容は知らないが……二人はとりわけ、話す時間が多いと思う。船内にいた頃も、グリーゼに来てからも。定期的にスズさんはこの教育機関に通い、ラキオさんと交流しているようだった。だからラキオさんが僕らに合流したことは何ら不思議ではなかった。
「レムナンにはまだ詳しく話してなかったよね。……あのね、あまりに信じ難い内容だから、説明するのにラキオに手伝いをお願いしたんだ」
「信じ難いって……何の話ですか?」
彼女は身の上を話す、と言ったはずだ。人身売買の組織から逃げてきた――なんて、すでにおよそ平和な暮らしをしている人間には信じ難い出来事に見舞われているのに。これ以上に何か、信じ難いような話が飛び出すのだろうか。
「……レムナン。ここからの話は君を不快にさせることもあると思う。だから先に断っておきたい。気分を害したなら、もう二度とこんな話はしないから」
重ねに重ねた前置き。彼女のためらいに、そうまでして話さなければならないのだろうか……そう思う。
「いつまで前置きしてるつもり? 僕の研究に有益だと思うから手を貸しているンだ、余計な時間だと判断したら取りやめるよ」
「そんな、最短ルートで物事を進めようとしないでよ! 色々段取りってものがあるでしょ」
ラキオさんと話している時のスズさんはふとした瞬間、やたら子どもっぽく見える。気を許しているから、なんだろうか。咳払いして一拍、気を取り直すように彼女が話し始めるのを見ながら思考は逸れていく。
「――――銀の、鍵……? 並行宇宙。ループ……ですか?」
半刻ほどかけて彼女の口から語られた、夢物語としか思えない話にぼんやり口を開いたまま、言葉を繰り返す。まだ腑に落ちない。飛び出したのは信じ難いという言葉の通り、僕の常識ではとても理解できない内容ばかりだった。
彼女が真っ直ぐ、僕の目を見ながら話したそれも、並行宇宙なんてものに造詣のない僕にそれを噛み砕いて説明するラキオさんも、まるで、急に別の星の言語を話してるみたいで。
「信じるには難しい話だって、分かってるよ。俺も科学的な根拠を理解してるわけじゃなくってさ。専門じゃないし」
「その、ループというのは。……ルゥアンから逃げ延びた後の時間をずっと繰り返していたんですか……?」
「……そう、だね。正確に計ったわけではないけれど長い時間だったのは確かだ。というか……ふふ、」
真面目な話の最中に、零すように彼女は笑った。
「や、ごめんね。レムナン、全く信じられないって顔してるのに、信じてる前提で話すんだもん」
何だか、おかしくて。彼女はそう続けた。
「信じられる内容では……ない、ですけど。でもスズさんが、言ってることは……嘘じゃないって、思ってます」
「………………」
彼女はしばらく黙ると、それから。
「……レムナンって、そういうとこあるよね」
もぞもぞと居心地悪そうに不満を漏らした。不機嫌そうな顔が……不意に褒められた時の反応と似ている。彼女がのらりくらりとしているように見えて、隙をつかれると弱いのは、この一年で何となく分かっていた。
「それで、ここまでは理解できたの? さっぱり話が進まないンだけど」
「え! あの……はい。……多分」
正直心境は分からないところが分からない、と言ったところだ。
「はぁ……いいかい。スズの話だけではとんだ御伽話かもしれないけど、並行宇宙のことは既に科学的に証明されているンだ。銀の鍵だって、こうして僕が直々に研究している対象だ、まぁ一般人が触れる機会は少ないだろうけど」
「……ラキオさんが、スズさんとよく話して、いるのは……銀の鍵について、情報を集めるため、ですか……?」
「そうだよ。スズは貴重な銀の鍵の元寄生先だからね。そんな経験がある人間なんてそうそう会えるものじゃない。ループのことを隠すのは容易だし、相手はすぐ別の宇宙に消える」
「そう、なんですか……」
強張っていた手の力が緩む。無意識に拳を握りしめていたせいで、掌に爪の跡が残っている。
スズさんとラキオさんに限って、そんな……二人でいたからといって深い関係があるわけではないだろう、とは思っていた。思っていても、やたらと二人が一緒にいるものだから……二人の間には何か、僕が入り込めない空気を感じていた。
それがまさかループや並行宇宙の話なんてものが関わっているだなんて……こうして聞いていてもまだ空想のように思える話だ。
「俺はラキオの研究を手伝う代わりに、ちょっと頼み事をしてるんだ」
「頼み事、ですか……?」
「……聞きたいならそのうち話すよ。今話しても訳がわからないだろうし。それで、あのね……そのループの話を少し、レムナンには共有したくて」
「どうして、僕に……話すんですか……?」
こんな、信じてもらえるか分からない、夢物語のような話をわざわざ僕にする、意図は何だろう。知らせなくても別に問題のない話だ。
「どう説明したら良いかな。……俺はさ、ルゥアンからあの船に避難して、この宇宙みたいに穏やかに時間を過ごせたわけではないんだ。逃げ場のない船の中にはいつもグノーシアが紛れ込んでいて……それを見つけるために何度も、何度も議論を続けた」
彼女曰く、並行宇宙を移動するたびに乗員達の立場は変わったらしい。ルゥアンから脱出するまでの経緯が少しずつ異なる、別の宇宙の話。船に避難した人間の役割も、人数も、何もかもが違う空間。
「俺はループの中で何度も、避難してきた別の宇宙のみんなに会っている。何度も……何度も、顔を合わせてさ。色々交流したんだ。――レムナンも、その内の一人だよ」
「……不思議に、思ってました。スズさんは、乗員の皆さん全員と、すごく仲が良かった、ですから……まるで、全員とずっと昔から、友人だったみたいに」
僕が知らないだけで、彼女は並行宇宙で何度も交流をしたことがあるのだろう。並行宇宙の僕や……あるいは他の人達とも。
「や、それはね。俺の体感で行けばみんなとはもう何年、何十年も関わったから。俺にとってはみんな……長く付き合いの続いた友人のようなものだよ」
彼女は困ったように笑って、テーブルに乗せていた手をぐ、と握りしめた。
「スズ、さん……?」
「ごめんね。一方的に自分のことを知られてるのはほら、あんまり気分の良いものじゃないでしょ」
「僕は、別に……そんなことは……」
「他の宇宙で見たから君のことは知ってる、なんて分かった口ぶりでさ。そんな勝手な話はないよ」
「………………」
「一方的に、みんなの情報を握った。それが俺の人生に必要だったとしても、知った経緯が強要したものじゃないにしろ。自分の情報がどれほど重要なのか俺はちゃんとわかっているはずなのにね」
人に支配を受けたことがある身として、彼女の言っていることはよく分かる。自分の情報を握られるのは、何かから身を隠す時真っ先に恐れることだから。
「秘密のままで終えたくなかった。俺のできる範囲で誠意を持って関わりたい。だから……話を、しようと思った。特にレムナンは、一番身近な友人だから」
一番身近、と言われたことに心臓が跳ねる。同じ星に降り立って、同じような仕事をして、近くに住んでいるなら客観的に見たって身近だろう。そんなことは、分かっている。
「知ったのを、なかったことにはできないから。せめて、俺にできる範囲で代わりに……自分のことを知っておいてもらおうと思ってるんだ」
もちろんレムナンが構わなければの話だけど。そう続けた彼女の視線が僕とかち合う。潤む瞳は……微かに揺れている。
「並行宇宙の先と、この宇宙は違う。人だって、ベースは同じでも経験次第でいくらでも価値観は変わる。……俺はこの宇宙を特別に思っているんだ。今、自分が住んでいるこの世界を。ここで真っ当に生きていくために俺は……自分にできることをやりたい」
「――でも強要する気はないよ。気が乗ったらで良いから!」
不安そうに見えたのは一瞬で、そんな雰囲気は一瞬の間に霧散した。こんな時ですら、彼女は場の空気を変えるのが上手い。
きっと彼女ならいくらだって話術でごまかして、ループのことなんてなかったように振る舞うことができるのに。
もちろん僕に本当のことなんて一切伝えず、言いくるめることだってできる。だけど……それをしない。
その選択が何よりも嬉しい。彼女の秘密を知っても良い人間だと思われていることが。もちろん、友人として。
「詳しく……話して、もらえますか」
「ちょっと! もっとよく考えてから答えてほしいんだけど」
「考えても、答えは、変わりませんから……」
「ほらスズ、僕の言った通りだろう? どうせこうなるンだから会議室の予約は長く取って正解だ。見通しが甘いね」
「俺はじっくり考えてから答えは後日、と思ってたんだけど……」
彼女が不機嫌そうに言った。
「それじゃあ賭けは僕の勝ちってわけだ。話を進めるよ」
楽しそうなラキオさんをよそに、スズさんは不満そうに小さく唸った。
「あの……賭けって、一体なんですか?」
「君がスズから話を聞くと即答するようなら僕が提案を加えることになっている。スズが話すべきじゃないと散々ごねたからね」
「……そんなこといちいち説明しなくていいのに」
勝手に賭けの対象にされていたことに思うところはあるけれど、それ以上に気になるのは話の内容だ。ラキオさんが提案しようとしている事――スズさんがやめさせようとした、その中身。
「ループのことはざっくりと理解できただろう? ――それは本来、専門職か被験者しか理解し得ない物だ。そンな情報を、第三者が得たらどうなる? 僕はそれが知りたいンだ――これは実験の被験者にならないか、という提案だよ、レムナン」
「ひ、被験者……ですって? 一体、何をするつもり、なんですか……?」
僕はとんでもないことに巻き込まれているんじゃないか。顔が引き攣る。
「ここにはあるのはスズに寄生していたのと全く同じ銀の鍵だ」
「……っ⁉︎」
ラキオさんがテーブルの上の箱を指差す。
ループの話を聞いた後ではこんなもの、危険物としか思えない。僕は反射的に箱から距離を取り、目を逸らす。
「まったく……近くにいるだけで寄生するンなら僕は研究サンプルには困ってないよ。今この鍵は不活性状態だ、安全性は確認されている」
銀の鍵と呼ばれたその立方体は、ぱっと見ただけでは生き物とは思えない。玩具のような箱が人に寄生するだなんて。
「スズに寄生していた鍵は、元を辿れば並行宇宙の僕が持っていたものでね。この宇宙では盗難に遭わず、僕の手元にあるわけだ」
「また人を泥棒扱いして。……盗んだわけじゃないって知ってるくせに」
「どの道僕の所有物だったのは確かな事だろう?」
「それはそうだけど……」
二人のやりとりをまだ曖昧な理解で聞いている。
「最近の研究で明らかになったことだけど、この銀の鍵は並行宇宙の鍵同士でも微弱な情報のやり取りをしている。別宇宙との通信技術確立のヒントになると学会では考えられているンだ」
「は、はぁ……そう、なんですか……?」
最先端の研究成果なんて聞かされても、ピンと来ない。
「その中でも、同型同士は交流が盛んだ。今僕の手元にあるこの鍵は実際にスズに寄生していた鍵と情報のやり取りをしている。手元の鍵を経由して、スズに寄生していた鍵の情報をコピーしてくることにようやく成功したンだ」
鍵の情報を得るための詳しい過程や手順なんて君は興味ないだろう? 説明するつもりはないよ。……ラキオさんはさらりと言った。
「鍵からコピーした『スズのループ中の情報』……この一部を抽出して即成学習に組み込んでいる。これを使えばループ中に起こった出来事をある程度知ることができる可能性がある。それこそ言語を介した説明よりも鮮明に」
「え…………」
学習を受ければ、スズさんの身に起きた出来事が分かるかもしれない。ラキオさんやスズさんが話しているループ、という現象は……学習してしまえばもっとすんなり理解できるのだろうか。
「近隣の並行宇宙はこの宇宙とは全くの別物。……とはいえ確実な繋がりがあるンだよ」
ラキオさんはそう言って銀の鍵、と呼ばれた箱をつ、と指でなぞった。
「――バタフライ・エフェクト、というものを知っているかい? 世界のどこかで蝶が羽ばたくと、遠くの地で竜巻が起こる。……一見関係のない、些細なものが繋がって他のものに影響を与える、そういう話さ。特に並行宇宙同士は確実に影響し合っている、というのがここ数年で浮上してきた学説だ」
僕には並行宇宙のことはよく分からない。学説の凄さも整合性も、何もかも。
「偶発的なものを必然と見紛うなンて馬鹿みたいな話だが、そう捨て置くわけにもいかない。そこには可能性がある。かつて昔に並行宇宙の存在を馬鹿にして唾を吐きかけた学者が今地位を失ったように――ありえない、などと言い切れない」
話の半分も理解できているだろうか、定かではない。それなのに……。
「絶対にそうならないと言うなら、理由を説明する必要があるからね。新たな説の正しさを証明することになるか……それとももっと正しい説を叩き出すか。研究材料としては面白みがあっていいだろう?」
説明された内容を噛み砕くより先に、脳内は話を受ける前提で考えてしまう。
「即成学習には……どれくらいの、リスクがありますか?」
「っ……! レムナン!」
スズさんが焦った顔で僕を嗜める。余程僕には関わってほしくないらしい。
「もちろん君の脳が破壊されて廃人になる、なんてリスクの心配はない。脳の片隅に並行宇宙の情報がしまわれるだけさ。影響を全く受けないとは保証できないけれど……生命維持に重篤な影響を及ぼすものではないよ」
それならリスクなどないようなものだろう。ほっと胸を撫で下ろす。
「銀の鍵の情報はデリケートなンだ。即成学習にもモニタリングが必要だし、情報を君の脳がうまく処理し、理解に及ぶかは分からない。人間がやり取りする情報とは少し異なる波長をしているからね。未知数なことだらけだ」
危険なものには手を出さない。……生き延びるコツだ。
それなのにどうにも、目の前の箱は危険物から魅力的なプレゼントボックスにたちまち姿を変えていく。それでも手放しに飛び込めるものではないけれど。
「……ねぇ、やっぱりやめようよ。即成学習の情報をこちらが完全にコントロールできるわけではないでしょ? 危険だ、こんなの」
「スズさんが……僕を、止めるのは……僕が知ったら困ることが、あるから……ですか?」
「そういうわけじゃないよ」
淀みなく返ってきた答えに、微かな違和感。必死になって僕を止める彼女の姿に思うことがある。直感的なもので根拠は何ひとつないけれど。
――彼女は嘘をついている。
「困ることが、あるんですね……」
彼女はきっと嘘やごまかしが上手い。だけど今感じる違和感は拭いきれない。
「何でもかんでも詰め込めばいいってわけじゃない。……あまり言いたくはなかったけど、ループ中は議論以外にもトラブルはあって――命を落とすことだってあった。ほら、自分や知人のそんなもの、わざわざ知りたくないでしょ」
彼女が話していることは嘘ではないと思う。けれど、どこか……まだ何か隠していることがあるだろう、そんな予感がする。それを彼女が自分に話してくれないだろうことも。
グノーシア騒動とループ……トラブルで命を落とす僕や、あるいはスズさんやラキオさん。そんな記録を知るのは、やっぱり少し怖いけれど。
「どんなに、関わりがあっても……それは他の宇宙の話、ですよね? 並行宇宙の僕が……例えば命を落としても、僕が影響を受ける、わけじゃない」
リスクはゼロではないにしてもそこまで危険性は感じない。彼女が慌てて、必死になって止めるほどの脅威は感じられないのだ。
「それは、そうかもしれないけど。……違うんだ、レムナン。そんな問題じゃないんだよ」
「それなら……何が問題、なんですか……?」
「それ、は…………」
やはり口ごもる彼女からこれ以上の詳細は聞けそうにない。
「知らなくていいことをわざわざ……藪蛇だって言ってるんだ。大体俺にだって知られたくないことの一つや二つある」
「スズさんはそうまでして……僕に。何を隠すつもりですか?」
「………………」
自分の事を知られたくないのなら、そもそもこんな話はしなければいい。わざわざ話すと言っておいて、即成学習の影響を恐れる理由は? いかにも「自分自身のために言ってる」風な物言いで高圧的にして、彼女はその背景を隠してしまう。懸念しているのは彼女のプライバシーに関わる問題ではなくきっと、僕自身に関わる何かなのだろう。
「で、どうするの? 後は君の返答次第だよ」
「即成学習を、使ってください」
「レムナン……!」
悲鳴を上げるような声で、懇願するようにスズさんは僕の名前を呼んだ。少しの罪悪感。……けれど意見を変える気はなかった。
「そう。それならスズ、被験者にはループ中の事はできる限り話さないことだ。学習の結果か、単に会話で得た記憶か判断がつかなくなっては困るからね」
「……そんなこと、」
「『レムナンが望むなら止めない』――これも先に決めた条件だろう?」
「そうだけど、でも……!」
「自己責任で、構いません。何があっても……スズさんの責任だなんて言ったり、しませんから……」
「俺の責任だとか、そんな話してるんじゃないんだ……!」
「即成学習には事前準備があるから、開始は後日にするよ」
「はい……」
向かいでため息をつく彼女から目を逸らす。彼女が自分のことを必要以上に知られたくない、なんて保身で声を荒げたのではないのは分かる。僕を気遣う声色に、何か不穏な雰囲気に、知らない方がいいのかもしれないとも思う。
けれど、それを押しても僕は知りたかった。ループを繰り返した彼女と、見知らぬ並行宇宙の僕はどのように関わり合ったのだろう。どうやって、今のような友人の関係を築いたのだろう。
……彼女が、戦うためにこのグリーゼに降り立ったように。僕だって知りたいことを簡単に諦めずに手を伸ばしてみたい。リスクの少ないただの即成学習にそこまで怯えなくたっていいはずだ。
「とても勧められないよ。受けた事をきっと、後悔する。…………どうしても、即成学習を受けるの……? 」
「はい。……スズさんが、僕を……気にかけてくれているのは、分かっている、つもりですけど……」
そんなことはやめなよ、と彼女の目は強く語っている。
少しでも迷ったら、止められてしまうだろう。意見を変える気は無いのだと、彼女に返事を返した。視線を逸らしたら負けてしまう。普段は人の目を見て喋るのは苦手で避けている。けれど今ばかりは、目を合わせて彼女に訴える。
交わす視線に、彼女の目の色は淡くて繊細で、綺麗な色をしているな……と意識が逸れる。……水色。多分もっと、こんな時に相応しいようなお洒落な色の名前なんかが本当はあるんだろうな。
じり、と目が合った彼女の顔が困ったように、気落ちしたように表情を変える。
「……ループ中のことを知って、俺への印象が変わるかもしれない。俺は現時点ではレムナンと、良い友人である、つもり……だけど」
絞り出すような声色。掠れている。
「どうしてもやめないなら。……もし俺に思うところができた時、不満は受け入れるつもりだよ。……だからね、不快に思ったならどうかその時点ではっきり言ってほしい。頼むよ……俺に気持ちを偽らないで、お願い」
「そ、そんな……不快だなんて。心配、無いと思いますけど」
「……レムナン」
「……分かりました」
彼女がそこまで懇願する背景を僕は知らない。ただ、僕は嫌われるには惜しい友人だと思われているんだ。そんなことばかりに意識が持っていかれてしまう。
今、一歩……ここで足を踏み出す。
それだけで僕は憧れの彼女のように……今の僕より少しだけ、勇敢になれる気がする。記録を眺めるだけの行為がそんな偉業ではないとは分かっているけれど。
けれど、どうしようもない。
彼女が時折遠くを見ながら、何かを考え込む瞬間も……目の前にいるのに僕やラキオさんをどこか離れたものを見るみたいに眺める瞬間も。
彼女になぜ……と思う瞬間の、答えはきっと全てループの中にあるのだろう。そう思ってしまうとどうにも、退くとは言えなかったのだ。自分でどうにかコントロールできるような気持ちなら、良かったのに。
ほんの少し、この先に手を伸ばす。
事実に手を掠めるにも満たない、欲しいものも曖昧ではっきりした輪郭を持たない。ただもう少しだけ、あとちょっと。
僕は彼女と同じ時間を共有した。……そんな気持ちになりたかったのだと思う。