そこには、見知った男がいた。嫌悪感でぞわりと鳥肌が立つ。苛立ちのままに砂利を踏みつけて、那月はギチリと唇を噛んだ。
ダークグレーのスーツに、首からはふわりと広がる淡いブルーのストールがかかっている。そして何より、長く伸ばされた銀髪がその男を特徴づけていた。自分自身よりも小さいはずの相手に、那月は無意識のうちに指先を震わせる。
「──あー、ナツキくんだぁ」
軽薄な声が響く。男は振り返って、那月をじっとりと見つめて、笑った。
「偶然、だね?」
「アレクサンドロス……ッ!」
怒りを込めて名を呼べば、相手はケラケラと楽しそうに肩を揺らした。やだなあ、と三日月形に歪めた口元を、白い手袋がはめられた手の甲で覆い隠す。
「サーシャって呼んでって言ったじゃない」
「誰が呼んでたまるカってンだ、クソ野郎ガ」
「あはは、なに怒ってるの?そんな顔も可愛いけど、なんだか今日はいつもよりご機嫌斜めだね」
「このっ、テ、メエッ……!」
拳を握りしめた。向かい正面の白い男を、長い前髪の隙間から睨みつける。なぜ那月が怒りの炎を燃やしているのか、目の前にいる食えない男であれば分かっているはずであったからだ。サーシャはくすりと微笑を浮かべてから、呆然と地べたに座り込んだままの男を見た。
「この子、おともだち?」
「…………嗚呼そうダ、チームの仲間ダ」
「へえ!そうなんだ。お迎えに来てくれたのにごめんね、今日は帰るの難しいかもよ?」
無意識に、歯を食いしばった。ぎりぎりという耳障りな音が鳴る。
「どういう、意味ダ」
「この子、打つの久々だったからぁ……このままおうちに帰ったら、この子の豹変具合に、家族やおともだちが心配しちゃうでしょ?」
「──ッ!!」
それはすなわち、那月に対して暗にこう言っているのだ。
お前のチームのメンバーに、違法ドラッグを売ってやっているんだよ──と。
白い睫毛が楽しそうにぱちりと瞬く。くくく、と笑い声を喉に引っ掛けながら、サーシャは射抜くように那月を見据えていた。
「だぁいじょうぶ!やるって決めたのはこの子なんだから、チームリーダーの君にはこれっぽっちも、なぁんにも落ち度なんてありゃしないよ!」
「テメェッ──!!」
怒りが有頂天に達して、脳を焼き尽くすように支配した。握りしめた拳を携えて、勢いよく相手に向かって振り抜く。シュ、と空を切る音だけが耳元で聞こえた。笑みを崩すことの無いまま、サーシャは那月の拳を避け続けている──否、必要最低限の動きでいなしていると気付いた。
「ッシィ!」
振りかぶって、フェイント。対応が少し遅れたところを狙うが、それは距離を取って躱される。長い脚を使って足払いこそすれば、縄を跳び越すかのようにサーシャは体を浮かせた。
「ッは、バカがよ!」
無理やり体を引き起こした。宙に浮いたサーシャのネクタイを、拘束具のように引っ張り上げる。那月は自身の身体から嫌な音が響くのを聞きながら、思いきり目前の男へと頭突きをかました。重く透き通った音が辺りに広がって、サーシャは思わず苦悶の声をもらす。
「ッ、石頭め…………!」
「覚悟はできてンだろうなァ!?……地獄に落ちル準備はよォ!?」
「………… блядь!」
再び殴りかかろうとしたその時。額を押さえ込んだサーシャの身体がふっと消える。下だ、潜り込みやがった!そう考えて目線を下げた次の瞬間、目の前には棒状の固形物がいくつか浮かんでいる──バチバチと、今にも爆発しそうな嫌な予感を伴って。
「ッ小型ダイナマイト!?」
まずい、と直感的に思った。那月は腕を交差させて頭を護る。つんざくような大音量と共に、非日常的な熱量が那月を襲った。毛と皮膚の焼ける匂いがして、那月は必死に唾を飲み込んだ。
視界と聴力が回復するよりも前に、その場を引いていたサーシャが飛び込んでくる。勢いよく上げた踵を、強く、鋭く那月の頭部へと打ち降ろした。ゴスン、という鈍い音と共に、那月は重力に従ってその場へと体を打ち付けられる。うつ伏せになった那月の頭を、硬い靴の裏側がぐり、と抉った。
「もう、急にそんなことしたら危ないよ?つい反撃しちゃったじゃないか」
「グ……、触、ンな……」
「言ってただろう、あんまり反抗的だと手出しちゃうよって。……まあ、そういうところが見たくてやってるワタシの自業自得と言っちゃ世話ないけどさぁ」
サーシャの足首を握りつぶしてやろう、そうやって伸ばされた那月の右手を勢いよく踏み抜いた。低いうめき声が思わず口から飛び出る。サーシャはそれを聞いて、恍惚とした表情をして、那月の顔を覗きこんだ。
「あ~~~…………かわいいね、ナツキくん。仲間を踏みにじられて、復讐もまともにこなせない自分が嫌になっちゃった?」
「…………る、て」
「でもだめだよ、言うことちゃんと聴かないときゃあ。そうしないと、優しくできないでしょ」
ぷっ、と。その場にそぐわない音が聞こえた。サーシャはきょとんとした顔で、手袋越しに己の頬を拭った。赤く、鉄臭い唾がべっとりと肌を汚している。サーシャは笑った。──口元を不敵に引き上げている那月を見て。
「 Dra åt helvete」
地に這うような声で、那月は言い捨てた。サーシャはそのままの勢いで那月の顔を蹴り抜く。ぐしゃッと嫌な音がして、サーシャは靴の汚れを地面に擦りつけた。
「ぎぁ、グゥッ…………」
「…………最高。さいっこうだよナツキくん!一体全体、君はどこまでもワタシを喜ばせてくれるねぇ!」
サーシャは那月の長い前髪を握って、彼の頭を無理やり持ち上げた。整ったかんばせは鼻血と土埃、そして生理的に零れた塩水に塗れて汚れている。
「あー、ほんっとうにかわいいね。その表情、癖になっちゃうな。これを見るためだけに、次は何をしようかな、って考えるとわくわくするよ!」
くたびれていたが、サーシャを睨みつける瞳だけは、怒りの炎が燃えて光が未だ存在して見えた。サーシャはぞくぞくっと背筋を震わせながら、歪んだ表情をして那月の頬骨を指先でなぞる。
「でも、鼻血が肺に入っちゃ大変だね。ん~……取り敢えず、下向こっか♡」
ぱ、と手が離される。ゴスン!と頭がコンクリートの地面に派手な音を立てて落ちた。砂を噛むことになった那月は、痛みに眩み始めた視界を戻そうと、手のひらに爪を食いこませている。その様子を見て、サーシャはほう、と生ぬるい嘆息を一つ漏らした。
「ナツキくん、ワタシよくね、家で言われてたんだぁ──自分に歯向かった犬は、尻尾を振るまで調教し直さなきゃだめ、って」
だからぁ、と。サーシャは何かをぴんとはじいて、透明感のある音を響かせた。那月の背中に片足を置き、軽いとは言えど成人男性の体重をそのまま乗せる。背骨が軋む感覚が伝わってきて、サーシャの顔には歓喜の笑みがこぼれていった。
「だからぁ、悪いことする子犬ちゃんには……お薬、打たないと♡」
「──ッ!!?」
その音の正体は、注射器であった。細い針の先から、ほとほとと液体が零れ出す。その液体は、地面へと染みを作ると不思議な香りを辺りに漂わせた──サーシャがいつも身に纏っているものと同じ、白檀の香りだった。
那月は知っている。その香りが、自身に気が違うほどの一瞬の快楽と、永遠にも思えるような絶望を与える品だということを。
「や、め、やめロ、やめろ、その匂い、は」
「キミも大概化け物だよねえ、こんだけ喰らってもまだ気絶しないし、反抗的でいてくれる…………すごく、都合がいいよ」
「やだ、いやダ、やめ────ッ!!」
空いた首筋に針が刺さる。戸惑いなく、何かに防がれることもなく、針はすっと白い肌を貫いた。注射器が押し込まれるたびに、那月の身体がびくんと震える。俎板の鯉のように、なすすべなく薬品がその体に取り込まれて、全身を回っていく。小さく開いた口からは、途切れ途切れの悲鳴と唾液が伝って零れていった。
「──うん、全部入った!」
「ぁ、は…………ひ、……」
「あは、もう顔とろけてる!ふふ、さっきの不機嫌な顔とは大違い…………こっちもまた可愛いんだよね、ナツキくん♡」
「……………………ンぅ、?」
罵倒も、挑発の声すらも届かない。緩やかな精神世界に入り込んだ那月の焦点は、もはや朧気であやふやなものだった。崩れ落ちる体をサーシャが支える。
「あー、幸せそう……♡ね、ほんとはそのお薬、すごく高いんだからね?ナツキくんだから、特別に使ってあげてるんだよ?」
「っあ、──…………ッ♡」
「嬉しい?そぉ、よかったあ…………♡じゃあ、しかたないからまた使ってあげるね♡」
かわいいかわいいナツキくん。早く壊れて、こっちまで堕ちてきて。
子守唄のように、サーシャは軽やかに耳元でそう囁いた。