夜中に台所でぼくはきみに謝りたいと酔っぱらうしかなかった ワインオープナーを買った日は覚えていないが、それが無かった日のことはよく覚えている。さっきこの部屋を出ていった男の誕生日だ。タイガはシンクの元で胡座をかくと、調味料などが入った棚を開けた。醤油やソースをかき分けた奥にワインがある。赤。タイガはその名前を知らない。味も、生産地も。ただ、埃っぽくなった深緑のボトルを取り出す。買ってきた日は白もあったが、それは今カケルの家にある。
あいつが合い鍵を置いていったのはわざとだろうけど、コートはうっかりに違いない。今夜の気温は冬に逆戻りしたように寒くなりそうです! なんて天気予報士は言っていたのに。あんな奴――タイガは唸りながらオープナーを取り出した。
「どっかで凍え死んでろ」
一本脚のバレエダンサーみたいな形のそれは手の中で陽気に万歳をしていた。
その日、タイガは普段なら買わないワインを買って自分のマンションに帰った。左手に総菜とワインの入ったビニール袋、右手にケーキの入った箱をぶら下げながら。扉を開けるのにふさがった両手を思い煩うことなく、玄関は開かれた。エントランスですでに連絡していたからだろうカケルは抜け目なく――いつもそうだ――タイガを迎えた。
「ただいまのちゅーは?」
「ねえよ」
「えー」
カズオは荷物で身動きできないのをいいことに顔中をベタベタさわるとマスクを中指で下ろして口づけた。ちゃんと扉を閉めてから。そして、首に腕を回してさっきより深くもう一度。顔を離したり近づけたりするたびに袋の中でボトル同士がぶつかって高い音を鳴らした。
「鼻、冷たい」
「最低気温三度だってよ」
「どおりで冷えるわけだ。じゃあ、玄関で凍え死ぬ前にあったまらなきゃねん」
カケルはひらりと体を離すと、台所へと消えていった。
「タイガきゅん、オープナーってあったっけ?」
総菜と食器を並べて後はワインで乾杯するだけとなったところでカケルは首を傾げて尋ねた。
「んなもん使ったことねえ」
そう答えるとカケルは肩をすくめて両手を掲げた。赤と白のそれぞれの瓶は口に付いたビニルが剥がされている。深緑のガラスと黄緑のガラスの奥には俵型の木のようなモノが埋まっていた。
「あ、コルク」
「そ。タイガきゅんってばドジっ子なんだから」
いいながら深緑のボトルに口を付ける真似をするがもちろん中身は出てこない。たまにタイガがスーパーで適当に買うワイン――だいたい税込み三桁。今回のは四桁した――はペットボトルについているようなキャップで蓋をしているものしかなかったから、そんなことは思いつかなかったのだ。
「どうすんだよ」
それを買ってきたのは自分でオープナーを買わなかったのも自分なのになぜか責めるような声が出た。タイガは口に出してからそれに気づいた。
カケルは静かに瓶をテーブルに置くとそのまま椅子に腰掛けた。真ん中に飾った蝋燭――自分で持ってきたものだ。タイガがそう呼ぶとキャンドルって言って!とごねるが――の火を指でもてあそぶ。タイガもならって向かい合った席に座った。
「いじけないでよ」
「いじけてねえよ」
「コルクを抜く方法なんて調べればいくらでも出てくるって」
カケルは手元の端末をいじるといくつかの記事や動画を開いてみせた。針金ハンガーやナイフを使ってコルクを半ば壊しながら抜く動画に二人はへーとかほーみたいな声を上げて見入った。そして、温め直したはずの手羽先が冷え切っていることに気づいたあたりでやめた。それから小さな画面の上で頬を寄せ合って笑った。
結局、深緑と黄緑の瓶に見守られながら二人で缶ビールで乾杯をした。
「飲んだワインより飲めなかったワインの方が忘れなさそう」
その夜、タイガの腕の中でそう言ってカケルは微笑んだ。シーツの上を手探りで眼鏡を探すその手を掴まえて、タイガは口づけた。キスが終わらないうちに時計が零時だと叫んだ。十二月二十二日から二十三日に日付が変わった瞬間だった。たしかに、今も忘れていない。タイガは台所のマットの上でそう思った。
オレンジ色の衣装を着たバレエダンサーはいろいろあるオープナーの中でもウィング型と呼ばれている。顔みたいな取っ手に両腕のような支え、そして螺旋の脚。その銀色の一本脚をコルクに突き立てる。首にあたる部分を回すと腕がゆっくりと持ち上がる。万歳のポーズになったところで、腕を気をつけの姿勢になるように下げていく。そうすればコルクが抜ける、はずだった。うまくいけば。
突き立てるときに荒すぎたからか、コルクは半分に割れていた。下の方に至っては粉々になってワインに浸かってしまっていた。なんとか無事な部分を無理矢理引き抜くとワインの香りが台所に広がった。タイガは濡れた指をしゃぶりながら、適当にシンクのそばにあったマグカップに注ぐ。水みたいに飲み干すと鼻の付け根がツンと痛んだ。喉が燃える。舌がじゃりじゃりした。コルクの破片だった。眉間に変な力がこもる。もう一杯とつぎながら、それがカケルに贈られたものだと思い出してまた眉をしかめた。
タイガくん、食器もってなさすぎ!
そんな台詞とともに持ち込まれた瀟洒な食器と、自分で買った食器とでタイガの食器棚にはちぐはぐなポートフォリオができあがっていた。薄荷色の厚ぼったい陶器も絶対に自分では購入しないに違いないものだ。マグカップになみなみと注いだ濃紫色の液体を飲み干すことを何回か繰り返すと、タイガは床にへたりこんだ。むっとしたワインの香りが頬を濡らす。そして、なぜ自分がここまで怒っているのかと喧嘩の発端とを思い出そうとして、それが思い出せないほど些細なことだということと、それもままならないほど自分の脳味噌がぐちゃぐちゃに乱れているとわかって目を閉じた。仰向けに体を回転させる。吐き出した息は熱かった。
アルコールがもたらした眠気と戦いながら、タイガはもう一度怒りを呼び起こそうとした。それなのに、浮かび上がるのはカケルとの他愛もない出来事ばかりだった。金縁の皿をレンジに入れて大惨事になったこと、前髪を切らせたら金太郎みたいにされたこと、せっかく買ったのに結局一度しかかき氷機を使わなかったこと、寒がりなカケルのためにこっそり毛布を用意してやったこと。 薄く瞳を開けると、天井が回っていた。怒りの代わりに謝り方を考えようとして瞼と一緒に頭も閉じていった。
「オートロックだからって不用心なんじゃない?」
ワインオープナーがしゃべっていた。タイガは力の入らない腕をのばしてその大きな取っ手に触れた。それはひんやりしていて柔らかかった。なんで柔らかいんだろう。タイガが赤ん坊みたいな手つきで指を動かすと、なぜか体の上に跨がっているらしいオープナーはまた口を開いた。ちょっと、そこ口なんだけど。その声と口調は聞き慣れたものな気がした。
「鍵、忘れちゃったからさ。遅くなった」
その言葉を耳にして、初めて顕微鏡を扱う子供のように、ぐらぐら視線をさまよわせながらようやくタイガは焦点を定めていった。カケルの唇が何か言おうと開かれる前に、手をなんとか挙げて黙れと制す。睨みつけると――視界は半分霞んでいるけれど――カケルは物分かりのいい飼い犬のように腹の上で膝立ちになった。タイガは肘で体重を支えながら上体を起こした。頭が揺れるたびに軋む。
「わるかった」
先に謝れた。タイガはそれだけで脱力すると、再びマットに倒れ込んだ。ただ、呂律の回っていないその声は「あるあった」としか聞こえなかったけれど。
「よくできましたって言いたいけど、俺もごめんね。言い過ぎた」
次はうつぶせにカケルが肘をつく姿勢になる。前髪をかき分けて真っ赤に火照ったタイガの額に子供にするように口づける。小鳥がさえずるような音をさせて唇は額から離れた。それを合図にしてタイガの腕がカケルの首を捉えた。冷えきった肌はかさついている。その感触がカケルが外にいた時間の長さを思わせた。タイガは腕に渾身の力を込めて自分の体ごと時計回りに振る。小さく叫んだカケルにかまうことなく、マットから転がり出た二つの体はフローリングでカケルを下にして静止した。
体温を分けるようにタイガはカケルに体重をのせた。冷えた肌がアルコールが回った体に温められていく。
「タイガってば子供みたい。指までこんなに熱くして」
カケルがそう囁いて握った指はすぐにふりほどかれて耳朶にのばされた。耳朶が温まれば頬に、頬が温まれば鼻を摘まれる。
「冷てぇ」
「冬に逆戻りしたらしいから」
くぐもった声は「うゆにひゃくもおり」になり、「したらしいから」はタイガの舌が掬い取って途切れがちになった。真夜中の台所に酔っぱらいの荒い息はあまりにコケットリーに響いた。しんとした空間にじょじょにもう一つの吐息が混じっていく。
タイガの意識は冷えた肌を撫でるたびに鮮明になっていく。カケルの顔や首が元の体温を取り戻したのを確認すると、セーターの裾を大きく捲る。ストライプ模様が酔っているせいで揺れて見えているのか、元からそういう模様なのか細かい波線がプリントされたカッターシャツ越しにカケルの体温を感じて安堵した。
「温めてくれるんじゃないの?」
「あたためてる」
寒いじゃんと口をとがらせながらもたくしあげられたセーターを自分で首から抜くと、そのまま放り捨てる。
胸の上に頭をのせてタイガは肩で息をした。どくどくと心音が聞こえる気がする。カケルが呼吸するたびに体が小さく揺れて船みたいだと思った。馥郁とした香水の香りを肺一杯にすいこんで初めて、自分が酒の匂いをまとっていたことに気づく。ワインと同じでいつまでも名前は覚えられないけれど、それとは違ってタイガにとっては馴染んだ香りだった。同じくらい慣れた指が黒い細い髪を梳く。氷の櫛となった指先が頭皮に触れるたびに身をよじらせた。タイガは前髪をいじる手を今度は払わずに、自分の頬とカケルの胸との間に挟み込んだ。
「人間カイロだね」
「一回千円な」
手の平に唇を添える。土の匂いがした。エントランスの前の花壇に座っていたのかもしれない。出て行ってすぐに追いかければよかった。
カケルが頬とは逆の手をタイガの脇に入れてくる。
「つめてっ」
「こっち来て」
「充分だろ」
「だめ。もっと」
こんなに視界は渦を巻いていて頭の中ではいくつも鐘が鳴っている。体は自分の思い通りに動かないくせに、カズオの言いなりにはなる。バカだバカバカバカ。それは一人でワインを空けたときからそうなのかもしれない。タイガはカケルの腹を這ったついでに、脚を蹴った。それは蹴るというよりは撫でると表現するのにふさわしいくらいの脚力だったけれど。
そんなタイガにおかまいなしにとけそうな潤んだ瞳めがけてカケルの唇が目尻に飛んでいく。タイガは乾燥していた唇がいつの間にか濡れていることに気づいた。眼鏡が変わっていることにも。いつからだろう。
「今のも千円?」
「お前、眼鏡変えたんだな」
「え、あー、うん。まぁね」
目を見開いて驚いた顔をしたあと、カケルはもう一週間も前からだよとからかうように言った。オープナーも花壇も眼鏡もいつもこうやって気づくのに遅れている気がする。
「……もう帰ってこないかと思った」
「……俺も待っててくれてなかったらどうしようかと思った。実際は待ってたっていうより酔ってた、だったけど!」
「わるかった」
「あのやんちゃだったタイガきゅんがこんなに素直に謝ってくれるなんて。しかも二回も。カケルくん、感激」
「うるせえ」
「うそうそ。……俺こそごめん」
さっきとは逆に、カケルがお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるようにタイガを左側に押した。ベッドの代わりにマットが二人を迎える。並んで寝転ぶには狭すぎるベッドではあるけれど。
「ごめんねついでにちゅーしてもいい?」
「一回千円な」
「じゃあ後で百万円、キャッシュで払うから」
「それ何回分なんだよ」
「自分で計算してくださーい」
一瞬の沈黙のあと同じ体温の舌が触れあって、時計代わりのキッチンタイマーが十二時を告げた。これは飲んでも覚えてるワインだ。計算なんてとうに諦めた頭でタイガはそう考えていた。