異端者のクリシェ 鏡の前でリボンタイを締める。襟を正して眼鏡を拭いて、皺一つないベストに糊のきいたワイシャツ。袖にアームカバーを嵌めて文机の前に座る。机がずらりと並んだ狭い部屋には紙の束とインクと熔けた蝋の匂い。声を落として話す人々。羽ペンが紙を走る音。文机はいつも判子をつくたびにかくんと揺れた。書類が陽に焼けないように小さく設えられた窓のおかげで建物の中はいつも薄暗い。それでもわたしはこの明るい闇の中にある秩序を好んでいる。いや、愛していると言っても差し支えないだろう。私はずり下がった眼鏡を鼻に押し上げると、次の方と人差し指を掲げながら呼びかけた。
床板を軋ませながら私の目の前に現れたのは、鶲のように薄青い髪をした青年だった。私が椅子を勧めると青年は目礼をしてから席に着いた。
「今日はどのようなご用件ですか」
そう尋ねつつも私は半ば青年が何を欲しているのかの検討はついていた。なにせ、私は役所で勤め始めてもう五百年が経とうとしているのだ。法が増えていくのに合わせて私の鑑識眼も熟練されていった。今ではどの部署だろうと誰が来ようと佇まいですぐにわかる。役人は人間の両親に倣って就いた職だったが魔法使いの自分にとっても天職だったようだ。私は姿を変えながら秩序と法典に重きを置く東の国で人間の何倍もの時間を法と市民に囲まれながら過ごしていた。
「仕事をするための申請をしたいんだけど」
気怠げな青年は見たところ北の国から来たのだろう。質素だが頑丈そうな革の服に同じく革で作られた季節違いの編み上げ靴が青年がどこの出身かを示していた。そしてもう一つ。青年は魔法使いに違いなかった。人口が少ないらしい北の国では気配の隠し方が東に比べればどうしても杜撰になってしまう。彼らは存在を景色に埋もれさせるような獣の隠れ方は巧みだが、人の中に自分を紛れこませる遣り方はあまり達者とは言えない。それでも青年は上手くできている方だった。私は後ろにある書棚から一枚の用紙を取り出すと青年に差し出した。
「手形はお持ちですか」
「ああ」
青年は懐から紐が巻かれた羊皮紙を取り出すと広げてみせた。予想通り青年が北の国の出であることが書かれているそれはしかし、精緻にできた偽物だった。思わず私が目を眇めると目の前の手形が認識できなくなった。文字が読めていないはずなのに、理解したような心持になる。なんらかの魔法だろう。青年を見遣ると平然とした表情で用紙を埋めながらこちらを見つめ返した。どうやら、偽物を提示して疑念を抱かれた時にだけ目の前で魔法をかけているらしい。短時間で緻密にこれだけの術を編めるということは相当器用なのだろう。私はひとまずは気づかないふりをして手形を青年に返した。
「お返しします」
「どうも」
「東の国には出稼ぎに? 北の国は今年も寒波が酷いんだとか」
「まあ、そんなところすかね。いろいろあって」
「いろいろ」がない魔法使いなどきっと存在しないだろう。青年の掴みどころのない表情が一瞬だけ揺らぐ。琥珀色の光彩にほんのりさした空色が小さく揺れる。
「北の国では何をされていたんですか?」
「……料理番みたいなことを」
「では、こちらでも同じような仕事をお探しで?」
「まあ……」
「少々お待ちください」
偽物の手形を持っているということは彼は脛に傷がある身分なのだろう。手配犯かもしれない。念のため、手配書にある名前と特徴を一通りさらう。彼の名前、ネロ・ターナーという文字も鶲の色をした髪についても見当たらなかった。魔法使いにとって姿を変えることは難しくはないが、五百年分の勘が彼は秩序を乱すような人物ではないと告げていた。この一見すると無害そうだがどこか近寄りがたい空気を纏わせる彼に何があったのかは知らない。ただ、ここで力になってやらなければ、彼は姿を消してしまいそうな気がした。この世から。永遠に。
「出稼ぎならこの時期は料理人より麦の収穫を手伝う方が払いはいいかもしれないですよ。人夫が足りないそうでどこも引く手あまたですから。南の若い人なんか、故郷の家族の為にって友人同士集まって集団でいらしてます」
「悪いけど金には困ってないんだ。北に家族も友人もいない」
「そうですか。ではどこか宿屋か料理屋の求人を見てみましょうか」
「いや、できれば店を持ちたい。小さな所でいい。一人でいたいんだ」
青年は記入し終わった用紙を差し出すと小さな窓の向こうを見遣った。沈み始めた夕陽が彼の肌を茜色に染めた。その横顔は涙が流れていないのが不思議なくらいだった。見えない傷が彼を覆っているに違いなかった。
「ターナーさん、一つ提案がございます」
救うまではいかなくとも、彼が傷を癒すだけの居場所を作ろうと私は決意した。法も秩序も傷ついた人々を守るためにあるというのが私の信条だった。魔法使いには時間だけは持て余すほど与えられている。その時間が彼にとって助けになることもあるだろう。
「他国の方が店舗を借りるのは大変困難です。ですが、東の国の国民なら話は別です」
「というと?」
「こちらの手形を破棄して東の国に移住した旨を記した手形を発行します。明後日かそうですね──遅くとも五日後には東の国の国民になれます」
「移住するってことか」
「そうです。この手続きを行いますと、北の国には行くことはできても帰ることはできなくなります」
もちろん、こんなものは人間社会においての手続き上の話でしかない。箒が一本あれば関所などものともせずに、北の国だろうがどこへだって飛んでいける。物理的には。だが、魔法使いは心で生きている。形式の上でも故郷を捨てるかどうかは彼にとって大きな決断になるだろう。
彼は目を伏せて膝の上においた自分の掌を見つめていた。軽く両手を握っては広げる。それから小さく息を吐いた。
「わかった。それでお願いするよ」
私は書棚から紙の束を掴むと彼の前に置いた。他の客はもう帰っており、文机には「受付終了」と書かれたプレートがそれぞれ立てかけられていた。もうすぐ日も暮れる。私は彼のためにランプに火を灯してやる。硝子に映った彼は歪んでいて今にも泣きそうな顔をしていた。実際の彼は無表情で慣れていないのであろう羽ペンを慎重に扱いながら紙を文字で埋めている。
二人だけになった役所にペン先が紙を走る音だけが響いていた。
あれから幾日かが経った。私は相変わらず薄暗い役所の中で法と人々を繋ぐ仕事を続けていた。北の国から来た魔法使い、ターナー氏は無事に手形を受け取って二階に住居スペースがついた店舗を棲家とすることにしたようだった。商売を始めるための煩雑な申請を私は受け持つことになった。ターナー氏は棲家と役所を何日も何回も往復し、役所の一階から三階までを古びた床板を何回も軋ませながらも昇降した。紙の束がいくつもいくつも私と彼の間を行き交い、そしてついに来週が開店日というところまで漕ぎつけた。
私たちは開業申請を間に挟んで、いくらか四方山話をするようになっていた。彼はいざ店を始める時にはどんなメニューがいいかや、彼の得意な料理、故郷でどんな料理を作っていたかなどをぽつぽつと話してくれた。ターナー氏は自らについた傷を忘れるのではなく飼い慣らすことを選んだようだった。彼が見せる優しさの中には卑屈や自虐が含まれており、しかしそれが彼を魅力的な人物たらしめていた。
昼休憩を伝えるベルがジリリと鳴る。休憩の間は窓口も閉鎖される。私は休憩中と書かれたプレートを文机に立てると立ち上がった。ターナー氏も書類を抱えて椅子から腰を浮かせる。私たちは階段に向かって長い廊下をゆっくり歩いた。忙しなく歩く職員や市民が我々を追い抜いていく。
「今までお疲れ様でした。わずらわしい作業ばかりでしたでしょう」
「俺はあんたが言った通りのことをしただけだよ。これを毎日何年もやってる役人さんは大したもんだな」
「好きでやっていることですから。ターナーさんの料理と同じですよ」
「あんた、家族は? 店に来てくれたらサービスする」
「あなたと同じで独り身です。ですが、このことは内緒にしておいてください」
「どうして?」
「同僚達には自分は寡夫で一人息子がいると話しているんです」
「なんでまたそんな面倒臭い嘘ついてんだ」
「この歳で独り身だと、東じゃあ見合いだのなんだの勧められてしまって。そっちの方が面倒ですから」
「あんたも俺と同じで独りの方が楽なタチか」
「ええ」
いつの間にか廊下には私たちしかいなかった。私は歩みを止めた。口を噤むとギシギシと木の板が軋む音と会話の欠片が聞こえてくる。ターナー氏は二歩ほど先のところで立ち止まって私を振り返る。怪訝な顔でこちらを窺っている。階段から聞こえる喧騒がだんだんと遠のいていく。宙を舞った埃が陽にきらめいて星屑のようだった。私たちが二人きりになるのは彼が初めて役所に来た日以来だ。
「人間の中で暮らしていると息が詰まることもある。たとえ自分で選んだ道だとしても」
なんでもない風に言葉を紡いだつもりが、喉は乾き舌はもつれてとても深刻な声音になってしまった。
「毎日、数え切れない人間を相手にしてりゃそういう時もあるだろうな」
彼はわざと明るい声で応えてくれた。このやさしさに背を押されて私は一つの境界線を越えようとしていた。
「そういう時は空を飛ぶんだ。真夜中の運河がいい。誰もいないしせせらぎが音を掻き消してくれるから」
早口でそう捲し立ててから人差し指で眼鏡を押し上げた。賢明な彼は私が言った「人間」の意味を悟ったようだった。一瞬の瞠目ののちに彼は書類を抱えなおして背を向けた。薄青い髪が陽の中で白く輝く。
「疲れた時は試してみるよ」
「困ったことがあればいつでも相談してください」
「ああ」
彼は一度振り返ると眉を八の字にして微笑んだ。眩しかったのか目を細めるとすぐに前を向いた。片手を軽く振ってから小走りで階段を駆け下りていく。喧騒の一部に彼が埋もれた頃に私は大きく息を吐いた。
自分が魔法使いだと誰かに明かしたのは役人になってからは初めてだった。
扉を開けると真鍮のドアベルが揺れて軽やかな音を響かせる。店内には店主以外に人気はなく、色とりどりの陶器のタイルが壁を彩っているのが見渡せた。テーブルの上には逆さにされた椅子が置かれている。
「いい店ですね」
「そうか?」
「なんというかあなたらしい」
「どういうところが?」
「さあ、そこのタイルが欠けたままのところとか……」
「あるものじゃなくてないものが俺らしいときたか」
カウンター越し、厨房の壁に凭れかかりながら店主は手元のワイングラスに白ワインのボトルの中身を注いだ。目元が少し赤らんでいるのは少し酔っているからだろうか。好きなとこ座んなよ。まるで常連客に言うような気軽さで彼は私に席を勧めた。私が逡巡していると、寛ぐ時間もないか。そう言って彼はグラスを一息に干した。
「面目ない」
私はカウンターに着いた。店主の真正面は避けて座る。
「持って帰るか? フリッタータ。たくさん作ったけどこのままじゃ捨てるしかなくなっちまう」
「本当に申し訳ない」
「謝んなよ。あんたには尚更謝ってほしくない」
店主は苦笑して、それから俯いたままグラスを叩きつけるようにカウンターに置く。細い脚が氷柱みたいに割れて、店主の掌を傷つけた。真っ赤な血がタイルの隙間を縫って広がっていく。
「別にいいんだ。いつかこうなるとわかってた」
「ターナーさん……」
役所に魔法使いが店主の店がいると生活安全課に通報があったのが昨日の日暮れごろだった。魔法使いが店主だとわかると東の国では退去することになるのが慣習だった。役所の人間が出向いて形だけではあるが魔法使いかどうかの確認をしてサインをもらう。すべてが形骸化した無意味で無慈悲な決まり事だ。
私はターナー氏に告白してからすぐにそこに異動になった。人手が足りない新しい部署で忙殺されているうちに日は流れ、初めての来店がこんな形になってしまった。
「お客様の勘違いだったと報告します。そうすれば」
「もう噂は回ってるだろ。俺が人間でもどのみち商売はできない」
美しい未亡人がいつまでも若い姿なのはおかしいと糾弾されて街を追い出された事件もあった。東の国で疑いがかけられることは居場所を奪われることと同義だった。
「料理、せっかくだからここで頂きます」
私は血を流し続ける彼の手にそっと自分の手を重ねた。ペンだこができている私の手と、硬く乾いた彼の手はそれぞれの信念が宿っていた。魔力を注ぐと流血した量の割にそこまで深くはなかった傷はすぐに塞がった。ターナー氏はそれを確かめるように掌を握っては開いてを繰り返す。琥珀色の瞳がやわらかく細められた。
「最後まであんたには世話になったな」
「好きでしている仕事ですから」
ターナー氏は布巾でタイルと肌についた血を拭きとると温めたフリッタータを出してくれた。それ以外にも生ハムやワインなどが供される。私は退去に必要な書類の束を代わりに差し出した。彼が陰鬱な書類の数々にサインをしていくのを眺めながら、私は料理を堪能した。こんな時でも食事が喉を通るのはこういうことは東の国で暮らす魔法使いにとって珍しくはないからだった。傷つくことに慣れるか傷つかないようにするか、もしくは傷つけ合うこともないほど人を避けて暮らすしかこの国に暮らす魔法使いには生きていく術はなかった。
卵の素朴な甘みと野菜の旨さが腹を満たす。酒を口に含んだ。上司に小言を食らうのは覚悟の上で直帰しようと思案する。こんな時までそんな世俗的な悩みがよぎる自分の卑小さに虚しくなった。だが、これが生活だった。白ワインは野菜の旨みによく合っていて店主のこだわりを感じた。
「もしよければ、そのキッシュとパイも包んでください」
「あんた細いのにこんなに食えるのか?」
「家に食べ盛りの息子がいますから」
「そりゃ大変だ」
ターナー氏はバスケットを魔法で取り出すと一つずつ料理を詰めていってくれた。喪われることを分かった上で愛着を持つことは難しい。欠けたタイルを一つ埋めることさえできないほどに。おそらく自分で持ち込んだのであろう壁にかけられた調理道具は大切に使い込まれているのがわかった。
私は彼から書類を受け取ると一枚一枚サインを確認した。彼らしい繊細で流れるような筆跡のサインが空白を埋めていた。眼鏡を額に載せると眉間を揉んだ。瞼が熱くなる。それでも涙が流れることはなかった。私も彼も人間の秩序の中で生きるために捨てることを余儀なくされてきた。私たちはそれに慣れ過ぎた。
「最後にあんたに来てもらえてよかった」
サインを確認して書類を鞄にしまう。そして、互いに自然と手を伸ばした。今度は掌を合わせて私たちは固い握手を交わした。
同僚にお爺ちゃんみたいと笑われたベストにワイシャツ。ループタイの代わりに襟にピンを刺すのが今の流行りらしい。壺にインクが十分はいっていることを確認してから、文机に置かれた受付終了のプレートを脇に置く。次の方と人差し指を掲げて呼ぶと、薄暗い待合室から床を軋ませながらお客様がやって来る。父を亡くした娘、手形を再発行したい旅人、法典の内容を確認したい学生。いろんな市民が窓口で自分の生活を守るために相談をしにきた。そして今日現れたのは青い鶲と同じ色をした髪を持つ青年だった。彼とはタイルの欠けた店で握手をして以来だった。あの時の、フリッタータの味が急に蘇ってきた。卵のやわらかさもペアリングしてくれた白ワインの芳醇な香りも。青年が対面の椅子に腰かけると、私たちは声出さずに目を見開いた。それから何事もなかったかのように、彼から書類を受け取り中身を確認していく。青年は何も言わずに机の角に置かれた文鎮を指先で弄んでいた。
「こちらの店舗での営業を申請したいと」
「ああ。これで書類は足りるか?」
「ええ。いや、今年から別の申請書が必要なんですよ。……ああ、ちょっと君、新式の営業届を取ってきてもらえるかな」
私は上半身を後ろに向けて、窓口と書棚の間を歩いていた職員に声をかけた。前に向き直るとちょうど青年の琥珀色の瞳と視線がかちあった。
私は内心では彼が料理を作り続けていることになぜだかほっとしていた。あんなことがあったのだ、辞めていたってなにもおかしくはなかった。私だってあの後は役人を辞めてしばらくは麦を刈る人夫としてあちこちを放浪した。しかし、どうにも紙とインクと市民の中で法と秩序に向き合う生活が忘れられなくて、あの時名乗っていた役人の息子のふりをしてこの役所で働き始めたところだったのだ。
「すみませんね。また新しい法律が増えていろいろ規則が変わったんです」
「この国じゃそういうのは慣れっこだよ」
青年は苦笑すると困ったように首の後ろを掻いた。そして文机に頬杖をついて少しだけ身を乗り出す。彼は文机の角に置かれたネームプレートを確認すると元のように椅子に深く腰掛けた。
「そういや、あんたの親父さんには随分世話になったよ。初めて俺が店を出した時にも面倒を見てもらったんだ」
「そうですか。そう言ってもらえるときっと父も喜ぶと思います」
「いつか店に来たらご馳走する。あんたの……いや、あんたの親父さんが気に入ってくれたフリッタータもあるんだぜ」
「それは楽しみです。具材は?」
「トマトにズッキーニ、ベーコンに──」
「ブロッコリー?」
「あたり」
彼は琥珀色の瞳を細めていたずらっぽく微笑むと、書類に書かれた住所を指で示した。
「店は西の区域の運河の傍にあるんだ」
「あの辺りは風が気持ちいいですからね」
「ああ」
職員が追加の申請書を持ってきた。私たちは一瞬だけ口を噤むと、再びただの役人と市民に戻っていった。私はきっとこれからも明るい闇の中にある秩序を愛し続ける。ネロが料理を作り続けるように。