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    英雄は幼馴染の夢を見る

    源→諭 過去捏造

    英雄は幼馴染の夢を見る桜の木の下で離した手は、永遠の別れを告げたわけではない。
    少なくとも儂は――貴様の手の温度を忘れては居なかった。



    ===========



     最近眠れていない。理由は明確である。此処が戦場だからだ。
     眠れる筈も無いのは当然だと思われるだろう。其れは戦場を識らない者だからだ。
     戦場に居れば其の様な考えが如何に甘い、机上の空論で有るかを思い知る事になる。
     戦場に身を窶す者ならば、早くて一週間。遅くても一ヶ月も有れば布団の有難みを知り、いつ何時でも眠れるようになる。自然と成る物では無い。成らねば成らない。次の戦闘に備えて、だ。
     男もそうであった。
     部下を引き連れ、先頭を征く者。誰よりも先に戦場の過酷さに慣れ、大したこと無いと笑い飛ばし、却説、負傷した者は体を休めろと医務室に投げ飛ばして行く。
     無骨な男ではあるが、部下には慕われていた。
     理由は単純で、其の男は感情豊かで情に厚い。
     仲間の為に己は二の次、奮起させる為ならば泣いて立ち止まりたい場面でも、其の足を進める事を止めない。 其れが己が使命と言わんばかりに。
     きっと男が足を止めてしまえば、一小隊もろとも死神に狩られてしまう。
     強く在らねば後ろに連ねた者たちが、失われてしまう。其の責を背負い、男は歯を食いしばり笑っていた。

     だが、重ねた無理はやがて男を蝕んだ。夜、または昼。綻びは寝台に身を委ねた頃にやってくる。
     昨日は一人、脚を失った。其の前は腕に重症を負った。長く続くこの戦場で命を落とした者も少なくは無い。
     奮起させる為に笑って背中を叩く相手も、喝を入れる相手も日々減って行くのだから、感情豊かな男の心に綻びが出来ない筈も無く、男の心身は不快な虫が這いずり回るように蝕まばれて行く。
     とはいえ、不眠を理由に使命を疎かになど出来る筈も無く。
     男は今にも眩みそうになる目をぐっと押さえ、部下を放り込んだ医務室に向かった。
    「いらっしゃい」
     扉を開き、其処に居たのは白衣を着た若い男が一人。伸びた髪は肩に付くかどうかというところか。
     口調は丁寧だが、薄らと浮かべた笑みが胡散臭い。
    「あー……眠れんのだ」
     男――福地は困った顔をして、端的に症状を口にした。
    聞いた若い男はふむ、と口元を抑え、薬棚に手を伸ばした。
    「其れでは酒でも煽りますか?」
     取り出した瓶の正体を識っている福地は、ゆっくりと首を左右に振った。
    「消毒用酒精なぞ飲んだ日には目が出るだろう?」
    「おや、そうですか」
     仮にも軍医だろう? 軍医なら其れ位の知識は有る筈ではないのか?
     口に出しそうになった悪態を福地は飲み込んだ。
    だのに男はそんな福地を不思議そうに、そして残念そうに見て小首を傾げて其の薬瓶を棚へと戻した。
    「楽に成れるという意味では同じだと思ったのですが……」
     彼がぽつりと呟いた言葉に、確信犯だったと識り、福地は肩をがっくりと落とす。
     いつもなら軽快なやり取りで、「貴様! そういう意味ではないわっ」など返す所だが、今の彼に其の様な余裕などない。まだ不機嫌に怒鳴らないだけましだと思って欲しい、と疲労が詰まった頭を抱えた。
    「本調子では無いようですね?」
    「調子が良ければ此処には来ない」
     心底疲れた声が溜息と共に出た。ついと出た溜息に、自分が疲労している事を再度自覚して、もう一度溜息を吐き出した。
    「お疲れ様ですねぇ」
     軍医が、どれ、と福地の顔を覗き込んだと思えば、手袋を履いた指で下瞼をぐいと開いた。
     まざまざと覗き込む双眸をぼんやりと福地は見つめた。其の行為に特に意味は無い。何処を見て良いのやらわからないので、軍医の双眸を見るしか無かったのだ。
    「これからは睡眠のご予定で?」
    「ああ」
     流石に指揮を執れる状態では無い。そう判断した福地は、今日の戦場を後にした其の足でやってきた。
     無論、後処理は済ました其の後でだ。腹に何も入れぬ儘に来たが、今の福地に食事をする余裕など無い。
     それよりも先ずは睡眠だ。此の眠れぬ状況を脱せぬ限り、無惨な結果を残す事になる。
    「では此方の寝台へ」
     掌で促された先にある寝台は、福地がいつも寝ている寝台と代わりは無い。だが、横になるだけで今なら眠れそうな心地である。
     脚を引き摺るように寝台に向かい、其の上にごろりと寝転べば世界が回るような感覚に襲われる。
     蓄積された不眠が、一気に押し寄せてきたのだろうか。
     朦朧とした福地の額に軍医の手が触れた。素手では無く手袋越しだったが、難しく寄せられた福地の眉間を押す手付きは張った気を解してくれる。
    「安心してお眠り下さい。貴方が眠っている間は私が此処に居ます」
     ゆっくりと語りかけてくる声は甘く、魔法のように福地を微睡ませる。
     眠れないわけではない。寝入りばなは眠れるのだ。だが眠りが浅く、夢を見る。そしてその夢で目を覚ます。
     死んだ兵士が、部下が、戦友が、無言で此方を見てくるのだ。
     目の辺りは昏く影が落ちているのに、じっと此方を見つめているのだと解るその瞳に息を飲む。
     怖いわけでは無い。ただ自身が不甲斐なく、胸が裂けそうに痛み、目が覚める。
     其れを未だ話していない。だが起きる迄彼が傍に居るのなら、目が覚めた時に伝えれば良い。

     それほどまでに今の微睡みが心地よく、福地を夢の中へと誘っていった。



    ===========



     硝煙燻る戦場。銃声が鳴り止み、今日は停戦となった。
     負傷した兵士を基地へ誘導しても、福地の仕事はまだ終わっていなかった。
     周囲を見渡し、立てぬ者の生死を見立てる。息が有れば連れ帰る。息が無ければ――埋めるのだ。
     本土に連れて帰ってやれない者は、禄に墓も立ててやる事もできず、代わりに墓標に見立てた崩れた壁に其の名前を刀の先で刻み込む。
     ガリガリ、ガリガリと。
     刻み込んで居る姿は、誰にも見せられない。
     気付かれぬように声を押し殺し、ぼたぼたと大粒の涙を零す様など誰に見せられようものか。
     今日も同じように名を記していれば、「おい」と声を掛けられ、福地の肩が跳ねた。
    「何をしている? 源一郎」
     その声の主は、此処に居る筈の無い男の声。
     驚き、流れていた涙がぴたりと止まった。
     目尻を親指で拭いて振り返れば、其処には幻が在った。
    「ふ、く…ざわ?」
     確かめるように彼を呼べば、眉一つ動かさず、じっと此方を見てくる彼は同じ軍服に身を包んでいる。そして其の肩に、兵士が一人担がれていた。
     其れは先程、息を引き取った筈の亡骸。
     其奴を何処へ連れて行くのか、いや待て、貴様は何故此処に居るんだ? 福沢は政府の任務に就いて――
     混乱を隠せず、口をぽかんと開けていたのだろう。涼しげに見ていた福沢の眉がぐっと寄せられた。
    「此奴は未だ生きて居る。俺が救けた」
     救けた……? 福沢が?
     嗚呼、そうだ。貴様が居ればそういう事も在っただろう。だが貴様は俺の誘いを断った。だのに――
    「何時までそうしている心算だ。早く帰るぞ?」
     負傷兵を担いだ福沢は、福地に背を向け歩き出した。
    「あ、いや待てっ! 待たぬかっ」
     置いて行かれる焦燥で其の背中を追いかけ、福沢の横に駆けつける。
     此れが現実ならば――と福沢の背中をバシッと叩いた。夢だと思って強く叩いた其れは、叩いた此方の手も痛くなる程の衝撃があり、また、福沢がぐっと息を止める程の威力だったようで、不機嫌そうな顔が福地を睨んだ。
    「……っ、お前はっ」
     血管が浮き出た額に、嗚呼そうだ、此れは福沢だ、と笑った瞬間、福沢が肩に担いで居た負傷兵を福地に投げるように渡した。
    「お前の部下だろう! 大事に連れて帰ってやれっ!」
     身軽になった彼は、福地と其の部下を置いて帰路を急いで戻って行った。
     人を一人渡された衝撃でその場に尻餅をついた福地は、きょとんとした顔を見せたが、腹の上で呻く声を上げる部下に、我を取り戻す。
     今は夢か現か等問うて居る場合では無い。此の部下の、重みと温もりを今なら守る事が出来る。
     ガッと持ち上げ、肩に担ぎ福地もまた帰路を急いだ。


     
     基地に戻り改めて福沢を観察した。
     負傷した者の選別に、壊れた得物の回収、声を掛けて回っているその姿は福地がいつもしている事だった。
     ただ福地と違い抑揚は少ない。元来朴念仁で愛想が無い木刀地蔵だ。高性能の絡繰人形の方が、もう少し愛想が有るのではないだろうか? と考えてしまう程に、福沢に愛想は皆無だ。
     だが、部下たちは便り、慕っているように見えた。
     其の処理の的確さと戦場での強さだろう。
     嗚呼、そうだ。此の光景は何度と夢に見ただろうか。
     貴様が居れば、俺だけでは手が回らぬ其処に手が届く。愛想など無くても良い。貴様は貴様の存在だけで、部下が付いて来る筈だと、繰り返し繰り返し夢に見たのだ。
     其の光景が目の前に広がっている。夢に見たと思っていたが、此れは現実なのだろうか?
     錆びた鉄のような血の匂いがする此の光景は、夢では無いのか。
     だが担いだ部下の重み、温度、そして呻く声。未だ生きていた。いつか墓標に刻んだ筈の男が生きているのだ。未だ間に合う命を抱え、あの刻んだ墓標の方が夢だったのだと信じ、福地は男を担ぎ戻ってきた。
     今を生き不して何時を生きると言うのか。
    「源一郎」
     血に塗れた布を抱えた福沢が声を掛けてきた。
    「――疲れが溜まったか?」
     部下には掛けない柔らかい声色は、戦友としてでは無く、其れは幼馴染だからこその声色で、僅かに寄せられた眉は心配そう憂う双眸を此方へ向けてきた。
    「いや、大丈夫だ」
     そう返すものの、大丈夫などで有るものか。眼の前の真実が何なのか抜けない混乱で、一杯だ。
     但し、今。やるべき事は決まっている。
     目を瞑り、頬を一つ叩いた福地は、改めて目の前を見据える。
     痛みにわめき、呻く者が多い。だが其れは死んでいないということだ。常より其の人数が多いと感じた。
     此れも偏に福沢が居たからか。
     嗚呼、だから言うたのだ。貴様が居れば良いと――
     だが共に、心に重く黒い思いも生まれた。
     俺だけでは、無理が在ったのだ――と。
    そう考えて、口惜しくなる思いが生まれた事も確かだが、其れこそ幼き頃から常の事。幼馴染として二人、切磋琢磨を重ねて来たのだ。今に始まったことではない。
    彼奴が一人に掛かる時間、自分は二人見れば良い。然し雑ではいけない。確り相手を見て、判断は誤らないように手早く手当を済ませ、軍医に引き渡す準備をする。
    勝ち負けがあるようなものでもないし、競うような事でも無い、と言われるだろうが、福沢を相手にすると何にせよ『負けられない』と競ってしまう。己でも悪い癖だとは思うが悪い事だけでは無い。
    いつもなら処置を行う方も疲れており、時間が掛かってしまう処置も効率的に済ませられる。早く処置が終われば生存率を上げる効果的な処置だと言える。
    明日に残せぬ疲れは感じてはいたが、遣り切った達成感が其の疲れを癒やしてくれる気がした。
    「一通りの確認は終わったか!」
     未だ傷の具合を見ていない者は居らぬか、動けぬ者は優先で軍医に見せろと声を掛けて回りながら、物も人も足りていない所へ指示を出した後、福地は執務室へ向かった。
     部下だけを見ているだけではない。今日の戦果を記す必要がある。一小隊を担った者の責任だ。
     手にした記録表を眺めながら脳内で記帳内容を纏め、扉を開くと、先に影があった。福沢だ。
    「落ち着いたか?」
     先に記帳を始めて居たのだろう、其の筆を止めて福地を見上げた福沢は疲れた色も見せていない。
    「嗚呼」
     何処までも能面か、と嘯く言葉は飲み込んで、短く返し扉を閉めた。
     然様か、と返してきた福沢が記帳していた帳面を閉じ、席を立った。丁度書き終わった所だったらしい。
    「本日の報告書は書き終わった」
     言った福沢は其の帳面を持ち、カツコツと軍靴を鳴らし、扉の前で立っていた福地に近付き、そっと手渡した。
    「貴君は疲れが溜まって居るのではないか? 最近眠れていないのでは?」
     指摘されて、喉奥がぐっと詰まる。確かに寝不足だった。だからこそ彼に相談を――彼に……?
     誰かに相談に行った筈だ。だが誰に相談していたのか、思い出せずきょとんと首を捻る。
    「百面相している暇が有るのなら、寝所に向かえ。飯は持っていってやる」
     呆れたように溜息を吐いた福沢が、扉を開いて部屋を後にする。しかし其の腕を掴んで振り向かせた。
    「貴様は誰だ?」
    「……は?」
     不機嫌に低い声を発した彼が、「如何した?」と返しても、腕を離せずに居た。
    「立って寝て居ったか?」
     じっと見てくる其の顔は確かに福沢だが、違和感は拭えない。
    「源一郎」
     言葉を返さずに居れば、名を呼ばれ、其の双眸が間近に迫る。口吻でも交わす距離に胸を弾ませれば、額に強い衝撃を食らった。
    「寝るのなら寝台の上で寝ろ」
     思わず掴んでいた腕を離した福地の手から、解放された彼は大きく音を立てて扉を閉めて出て行った。
     福地は離した手で己の額を覆い、其の場でしゃがみ込み、確かに、彼がよく知る福沢諭吉だと確信せざるを得なかった。






     翌朝。目を覚ませば、常闇島の名にふさわしく鬱屈とした空は変わりが無い。
     気怠い身体を起こし、寝台を抜け出し、軍服に身を包む。此の数ヶ月の変わらぬ習慣だ。そして朝飯を食い、戦場に向かって終わらぬ争いを続ける。
     何を以ってして、此の戦争は終わるのか。
     戦況は一進一退。何方かが全滅する迄繰り返される日常に、光は見えない。
     個室の扉を開けば、また戦場に出る兵士の顔をしなければならない。
     ぼんやりと見つめた扉を、誰かが叩いた。
    「起きているか?」
     尋ねるような声は、聞き覚えのある声だった。
    「嗚呼、今行く」
     扉を開けば、福沢の安堵した顔があった。其の顔に、ふわりと微笑みを返してしまう。然し戦場に出る兵士の顔では無い其れを、福地は引き締めなければならない。
    「行くぞ。福沢」
     カツリ、と床を鳴らし、後を付いてくる幼馴染の気配に引き締めた筈の顔が緩みそうになる。
     彼が居て呉れるだけで、己はまだ立てる。前線を切り開き続けられる。
     互いの剣筋も癖も識り尽くした相手が居る其の安心感たるや、何物にも代え難い。其の上彼は部下にも慕われて居る。事務仕事も卒なくこなし、己の右腕として収まって居るのだ。
     何を憂う事が在ると言うのか。
     いや、其の事実こそ憂いしか無い。
     福沢が、大人しく己の右腕に収まるなど、有り得ない。
     負けず嫌いの彼の男が、自分の一歩後ろを歩くなど、有り得ないのだ。
    「――貴様は誰だ」
     ぴたりと足を止めた福地が、低い声で問い掛ける。
    「昨日も聞いていたな。俺を忘れるなど――」
    「違うっ」
     福沢の呆れた声を遮る大声は、廊下の柱をビリビリと震わせた。
     然し振り返る勇気は無い。振り返ってしまえば、此の時間が終わってしまう事を識っているのだ。
     違うのだと否定するのに、望んでしまう。此れが現実だと信じたくて、振り返る事が出来ない。
    「何を言っている」
     聞こえて来た声は、抑揚の無い感情の消えた冷たい声だった。
    「貴君が俺を望んだのだろう」
     背中から聞こえてくる声に振り返らず、強く手を握る。確かめなければならない。然し決める心は、僅かに足りないで居る。
    「源一郎」
     名を呼ばれ喉を鳴らし、まるで幽霊の正体を確かめるかのようにゆっくりと振り返った。
     其処は基地の中だった筈だ。だが、空が、地が開き、福沢の後ろに倒れて行った兵士たちが立っている。
    「俺が居たから救えた命だ」
    「……貴、さ、ま…っ」
     喉がつかえて上手く声が出ない。辿々しく吐き出した言葉に、彼が悲しげな表情を浮かべる。
     其の表情は福沢が見せる表情では無い。まるで此方を憐れむ瞳を彼は見せない。
     其れで確証を得た。眼の前に居るのは、幼馴染の皮を被った別人、若しくは幻覚だ。
     理解していても、鼓動は強く、早く打つ。其の顔、其の声が放った言葉は、自分が望んだだけで、事実に成り得なかった事実だからだ。
     歯痒く、奥歯を食いしばり見据えれば、其の男は嘲笑った。

    「貴君が弱かったから、救えなかった命だ」


    「貴様ぁっ」
     怒髪天を衝くとは此の事かと言わんばかりに、頭に血が上り、つかえた喉が開いて大声がするりと出た。
     然し突っかかるように起こした身体は寝台の上だ。
    「おや、起きましたか」
     柔らかに訊ねてくる声の方向を見れば、白衣を纏った軍医が開いていた小説をパタリと閉じた。
     未だ収まらぬ動悸に肩を上下させ、部屋を見回す。そして思い出し自覚した。
     医務室で眠りについた事を。先程迄の事は全て夢だったという事を。
    「シャワーでも浴びます?」
     軍医が小首を傾げて訊ねてきた。其れ程迄に汗でびっしょり濡れていたのだ。
    「いや、いい……」
     未だに夢現が抜けきらない福地が首を横に振れば、手拭いを投げられた。
    「シーツを洗うのは大変なので」
    「後で俺が洗っておく」
     心底面倒臭そうに言った軍医の意を図り、そう返し、手拭いで軽く拭う。
    「其れで? 悪夢の原因は『フクザワ』という男です?」
     軍医が訊ねてきた言葉に、ぴくりと反応した。寝言で声にしていたのだろう。
     違う、とは言い切れない。未だに何処かで彼が誘いを断った事を引き摺って居たらしい。
     未練がましいと言われれば認めざるを得ず、顔から手拭いを除けられない。
    「何故貴様が……と仰っていらしたので、もう亡くなられていらっしゃるのでしょうか?」
     何処まで自分は声に出していたのか、背筋が冷えると共に恥ずかしさが隠せない。
    「否。生きておる」
    「では、本来なら此方に出向いて居た筈の方です?」
    「其れも、違う」
     此れ以上探らないで欲しい、と思う福地の気持ちは汲み取ってはくれなかったようで、軍医はふむ、と考え顎を指で掴んだ。暫し目を宙に泳がせて、嗚呼、と頷く。
    「来て欲しかった相手ですか」
     疑問形では無く、断定系で呟いた軍医の言葉に、福地の体が強張った。
     何だ、此の男は。僅かな時間と少しの情報で解を導き出すなど、尋常では無い。
     福地の頬に、新しい汗が伝った。
    「違いましたか?」
     幼気な口調で訊ねてくる彼と、真正面から顔を合わせる事が出来ず、目の端だけで見遣った。彼は福地の態度で答え合わせをしたようで、ふふっと笑った。
    「合っていたようですね」
    「まぁ……違ってはいない」
     最早、福地は認めるしか無かった。
    「では彼を消せば、貴方は悪夢から解かれるのでは?」
    「は?」
     何を言っているのか。唐突に振ってきた物騒な提案に、福地は手拭いを外し、顔を上げた。
     怒りとも安堵ともつかぬ表情を浮かべ、訝しげに目を向けた福地に、彼は涼しい顔で小首を傾げた。
    「其の男が悪夢の原因なのでしょう? では其の男を記憶から消してしまえば良い」
     半生を共にしてきた男との思い出をあっさりと消せようもない。
     だのに、まるで帳面に書いた日記を、消しゴムで消すような気軽さで消せば良いと話す彼の言葉に、福地の眉が寄せられた。
    「……簡単に言うな」
    「簡単ですよ。殺せば良いだけです」
     抑揚の無い、然し少し明るくも聞こえた彼の声に息を呑んだ。
    「何を、言っている」
     福沢を殺す? 俺が? 俺の手で?
    脳内で反芻した言葉に、息が止まった。鼓動が激しく大きく跳ね、血が沸く。
     有り得ない。彼奴が生きて居るからこそ、俺は今此の戦場で生きていける。帰ればまた福沢の顔を見られる。
     其れが希望で有り、消す必要など皆無だ。
     ――然し、ぞわりと湧いた黒い感情も否定出来なかった。
     彼奴が此処に居れば、確かに彼らが生きて居た今が在ったかもしれない。
     福沢が居れば、彼らは生きていて、夢に出てくる事も無かった。
     違う。そうでは無い。己が強く有れば。然し人一人の力量など知れている。
     心の中で戦う天使と悪魔の存在に、頭がガンガンと殴られている気になった。
    「此処は戦場。何を躊躇うのです? 貴方は今迄何人殺してきました?」
    「其れは…必要、だった……から」
    「本当に?」
     煩い。今貴様に構っている余裕など無い。
     そう返したいのに、彼の言う事は間違っておらず、耳を塞げなかった。此処が戦場だからこそ。場所が場所なら敵も部下も死ぬ必要など毛頭無かったのだ。必要性など、無い。
     ふふ、と笑った彼が福地の傍に寄り、そっと肩に手を置いた。
    「我々で此の様な争いを無くしませんか?」
     もう考える力は薄れ、朦朧としている。其の様な福地の耳に届いた言葉の意味はすぐに理解に至らなかった。
    「此の…戦を、勝って終えて……支配に置く、か?」
     掠れる声で返せば、彼はにこりと笑い首を横に振った。
    「いいえ。此の戦争の話ではありません。此の様な戦を起こさないようにする話です」
     聞きますか? と訊ねた軍医は、福地の返事を待つ前に語り出した。
     あどけない少年のように語る夢物語。
    饒舌に紡がれる演説のような計画は、最後にこう括られた。

    「貴方には成し遂げられる力が有ります」

    其れは福地の耳には、甘言に聞こえた。

    終幕

     戦争が終わり、完全に平和な世の中になった――とは言い切れないものの、落ち着いた街並みに今日も強い潮風が吹いている。
     軍隊が解散後、福地は軍警に入った。指導者として請われた事もあり、人事にも口が出せる立場に在る。
     昼間から見回りと称してぶらりと外に出られるのも、そんな立場であるからで、一人になった彼は今日も携帯電話を取り出し、決まった先に電話を掛けた。
    「福沢、元気にしておるか?」
    『昨日も同じ事を聞いていただろう?』
    「そうだったな」
     がはは、と豪快に笑う彼は、確かめずに居られないのだ。
     用心棒という職業を選んだ彼が、負傷しておらぬか。病気をして寝込んだりしていないだろうか。今日も一人で過ごしているのだろうか。
     今日も変わらず、生きているか。
     当の本人に『過保護すぎる』と迷惑そうな顔をされた事もあったが、やめろと言われなかったのは彼も福地の行動の理由を慮っているのだろう。
     口には出さないが、互いに互いの事情は識っている。昔からの馴染みで福沢が多くを語らない事も識っている。
     だからこそ居心地が良いのだ。
     だからこそ、とまた同じ言葉を福沢に伝える。
    「そろそろ貴様も此方へ――」
    『断ると言っている』
     風の音が混ざって返された声は心底不機嫌そうで、直後に通話は切られた。
     何度も誘って何度も断られている。今回で数えて十回…いや、百を越えているかも知れない。だが福地は誘わずには居られなかった。

     あの日、軍医に聞いた話は信じられない夢物語のようだったが、完全に実現不可能な話ではなかった。
     だが多数の犠牲は免れない其の話は、聞かなければ良かったと後悔を覚えたが其れ以上に――彼の男は危険だ。
     福地が手を貸さずとも、彼は相応の人物を手中に収めて実行に移すだろう。
     ならば自分が、と手を組んだ。
     そして、福沢を手の内に入れようと誓った。
     此の儘であれば、何れ福沢と敵対する事になる。例え組織を持たぬ一匹狼の彼だとしても、きっと此の計画を進めれば何れ関わる事になるだろう。其の時、福沢に勝てる者など他に居ない。いや、居たとしても誰かの手に掛ける位ならいっそ自分の手で。
     ――其の覚悟を持って、彼の話に乗った。
     誰に識られる事も無く、水面下で静かに事は動いている。
     福地に識られて、事は動き出しているのだ。
     【英雄】と讃えられた福地に。
     其の冠に福地はふっ、と笑った。何という事はない。只、先の戦争で生き残った者だという事だけだ。
     異能力に目覚め、能力を上乗せ出来るだけの男に過ぎた称号だとは思う。だが、戦争で家族を無くし、恋人を無くし、死んだ心を持つ者たちの想いを纏める存在が必要なのは確かだ。
    祭り上げられる神輿の役目は照れ臭いが、其れで誰かが救われるのであれば役目を全うせねばなるまい。
     何れ誰か、本物の英雄が出て来る迄の代役だと、自嘲の笑みを浮かべて軍靴をかつりと鳴らして街を歩く。 
    ――其の夜。福沢から電話が掛かってきた。其れは珍しく酷く焦った声色で、驚いた事を覚えている。
     用件は『搬送した少年に会わせてくれ』だった。劇場で起こった事件に関係しているらしい。
     用心棒として福沢が雇われたが、事件は起こってしまった。だが其の場で解決に至ったと聞いた事件だ。
     詳細は未だ福地の耳には届いていなかったが、神業とも言える解決の速度に余程犯人は杜撰な計画を組んでいたのだな、と考えていた時に掛かってきた幼馴染からの電話だ。
     事件の当事者では無いが、其の場に居た福沢に仔細を聞けるかもしれないという下心があったのは確かだ、其れ以上に福沢は焦った声だったのだから、其の下心はしまわざるを得なかった。
     直ぐに担当部署に連絡を取り、福地が立ち会う事で面会の許可が下りた。
    「珍しいな。貴様が其の様に落ち着きが無いのは」
    「……子供一人の命が掛かっている」
     少年の収容された独房迄の廊下で交わした言葉は其れだけだった。
     焦る表情も隠さず、早歩きで進む福沢に其れ以上深く尋ねる事はできなかった。

     二人の邂逅は短かった。福沢は元々口数が少なく、今は急いでいる。少年もまた口数が少ない。
     似ている二人だとやり取りを聞いていれば、少年は福沢が奔走している理由を『部下を助けるため』だと思っているらしい。いや、其の男は一匹狼。部下は持たないぞ、と口には出さず心で呟いた。

     だがその数日後に信じられない報告を受けた。
     福沢が、あの事件を解決した子供を保護したと聞かされた。
     誰をも寄せ付けなかったあの男の懐に入る其の子供が凄いのか、伴侶どころか女子との付き合いも無いくせに子供一人保護すると決めた福沢が凄いのか。
     留置所の時の礼だと奢られた酒をうっかり手から滑らす程に、福地は驚いた。
     だのに福沢は「勿体ないぞ」と手拭きで溢れた酒を拭き取る始末。
    「あ…いや。然様か」
     そう返す事が精一杯で、酒の味など解る筈もなく、薄らと酔い始めていた頭もすっかり醒めてしまった。
     然し、動揺は隠したそれからは、再び酒を煽り、酔ったふりで福沢に絡み、いつもの様に別れた。
     帰っていく福沢の背中を薄らと開いた目で見送る。
     如何して独りで居て呉れなかったのか。其の儘独りで居て呉れていたならば、「希望」が在ったのに。
     己の手の内から離れていく幼馴染を諦めきれず、見えなくなるまで見据えていれば、隣に人の気配がした。
    「……音も無く現れるな」
     其の男はあの日の軍医だ。だが、今は全身白い洋装に毛皮の帽子を被っていた。
    「貴方、役者に向いていますよ」
    「何処から見て居った?」
    「同じ店に居ました」
     目を合わすこと無く涼しく返してくる彼に、監視しているのか、と背中が冷えたが、和風の居酒屋に似つかわしくない彼が何処に居たのか。目立つ服装なのに気付かなかった自分に嘲笑った。
    「良い演技をするだろう?」
    「ええ」
     薄らと笑う彼に、福地はふっと笑いを返した。

     儂は、今日も貴様を騙している。


    ===========

    終幕 sideD

     其れはほんの気紛れ。終わりのない戦場が在ると聞いて、紛れ込んだ。
     日本人というのは統率が取れた組織を作ることが上手いと聞いて、其の目で確かめたくなったのも事実。
     そして、其の場で逸材を見つけた事もまた、事実。
     小隊を率いる大柄の男。中心人物。戦場に来る前は兵士の育成をしていた男。
     勿論、戦場でも統率を取る彼は、取り締まるだけでは無く、部下を想い、慕われ、そして疲弊の色が見える。

     嗚呼、何と付け入りやすい。
     
     近く、医務室の扉を開く事になるだろう。そう予測して、軍医に成り済ます。
     戦場など人の出入りが激しい。一人入れ替わろうが、大した問題では無く、すんなりと受け入れられた。
     愚かな人たち。然し愛すべき人たち。日本語で「可愛いらしい」というのであったか、と頭に浮かべていれば、望んだ人間が扉を開いた。
    「いらっしゃい」
     軍医が出迎える言葉では無かったかもしれない。然し彼にとって、狙った獲物が狙ったように懐へ飛び込んで来てくれたのだ。喜ばしく両手を広げて出迎えなかっただけ、自制心が働いていたのかもしれない。
     これから話を親身になって聞いて、ゆっくり眠らせて。存分に甘やかせて、手の内に引き込んでしまおう。
     思惑通り眠った男は、相談してきた通り悪夢に魘されている。
     戦場によくある、死んで行った兵士の夢なのだろう――そう思っていれば、福地の顔が強張り、名前を呼んだ。
    「ふ、く…ざわ?」と。・
    「フクザワ…?」
     その後は百面相を見せる福地の表情をぼんやりと眺めた。
     魘される割に、時折緩んだ表情を見せ、また苦しそうにする。度に出て来る名前に、興味を持った。
     夢を見れば記憶は整理され、自分の中に抱えた靄に解を見つける筈なのに、此の男は苦しんでいる。
     どうやら福地の口から溢れる名前の男が、呪いのように福地の中の「正義」を守っているようだった。
    「……邪魔、ですね」
     眉を寄せた彼は福地の耳に顔を近付け、ぽつりと呟く。
    「貴方が弱かったから救えなかった命ですよ」
     其の言葉に、福地の体がビクリと跳ねた。
     放った言葉が福地の中で巡り切る迄の間、彼は読みかけていた小説を開いた。
     酷く憔悴した顔。嗚呼、此れでは手中に収めるのは、簡単だ。
     喉を鳴らした彼は、優しく福地に微笑みを向けた。

     貴方の中に居た彼を追い出す迄には至らなかったが、種は蒔いた。
     無自覚な儘、其の暗い想いを如何か芽吹かせて、何時か、己の手で摘み取れば良い。


     其れまでは、騙されている振りをして、見逃して上げましょう。

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