窮鳥懐に入れば猟師も殺さず 下 鷹山は雲雀の後について長い廊下を歩いていった。記憶の中ではいつも朧気だったその廊下は、はっきりした意識の中歩いていると心做しか前方が徐々に下に傾いているようだった。暫く歩いていくと奥の方からミシミシと物音が聞こえてきた。突き当たりの大きな扉の前に着くと、雲雀は脇にある梃子をグッと下に下ろして何かを固定した。すると先程までミシミシと聞こえていた音が止んだ。
「婆さん、それはなんだ。」
鷹山が尋ねると雲雀はにこりと笑って鷹山を見て言った。
「この部屋は普段空気が入らないようになっているの。中のものが劣化しないようにね。でも人が入る時はこうして部屋を少し浮かせて固定することで、部屋の下に開いた隙間から空気を入れているのよ。」
鷹山はその言葉に驚いて微かに目を見開いた。江戸時代に建てられたはずのこの屋敷にそんなからくりがあったとは知りもしなかった。よく見ると、扉もゴムのようなものが付いていてしっかり密閉されている。さすがにゴム部分は最近付けられたもののようだった。鍵を使って扉を開けると、中では沢山の灯火がぐるりと部屋の隅を囲んでいた。そこはざっと四百畳ほど、バレーボールコートより一回り大きいくらいの広さがあった。そして鳶翔の言っていた通り、正面の祭壇に三つの垂れ幕が垂れ下がっていてそれぞれ右から奥原氏、花雫家、匿われた武士の家紋が刺繍されていた。天井の高さは暗くて分からないが、垂れ幕の長さからしてそれなりにあるようだった。
「ここが奥の間です。ここでは当主が中心となって、ご先祖さまに祈りを捧げます。その際、当主はあの刀を持って舞を舞うのです。」
雲雀は祭壇の真ん中にある、刀掛けに掛かった一振の刀を指さした。
「……詠削……」
鷹山はその刀を見て小さく呟いた。平安時代特有の、棟が厚く、広い身幅から先端に向けて細くなる形とは違い、棟が薄めで細身のその形はどこか異国の雰囲気を纏っている。反りの浅い刀身に瀞を思わせる波のない刃文。鍔と兜金は金色で柄頭に鳳凰の頭が施されていた。柄巻は少し色褪せてはいるが美しい紫紺で、内側には鮫肌が巻かれていた。詠削は灯火に照らされて奇妙な輝きを放っていた。鷹山はゆっくりと近付き震える手で刀を掴んだ。すると頭の中に無数の声が流れ込んできた。
守らなければ…主の吾子達を……血を絶やしてはいけない……
さむい…さびしい……
苦しみから解放するのだ……
つらい、くるしい、いたい
私は折れてはならぬのだ…たとえ孤独でも、吾子達を守らなければ………
苦しげに、呻くように響く声は絶えず何かを訴えていた。その瞬間、目の前が真っ白になり、徐々に見た事のない風景が浮かんできた。それは、見たことがないはずなのにどこか懐かしさを感じる景色だった。鷹山の視界は着物を着た色白の男の手から、快活そうな一人の少年に手渡された。
「つ、月衡さま…こちらを…」
「おお!これが私の刀か!」
少年は嬉しそうにこちらをまじまじと見つめると、再び着物を着た男を見て尋ねた。
「しかし何故二振なのだ?私が頼んだのは一振のはずだが…」
着物を着た男はドキッとしたように肩を揺らして、下を向いたまま言った。
「そ、それは、その……その二振は番なのです…!常に共に持ち、共に使うことで万倍もの力を発揮することができるのです…!」
男の言葉を聞いて少年はもう一度こちらを見て、ニカッと笑い、男に言った。
「なるほど…気に入った!礼を言うぞ、忠蘭!」
「いいえ、そんな…月衡さまにこの命救われた時から、私は、あなたのために命をかけると決めております故……」
男は少年に言われて、嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。
すると景色が移り変わり、少年の下に大きな何かが転がっていた。いきなり視界がグンと高く上げられた。少年の周りには沢山の人々が集まっていて、皆手を上げて口々に嬉しそうに言った。
「月衡さまがついに鬼を倒された!」
「この地に平和が戻ったのだ!」
少年は大きい何かから飛び降りると、じっとこちらを見ている先程の着物の男の前へ歩いていって、歯を見せて笑った。
「忠蘭、お前の刀のおかげだ!」
少年に礼を言われ、男は頬を染めて俯きながら言った。
「い、いいえ、そんな…滅相もございません…。私はあなたさまをお守りできればそれで……」
男は顔は嬉しさ中にどこか憂いを帯びていた。鷹山はその表情に違和感を感じながら見ていた。
また景色が移り変わった。そこは大きな屋敷の人気のない廊下のようだった。少年、基もう青年となったその人物の背後から声がした。
「月衡さま、ご即位おめでとう存じます。」
「鶺鴒(せきれい)!」
青年は振り返って嬉しそうに言った。視界に映った人物は背の低い細身の少女だった。少女は呆れたように小さく溜息をつき、頭を下げながら言った。
「そのあだ名で呼ぶのはおやめ下さい。下賎な生まれの一介の下女である私に名など必要ありませぬ。」
青年は足取り軽やかに少女に近付いて言った。
「良いではないか。そなたのこまい見た目によくあっておると思うぞ。」
少女は心做しか青年をジトリと睨みつけて言った。
「私を馬鹿にしておいでですか?」
すると青年は目を細めて微笑みながら、少女の髪に触れて言った。
「いいや、そなたが愛しゅうて言っておるのだ。」
そんな青年を見て少女はほんの少し恥ずかしそうに頬を染めて、さらに青年を睨めつけて言った。
「無礼を承知で申し上げます。寝言は寝て仰る方がよろしいかと。」
「あはは!もっと無礼を申せ!」
「被虐趣味をお持ちでしたら他を当たって下さいまし。」
背を向けて立ち去ろうとする少女を、青年は嬉しそうに笑って追いかけた。
景色は再び移り変わる。灯火に照らされた薄暗い部屋で、青年は家臣達に囲まれて、甲冑に身を包んだ女のような顔の武士と、大きな薙刀をもった大柄の僧侶と向かい合って座っていた。武士は美麗な顔を悔しげに歪ませて言った。
「…という次第で、都を追われた我々にはもうゆく宛てがないのでございます。」
青年は武士を真っ直ぐ見すえて暫く沈黙したあと、目を瞑って頷いて言った。
「……わかった。では我ら奥原氏も貴殿と共に戦おう。」
周囲の家臣達がざわついた。その中の一人が身を乗り出して言った。
「し、しかし月衡さま…!そんなことをすれば我らも反逆罪に問われ、一族皆殺しは免れませぬ…!!」
そう言った家臣の男を、青年は真っ直ぐ力強い眼差しで見つめて言った。
「だからこの御仁を見捨てろと申すか?それこそ、先祖達の前に申し訳がたたぬ!ここで何もせず一族を守ったとて、情を失っては人として生きる意味などない!」
青年の言葉にざわついていた家臣達の目が変わった。青年はそんな家臣達を見て頷くと、再び武士に向き直ってニカッと笑った。武士はそんな青年を見て一筋の涙を流した。
再び変わったその景色は暗い森の中で、どこからか大きな物音や叫び声が聞こえた。空は辺りで上がった炎で真っ赤に染まっていた。鷹山の視界は甲冑を着た青年から不安そうに顔を歪める少女に手渡された。
「鶺鴒、この刀を預かっていてくれ。」
「っ月衡さま…!」
少女は刀を握りしめて青年に詰め寄った。青年は少女の両肩に触れてニカッと笑った。
「案ずるな、必ず戻る。我が子に会うためにもな。」
「……」
少女は青年を悲しげに見つめたまま口を噤んだ。青年は少女を愛しそうに見つめたあと、こちらを見て言った。
「詠削、私の妻と吾子を必ず守るのだぞ。雪齋と共に私が戻るまで。」
そう言って青年は少女を抱きしめた後、馬に飛び乗り炎の上がる方へ走っていった。
鷹山の視界にもやもやとしたどす黒い何かが湧き上がって、そのまま目の前が闇に飲まれた。真っ暗闇の中四方八方から叫び声や泣き声、馬の嘶きや刃物のぶつかり合う音が聞こえた。それらの音はだんだんに遠ざかっていき、やがて静まり返った。そして暫くすると闇の中で再び声が聞こえてきた。
「そ、そんな…月衡さまが……」
その声はあの着物の男の声だった。男の声は絶望に満ちていた。そこにもう一つの声が加わった。その声はあの少女だった。
「…忠蘭さま、あなたの月衡さまへの歪んだ想いを私は知っております。もしあのお方へ罪の気持ちをお持ちなら、生き残った宵衡さまや吟千代さま達をお連れして、あなたの故郷へお逃げ下さい。」
「……鶺鴒はどうするつもりなんです…?」
男にそう問いかけられ、少女は皮肉めいた声で言った。
「私は本来名もない下女。幕府に追われることはございませぬ。」
「……分かりました。どうかお元気で。」
男がそう言うと、最初に聞こえた苦しげに呻くような声が聞こえてきた。
守らねば…主と我が片割れが戻るまで……守り続けねば……
主の妻よ、その吾子よ……苦しみを忘れて安らかになり給え…汝らを蝕むその苦しき記憶(うた)を我が刃で削ぎとらん……
主の血を絶やすもの、この家に近付けてはならぬ……血を絶やしてはならぬのだ………
守り続けねば…………
その声はあの男にも少女にも似ていて、清鳳や雲雀にも似ている別の声だった。鷹山はその声を聞きながら目を閉じた。やはりこの声は詠削の声、先程の景色は全て詠削の記憶なのだ。月衡が詠削に託した強い思いは、時を経て呪いに変わり、他の誰でも何でもない詠削自体を蝕んでいたのだ。ならば………
「ようちゃん!!」
鷹山はハッと目を開けた。そこは雲雀と共にやってきた薄暗い奥の間の祭壇の前で、右手には詠削をしっかりと握りしめていた。すると背後から強く戸を叩く音がして、扉の向こうから美鶴の声がした。
「ようちゃん!!そこにいるんでしょう?!開けてください!!」
美鶴はそう言いながら強く扉を叩いた。
「あらあら……鷹山、あの方とはもう一緒にいては駄目ですよ。一族の大事な場所であのような無礼極まりない態度…」
そう言って扉に近付くと、雲雀は諭すように言った。
「お引取りになって下さらない?もう鷹山は花雫家の当主。あなたは赤の他人。この家の敷居を跨ぐ権利すらないのですよ。」
「っ…!」
雲雀の言葉に、美鶴は顔を歪めた。雲雀はもう一度落ち着いた声で言い放った。
「だから早く、お引取りになって。」
すると、雲雀の背後から鷹山の低い声が響いた。
「婆さん、退いてくれ。」
雲雀が振り返ると、鷹山は右手に刀を握りしめて立っていた。雲雀はそれを見て驚いたように目を見開いた。
「鷹山、あなた何をする気なの…?」
鷹山は立ち尽くす雲雀の肩を掴んで扉から引き離すと、勢いよく扉を開けた。扉の向こうにいた美鶴は目元が赤くなり、微かに涙が滲んでいた。美鶴は鷹山を見るなり、握っていた拳をだらりと脱力して口を開いた。
「ようちゃん…あの、僕…やっぱり…」
鷹山は涙目でこちらを見つめて何か言おうとする美鶴を見ながら、安心したように微かに笑った。そして美鶴の手を掴んで言った。
「話は後だ。行くぞ。」
そう言って鷹山は驚いた表情の美鶴の手を引いて廊下を走り出した。
「鷹山、待ちなさい。鷹山!」
背後から聞こえる雲雀の声を無視して、鷹山は廊下を走り抜けた。
屋敷の外門を出ると、アリョールが美鶴の車に寄りかかって心做しか不安気な表情で二人を待っていた。アリョールは二人が一緒に走ってくるのを見るなり、いつもの生意気な顔で鼻を鳴らして言った。
「おう、やっと来たかヨーザン。」
鷹山は後部座席のドアを開けて美鶴を乗せるとアリョールに言った。
「車を出せ。」
アリョールは鷹山に言われて不思議そうに首を傾げたが、鷹山が右手に持っている刀を見て青い瞳が飛び出るほど見開いた。
「えっ…それもしかして詠削!?!?」
驚きのあまり言葉を失っているアリョールに、鷹山は苛立ったように眉間に皺を寄せて強く言った。
「今は話してる暇はない。早く車を出せ。」
「わ、わかった…!」
アリョールは驚きで口を開けたまま返事をすると、運転席に乗り込んで車を出した。屋敷から出てきた雲雀は走り去る車を見ながら唖然として立ち尽くしていた。
車を走らせながらアリョールは鷹山に尋ねた。
「一体何があったんだ…!?」
「やる、べきことが、わかった。とりあえず、鍜冶屋敷に向かって、くれ。」
鷹山はアリョールのめちゃくちゃな運転に揺さぶられながら答えた。
「アリョール、あなたの運転、ひどい、ですね…!」
美鶴は座席に打ちつけられながら言った。するとアリョールはバックミラーで美鶴を睨んで言った。
「あぁ?!仕方ねーダロ!初めてなんだから!」
「「……はぁ!?!?」」
鷹山と美鶴は声を揃えて叫んだ。アリョールはめちゃくちゃなハンドルさばきで、ニヤリと笑って言った。
「ダイジョーブだろ!オレ、村では馬術が一番上手かったし!」
「馬と車は違うでしょ!?」
窓ガラスに押し付けられながら美鶴が言った。アリョールはそんな美鶴の顔をバックミラーで見てゲラゲラ笑いながら言った。
「何回か見たから大体のソーサは分かんだよ!これ踏めば、速くなんだロッ!」
「ちょっ、待っ…!!」
鷹山と美鶴が止めようとするも時すでに遅く、アリョールはアクセルを思い切り踏み込んだ。ブォンと大きくエンジン音が鳴って車が急加速した。
「馬鹿野郎、そんなにスピード出したら滑っ…!!」
鷹山が止めようと後部座席から身を乗り出すも、めちゃくちゃな運転で揺さぶられて身体を思うように動かせなかった。アリョールはどこからともなくサングラスを取り出してかけると、ニッと笑って言った。
「…フルスピードで走るのが、オレのジンセーだぜ…!!」
「「俺・僕達を巻き込むな・まないでください!!!!!」」
そのまま三人を乗せた暴れ馬のような車は猛スピードで鍜冶屋敷に向かっていった。