大正浪漫🏛🌱華やぐ帝都は中央区よりやや西へ。
人の声に賑わい政に商いにと忙しない通りを路地へ逸れると、立派な塀に囲まれた和洋折衷の豪邸が見えてくる。門構えと母屋は和風、離れと庭は洋風の家だ。
庭師による手入れがされた庭は、塀の外から覗いただけでもわかる程、季節の草木が青々と輝き花々が彩りを添えて大変見事なものである。
通常、こうした大きな屋敷であれば奉公人の声や家人客人の気配が常にあるものだが、この屋敷に関してはむしろ、人の手が入っているのに人の気配がしない。
そもそもが、家主であろう男が出入りする以外では殆ど人の姿を見ることもない…、とは近所の家の者の話だ。
「あの家は幽霊屋敷で主人は幽霊と暮してる、なんて噂もあるから気を付けなよ兄ちゃん」
「はは、ありがとうございます」
大きなトランクを抱えた書生風の男は、親切に道を教えてくれた酒屋の店主に礼を言うと、件の屋敷に向かって歩き出す。
少しすると門扉の前に着いて、男は足を止めると外套のポケットから一枚の手紙を取り出した。
宛先は『カーヴェ』、差出人の名は『アルハイゼン』と書かれている。これは現在目の前にある豪邸の主であり、男……カーヴェの後輩から届いた手紙だ。
彼とは学生時代には親しくしていた時期もあったが、仲違いをしてからはもう何年もやり取りなどしていなかった。
だと言うのに、数日前に突如届いた手紙には、要点だけを綴ったシンプルで事務的な文章が並んでいた。
カーヴェは、この手紙の内容に従って、かつての後輩の家を訪ねてきたところだった。
「ごめんください」
固く閉じた門扉を叩いて声を掛けてみる。
「はぁい、少しお待ちになって」
少しの間の後、女性の声が返ってきた。少しばかり嗄れた、老婦人のような声だった。
閂の外れる音がして、直後にゆっくりと門が開かれる。
顔を覗かせたのは予想した通り老齢の女性だった。
「お待ちしておりました。カーヴェさん、ですね」
柔和に微笑んだ女性は、カーヴェの返事も待たずに彼を屋敷の中へと促した。まるで、誰が来るのか最初から分かっていたかのように。
戸惑いはあるものの案内に従って歩を進め、話好きなのか訥々と話をしてくれる女性に相槌を打ったりしていれば、応接間だろう部屋へ通された。
いつの間に用意していたのか、テーブルの上には湯気の昇るコーヒーカップと小ぶりなパンケーキの乗った皿が並んでいる。
「坊ちゃんはもうすぐ来ますから、召し上がってお待ちになってくださいな」
「えっ、あの」
「では、ごゆっくりどうぞ」
「あ……」
無情にも1人で残されることになった部屋の中は、大窓から庭が一望できて、低いテーブルとソファがある他には大して物のないシンプルさだった。
余白が多く取られ、フローリングと柱以外は明るい色で纏められているから、実際の大きさよりも広く感じる。
カーヴェは落ち着かない気持ちを隠せぬまま、一先ずソファに腰掛け、卓上に鎮座しているパンケーキに手をつける事にした。
ちょうど小腹が空いていたし、何よりもせっかく用意してくれたのだから、美味しいうちに食べるのが礼儀だろうと思ったからだ。
添えられたカトラリーを手に取りナイフを入れると、パンケーキは刃の形に沿って沈み、面白いほどスルスルと切れた。
大体1口大に整えた欠片をフォークで口に運べば、ふわふわと柔らかく甘塩っぱい風味が広がっていく。
バターの濃厚さに、チーズだろう塩味とメープルシロップの甘さが絡んで、優しくも豊かな風味が食感と相まって舌を楽しませる。
もっと欲しいと鳴いた腹を満たすように夢中で食べ進め、時折カップの中身を啜った。
香り高く風味の良い珈琲は豆の鮮度を物語り、カーヴェは己に供されたものが随分と質の良いものばかりだと悟った。
まさか、あの後輩にここまで饗されるとは思っていなかった。喧嘩別れをした相手に良くするなど、何か裏があるんじゃないかと訝しんでしまう。
答えの出ない事に頭を悩ませていれば、前触れもなく扉が開かれ、カーヴェは肩を跳ねさせた。
「……元気そうだな」
「うわっ、あ……き、君もな」
すん、と澄ました顔で部屋に入ってきたのは、記憶よりも幾分体格が良くなり大人びた後輩、アルハイゼンだった。
面影は確かにあるのだが、すっかり青年となった彼の姿がカーヴェの記憶と重ならず、どうにも知らない人のように見える。
彼の家を訪ね待っていたのだから、入ってくる人物など他に居ないのだが、それがなんだか落ち着かなかった。
つまるところ、喧嘩別れした友人だった相手との久方ぶりの再開に、カーヴェは柄にもなく戸惑っていたのだ。
それでも何か言わなければと、アルハイゼンが目の前のソファに座ったのを見ると口を開いた。
「っ手紙! 読んだよ」
「だろうな。そうでなければここに君が来る事は無かったはずだ」
「そ……れは、そうだけど……」
「それで? 手紙を読んで訪ねてきたと言うことは、内容に同意したと捉えていいのか?」
「あっ、そう! それだ! 僕はその事について詳しい話がしたくてわざわざここまで来たんだ!」
何度も読んでシワの寄った手紙を卓上に置くと、便箋を広げて中身に目を向ける。
改めて見ても飾り気のない文章の、シンプルな手紙だ。
細くて流れるような文字で綴られているのは、カーヴェの現状に対する提案と、承諾するなら以下の日の何時に何を持参してどこへ来いという、まるでチラシか?といった内容である。
「まず、何故君が僕の現状を知っている? 僕らは何年も……その、音信不通だっただろ。そもそも、僕を匿う代わりに屋敷の手入れを手伝え…って、わざわざ僕に頼まなくてもいい事を提案してまで匿ってくれようとしている意図が分からない」
カーヴェは現在、建築デザイナー兼臨時講師の職に就いている。帝都随一の学舎である教令院の栄誉卒業生としても名が売れており、今最も人気のある建築デザイナーだ。
それ故にファンも多く、教壇に立てばその講座は立ち見が続出し、本人の見目の良さも相まって男女問わず近付いてくる人間が後を絶たなかった。
本業の依頼も途切れることは稀で、独立してからというもの敏腕デザイナーとして順風満帆な日々を送っていた。
しかし、近頃は熱心なファンからの出待ちや押しかけが相次いでおり、家でも職場でもなかなか心休まる時間を作れなくなっていた。
外面のいい彼は律儀に対応してしまう為、必然的にその分プライベートな時間が削られる。
そのしわ寄せにより徐々に窶れていたのだが、そんな折に届いたアルハイゼンからの手紙には「現状を変えたいなら手を貸そう。家の管理を任されてくれるなら、最適な環境を用意できる」と書かれていた。
「ふむ。まず、何故現状を知っていたか……に関しては、俺の職業が関係する。君は今、教令院の臨時講師だろう。俺はそこで事務員をしているんだ。毎度、君の講義は盛況のようで何よりだ」
「え、そうなのか? 君が事務職ねぇ」
「そうだ。まぁ、多少付随するものはあるかもしれないが」
「そ、そうか……」
「次に何故君に提案を持ちかけたか、だが……」
どんな要求を突き付けられるのかと、カーヴェは知らず喉を鳴らす。もしかしたら飲み込んだ音がアルハイゼンにも聞こえたかもしれない。
膝の上で握った手のひらには汗が滲み、無意識に背筋が強ばった。
少しの間考え込むように黙っていたアルハイゼンだったが、言葉が決まったのか顔を上げるとまっすぐにカーヴェを見据えて口を開いた。
「1つは君以上にこの家を良くする為の知識を持っている人間を知らなかったからで、1つは君にまともに仕事をして欲しいからだ」
「はぁ? 僕がまともに仕事してないって言いたいのか君は!?」
「少なくともここ最近の君の仕事ぶりはまともではなかっただろう。おかげで事務方にも君に関する講義以外の問い合わせまでもが寄せられていて迷惑だ」
「な、な……っ、」
「それに、今のままでは君の理想とする生活が破綻するのも近いんじゃないのか」
「っ……」
生活の破綻。その話をされては、直前まで浮かんでいた文句の数々は一瞬にして霧散させるしかない。
事実として、今現在カーヴェの生活は脅かされており、決して健全な状態ではなかった。
昼夜問わず職場にも自宅にも押しかける人々。終わらない仕事に迫る納期。ワガママなクライアントとの打ち合わせで減る猶予…………。
自分で選んだ道とはいえ、今、本来なら必要のない苦労を背負っているのは明らかだ。
その原因が何かも、本当はわかっている。分かっているが、それを認めてしまうのは自分を慕ってくれている人達に対して不誠実な気がして、見ないふりをしてきた。
けれど、ここまで言われて眼前に突き付けられてしまっては、もう目を逸らす事は出来ない。潮時という事なのだろう。
「……わかったよ。確かに君からの提案は僕にとって破格だ。正直、有難くって仕方ない」
「では、交渉成立だな」
「あぁ」
「念の為簡易契約書を作ってある。確認して問題がなければ判を押してくれ。それが済んだら合鍵を渡そう」
「うわ、用意周到だな……まぁ、助かるよ」
こうしてカーヴェとアルハイゼンの、奇妙な同居生活が幕を開ける事になった。
……この時はまだ、カーヴェも、アルハイゼンすら予想もしていなかった。2人の行く末が、どうなるかなんて。