無題夕暮れの百里基地。滑走路の向こうで茜色に染まる空が、F-4の機影を柔らかく浮かび上がらせていた。神田鉄雄はヘルメットを小脇に抱え、整備士と談笑しながら格納庫へ向かう。汗とオイルの匂いが混じる基地の喧騒の中で、彼の笑い声はひときわ大きく響いた。
「よお、栗! 今日のフライト、完璧だったろ?」
神田の声が格納庫の奥に届くと、栗原宏美は計器盤の点検を終え、振り返った。冷静な目が神田を捉え、わずかに口元が緩む。
「神田、お前の操縦はいつも通り派手すぎる。もう少し繊細さってもんを覚えろよ。」
「はっ、繊細さならお前に任せとくよ。ナビゲーターの仕事は完璧だったぜ、さすが栗!」
二人は笑い合い、肩を叩き合う。だが、その手が触れる瞬間、互いの視線が一瞬だけ絡み合い、基地の喧騒から切り離されたような静寂が生まれた。
二人が借りたアパートは、百里基地から車で15分ほどの小さな町にあった。畳の香りが残る六畳一間の部屋。窓辺には栗原が買ってきた観葉植物が置かれ、夕陽がその葉に柔らかい影を落とす。神田はコンロの前で鍋をかき混ぜ、鼻歌を歌っていた。
「栗、飯できたぞ! 今日は俺の特製カレーだ!」
栗原は小さなテーブルに書類を広げていたが、顔を上げて鼻を鳴らす。
「神田、お前、毎回カレーしか作らねえな。もう少しレパートリー増やせよ。」
「んだよ、俺のカレーは絶品だろ? ほら、食ってみな!」
神田がスプーンを差し出すと、栗原は一瞬ためらいつつも口を開ける。スパイスの香りが部屋に広がり、栗原の眉がわずかに上がった。
「悪くねえな。」
「悪くねえ、じゃなくて最高だろ? 正直に言えよ、栗!」
栗原は笑みをこらえ、目を逸らす。だが、神田がテーブルに身を乗り出して顔を近づけると、彼の視線は逃げ場を失った。
「神田、近い。」
「いいじゃねえか。誰も見てねえんだから。」
神田の声は少し低くなり、冗談めいた口調の裏に熱がこもる。栗原は一瞬黙り、書類をそっと閉じた。
「基地じゃ、こうはいかねえよな。」
「当たり前だ。隊舎じゃ、いつもお前がクールなナビゲーター様だもんな。」
二人は笑い、だがその笑顔の裏で、互いの存在がこの小さな部屋を満たしていることを感じていた。1980年代の日本では、こんな関係は誰にも言えない。基地の規律も、社会の目も、二人の間に割り込む余地はなかった。それでも、この部屋の中だけは、彼らの世界だった。
夜、布団を並べて寝る二人。窓から差し込む月明かりが、栗原の横顔を照らす。神田は腕を枕にして天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「なあ、栗。俺さ、時々思うんだ。お前とこうやって暮らして、飛んで、笑って…こんな日がずっと続けばいいって。」
栗原は目を閉じたまま、静かに答える。
「神田、お前、たまに詩人みたいになるな。」
「詩人じゃねえよ。マジで思ってるだけだ。」
栗原は小さく笑い、身体を起こして神田を見下ろす。月明かりが彼の瞳に映り、いつもより柔らかく見えた。
「俺もだ。…神田、ずっと、な。」
神田は栗原の手を握り、強く、だが優しく締め付けた。言葉はもういらなかった。二人の鼓動が、狭い部屋に静かに響き合った。
翌朝、基地での訓練が始まる。F-4のコックピットで、神田は操縦桿を握り、栗原は後席でナビゲーションを始める。二人の声が無線越しに響き合う。
「神田、右旋回、角度15度。高度維持。」
「了解! お前の指示なら、月まで飛んでやるぜ!」
機体が空を切り裂き、雲の海を突き進む。地上のしがらみも、世間の目も、ここでは関係ない。二人の想いは、F-4の轟音とともに大空に溶けていく。