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    六本線

    @kari_kari_sen

    適当に話をあげてます。

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    六本線

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    9月のグッコミの無配です。
    高校生のころに曖昧な関係のまま終わった二人が大人になって再会する話。
    ※中途半端なところで終わります。全体の話の多分三分の一くらい。
    ※鼻血の描写があります。

    #沢深
    depthsOfAMountainStream

    no title
     久しぶりの再会、という訳ではない。高校時代、共に汗を流して競技漬けの毎日を戦った友人たちは、バスケットボールの強豪大学に進むものが多かった。試合でことあるごとに顔を合わせていたし、大人になってからも何かしらか理由を見つけて集まっていた。それほど、修羅の日々を三年間最後まで共有しきった経験は強固なものだった。
     店を選ぶのは大概がセンスの良い一之倉だ。大衆的過ぎず、かと言ってオシャレ路線にも振り切らない丁度良いところをつくので、すっかり信頼されていた。
     その日、一之倉から指定されたのは普段よりも高級志向の料亭だった。
    都内一等地の広尾だけあって、金曜の夜なのに周囲の喧騒にはどこか品があった。携帯のマップを頼りに店を探すと、古民家然とした建物の前に着く。控えめな看板には、教えられた店名が達筆な文字で浮き彫りにされていた。仕事の付き合いでこうした落ち着いた店に来ることはたまにあるが、仲間内の集まりで選ばれることはほぼ無いような場所だ。
     人との待ち合わせに遅刻することはない。それでも今日は時間を見誤って大分早く到着してしまったようだ。どこかで暇を潰すのも億劫で、中で待っていようと暖簾をくぐると、玄関で焚き染められた控え目な香の香りが深津を出迎えた。一之倉の名前を伝えると、きっちりと着物を着た中年の女性店員は愛想良く「お連れ様がお見えですよ」と告げた。きっと松本だ。山王の集まりのとき、誰よりも早く到着するのは真面目な松本だった。
     やはり良い店は違う。
     店内のほとんどが個室らしく、廊下からはかすかな談笑が聞こえる程度で、他の客に会うことはなかった。坪庭では鹿威しが鳴り、あまりのらしさに少しだけ笑えてくる。
    深津を含め、今日のメンバーの何人かはプロのアスリートだ。芸能人、とまではいかないが、プロスポーツも客商売。メディアの露出も多いため、プライベートが守られている空間はありがたかった。特にバスケットボールは、最近、とある後輩のおかげで人気が急上昇していた。
     友人の気遣いに無言で感謝をしていると、予約された部屋に着いたようだ。すっと開かれた障子の向こうに坊主頭が見える。野辺かと思ってかけようとした言葉は、その人物を認めた瞬間、喉の奥へと消えていった。
    「――お、深津さんだ」
     かけられた声は野辺のものではなかった。ましていつも集まるメンバーですらない。アメリカを拠点とし、今まさに日本のバスケ人気をけん引している沢北栄治のものだった。
     形の良い瞳がこちらに向けられ、つい身体が強張る。しかし、沢北はそんなわずかな深津の動揺に気づいた様子もなく、「お久しぶりです」と人懐こい笑顔を浮かべた。他のメンツはまだ到着していないようだった。
    「――久しぶりピョン」
     止まりかけた呼吸をスムーズに再開し、平静を装って少し離れた席に座る。「遠っ」と聞こえた気がしたが、無視して飲み物のメニューを手に取った。
     吟味をするつもりはない。乾杯はいつもビールと相場が決まっている。本来なら見る必要のないそれを眺めながら、なんでコイツがここに、という混乱を抑え込んだ。
     沢北とは何度か日本代表戦で顔を合わせていたものの、プライベートで酒の席を共にするのは初めてだ。今やNBAで活躍するかつての後輩はいつも慌ただしく、周囲には常に選手以外の人間もいた。深津から必要以上の接触は図らなかったし、それは沢北も同様だった。腰を据えて会話をするのは何年振りだろうか。
    「いつ日本に帰ってきたピョン?」
     ん、とメニューを渡して当たり障りのない質問をする。一応受取ったものの、沢北は、皆さんに合わせますと、開きもしなかった。
    「昨日成田着いて。二、いや、三年振りの日本すね。やっぱこっち湿度ヤバいっす」
     聞くと、沢北のもとに一之倉から、次はいつ帰ってくるのかと連絡があったらしい。わきまえている一之倉のことだ。余程のことが無い限り、わざわざNBA選手を呼び出したりはしない。沢北は、先輩の誰かに慶事があると踏んでいるようだった。
    「誰か結婚でもするんですかね。聞いたけど、イチノさん全然教えてくれなくて」
     先ほど必要ないと言ったはずのメニューを、沢北は開けたり閉めたりして落着かない様子だ。表面的な笑顔を張り付けてはいるものの、仕草から居心地の悪さを見て取った。その気まずさがこちらにも伝播してくるようで、松本の到着が待ち遠しかった。
    「もしかして深津さんだったりします?」
     頬づえをつき、へらりと笑いながら沢北が上目遣いを投げかける。大した興味もないが、会話を成り立たせるためにノリでした質問。そんな、軽々しい聞き方だった。
    「そうピョン」
     沢北の軽薄さに合わせ、深津もさらりと告げる。
    「式は来年の六月ピョン。お前も呼んだら来るピョン?」
     目も合わせずに早口で言うと、ぼとりと何かが落ちた音がした。見ると、沢北がスマートフォンを畳の上に落としたようで、やべっと小さく呟いて慌てて拾っている。
     余程「結婚」というワードと深津が結びつかなかったようだ。よく他人から「結婚するイメージないですよね」と言われるが、沢北も同じようなことを考えていたのだろう。
    「うわ~マジっすか。はは、あの深津さんが結婚?相手は何してる人?もしかして同業者?」
    「バスケとは無関係ピョン」
     答えると、先ほどまで驚愕の色を見せていた沢北が、さっと表情を無くし、へぇ……と冷たく零した。ピシりと、流れる空気に亀裂が走った気がする。なんだ?と違和感を覚えたのも刹那で、沢北はまた笑みを浮かべると、「どんな人?どこで知り合ったんですか」と、言葉を続けた。
    「知り合いの紹介ピョン。普通の会社員。小柄で落ち着いた性格ピョン」
    「いくつぐらいなんですか?年下?年上?」
     自分のことなど興味がないと思っていたが、矢継ぎ早に質問が降る。受け答えがめんどくさくなってきた。
    「……お相手のプライベートがあるのでこれ以上のコメントは差し控えますピョン」
     はぐらかすと、躱すような返答に苦笑される。
    「うわ~出し惜しむなぁ。まぁ、どうせ後で皆からも聞かれますよね」
     もう情報は引き出せないと悟ったのか、沢北は「おめでとうございます」と緩く笑ってそれ以上の追求を控えた。
     沈黙が流れる。早く誰か来て欲しい。スマホを取り出そうとすると、「お、もういたか」という声とともに松本が到着した。遅いピョンと苛立ちのまま口にしたが、待ち合わせ時刻の十分前だった。
    「あ、すまん……」
     全く非は無いが、反射的に謝る松本はやはり真面目だった。


    「いや、嘘だろ」
    「嘘ピョン」
     深津が結婚をするという話は、その後集まってきた河田によって早々に冗談だとバレた。沢北と松本は本気でその法螺を信じたようで、特に沢北は「嘘かい!」と脱力しながら天を仰いでいた。
     懐かしい空気だ。沢北はいつもこうして深津の嘘か本当か絶妙にわからない話に翻弄され、からかわれたことに一瞬腹を立てつつも、結局最後は笑ってしまうのだ。その困ったような笑顔を見るのが楽しかった。
     だが、今、正面を向き直した沢北はどこか複雑な面持ちでグラスに残っていたビールを飲み干した。その態度に、楽天的な思考を止める。そうだ、沢北とはもうそんな気軽な間柄ではなかった。そしてその原因を作ったのは他でもない自分だ。
     相変わらず深津にやられてんな、と和む空気につられ小さく口の端を上げたが、それは自嘲の笑みだった。




     沢北との関係がギクシャクしたのは高校三年の、夏の入口だった。
     全国大会常連校。地獄の練習メニューは数あれど、なかでも「裏山」の過酷さは別格だった。それは校舎の裏にある小高い山を十キロランニングするというシンプルなトレーニングではあったが、高低差が激しいため、往路は心臓破りの坂を延々と登らなければならない。帰りは下りだから楽かと思いきや、行きで使い果たした足で山道を下るため、疲労した身体が大きく揺さぶられ、吐く寸前の内臓にダメージを与える。山王に集まったスポーツエリート達でさえ、裏山のトレーニングは憂鬱なものだった。
     真夏に近い温度をちらほらと記録するようになったなか、マネージャーから「裏山」という一言が出た瞬間、部内には暗澹たるムードが広がった。「マジクソ」「鬼かよ」と、監督がいないのを良いことに各自小言を言いながら、のろのろと山道まで移動する。深津も堂本に対して「刺す」と思うほどの殺意を抱いたが、主将の矜持は貫き、涼しい顔をして人波に乗った。
     いくつのグループに分かれ、スタートを切る。
     山道はしっかりと舗装がされておらず、一般の道路を走るのとは格段に体力の消耗度が違う。おまけにこの日は本格的な夏への助走をしているかのように蒸し暑かった。
     走り始めて二十分。最初は団子状に連なっていた部員たちも、勾配に着いていけず、徐々にペースを落としていった。気が付くと、深津の周りはほぼ無人になっていた。今ならば歩いてもバレやしないと甘える自分と、三年のお前がサボるのかというプライドの攻防は、ふと一之倉の顔がよぎったことで後者が優勢に立った。
     視界が狭窄し、肺が破裂しそうなほど痛い。足は鉛が詰まったように重く、気管支が仕事を放棄しかけて呼吸がままならない。信じられないほどの熱が顔全体を覆っていたが、走っている限り逃れる手段はなかった。もはや足を動かしているのがやっとという体で、一年からスタメンをはっている深津ですら完全に顔が下がっていた。山頂はまだ先だ。
     自分を叱咤し酸素を大きく吸い込もうと胸を反らす。すると、視界の先に沢北の姿がちらりと映った。沢北とは同じグループで、最初こそ並走していたが、ほんの少し前、不自然にペースを上げて集団を追い抜いていた。
     いつもと違う様子に異変を感じる。何かがひっかかり、歯を食いしばって徐々に接近を試みる。足音で追い上げに気が付いても良さそうなものだが、沢北もかなり疲労しているのか、見つかる様子は無かった。
     ふいに、沢北が、まるで最初からそこが目的地だったかのように、なんの躊躇いもなくいつものコースから逸れた林の中へ消えていった。読み通りだ。
     アイツめ……。
     恐らくサボりだ。泣き虫ではあるが根が正直で負けず嫌いなため、沢北が練習を放棄することは滅多に無い。しかし、今日は堂本に集中的にシゴかれており、裏山に来る前から体力をごっそりそぎ落とされ、魂の抜けたような顔をしていた。
     だからといって看過はできない。立場上同情はできず、深津はその後を追った。

     沢北の入っていった雑木林は薄暗く、湿った有機物の匂いがした。およそ人が立ち入る場所ではない。緑の隙間をがさがさと辿ってしばらく進むと、すぐに開けたところに出た。この山には何度も世話になっているが、こんな場所があるなんて初めて知った。
    脱走犯はすぐ見つかった。倒木の上に、沢北は肩で大きく息をしながら腰かけていた。頭はすっかり垂れており、その背は頼りなかった。なるべく気配を消し、背後に近寄る。
    「見ぃつけた……ピョン」
     声をかけると満身創意の身体が面白いほどに飛び跳ねた。
     振り返って深津を認めると、沢北は驚愕に染まる顔でゲェーッと叫び、一瞬でその表情を怯えに変えた。
    「ふ、ふか、ふかっさ……」
     堂本にチクられると思ったのか、どもりながら深津の名を呟いた後、終わったわ、と遠い目をする。その態度は申し開きの余地もなく、サボりの自白だった。
    「お前、もう二年ピョン……。後輩も、いるんだから……サボんな、ピョン」
     息も絶え絶えにそれらしいことを一応言っておく。すぐに強制連行をしてもよかったが、今にも生命が途絶えてしまいそうなのは深津も同じだった。腑抜けが、と悪態をつきながらも隣に座ると、すぐに咎められる気配がないことを察したのか、沢北が緊張していた表情をわずかに緩めた。
    「深津さんだって、結局休んでるじゃないですか……」
     これは先生を助けるためなんです。俺が死んだら新聞沙汰になるんです、とブツブツ言う沢北の目は虚ろだった。ついにイカれたかと、少しだけこの後輩を哀れに思った。
     それにしてもよくこんな場所を見つけたものだ。素直にそう零すと、沢北は「まぁ、山育ちなんで」とバツが悪そうに呟いた。
     初めて沢北栄治を目にしたとき、その小綺麗で華やかな見た目から、やはり東京の人間は違うなと密かに感心をしていた。しかし意外性というやつか、沢北は東京と言っても郊外の出身らしく、たまにこうして自然の側で生きた経験を見せた。
     「他の奴らには秘密ですからね」と、すかさず口止めを図られる。答えてなどやらずに横目で視線を投げるだけにとどめた。
    「ちょ、本気で他言無用っすよ。深津さんだってサボり共犯なんだから」
    「人聞き悪いこと言うなピョン。俺はただ部長として事情聴取してるだけピョン」
     暗に脅すとまた怯え、「俺は深津さんが本当に怖い……」と震えだした。最近また上背を伸ばした身体が小さく縮こまる様子に、尽きかけていた体力がわずかに浮上した。
     林の中は静かだった。まだ土中から蝉は這い上がっていないのか、さわさわと風が木々の葉を揺らす音だけが耳に届く。もう少ししたらこの山もうるさくなるだろう。いまだくらくらする頭で震える緑をぼんやりと眺めた。
     隣から聞こえてくる沢北の呼吸音が心地良く、耳をすましていると、ツツっと唇に何かが這う感触がした。あぁ、またかと、煩わしさを覚える。鼻血だ。先週、顔面でボールを受けてからというものの、些細な刺激や疲労が溜まると出てきてしまうようになっていた。鼻の血管は繊細で、一度傷ついたら出血しやすくなるらしい。
     見られて大げさに心配されたくない。沢北は血に弱そうだ。
     気付かれる前にぬぐおうとしたが、それは横から伸びてきた手によって止められた。熱く、汗ばんだ体温に手首を掴まれたと思った次の瞬間、顔に影が覆い被さり、鼻の下に粘膜の感覚があった。
     沢北に血を舐められたのだと認知したのは、それから数秒の後だった。ただでさえ疲労で上手く機能していなかった思考が完全に停止した。
     茫然とする視界が開け、飛び込んできたのは、薄い唇にわずかに血を滲じませた後輩の姿だった。口を赤く染めた沢北は、なぜか動物が敵を威嚇をするような表情で自分を、血液の伝った唇を見つめていた。
     ぶわ、とふき出した汗が背筋のくぼみを辿る。それは運動によって発散された健康的なものではなく、冷や汗に近かった。なぜ、という疑問より、マズイ、という恐れの方が勝っていた。
     加害者のような気持ちになったのには訳があった。この時、深津のなかには沢北に対して欲を孕んだ感情が芽吹きつつあったからだ。しかし、それは予感に留まっていて確信ではなかったし、その先にあまり明るい未来は見いだせず、冷静に否定をしている最中だった。後輩の、しかも自分と同性である幼気な後輩に性欲を抱いていると、すんなり認められるほど深津も大人になりきれてはいなかった。
     突然の奇行に、自分の葛藤が知られてしまったのかと焦る。沢北に邪な考えを見透かされ、からかわれている様な気がした。
     しかしそう思ったのもつかの間。沢北は数度目を泳がせた後、いつもの後輩然とした顔に戻り、「ぉっわ!すんません‼」と慌てた声を発した。
     大丈夫だ。違う。バレてはいない。きっと沢北は暑さに頭がおかしくなっただけだと自分に言い聞かせた。
     いまだ流れる血をTシャツの裾で乱雑に拭い、「戻るピョン」と冷静に告げる。沢北からは何かを言いたそうな雰囲気を感じたが無視し、自分は血が止まるまで歩いていくから先に行けと、先輩の面を被って指示を出した。

     沢北に避けられていると察したのはその次の日からだった。
     例えば名前を呼ぶ時、ふいに触れる時、アイコンタクトをする時。沢北からはほんの少し躊躇いの空気が流れ、表情が強張るのに勘づいた。少し前まではその大きな瞳をまっすぐ自分に向けていたのが、今は視線を合わせいる「体」で、実際は首元辺りを見ていると気が付くのに、そう長い時間はかからなかった。
     沢北からの拒絶を感じる度、やはりあの時、己の下種な感情が悟られたのだろうと自覚した。恐らく沢北は冗談半分で接触したにも関わらず、焦ったような深津の反応から薄暗い好意を読み取り、こいつマジじゃんと引いている。
     林の中、沢北の「おふざけ」に付き合い、馬鹿野郎とわざと大げさに怒ったフリをしたり、いつものように皮肉の一つでも言ってやれば、もしかしたら今の関係は変わっていたのかもしれない。だが上手く誤魔化せなかった。通常の自分ならばもう少しうまい返しができたはずなのに、なぜかそれができなかった。
     幸いにも沢北は表立って深津を拒絶することはなかった。それはきっと元来の優しさと、バスケットボールに対する真摯な態度故だ。この競技においてチームワークがどれほど重要か、教え込んだのは他でもない自分だ。和を乱さぬようにしている沢北の気遣いに後悔が滲んだが、同時に、わずかでも意思を示してくれて良かったと心底ほっとした。深みにハマるまえに撤退することができたのだ。大きなダメージはない、と自分に言い聞かせた。
     曖昧で宙ぶらりんになった感情は、沢北が日本から去ったことでついに過去のものになった。いつか忘れる。そう時の力を信じていたし、それはしっかり作用してくれていたはずだった。


    「なに、深津が独身って知って安心した?」
     過去にトリップしていた思考は、一之倉の一言で現実に引き戻された。なにが「安心」なのか分からない。深津には沢北が気分を害したように思えた。
     別に……、と決まりが悪そうに沢北が箸の袋を弄る。酒に強くないのか、あまり飲んでいる印象はないが、顔がすでに赤らんでいた。
    「先越されなくて良かったーって、ほっとしただけすよ」
     意外だ。確かに、沢北も二十代の後半に差し掛かっている。一般的には結婚を考えてもおかしくはない年齢だが、年俸億超えのNBAプレーヤー、かつ面の良いこの男が女に困ってるとは思えない。焦燥感を抱く理由などないはずだ。
    驚いたのは深津だけではないようで、「沢北って結婚願望あるんだ」と一之倉が意外そうに呟いた。
    「まぁ、それなりには……」
     歯切れの悪い返事だった。もしかしたら今相手がいるのかもしれない。沢北ほどの有名人ともなれば、知人にも交際は秘匿にするだろう。ふと、朝の情報番組で沢北の結婚報道がなされる場面を想像する。おかしいほど容易にイメージができ、つまらなかった。

     実際に結婚をするのは野辺だった。学生時代からつき合っていた彼女とめでたく入籍するようで、直接報告したいと皆を集めたらしい。昔馴染みから既婚者が出るのは初めてだ。場はすっかり祝福モードになっていた。
     酒が進めば話題もころころと変わる。
     今の所属チームの状況や業界の裏話、自分たちの近況報告。教えてもらうアメリカの競技事情も面白く、沢北も先ほどの冷えた表情が幻だったかのように、はしゃいだ様子を見せていた。合間に山王の思い出がちらほらと挟まれ、話題は高校時代の一番苦しい練習メニューへと移った。当然、全員の意見は裏山が断トツでエグイという結論に収束した。
     「裏山」という単語に、猪口を持つ手が小さく揺れた。胸にはかすかな動揺が広がったが、無表情を貫いて静かに酒を煽った。
     裏山のインパクトは相当強く、「部員の吐いたゲロで道ができていた」「そのゲロはあの山の生態系の一部になっていた」と、次から次へとエピソードが尽きない。
     しかし、盛り上がるなか、会話に参加する気分にはなれなかった。無言の口が寂しく、残った刺身を突いていると、強い視線が刺さった。引き寄せられるように顔を上げると、感情の読めない沢北の瞳が二つ、じっとこちらに向けられていた。あの裏山、唇を血に染めたときを彷彿とさせ、たまらず深津のほうから目を反らした。
     トイレに行くと言って席を立つ。沢北がまだ自分を見ている気配があったが、応戦はしなかった。

     バスケの本場で活躍する後輩の登場は場を大いに盛り上げ、普段おとなしい飲み方をする野辺が酔っぱらうほどだった。当の沢北もかなり飲んだらしく、そろそろお開きというころにはすっかり出来上がっていた。上機嫌に松本に絡み「もう許してくれ」と懇願されていた。
    「もう一軒行きましょうよ~」
     まだ飲み足りないのか、それとも人恋しいのか。沢北は解散を惜しんだが、遠方に在住している者も多く、新幹線の時間を気にして誰もそれに乗りはしなかった。
    「じゃあ誰かの家に泊めてください!」
     都内に住んでいるのは野辺と深津の二人だけだ。河田も横浜なので不可能ではないが、酔っぱらった沢北を抱えて電車には乗りたくねぇと、正論で固辞した。野辺も彼女と同棲中である。
     白羽の矢が深津に立つのは自然だった。
    「深津」と自分の名を呼ぶ河田に被せて「は?」と即座に拒絶の意を表す。そもそも沢北が嫌がるだろう。そう思っていたが、アルコールで思考が鈍っているのか、沢北はなぜか期待の面持ちを向けていた。
    「深っさ~ん」
     本当になんなんだコイツは。敬遠されていたはずなのに強請るような声で名前を呼ばれ、表情が曇る。
     無理ピョン、大人しくホテル帰れピョン、とそっけなく返したが、沢北は「え~」と食い下がった。
    「いいじゃないですか一晩ぐらい~。久しぶりの日本なのに。……一人になりたくないっすよ」
     そのセリフは先輩連中にかなり響いたらしい。アメリカのホームドラマのように憐れんだ声が四方から聞こえてくる気がした。なんやかんやで、昔から自分たちの世代は沢北に甘く、十分な大人になってもそれは変わらないようだった。
     おい深津、と口々に説得され、何も知らない無責任な友人たちを睨んだ。
    「お前らふざけんなピョン」
    「深津さん、同棲してる彼女とか――」
    「いねぇべや」
     勝手に回答した河田を睨む。しかし、河田は深津に目もくれず帰りの電車の時刻を調べていた。すかさず、沢北が「なら、ね!」と上機嫌で深津を見やった後、流れのタクシーに向かって手を挙げた。
    「ね、じゃねぇ。勝手に決めるなピョン」
     抗議も空しく、要請に従って車が止まる。「保護先は深津で。お疲れ」という一之倉の締めの言葉に万事解決の雰囲気が流れ、二人はタクシーに押し込まれた。


     先ほどまで喧しく喚いていた沢北は、車に乗ると一気に大人しくなった。後悔で酔いが覚めたかと期待したが、意思は変らず、自分のホテルに帰る気はなさそうだ。「深津さん、住所」と行き先を催促され、運転手を困らせるわけにもいかず、観念して自宅の場所を告げると、車は残酷なまでにスムーズに発進した。
    「――ねぇ、深津さん。本当に彼女いないんですか」
     いやに蕩けた声だった。アルコールと、沢北の香水が体温に乗り、密室のなかで深津まで届く。夜の空気に飲み込まれそうになる感覚が心許なく、顎に手をかける振りをしてその香りをシャットアウトした。
     真面目に質問に答えてやる義理は無い。「ご想像にお任せするピョン」と、つまらない定型の返事をし、車窓から電飾で着飾ったような東京を眺めた。窓ガラスの反射で沢北がこちらを窺っている様子が見えたが、振り返らない。
    「あー、それ言う人って大概いないもんですよ」
     何がそんなに愉快なのか、沢北が弾んだ声で深津の肩を軽く小突く。
    「お前は――」
     いるのか、と聞きかけてやめる。いたと言われても、いないと言われても、世界一どうでも良い情報に思えた。
    「女子アナかモデルとデキちゃった結婚しそうピョン」
    「あれま」
    「そんで数年後に不倫して謝罪会見開くピョン。週刊誌の記事、喜んで拡散してやるから任せろピョン」
    「ひっでー。先輩とは思えない仕打ち」
     あえて下劣なことを言ったが、沢北は気分を損ねた様子もなく、「上手く受け答えできる自信ねぇや」と、静かに笑うだけだった。こんなに大人っぽい笑い方をするようになったのか。肩透かしを食らった気になり、短く息を吐く。思いの外自分も飲んだらしく、肺に溜まっていた空気は熱かった。
    「――深津さん」
     沢北が再び名前を呼ぶ。この距離では必要ないのに、さっきから呼ばれる回数が多い。
    「俺はね……結構真面目で一途っすよ?」
     コメントの意図が分からず、ガラス越しに沢北を確認する。しかし、先ほどまで自分に向けられていた視線は窓の外にあって、どんな表情をしているのかは窺えなかった。

     沢北は部屋で飲みなおす気だったが、帰ったらすぐ寝ると事前に釘を刺しておく。不満が漏れたが、なら帰れと言うと、むぅと押し黙り、大人しく深津の後を着いてきた。
    「へ~!綺麗じゃん!」
     つーか物が少ねぇ、と無遠慮に辺りを見渡す沢北にミネラルウォーターのペットボトルを投げて渡す。酔っぱらっている割に、沢北はしっかりとそれをキャッチし、一息に半分ほどを飲み干した。上下する喉仏が目に入り、思わず目を止めた自分に舌打ちが漏れそうになった。
     深津が住んでいる都内のマンションは築年数が浅く、1LDKを中心に構成されている。単身者やカップルの同棲向きだと、チームのマネージャーを通して不動産屋から紹介された物件だった。高級住宅街まではいかないものの、閑静と形容される地域にある。騒がしい場所を好まない深津にはうってつけだった。
    「目黒って良いとこですよね。俺今都内で部屋探してて――」
     帰国を匂わす発言に息を飲む。怪我でもしたのかと全身を見渡すと、深津の考えを悟ったのか、違う違う、と沢北は慌てて両手を振った。
     オフシーズンは単なる休みではない。数少ない日本人NBAプレーヤーはメディアに引っ張りだこで、帰国時には取材にテレビ出演、CM撮影などタイトなスケジュールが組まれる。対応するために都内のホテルを使用するのが常で、沢北も最初こそホテル暮らしにテンションを上げていたが、それも数度経験すれば新鮮味を失ってしまったと言う。それで、都内での拠点を探しているらしかった。
     数週間の滞在以外、ほとんど空ける家に賃料を払うとはかなり太っ腹だ。やっぱりNBA選手様は違いますピョン、と囃すと、やめてくださいよと沢北が肩をすくめた。
    「単純にホーム感が欲しいんですよね」
    「贅沢な悩みピョン」
    「いやこれが切実なんすって。ホテルにいると外食ばっかで胃がおかしくなるし。普通に自分で作った飯食いたいんです」
    「お前料理できるピョン?」
    「学生ん時自炊してたんで。結構上手いっすよ。今度作りましょうか?」
     そんなタイミング一生ないだろ、という指摘は飲み込み、楽しみにしてるピョンと適当に会話を終わらせた。

     この時間から風呂を沸かす気にはなれず、お互いシャワーで済ませる。
     スポーツを生業にしているのでジャージは腐るほどあった。そのうちのセットアップをパジャマ兼明日の服として沢北に放る。
    「そこら辺で適当に寝ろピョン」
    「深津さんはどこで寝るんですか」
    「寝室」
    「俺は?布団とか――」
    「ないピョン。そこのソファでも使えピョン」
    「えぇ~客なのに。これ、絶対ぇ体はみ出ますって」
    「泊めてやっただけありがたいと思えピョン」
     もう寝ろと言い残し、リビングの電気スイッチに手をかける。すると、「深津さん」と静かに呼びとめられた。まだ何か注文があるのか。面倒臭さを隠しもせずゆるりと首だけで振り返ると、光を宿していない沢北の視線に縫いとめられた。
    「――裏山、キツかったですよね」
     ひくり、と喉が鳴った。
     いきなり何を言いだすのか。タイミングも、言葉の意味もこの場にそぐわなかった。
    「……忘れたピョン」
     かろうじて出た声は震えていたかもしれない。キレがない。そう自覚するほど返答は冴えなかった。
     追撃の言葉を浴びるより前に、深津はリビングの扉を後ろ手に閉め、沢北との物理的な隔たりを作った。
     昔馴染みとの気軽な、楽しい夜になるはずだった。しかし沢北の登場によって疲労困憊の一日となり、おまけに最後には爆弾も落された。
    ――裏山、キツかったですよね。
     かつて丁寧に梱包したはずの記憶が、その一言によって無理やりに暴かれた。
     沢北は自分を責めたのだろうか。不可解なタイミングでねじ込んできたところをみると、きっとそうなのだろう。
     高校三年の夏の手前。目を閉じると、あの林の中に響いていた葉の囁きが聞こえてくる気がした。


     その晩はまどろむ程度の睡眠しかできなかった。
     重く痛む頭を抱えた深津が起きぬけに見た沢北は、対照的に良く眠れたようで、爽やかな笑顔で「おはようございます!」と言い放った。健康的な顔色をする沢北を前に、ギリギリと締め付けるような頭痛を抱えた自分が間抜けに思えた。
     朝飯一緒に食いません?という気軽な誘いをすっぱりと断り、沢北を玄関に追いたてる。また暫く会えなくなる後輩だ。駅まで送るぐらいはしても良いのだろうが、そんなことをする気にはなれなかった。
    「これ!返しますから!」
     着ている服を掴んで手を振る沢北をしっしと片手で追い払う。
    「捨てろピョン」
     小さな呟きは聞こえなかったようで、沢北はニっと笑ってエレベーターの中へと消えていった。
     昨晩、寝室を使わせなくて良かった。いつもの柔軟剤の香りしかしないベッドに入り、安心感のなかぼんやりと天井を眺める。
     今後、もう沢北と二人きりで会うことは無いだろう。ズキリとどこかが痛んだが、それが睡眠の足りない頭なのか、胸なのか分からなかった。もはやどうでも良く、痛みから目をそらすように瞼を閉じた。





     大人になってから何度か経験している騒がしさに、引越しかと見当がついたのは朝の九時ごろだった。
     今は所属リーグのオフシーズン。もう少し怠惰な休日を満喫しようと思っていたのだが、張られた人の声に目が覚めてしまった。
     まだ覚醒しきれていない頭で外を見る。うんざりするほどの晴天だった。
     ベランダに出てみると、予想した通り引越し業者のトラックが停まっていて、せっせと作業員が荷物を運んでいる。確か隣にはついこの間まで若い夫婦が住んでいたが、その顔はあやふやだった。東京ではご近所付き合いがほとんどない。その夫婦とも、挨拶を交わしたのは数えられるほどだった。
     暮らして再認識したが、東京には本当に色々な人間がいる。穏やかな隣人か、危険人物か。こればかりは神頼みだ。
     極端にヤバイやつじゃなければいい。希薄な隣人関係になるようにと、後ろ向きな願いを込めてぼんやりと引越し作業を眺めた後、深津は部屋に戻って軽く首を鳴らし、ロードワークに行く準備を始めた。

     自宅の近くには川が流れていて、そこを深津はランニングコースにしていた。毎年春になると桜の名所として賑やかになるのだが、今は七月。人の往来もまばらだった。
     ジワジワと、最近聞こえ始めた蝉の鳴き声が季節の移ろいを知らせる。夏はあまり得意ではないが、チームのクラブハウスに設置されたランニングマシンでは味気がなく、暑さに辟易しながらも外で走るようにしていた。音楽は聞かない。街の音を聞きながら無心に走る時間が嫌いではなかった。
     川べりを一時間ほどかけて走り、帰りに近くのパン屋で朝食を買って帰るのがオフの日のルーティーンだ。パン屋は最近よく見る小洒落たものではなく、老夫婦がひっそりと経営している下町の店だ。懐かしい味を気に入っていた。夫婦は自分を普通の会社員か何かだと思ってくれている点も通いやすかった。
     ビニール袋を提げてマンションに戻ると、業者のトラックは消えていた。家を出てからそんなに時間は経っていないはずだ。随分早い引越しだと思いながら玄関のカギを開けていると、タイミングが良いのか悪いのか、隣から物音がした。
     他人との接触はあまり好まない。一瞬、さっさと中に入ってしまおうかと考えたが、逡巡している内に扉が開き、中から隣人が顔をのぞかせた。
    「お、ナイスタイミング。深津さんおはざまっす」
     まるで以前から住んでいました、という風に声をかけてきたのは、丁度一年前、もう顔を会わせないようにしようと誓った沢北だった。
     ドアノブに手をかけたまま固まる。
    「ここで何をしてるピョン。不法侵入ピョン」
    「合法っす。今日からここに住むんで」
    「……は?」
     やっと捻り出した声は自分でもわかるほど尖っていた。しかし、沢北は構わず、「お引っ越しです」とあっさり白状した。
     咀嚼しようと努力はしたが、十秒ほど反芻しても全く理解不能だ。
    「意味が分からんピョン」
    「こないだ飲んだとき言ったじゃないですか。都内で部屋探してるって。前に来たとき良い場所にあんなーって思ってたんですけど、丁度空くって知って――」
     んで、借りちゃいました、とあっけらかんと言ってのける。だとしても事前に連絡をするとかあるだろう。言いかけて、そういえば連絡先の交換をしていないことに気が付いた。
     ご近所トラブルは避けたい。今朝そう願ったばかりだが、片手間にベランダで祈った程度では神様は聞き届けてくれなかったようだ。そもそも神なんて信じていない。
    「――極端にヤバイ奴だったピョン」
    「なんすか?」
     今悪口言いました?と眉を下げる沢北を無視し、さっさと自宅に入る。
     かつての後輩、沢北栄治は隣人になったらしい。夢であって欲しかったが、一時間ランニングをした後の疲労は嫌がおうにもこれが現実だと突き付けたし、玄関で連打されるインターホンの喧しさは、確実に沢北の仕業に違いなかった。
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    Replies from the creator

    六本線

    MAIKING9月のグッコミの無配です。
    高校生のころに曖昧な関係のまま終わった二人が大人になって再会する話。
    ※中途半端なところで終わります。全体の話の多分三分の一くらい。
    ※鼻血の描写があります。
    no title
     久しぶりの再会、という訳ではない。高校時代、共に汗を流して競技漬けの毎日を戦った友人たちは、バスケットボールの強豪大学に進むものが多かった。試合でことあるごとに顔を合わせていたし、大人になってからも何かしらか理由を見つけて集まっていた。それほど、修羅の日々を三年間最後まで共有しきった経験は強固なものだった。
     店を選ぶのは大概がセンスの良い一之倉だ。大衆的過ぎず、かと言ってオシャレ路線にも振り切らない丁度良いところをつくので、すっかり信頼されていた。
     その日、一之倉から指定されたのは普段よりも高級志向の料亭だった。
    都内一等地の広尾だけあって、金曜の夜なのに周囲の喧騒にはどこか品があった。携帯のマップを頼りに店を探すと、古民家然とした建物の前に着く。控えめな看板には、教えられた店名が達筆な文字で浮き彫りにされていた。仕事の付き合いでこうした落ち着いた店に来ることはたまにあるが、仲間内の集まりで選ばれることはほぼ無いような場所だ。
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