昏い深海の底から フォンテーヌの民は昔から「メロピデ要塞は恐ろしい場所だ」と口にし、子供達へ悪さをしないようにと言い聞かせてきた。
一見するとどの国でもありがちな、子供を叱りつけるための文言にしか聞こえないだろう。
しかし、この国ではその言葉の通りと言ってもいい。
そもそもの話、メロピデ要塞という場所はこの国で犯罪を犯したものが行き着く監獄である。
元々は流刑地として利用されていた名残であり、今現在もフォンテーヌから独立した領地として扱われている、言わば治外法権の場所だ。
これだけでも十分子供を躾けるための脅し文句にはなるのだが、フォンテーヌ人が真に恐れるのはそこでは無い。
彼らが恐怖するもの。それはメロピデ要塞の管理者であるとある男のことを指す。
彼の現れは五百年も前に遡る。
水神フォカロルスの招待を受け、昏い深海から参った異形は彼女からこの国で暮らしやすいようにと最高位の爵位を戴き、最初こそ貴賓扱いで水の上で生活をしていた。
人間達も人ならざるものとは思えない整った甘い容姿と品のいい立ち振る舞いをする彼に警戒心を溶かされ、新たな国の重鎮として迎え入れる空気を作っていたのだ。
あの日までは。
公爵の位を戴いた異形には、彼の美丈夫さには似つかわしくない愛らしい眷属がいる。
彼女達が何者なのかという詳しい経緯は省くが、そんな公爵の眷属達がある過激な団体に害されるという事件が起きた。
彼らはどうしても神ではない『人ならざるもの』が受け入れられず、公爵やその眷属達を追い出そうと躍起になっていたのだ。
人間に傷つけられ、それでも人間と共にありたいと嘆く眷属を見て、公爵は動いた。
翌日の過激派団体の本拠地だった場所は真っ赤に染まり、見せしめと言わんばかりに幾人かの首が解けぬ氷柱に串刺しにされている。
あまりにも凄惨な現場に調査に訪れた特巡隊は何人も胃の中のものを吐き出し、中には一生のトラウマになったものもいるらしい。
こうしてフォンテーヌ中に公爵の機嫌を損ねればどういう末路を辿るのかが知れ渡り、公爵にも人間が如何に愚かで卑怯な存在であるかという印象を植え付けてしまった。
そもそも人間に対して嫌悪感のあった公爵だが、自身をわざわざ招きたいという水神の礼儀に免じて水の上に赴いたまで。
彼女が庇護している人間、ひいてはその人間の手綱を握れなかった水神が自分への礼を欠いたとなれば、ニコニコと笑って接してやる義理もない。
一触即発の事態へとなったのだが、機転を聞かせた水神による一部領土の譲渡、つまり現在のメロピデ要塞がある地域を明け渡す事で何とか事なきを得た。
公爵は眷属達を引き連れ自領土となったメロピデ要塞へと籠り、互いに不可侵の条約と、水神と一応の協力関係を築いている証として罪人の受け入れを締結した。
…以上が、フォンテーヌにおけるメロピデ要塞とその管理人の歴史になる。
あの悲惨な事件から何百年も経っている今では主からの許可が得られたのか、ちらほらと眷属達の姿がフォンテーヌ廷内で見られるがやはりどこか人間を警戒しているようにも思える。
本当ならば『来る日』の為に協力して貰うべくわざわざ深海から呼んだというのに…と、今日に至るまで水神は頭を抱え続けていた。
ーーまあ、元から水神と公爵の相性はさほど宜しくは無かったのだが。
水神は中々腹の中を明かしてくれない公爵に対してぞわりとする不信感があったし、あの笑っているようで笑っていない黒々とした瞳が苦手だった。
公爵だって何か『重要なこと』をひた隠しにし、手の内を見せようとしない水神に対して心を開くことはない。
少しずつ広がっていた溝が、あの事件をきっかけに明確になってしまった。
今はもう、簡素な手紙のやり取りを数年に一度するかしないか位の関係性だ。
水神……いや、フリーナは「どうしてこうなったかなあ〜…」とボヤきながら、水の下に新しい『最高審判官』が就任した旨の手紙をしたためた。
「『君の”王国”に人を送るかどうか決める大事な人材なんだから、挨拶くらいしなよ』か……。嫌な書き方をするな、相変わらず。」
読み終えた手紙に霜が降り、ぴしりと音を立てて砕け散る。
はらはらと氷の結晶に変わった紙片はあっという間に溶けて消え、元がなんだったのか何も分からなくなってしまった。
数十年に一度、この国の司法を司る最高審判官が代替わりする度に届くお知らせの手紙。
手を替え品を替え、どこか嫌味っぽい文言が付いてくる辺り、彼女も『例の事件』について腹に据えかねているのだろう。
「ま、赦せないのはお互い様ってことだな。」
どんなに表向きは仲良くしようと努めても、心の深奥の感情には逆らえない。
こちらが人間に興味なんて無く、関わる気が一切ないのを知りながらもこんな手紙を寄越すのがその証拠だ。
当てつけ、恨み言、挑発……かの少女神は臆病に見えて、五百年生きてきたと思わせてくれる鋭さがあった。
件の新しい最高審判官については、最近連れてこられたばかりの囚人や看守の噂話で聞き及んでいる。
まだ歳若そうな男で、冷たい印象を受ける美形。
四角四面で驚く程公平、公正さに拘る人物らしく、あの囚人ら曰く「生きた諭示裁定カーディナル」との事。
それだけ彼の判決とカーディナルの意見が一致しているという事であり、彼がどんな証拠や意見も取り逃すことなく真実を見据えているかを示している。
まだ就任して二、三年の新任ではあるが、その間違いの無さに国民からは尊敬と畏怖の目で見られているらしい。
「公正無私の最高審判官様ねぇ……。そういうのはやり始めた頃だけさ。どんな人格者であれ、何れは腐っていく。」
つまらなさそうに呟いた言葉を、眷属の一人が掬い上げた。
「あら、そうかしら?」
「なんだ、看護師長。あんたはそう思わないって?」
ぴょこんと可愛らしい耳を動かした『看護師長』はなんだか楽しそうに笑う。
「この前、公爵の許可を貰ってフォンテーヌ廷に行った時、その最高審判官さんに会ったのよ。」
「へぇ。」
「あの人、遠目からでも分かるくらいすごく綺麗な魂をしていたわ。他のメリュジーヌ達もその事が分かってるみたいに、あの人には積極的に挨拶に行っていたのよ?」
「そうか。」
「うちも他の子を真似して声をかけてみたのだけど、とても優しく返事を返してくれたのよ!あの声と表情ができる人が、将来腐ってしまうなんてとても思えないわ。」
「ふぅん。」
気のない返事ばかりだったからだろう。眷属である彼女はぷっくりと頬を膨らませて怒り出した。
「ちゃんと聞いて欲しいのよ!」
「……聞いてただろ?看護師長達は新しい最高審判官が気に入ったんだな。」
公爵の言葉に彼女は大いに頷く。
「ええ、とっても!公爵にも是非会って欲しいくらい!」
看護師長の赤い瞳がきらりと光り、期待の眼差しが突き刺さる。
……眷属達は無垢で素直である分、時折こういった純粋さで主を突き刺してくることがある。
しかもここにいる看護師長には色々とあって、主である公爵も中々頭が上がらない相手。
彼女が強く望み、満足するのならそのためだけに最高審判官に挨拶するのも、まあ…良いだろう。
机の引き出しから便箋を取り出し、気に入っている赤黒いインク瓶の蓋を開けた。
宛先は新しい最高審判官、ヌヴィレット……先ほど溶かしてしまった手紙に書かれていた名前。
丁寧に封筒に仕舞い、公爵の紋章の着いた封蝋印で閉じる。
「これ、持って行ってくれ。」
「任せてちょうだい!ふふ、きっと公爵もあの人の事好きになるわ。」
何を根拠にそんなことを言うのか分からないが、姉のような存在が楽しいのならそれでいいだろう。
どうでもいい人間に会うのは非常に面倒くさいが、一度決めたのなら最後までやりきるべきだ。
はぁ…と、どこか重たそうに公爵の影が揺れた。
麗らかな午前。水の上、エピクレシス歌劇場の一室。
そこで当代の最高審判官であるヌヴィレットは客人を迎えていた。
テーブルを挟んで向かい側、『表面上』はにこやかに見える男を見据える。
「わざわざ遠い深海から御足労頂き、感謝する。今日、貴方とこうして茶の席を設けられたことを嬉しく思う。」
「ご丁寧にどうも、最高審判官様。だが、俺に気遣いは不要だ。」
声色だけは柔らかく、公爵は冷ややかに告げた。
決して笑ってなんかいない瞳には、嬉しいだなんて嘘をつくなとハッキリ書いてある。
「嘘でも嬉しいって言うんなら、顔もきちんと取り繕うべきだろう?そんな真顔で言われちゃあ、信じようにも無理がある。」
吐き捨てるように言われた言葉にヌヴィレットはハッとした様子で己の顔を触った。
表情こそ少し目を見開いただけで変わりは無いが、なんだかオロオロと焦る幼子の様だ。
彼はバツが悪そうに目線を足元に向け、ごにょごにょと話し出す。
「す、すまない……!フリーナ殿にも指摘されたのだが、どうにも私は表情を作るのが下手なようで…。不快にさせてしまったのなら謝ろう……。」
声が悲痛だ。
これは本当に、相手に不信感を抱かせてしまってショックを受けている。そうとしか思えない沈みようの音をしている。
あまりの焦りっぷりになんだか公爵は相手が可哀想に思えてきた。
生真面目な性格とは聞いていたが、こちらの言葉に対してダメージを負いすぎていないか?
公爵としてはちょっとしたジャブのつもりでも、相手には致命傷に近いらしい。このまましょもしょもと縮こまられても気分が悪いので、とりあえず慰めることにした。
「あー……いや、うん。嬉しいって言うのが本心ならいいよ。というか実はそんなに気にしてないし……。」
甘いものでも食べて落ち着きな?とテーブルに並べられていたムースを差し出してみる。
「あ、ああ……頂こう……。」
素直に受け取り、はむっと一口美味しそうに食べ出す。
彼はムースが好きなのだろうか。なんだかとても嬉しそうなオーラが出ている。
甘味を摂取しているからか段々と落ち着きを取り戻し、緊張感もほぐれていっている相手を見ながら公爵は紅茶を口にした。
こうしてじっくりと観察すると、眷属が言うようになんとも透き通った魂を持っているのが分かる。
先程の反応のこともあって、直ぐに帰ってしまうのは勿体ない気がしてきた。
見ていて放っておけないと言うべきか、面白いと言うべきか。
ムースを食べ終えなんだかご満悦そうな最高審判官の次の動向を伺った。
「美味しかったかい?」
「うむ。やはりフリーナ殿がおすすめするデザートにはずれは無いな。」
「アレ……じゃなかった、水神様が選んだのか。これ。」
「…………私は法についての知識以外は浅識故、度々客人向けのデザートや茶葉などのチョイスを頼んでいる。」
気恥ずかしさからへにゃり…と下がる眉に、緩く弧を描く口元。
そのささやかで柔らかな顔を見た瞬間、公爵の胸に強い衝撃が走った。
素朴で飾り気のない、素直な表情と感情。
透き通る魂の発露とも言えるその照れた様子に、男はグッと心臓を掴まれてしまったのだ。
奇しくも看護師長の言った通り、というべきか。
今日であったばかりで「ハイ、好きになりました」と言うのは悔しいので、公爵自身が認めることはしないが。
何せ相手はずっと嫌悪していた人間。人ならざるものとしてのプライドがある。
……と、言ってもこの胸の高鳴りようでは直ぐに認めざるを得なくなるだろうけれど。
「公爵殿は、」
「リオセスリ。」
「え?」
「リオセスリって呼んでくれ。」
突然の申し出に目を丸くしつつも、ヌヴィレットは柔軟に対応してくれた。
「……リオセスリ殿は、どうして私と面会を?」
当然の疑問だ。
今まで数百年も自領土に引きこもり、どんなに水神から呼び出されても無視していた公爵が自分に会いに来た、となれば不思議がってもおかしくない。
理由が理由だから誤魔化しても良かったが、この人間相手には嘘をつきたくないと思ってしまった。
「看護師長……俺の眷属の一人に、今回の最高審判官には会ってみたらどう?って強く勧められたんだよ。それで…。」
「なるほど……。貴方は自身の眷属の事を大切にしているのだな。」
感心したように呟かれた言葉に驚いてしまう。
自分の中では、姉のような眷属からの圧に負けてどうしても…という気持ちが強かったからだ。
彼女が少しでも満足し、小言を言わないのなら。そんな気持ちでいた。
だから、大切にしていると言われたのが予想外だった。
「眷属殿の言葉を信じ、会って欲しいという願いを叶えようとした。とても優しい主である証拠だと、私は思う。」
「そう、か?」
「少なくとも、私はそう感じた。」
真っ直ぐにこちらを見つめる原初の海を感じさせる瞳。
その海に浮かぶ白い星が眩しいくらいに煌めいている。
とても、きれいだ。きれいで、見ていられない。
「あ…すまない、リオセスリ殿。私はそろそろ仕事に戻らねばならない…。」
ポーンポーンと鳴り響く置時計の音が鳴り響き、ヌヴィレットは申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「いや、大丈夫。あんたが最高審判官として忙しいのに無理やり呼び出したのはこっちだしな。」
水神が外交等の仕事以外はあまり国政に関わっていないのは知っているし、きっと彼も歴代の最高審判官と同じ様に司法以外の仕事も請け負っているだろう。
水の上の内情を知っている以上、長く引き止めてしまうのは良くない。
今日はこれにて解散だ、と公爵は最高審判官をエスコートするように扉を開いた。
「感謝する、リオセスリ殿。……もしも機会が頂けるなら、もう少し落ち着ける時に貴方と話がしてみたい。」
「……考えておくよ。」
ふっ…と微笑んだヌヴィレットの首元で、水神からの贈り物が牽制するように光を反射していた。