雨音はいつだって嗚咽を隠してはくれない。声の主はきっと部屋の中で毛布にくるまってぴったりと扉を閉じて泣いているはずなのに、そのすすり泣きはドアの隙間から外に出て廊下に佇む俺にまで届く。そうなれば普段以上に足を忍ばせて歩いていくしかない。芝居ではない女の子の泣き声はわからないけれどここにいる人たちはみんな喉の奥に感情を閉じ込めるようにして嗚咽を漏らす。転んだ時に痛みを我慢するときのような、殴られたのに何も言えないときのような、そんな声で涙する。孤独は親元を離れて一人で闘う彼らをこんな風にして急に襲う。仲間たちと同じ屋根の下にいるとしても、決して諍いがあるわけではなくても。そして、夜に降る雨がこれらの音を掻き消してくれるだろうという少年たちの甘い期待はすべて裏切られるのだ。
この声を聞くことになる日は大概仕事で疲れ切っていて自分もつられて涙しそうになる。だから、足音を立てないようかつ素早く自室を目指す。それから誰にともなくおやすみを告げて俺は眠る。雨粒がガラスを叩くのを聞きながら。
その部屋から久しく聞くことのなかった音を聞いて俺は思わず扉を開けてしまった。隔てていた壁がなくなったことでより鮮明になった彼の嗚咽は獣の唸り声にも似ていた。部屋の主は突然の闖入者に身構えながら体を起こした。彼が息をのむ。喉がぐる、と鳴ると後はうるさいぐらいの雨音が部屋を満たした。
「なに」
「タイガ」
「……なんか用かよ」
「ごめん」
「用がないなら出てけ」
「魘されてたから」
唇を噛んで黙り込むと頬が一筋濡れるのがわかった。暗闇の中でもどこかに光があって、よりにもよってそれは隠したい部分だけを照らす。
「だって、お、れの。俺のせいで」
「もういいから」
思わずベッドの傍に駆け寄ると肩を抱いてそっとマットレスに押し倒した。
「ほら、寝よう」
床に膝をついたままじっと待った。タイガの頭を抱えたまま動かずにいた。何を待ったのかはわからない。泣いていた体は熱くて濡れた頬が俺の髪を湿らせた。頬を涙が幾筋も伝っていくのがわかる。静かに動かずにいたタイガは急に俺を押しのけて掛布団を頭まで被るとごめんと謝った。右手だけが布団の中に残された。
「いいんだよ」
タイガを慰めるための言葉を俺は持たない。俺だけではなく誰も持ち合わせない。自分で飲みこんでいかなければならないことが俺達には多すぎて、だからこうしてたまに涙する。人差し指が頬に触れる。眦まで指を伸ばすと熱湯のような涙がまた零れた。あの日、タイガは俺の肩でも泣いた。熱く濡れた自分の肩を思い出す。感情ごとあふれ出すそれは雨とは違って俺の肩を布越しに灼いた。
「あの日のこと、夢に出てきた」
「そっか」
「悔しくて」
右手に恐る恐る左手が重ねられる。頬と違って乾いた肌が甲を撫でた。くぐもった声にぐるると嗚咽が混じる。
「もし俺が……」
「あれえ、そんなこと言うお口はどこかにゃあ」
頬をかるく抓るとおいと怒鳴りながら布団の塊がもぞもぞと上下した。顎の下をくすぐるとしゃがれた声が笑い声に変わっていく。
「やめろってば」
タイガは布団を自分でめくると俺の手を追い出した。汗と涙で髪が肌にはりついている。薄い瞼は腫れていて重そうに瞬きを繰り返していた。
「次はいい夢だといいね」
「ん」
泣き顔を見ないようにして窓の外に話しかけるように声をかけた。ガラスにぼうっと俺の白い顔が浮かんでいる。今夜は降り続けるだろう。
「おやすみ」
「おやすみ」
布団から伸びたタイガの腕が軽く揺れて、廊下に出た俺を見送った。しんと静まり返った廊下に雨音が響き渡る。雨音だけが。羽毛で自分をくるみながら俺は今まで手を差し伸べなかった彼らの分まで安眠を祈った。おやすみなさい。まどろむ意識の中では、落ちる雫は優しく歌うように窓を叩いていた。