嘘じゃん 疲れた。本当に疲れた。十二時間続いた撮影に、体力も気力も限界だった。
大河のキャストに選ばれた時は、そりゃもう嬉しかった。弱小プロダクションにいた私がお茶の間に知られるようになったのはつい最近のことで、「埋もれてた才能」なんて嬉しくない呼称が、ようやく「実力派」という冠を得るにふさわしい機会だったから。
主役ではないものの、かなり重要な役柄。オファーがあったときはマネージャーと「やばー!」と歓声を上げた。
でも、さすがは国営放送。時代考証を綿密に行ったセットや衣装は拘り抜かれていて、入りから撮影終わりまで余裕で半日以上の拘束。下手したら早朝入ってテッペン解散は当たり前。キャストも錚々たるメンバーだから、私のような若手は大御所の出番待ちに付き合わされることも多い。
舞台が現代のドラマならまだいい。よっぽど凝った衣装じゃない限り控室で寝られるし気ままに過ごせるから。でも歴史系はつらい。しかも今回は花魁の役なのでヅラが超重いし超痛い。三キロの重りを頭に乗せて一日を過ごすのはかなりイカつい。セットが崩れるから待ち時間も横たわれないし拷問だ。三キロって新生児じゃん。重量を聞いたとき、生まれたばかりの姪っ子を思い出した。一度会ったきり、この撮影が入ってしまいなかなか会えていなかった。悲しみ。
もちろん、充足はしている。監督はずっと一緒に仕事をしたかった人だし、上がってくる脚本は回を増すごとに盛り上がりを見せている。良い作品になるっていう確信があった。それでも身体には限界というものがあって、ハードな撮影に毎日エネルギーを底まで放出しきってしまう。最近は座りながら寝るスキルも身に付きつつあった。中・高の六年間バスケットボール部でそれなりに体力には自信があったけど、さすがにその貯金は使い果たしたようだ。
そういえば今度バスケ関係の仕事があるってマネージャーが言ってたっけ。世界大会? 選手権? が近いらしく、そのメインサポーターを拝命していた。
選手の勉強しなきゃ。ほぼ忘れかけていたルールもおさらいしておきたい。番組のプロデューサーから大量の資料を貰っていたが、まだぺらりとしか目を通していなかった。
あー、あと帰ったら明日の長回しのセリフをもう一回確認しとこ……。古語が入り混じったセリフはなかなかに厄介だ。それから、それから、とまどろみながらスケジュールを追っていると送迎車は自宅のマンションについたらしい。
スタジオでメイクオフとシャワーは済ませてある。後はもうエレベーターに乗って自分の部屋に行くだけなのに、そのわずかな動作がとんでもなく億劫だった。
死んだ目をしてエントランスの自動ドアを潜ると、受付で住民らしき男性がコンシェルジュに何かを問い合わせていた。
(うっわ、めんど)
ここは立地と設備の良さががっつり反映された価格帯のマンションなので、住民の中には「一般人」とは呼べない人たちもいる。わきまえている人が多数だが、中には業界人との繋がりにギラついているめんどくさい輩もいて、この間もなんとかクリエイターと名乗る男に廊下で「あ、女優の!」と絡まれたばかりだ。
面倒は嫌。しかも今すっぴんだし。一応見た目にも気を払う仕事なので、ボロボロな姿は見られたくなかった。
キャップを目深に被って足早に受付を通り過ぎようとすると、加速するために変な力を入れたせいか、突如足が攣った。花魁道中のシーンで長時間高下駄だったことも影響していたのかもしれない。
もちろん歩けるわけもなく、その場に蹲る。
どうしました!? と駆け寄るコンシェルジュに救急車が必要かと聞かれたけれど、足が攣っただけだと息も絶え絶え伝えた。こむら返りぐらいなら少し我慢すれば収まる。しかし、予想に反して痛みは一向に引く気配がない。変な冷や汗もかいてきた。歯を食いしばりながらやり過ごしていると、さっき受付にいた住人が「ちょっといいですか」と私の傍らにしゃがみ込んだ。こんなときに話かけんな! と言ってやりたいところだがそんな余裕もなく、「はぃ……」とか細い声がしか出ない。
その人は私の足を掴むと、土踏まずに手を添え、ゆっくりと足首の関節を曲げるように押し上げた。突然赤の他人の身体に触ってきたことを咎めようとしたが、ふくらはぎの腱が伸びる感覚とともに痛みが徐々に引いていく。
同じ動作を二、三度繰り返すころには、まだ違和感があるものの、痛みは無くなり、「大丈夫ですか?」の声に肯く。こんな対処があるなんて知らなかった。
「ごめんなさい!」
その人が両手をパンパンと払うのを見て、素手で靴の裏を触らせていたことに気が付いた。さっきは余裕がなくて見ていなかったが、血管の浮き出た男らしい手だった。爪は切りそろえられていて清潔感がある。すっくと立ちあがったその体格はよく、呆然と見上げてしまう。
スポーツか何かしているのかな?
レベルの低い推理をしていると、目がかち合った。相手が一瞬瞠目するのを見て、しまったと心の中で舌うちが漏れる。私が誰なのかバレたらしい。
最悪。恥ずかしいところを見られてしまった。
お礼を告げてさっさと立ち去ろうとするも、それより先にその人が「さっきの荷物を」と近くで私達の様子を見守っていたコンシェルジュに話かけ、コンシェルジュも心得たとばかりに何かを抱えて戻ってきた。
なんだか分からないまま目の前に段ボール箱を差し出される。
「これ、間違えてウチに来てました」
宛名を見ると、確かにそこには私の名前。しかし書かれた部屋番号は数字が一つ違う。一階下のものになっていた。間違えて彼の家に届いてしまったらしい。
芸名ではなく本名で活動しているため、私宛だと分かったのだろう。親切にも受付まで届けてくれたようだ。
「あ、ありがとうございます! ご迷惑おかけしてすみません」
重ね重ね恥ずかしくなり、すみませんでした! と、いい大人が小学生のような元気な謝罪をしてしまった。しかし彼は穏やかに小さく笑い「お仕事お疲れ様です」とだけ言い残すとマンションから去っていった。
荷物の送り主は姉だった。多分出産祝いのお返しだ。
(もー、気遣わなくていいって言ったのに)
しっかり者の姉のことだ。間違えた住所を教えたのは多分私だけど、羞恥心はまだ残っていたため責任転嫁する。箱を抱えながらエレベータのモニターに表示された数字をカウントして心を落ち着かせた。
今日のことを吹聴されたら嫌だなと思ったけど、「お疲れ様です」とこちらを労う掠れた声が頭を過る。そんなことするような人じゃなさそう。なんとなく、そう感じた。
っていうかあの人、どっかで見覚えが……。
記憶を辿ってみたが、全く思い出せない。仕事柄、毎日入れ代わり立ち代わりで様々な人に会うのだ。
でも結構カッコ良かったかも。ふいに下世話な自分が顔を覗かせる。半パニック状態でよく見てはいなかったが、端正な顔立ちだった気がする。イケメンという華々しい雰囲気ではないが、精悍な顔つきとあの凪いだ表情が独特の空気感を作っていた。落ち着いた態度を見るに、彼もやはり「一般人」ではないのだろう。
数週間後、私の疑問は思わぬところで解決された。それは大河もクランクアップし、仕事が少し落ち着いたころだった。
前に貰っていた男子バスケの資料に目を通していると、ある選手紹介のページで「あ」と声が漏れた。そこにはあの時の男性――深津一成さんが簡単なプロフィールと共に掲載されていた。やっぱりアスリートだったんだ。
今年で三十一かぁ、二個上じゃん。オリンピック二回出てんの? なるほどね、やっぱ山王出身だ。
へ~、ほ~と呟きながら無意識にスマホを取りだす。検索エンジンをタップし、「深津一成」と入力すると、候補には「出身校」「身長」「日本代表」の単語が出てくる。その健全さに安堵した。同時に羅列された画像はどれも試合中のユニフォーム姿。真剣な面持ちに、カッコいいじゃんとわざわざ顔面を拡大して見てしまう。
――いや、何してんの私。
はっと我に返り、スマホの画面を落とす。キモ過ぎる。一瞬、脳内が桃色に染まりかけた自分を叱咤した。今が女優としてのキャリアで一番重要な時期であることは自覚している。恋愛に割いている時間はない。
集中集中集中! と三回唱えて資料に目を戻す。けれど、この間会った時とは違う、少し鋭い眼光をした深津選手の画像がチラつき、他の選手情報が上手く入ってこなかった。
翌早朝、私の決意をあざ笑うかのように、エレベーターでばったり深津選手と会ってしまった。開いた扉から「カッコイイ」と認定した顔が出てきたときはドキリとしたが、そんなことを向こうが知る由もなく、「おはようございます」とあの少しハスキーな声で挨拶をされる。
「先日はありがとうございました」
「いえ。足はもう大丈夫ですか?」
「おかげ様でなんとも。大騒ぎしてすみませんでした」
深津選手は小さく頷くと正面を向き直す。黙っているのがもったいない気がして、思わず「あの、深津選手ですよね――」と言葉を続けていた。今度、日本代表戦に関連する仕事をするのだと口を滑らせる。もちろん、ネット検索したことは言わず、番組から貰った資料で分かったのだと伝えた。
深津選手は私が大会のサポーターになったことを知らなかったようで、少し驚いたような表情を見せたあと「よろしくお願いします」と丁寧なお辞儀をくれた。
「監督がファンだって言ってました。喜びます」
でも、あの人女性が好きなので気を付けてくださいね、と付け加えられた忠言に「心得ました」とはにかんでみせる。よし、女優スマイル出せた。
ここでがっついてはいけない。
自分が一応六年間バスケ部だったこと、近々練習風景にお邪魔させてもらうはずだということを、あくまで仕事の会話風で伝えると、ふいに彼の二の腕に噛み跡があることに気が付いた。私がまじまじと見てしまったためか、深津選手も視線でそれを追う。
「――うちの犬、噛み癖があって」
小さく呟いて深津選手がそっと傷をなぞった。困ったもんです、と言うが表情は優しくて、きっととても大事にしているワンちゃんなんだろうなと想像がついた。
犬、好きなんだ。資料にはない情報を得て、なんだか得をした気分になった。
エントランスでもう一度、今後ともよろしくお願いします、と社会人らしい挨拶を交わし別れる。深津選手は日課のランニングに行くらしかった。
去る背中をこっそりと見送り、思わず頬を緩める。昨日あれだけ脱・恋愛脳を掲げたのに、その決意は深津選手を前にしてあっさりと消えてしまった。
今日は朝から地方でCM撮影だ。家を出た瞬間は半覚醒状態だったけど、さっきの邂逅で一気に目が冴えた。よしっ! と気合を入れ、私は無駄に肩を回して送迎車に乗りこんだ。
そんな一場面をいつの間にか週刊誌に撮られてしまったらしい。『大河女優、バスケ日本代表と同棲!?』という記事の事前予告FAXが事務所に送られ、私は目をひんむいた。
あの朝、二人でエントランスを出たところを抜かれてしまったらしい。顔が出ているのは私だけ。深津選手の目元にはモザイクが入っているが、知っている人が見たらすぐに特定できるだろう。
記事には私がバスケ部だったことや、今でも試合観戦するほどのバスケ好きが高じて深津選手と意気投合した、という関係者の証言なるものが記載されていた。
いや、なんの関係者だよ。バスケ部だったことは事実だが、卒業以来ボールには触れていないし、プロの試合を見に行ったことだってない。絶賛勉強中だ。
捏造が過ぎる。マスコミってこんなにいい加減なのかと呆れ果てた。
所属している弱小プロダクションは、タレントの初めての週刊誌砲に蜂をつついたかのような大騒ぎになった。
「ありきたりだけど『交友関係は本人に任せている』でいいかな……?」
マネージャーがおろおろと私に確認を取る。週刊誌から深津選手との関係について回答を求められていた。
関係もなにも、ただ同じマンションに住んでいるだけだ。会ったのはたったの二回で、全ての会話を集約したって五分にも満たない。
きっぱり否定した方がいいでしょ、と言いかけたが、いや待てよと下心がタンマをかける。今後何かに発展しない可能性だって無きにしもあらずだ。ここで、そうした事実はございませんと言ってしまったら、後々嘘になってしまうかもしれない。
「先方の出方を聞いてみるね」
サポーターとしての初仕事、日本代表へのインタビューが来週に控えていた。そこでお詫び方々、深津選手の動向を探ってみよう。所属しているチームも何か声明を出すかもしれない。
そうしよっか、と言うマネージャーは疲労の色を濃く顔に出していた。彼女には申し訳ないが、深津選手と接触するチャンスだと、私はちょっぴり浮かれていた。
「この度はご迷惑をおかけしました……」
事前に深津選手のチームに連絡を入れていたため、撮影の前に少しだけ時間を設けて貰った。日本代表が練習をしている体育館の会議室には私と深津選手、そしてお互いのマネージャーというメンツが揃っている。
深々と頭を下げると、先方のチームマネージャーが「とんでもない!」と恐縮したように両手を振った。
「今回のことは本当に運が悪かったとしか! そちらも被害者ですよ」
ね、と同意を求められた深津選手がコクリと頷く。
「どうせ撮られるならもっと男前に加工して欲しかったです」
茶目っ気のあるフォローに一同和やかに笑う。深津選手が不快に思っている様子はなくほっとする。迷惑そうな態度を取られていたら脈は限りなく無い。
チームにも出版社からコンタクトがあったらしい。回答を擦り合わせましょうという流れになり、どうしよう……と、悩まし気な表情を作ったのは我ながらわざとらしかったかもしれない。一方、深津選手はそれまでと変わらないテンションで「誤解と表明します」と断言した。
「……そうですね」
こちとら女優だ。あまりの即答加減に内心意気消沈だったが、仮初の笑顔は保ったままに同意を示す。というか、そうするしかないでしょ。そんな一刀両断にしなくてもいいじゃない、とも言えず、私は空気を読んで場に同化した。
撮影の時間も迫ってきていて、解散の流れになる。すかさず深津選手を呼び止め、この騒動のお詫びとして綺麗にラッピングされたプレゼントを渡した。きょとんと不思議そうな顔をする深津選手に「ワンちゃんに」と伝える。本人宛のプレゼントにするのはあからさま過ぎるので、矢印を少し逸らしたチョイスにした。
犬を飼っている役者さんにおすすめしてもらったそれは、多分人間のホテルランチ一食分より高い。オーガニック素材しか使っていないのでペットのお腹に優しいらしいですよ、と付け加えると、深津選手が小さく吹き出した。
何か粗相しただろうか。これまで動物を飼ったことがないので無知の品だったのかもしれない。
私の顔に心配が出たのか、深津選手が「すみません」と小さく頭を振る。
「こんな高級なものあげたことがないので。尻尾振って喜ぶと思います」
なにがまだおかしいのか、深津選手は手で口元を抑えて笑いを耐えているようだった。
いつまでもペットの話をしていても進展はない。「そう言えば髪型変えたんですね」と方向転換を目論んだ。
イメージチェンジだろうか、深津選手は突然坊主になっていた。会議室に入った瞬間からその変化にはずっと気になっていたが、まずは謝罪が先だろうと切り出すタイミングを窺っていた。
勝手なイメージだけれどバスケ選手は髪型に拘る人が多い。勉強した中、ぱっと思いつく坊主姿はNBAの沢北選手くらい。
深津選手は頭の形が綺麗で全く違和感がなく、オシャレ坊主という印象だ。短髪も好きだがこれも良い。
お似合いですと続けると、私の足を治してくれた大きく厚い掌が頭部をさり、と撫で、緩やかにほほ笑んだ。
「犬が悪戯するので」
結局、犬の話に着陸してしまった。この間の腕の噛み痕といい、深津選手の飼っているワンちゃんは相当やんちゃなようだ。
あの嘘だらけの記事はすでに出ていて、ちょっとした話題になっている。
他の選手やスタッフさんにどんな目を向けられるか冷や冷やしたけれど、意外にも風通しの良い現場だった。後から知ったが、事前に深津選手側から火消がされていたらしい。おかげで好奇の目に晒されることはなかった。
体育館に入ってすぐ、三井選手が深津選手に「よぉ、色男」と絡んでいた。二人は確か同じ大学の出身だ。仲が良いらしく、深津選手も「今度お前のとっておきの秘密、タレ込んでやるピョン」とカウンターを食らわせ、三井選手を大いにビビらせていた。惚れかけている弱みか、おかしな語尾もそんなじゃれ合いも、つい可愛いと思ってしまう。
この二人のやりとりで、「あの記事はイジっても良いんだ」という空気になり、一層やりやすくなった。私のファンだという監督を始め、他の選手も気さくな人が多い。予習も効いたのか、インタビューは順調だった。
伊達に芸能界にいるだけあって、あまり物怖じしない性格だと自負している。けれど、沢北栄治選手を前にしたときはその圧倒的なオーラに思わず、おぉ、と心の中で感嘆が漏れた。
単なる美男子なら業界にザクザクいる。アイドル、俳優、モデル、歌手。様々なタイプのイケメンと仕事を一緒にすることも多いが、沢北選手の持つ華は、彼らとはまた違うベクトルの鮮やかさだった。上手く言えないけれど、端麗な容姿に鋭利な動物性が混じったような、そんな力強い美しさ。目じりが跳ね上がった綺麗な瞳が私に向けられ、自然と背筋が伸びた。
沢北選手への取材は本日の大トリだった。
挨拶をすると、一瞬、彼の纏っている雰囲気が冷えた気がした。その棘にぎょっとしたが、沢北選手はすぐに「よろしくお願いします!」と朗らかな表情を向け、カメラに向かって、簡単な自己紹介を始めた。
受け答えも爽やか。番組の意図を汲んでくれているのか、固いものにならないよう、時折冗談もはさんでくれる。「よくご存知ですね~」と、私に対する気遣いも忘れない。なんてスマート。冒頭、睨まれたと思ったのはやっぱり勘違いだったようだ。締めに今大会に向けた抱負を聞くと、それに対しても淀みのない完璧な回答を寄せた。
今日のタイムスケジュールが全て終わり、プロデューサーの合図とともに一斉にバラシ作業が始まる。
人に質問をするって難しい。される側に立つことは多いが、する側になるのは初めてで、自分でも知らぬうちに結構緊張をしていたらしい。
小さく息を吐いて座っていたパイプ椅子の背もたれに寄りかかると、「大変でしたね」と沢北選手に労われる。若干オフモードで油断していたので慌てて笑顔を浮かべる。
「でも皆さんとても優しくて」
率直な感想を漏らすと、沢北選手は一瞬きょとんとした表情を見せた後、「あぁ、じゃなくて――」と苦笑した。
「記事の方っす」
あ、そっちか。
週刊誌の報道は深津選手の否定もあって、この現場の誰も信じている様子はない。多少揶揄われる程度だ。普通に心配されるのはこれが初めてなのでちょっとだけ反応に困った。
「本当、深津選手にはご迷惑をおかけしてしまって……」
たじたじ、という顔をしておけば間違いはなかろう。しかし、そう答えると沢北選手が「ふ~ん」と口の端を上げる。それは、さっきまでの人当たりの良さが鳴りを潜めた、生意気な笑みだった。まるで私を試しているみたい。
がらりと変わった態度に少し焦る。何か不味いことを言っただろうか。二の句が告げられない。しかし、あたふたする私などお構いなしに、「でもまぁ」と沢北選手が仰々しく肩を上げる。
アメリカの人がよくやるやつだ。冷静になるため、敢えてそんなくだらないことを考えた。
「あの人もまんざらじゃないかもしれないですね。こんな美人と噂になっちゃって――」
「いえ、そんなことは……」
文字だけ追えば褒められているように聞こえるが、多分違う。だって目が全然笑っていない。見抜けないほど馬鹿ではないが、何が気に障ったのかまでは分からなかった。
誰か助けて~、と心の中でヘルプを出すも、皆撤収作業に忙しくそれどころではないらしい。こちらも建前の笑みでのらりくらりと応戦していると、「ウザ絡みやめろピョン」と願ってもない人が間に入ってきてくれた。その声に沢北選手が一気に拗ねた顔になり、むいと唇を突き出して振り返る。
「困ってるピョン」
そう言って、深津選手が沢北選手を小突く。瞬間、私に向けられていた氷のオーラはすっかり溶け、沢北選手が「いてっ」と無邪気に笑った。すごい豹変ぶりだ。素直に引き下がる様子は、まるで飼い主に悪戯が見つかった犬みたいだった。
「ちょっとー、インタビューの邪魔しないでくれますか」
「もう終わってるピョン」
「まさかずっと俺らのこと見てたんですか」
「NBAって自意識も鍛えられるピョン?」
キラキラとした笑顔を振りまく沢北選手。なんなんだコイツ、と引いていると、頭の中で予習した情報が引き出される。そっか、この二人は山王の先輩・後輩だ。学生時代の上下関係はまだ生きていて、沢北選手の手綱を深津選手が握っているみたいだ。すみません、と深津選手にも謝られ、小さく頭を振る。
深津選手は私に用事があるらしい。まさか、ご飯のお誘い? と胸を躍らせたものの、「先ほどの件で」と事務的に切り出され、ぎゅいんと上がったテンションが呆気なく下がる。
「回答を少し変えたいのですが」
先ほど話し合った内容におかしな点はなかったはずだ。何か問題でもあったのかな、と頭を捻る私の隣で、「回答?」と沢北選手が口をはさむ。
まだいんのかよ沢北栄治。日本では子供が憧れるスーパースターだが、さっきの会話で私の評価はダダ下がりだ。忙しい身だろうに、なぜか沢北選手はその場を去ろうとはせず、むしろ私たちの会話に加わってきた。せっかく深津選手と二人で話せるチャンスなのに。
「出版社から事実確認されてたピョン」
「へぇー。で、なんて答えんの?」
沢北選手の大きな瞳に「好奇心」の三文字がしっかりと刻まれている。面白がっているのは一目瞭然だが、深津選手は気にした様子もなく、「ニヤつくなピョン」と一瞥しただけだった。
沢北選手のペースにもっていかれてはいかん。今深津選手が用があるのは私なんだから。「それで?」と先を促すと、深津選手の意識はようやく私に戻ったようで、お手数ですが、と丁寧な前置きがなされた。
「〝そうした事実は一切ございません″で、お願いします」
一瞬、時が止まる。
さっきの打ち合わせでは「誤解」という表現に留まっていたはずだ。数段強い言い方に口が中途半端に開いたまま声が出せなかった。
「……け、結構変わりましたね……」
「そこまで言わないとうるさそうな奴がいるので」
今なんと? 聞き捨てならぬセリフに、「うるさそうな奴……?」と、思わず聞き返してしまう。プライベートな質問は追々。もう少しお近づきになってからするつもりだったが、これは仕方ない。
まさか、やめて、という私の願いもむなしく、深津選手は何かを考えるように体育館の天井に視線を彷徨わせた後、「お付き合いしている人です」と言い放った。
はい、終わった―。カンカンカンと試合終了のゴングが鳴った。
恋人がいる可能性を考えなかったわけじゃない。もしその存在が明らかになったら、すぐに手を引くつもりだった。でも、想像していた以上にショックは大きく、この短い期間で私は自分が思っていた以上に深津選手に入れあげていたらしい。
「そ、それなら――、そう断言した方が良いですね」
なんとか言葉を捻りだした己を褒めてあげたい。
傷心のなか、さっきまでピーチクパーチク騒いでいた沢北選手が、ちんと大人しくしていたのが不思議だった。
疲れた。本当に疲れた。慣れないインタビュアーの仕事、沢北栄治からの冷たい視線、深津選手の恋人発言。
時間はまだ夜の手前だが、強力な三コンボに気力も体力も限界だった。
早くお家に帰りたいよぉ……。こんな時はアイスを食べながらバラエティ番組でも見て泣くほどゲラゲラ笑って寝るのが心の健康に一番良い。
ため息をついて体育館の地下駐車場で迎えを待っていると、ふと、近くに停まっている車に人影があるのに気が付いた。
某高級車にいたのは、さっきまさに私に大ダメージを食らわせた深津選手と沢北選手だった。この後、二人で食事にでも行くのだろうか。
上機嫌に話かける隣の沢北選手を無視して、深津選手はスマホの画面を見ている。彼女に連絡を取っているのかもしれない……。
しょぼくれつつ二人の様子を眺めていると、ふいに沢北選手がこちらを見た。ヤバ。盗み見していたことがバレてしまった。会釈の一つでもするべきか迷っていると、沢北栄治はニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、いまだスマホから顔を上げない深津選手の坊主頭を、人差し指の裏でするりと撫でた。
「なっ!」
私を挑発するような態度に思わず驚愕の声が出る。見せつけている感満々だ。驚いた私に満足したのか、二人を乗せた車は滑らかなエンジン音とともに目の前から走り去った。
「なっ、なっ、なっ」
(なにあれーーーー!)
気が付くと、私は迎えの車の中にいた。いまだ脳内では沢北栄治の悠然とした笑みと深津選手の頭を艶めかしく撫でる光景がぐるぐると駆け回っている。あれはスキンシップなんて可愛いもんじゃない。あきらかにそういう意図や欲が滲んだ手つきだった。情報が処理しきれずに頭を抱える。
二人はどういう関係? 確実に先輩後輩、日本代表のチームメイトという域は超えているように見えた。いや、でも待って。沢北選手はアメリカ生活が長い。スキンシップがちょっとくらい激しくても不思議じゃないでしょ。
無理やりに自分を納得させようとしたけど、ふいに深津選手の言った「犬」「付き合っている人」というワードが思い出され、沢北栄治の私への当たりの強さや深津選手に見せた無邪気な態度と結びついてしまった。
――やっぱ、そういうことだわ。
「嘘じゃん……」
深津選手の家にいるのは犬ではなく、多分犬っぽくて嫉妬深い恋人だ。
はぁ~とお腹の底からため息を漏らした後、私は姉に連絡をとり、行先変更を運転手さんに願いでた。無性に姪に会いたくなったのだ。大人の嫉妬心も欲望も知らない、無垢な存在をひたすらに愛でたかった。
「おい、いい加減どけピョン」
広いソファーは自分たちの体格を考慮して購入したかなり広いものだった。しかし、それが無駄になるほど、沢北はぴっちりと自分にひっついている。「あちーピョン」と肘で引き剥がそうとするも、がんとして動かない。こんなところで無駄にフィジカルの成長を感じた。
「いいでしょ。俺〝付き合ってる人″なんだし」
「……お前、それ言いたいだけピョン」
あの撮影終わりから、もう十回以上沢北はこのセリフを繰り返している。帰りの車で信号待ち中にキスをされたとき、マンションのエレベーターで手を繋がれたとき、帰ってすぐにベッドに連行されたとき。深津の一言は沢北にかなり刺さったらしく、事あるごとに持ち出して深津に甘えていた。
「免罪符にすんなピョン」と言ってむいとその顎を掴んだが、それでも沢北は嬉しそうに見えない尻尾を振った。その様子に、あ、と思い出したようにカバンから今日貰ったプレゼントを取り出す。
「何それ」
「貰ったピョン。お前にって」
俺に? と首を傾げる沢北の前で綺麗な包装紙を解くと、出てきた箱には大きく「DOG FOOD」と書かれていた。途端に沢北が「またなんかややこしいことしてんな」という目で深津を見た。
「――いや、嘘じゃん」
事情を説明すると鋭い指摘が飛んだが、深津は意に介さず「同じようなものピョン」とあっけらかんと言った。
代表練習が近づいてきているから痕は残すなと言ったのに、この躾のなっていない犬は我を忘れてマーキングをしてくれたのだ。誰のせいで架空のペットを生み出したと思っているのだ。
何度目かの文句を言うと、沢北はバツが悪そうに「そりゃそうだけどさぁ」と深津の頭を撫でた。
「でも、深津さんは犬のために坊主にしないでしょ」
定着し始めてきた短髪をすっぱりと止めたのはつい数日前のことだ。あの記事が出るとチームの広報から呼び出された後、沢北にそのことを伝える前に潔く丸めてやったのだ。当然、事実無根である。沢北も安い記事を信じたりしないだろうが、この恋人は結構嫉妬深い。ぎゃーぎゃー騒がれる前に、数倍インパクトを増した気持ちの示し方で黙らせてやろうと画策したのだ。それに、付き合うようになってから、短髪の自分に悪い虫が付くのではないかと要らぬ心配をして、事あるごとに「坊主楽っすよ」と遠回しに刈ることを推奨してきてウザかったのだ。
深津の思惑は見事的中し、いきなり坊主に戻った恋人に沢北は驚愕し、報道が出るということを話しても「俺が誤解しないように……! 深津さん、そんなに俺のことを……!」と、感激したようだった。別に深津としては髪の毛に拘りなく、頭を丸めるなどお安い御用だったが、沢北が都合よくとってくれるので良しとした。
「それに――」
深津の頭を撫でていた手が下降し、むき出しの太ももに触れる。風呂からあがったばかりで、二人ともボクサーパンツ姿だった。
「犬とはセックスできないでしょ」
明確な色欲を持った指が鼠経部に渡る。その先を予兆させるような触れ方に、すでにその快感をしっている身体が動物的にひくりと震える。坊主の件もそうだが、沢北のことはある程度コントロールしている自信があったが、こちらの方ではいつも遅れをとっている気がする。
「――できるピョン」
この男の雰囲気に当てられたことが悔しくて乱暴な反論をすると、再び「嘘じゃん」と沢北が小さく笑った。