露払いその日は最高気温が40度近くを記録する酷く暑い日だった。
何故そんな日にフィールドワークを決行したかと言えば、今回の調査の目的が「特定のポケモンの猛暑下での行動調査」であったからだ。成果は上々。これまでのデータとはやや異なるケースも観測できて、ジニアとしては汗だくで駆けずり回った甲斐があったというものだった。
「付き合わせてしまってすみませえん」
「いえ、…行きたいって言ったのはボクの方なので…ありがとうございます」
リュックから取り出したペットボトルを渡しながら謝るジニアに、座り込んでそれを受け取ったピーニャは苦笑いで応えた。
地上の熱気から逃れるため一時的に入った洞窟は、深いところまで降りればひんやりとした空気が漂っている。
頭から水をかぶったように汗をかいているピーニャが熱中症になってはいけない、とアカデミーに戻る前に一旦休憩を促したのはジニアの方だ。
水分補給と上がった体温を落ち着かせるために訪れた場所は、好戦的なポケモンも少ない静かな地下だった。
両手で水を持ったピーニャの隣に座り、自分もペットボトルを傾けながらスマホロトムを呼び出して集めたばかりのデータを確認する。
そんなジニアな横顔をぼんやりと眺めていたピーニャが、一向に水を飲もうとしないことに気付いたのは数分後だった。
「…大丈夫ですかあ?」
「?」
隣を見れば、赤い頬にまだ汗が流れているピーニャが不思議そうな顔で見返してきた。
「お水、飲めないくらい疲れてます?」
もしや意識が朦朧としてきているのだろうか、という懸念からスマホを閉じて隣に向き直り反応を伺う。
「あ……、いや、そういうわけじゃ、」
ジニアの心配が伝わったのか、気まずそうに顔を伏せたピーニャが手にしたペットボトルを見て眉を寄せる。
「水分取らないと倒れてしまいますよ」
「はい…」
「……本当に大丈夫?」
俯いた頬に触れる。
ぴくりと跳ねた肩と、熱を持った肌にジニアの表情が曇る。
「教師」としてではなく、「研究者」として行うフィールドワークに生徒であるピーニャを連れてきたのは、彼がただの「生徒」ではないからだ。
アカデミーとしては休日に当たる日に約束を交わして一日を共にするということは、つまり、そういう関係だということた。
まだその関係となって一月ほど。お互いの多忙もあってなかなかふたりの時間ができない中で、予定を合わせて過ごすことにした今日だった。
結局はジニアの仕事の延長線となってしまうのだが、ピーニャが「研究者モードのジニアさん、好きですよ」と言ってくれたのでどこかむず痒い気もしながら半日を過ごした。
「だい、じょうぶです」
「あんまりそうは見えないですけど…」
ペットボトルに触れている指先が小さく震えているのを視界に入れながら、ピーニャの状態を確かめようと首元に手を当てる。
「あの、本当に、…」
脈が早い。汗も一向に引く様子もない。
これは悠長に休んでいるより早く救急にかかったほうが良いかもしれない、と考えた時。
「違うんですっ、」
焦ったようにジニアの服を掴んだピーニャが声を上げた。
「ピーニャくん?」
「ちが…あの、具合悪いとか、ではなくて」
ジニアの腕を掴んで項垂れるピーニャの小さな声が辛うじて耳に入る。
「飲め、ないん…です」
「うん?」
思わず聞き返すと、満タンの水が揺れるペットボトルを握り締めながら顔を隠すように額に手を当てて繰り返した。
「水……ひとり、で、飲めないん、です」
その声は震えていて、とても冗談を言っているような雰囲気ではなかった。
恐らくただの好き嫌いの問題でもない。
「『ひとりで』…?」
「…………、はい」
そう言えば、彼が「水」を飲んでいるところは見たことがなかった。
たまに見るのは炭酸飲料や、ジニアと会う時は合わせてくれているのかコーヒーが多かった。喫茶店などで出される水に手を付けているところは、見たことがない。
ひとりで、と言った。すぐに思い浮かんだのは、赤子がされるようにコップに手を添えて飲ませる姿だ。勿論、ピーニャは立派に自立した青年だ。水以外であればごく普通に飲み食いしているところは知っている。では、どういう意味?
ジニアが考えを巡らせている一瞬、手を降ろしたピーニャはいまにも泣き出してしまいそうな顔で戦慄く唇を開いた。
「きもち、わるいのは…わかってるんです、が、」
首に添えていた手を思わず頬に滑らせる。
涙は流していないが、その目は今にも崩れ落ちてきそうだった。
「……くち、で、のませて、もらわないと、…だめ、で」
「くち…」
「ごめん、なさい、気持ち悪いですよね、あの、」
くしゃりと歪んだピーニャの表情に、その手の中にあったペットボトルを奪って蓋を開けた。「あ、」という声は無視して、中身を口に含んでから頬を抑えて唇を押し付ける。
薄く開いた隙間に水を流し込みながら、舌でそこをこじ開けた。
熱くなった口内に水が流れていったのを確認して、もう一度水を含む。
今度は頭まで手を回して抑えて、角度を変えて口付けた。
ごくりとピーニャの喉が上下する。
「…じに、あ、さ、」
ジニアの肩口辺りを掴んだピーニャが、濡れた唇を動かして名前を呼んだ。
「まだいりますか?」
口の端に音を立ててキスをしながら訊ねれば、ぎこちない動きでコクリと頷いた。
結局ペットボトル半分ほどそのまま口移しで飲ませた後、膝を抱えて丸くなっているピーニャの横で彼が話し始めるのを待つ。
まるで餌を与えられる鳥の雛のように目を閉じて必死に水を受け取るピーニャは酷く扇情的で、合間に繰り返される「ごめんなさい」という言葉が何に対してのものかわからなかった。
「……前、に」
ぽつりと溢れた声はどこか憔悴していて、組んだ腕の中にしまわれてしまった顔が見れないことが不安だった。
「いた、…先生が、」
先生、とはジニア達が来る前にアカデミーにいた教師のことだろうか。赴任直後、どの教科もほとんど引き継ぎがなされなかったことに戸惑いや憤りの声が上がっていたことを思い出す。ジニア自体は、前任者をさほど気にすることなく自身のやり方でできることをラッキーだとすら思っていたが、それが異常な自体だとは理解していた。
「ボクが、殴られたり、してる時、部屋に呼んで…助けて、くれて」
彼が当時どの様な立場で、どの様な経緯で今に至ったかは大雑把には把握していた。けれど、その教師が残っていた名簿の誰に当たるのかはわからない。
「でも、その代わり……『実験』て、言って、…色々、されて」
実験、という言葉にやや引っかかりを覚えた。
面白いまでのがらんどうだった部屋を思い出す。今でこそジニアの「城」として雑然を通り越した領域にさしかかっているが、あの異様なまでの空っぽさが何かを「隠滅」した結果なのだとしたら。
「その中で…水、飲む時、は、先生の許可がないと、だめ、て…いうのが、あって」
水を飲む、など日常生活の中で何度も繰り返す行為だ。怠れば生命の危機すら感じさせる、地味だが生物の本能に近いところにある欲求に基づくもの。
それを制限されるというのは、どれほど苦痛だっただろうか。
「勝手に水…飲んだら、凄く、痛いこと………」
「…辛ければ、詳細は話さなくて良いですよ」
ぎゅうと握られた手が青褪めていて、震えるそこに手を乗せる。
「……先生、が、見てない時も『わかるから』って、次、会った時、何度も……」
初めて会った時、酷く緊張した面持ちで体を強張らせていた姿を思い出す。
少しづつ親しくなって、関係が変わった時彼から「あの、ジニアさん、て呼んでも良いですか…?」と控えめに伝えてくれたのは。
「そしたら、段々、ひとりで、飲めなくなって…飲もうとしても、怖くて、吐いちゃったり、で……だめ、で、」
小さく縮こまる肩に手を回して自分の方に引き寄せる。
抵抗なく腕の中に収まってくれたことに安堵しつつ、どこか虚ろな声で話すピーニャを痛ましく思う。
「先生、いなく、なったから、誰も……飲ませて、くれなく、て、水、飲めなくて、…炭酸、とか、あんまり、好きじゃないけど、他のしか、…」
ごめんなさい、と再び繰り返したピーニャに頬を寄せる。
「話してくれて、ありがとうございます」
「っ…ごめん、なさい、気持ち悪い話…っ」
「相手の教師は確かに気持ち悪いですが、キミはただの被害者です。謝る必要も、罪悪感や自己を卑下する気持ちをもつ必要はないですよ」
「でも…こんなの、異常だって、」
「なら、治していきましょう」
恐怖と反復より刷り込まれた行動制限を消去するのは並大抵のことではない。
けれど、時間をかけてでも薄れさせていくことは可能だ。
「少しずつで良いので。ぼくにも協力させてください」
「ジニア、さん…」
消し去らなければ。
「大丈夫。必ず、治りますよお」
彼の中に残る、他人の痕跡を。
「ぼくが、いますから」
彼の体も心も無意識も、何もかも。
自分以外のものが入り込む隙間など、あってはいけないのだから。
END.