トライデント・カラー SIDE:理鶯
カツ、カツ、と革靴がコンクリートを叩く。
湿気に満ちてじっとりとした肌触りが不快で、所々朽ち果てた廊下の行く手には原型を留めない鼠の死骸。壁面を太ったゴキブリが這い回り、コンクリートを覆う蔦や野草が文明を侵食しかけている。
結束バンドで後ろ手に両腕を拘束されたまま、理鶯は静かに辺りを見渡した。己を囲むようにして歩く男の数は、全部で六人。武器やマイクは取り上げられてしまったが、両腕の拘束さえ解ければ制圧できない人数ではない。唯一、この場での障壁があるとすれば。
「変なこと考えるなよ?」
目の前を歩くこの黒髪の男だけは、他の有象無象とは明らかに身のこなしが違う。軍人あがりか、格闘技を噛んでいるのか。
とはいえ理鶯の敵ではない。本気を出せばこの場を突破できる可能性は高いが、今ここで暴れるべきではないと理鶯の第六感は告げていた。黒髪の男は無言のまま大人しく歩く理鶯に満足そうに目を細めると、また歩き出す。
「おら、ここだ」
たどり着いた、古びた廃墟の奥。薄影に包まれる視界に、自然と瞳孔が開く。廊下の突き当たりの右手に、鉄格子。その反対側の窓から薄らと差し込む陽の光だけが唯一の光源だった。錆びついた格子のドアを開け、背中を蹴られた反動で鉄格子の内側に入れられる。膝をついた理鶯が立ち上がる間もなくガシャンと音がしてドアが締まると、閂がかけられた。薄暗い牢の中に、人の気配。入れられた牢の中は、理鶯一人ではなかった。
「っ左馬刻!」
「お〜…、りお。元気かよ」
浮かび上がる白い体躯。牢の奥の壁から生えている手錠が、左馬刻の両手を吊り上げるように拘束していた。白い髪は半分以上赤く染まり、アロハは引き裂かれ生々しい傷跡が見えている。眉を寄せた理鶯に、左馬刻は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「…悪いな」
「謝るな。小官が決めたことだ」
そう、左馬刻のせいではない。敵は卑劣な奴等だった。森のベースキャンプを襲ってきた男達は、大人しくしなければ先に捕らえている左馬刻を殺すと言い理鶯を脅した。
囚われている左馬刻を救い出す為に無抵抗を貫いたのは、他ならぬ理鶯自身の判断だ。
胡座をかいて壁を背を預ける左馬刻が、億劫そうに鼻を鳴らす。
「あ〜…クソ、あいつら多分次は銃兎をやるつもりだぜ」
「銃兎なら大丈夫だろう」
「ははっ、まーあのウサポリはぴょんぴょん跳ねて厄介だしなあ。ッテ…」
笑った拍子にどこか痛めたのか、左馬刻が顔を歪ませる。改めて見分した左馬刻の姿は、酷いものだった。左目は額からの出血のせいで上手く開かないのか、片目だけで理鶯の碧い瞳を捉えている。壁に磔にされている左馬刻とは違い、ここへ来たばかりの理鶯の拘束は結束バンドのみだ。左馬刻は、この場所で余程暴れたのかもしれない。己の拘束をじっと見つめる理鶯に、左馬刻はからっと笑う。
「見た目ほどじゃねえよ」
「だが怪我をしているだろう。無駄に暴れて過剰な拘束をされたのであれば、感心しないな」
「無駄じゃねえし…何人かやったっつの。つーか理鶯だって怪我してんだろ」
「見た目ほどではない」
「そーかよ…。…ッ……クソ、あのコックローチ野郎共、鉄パイプでバカみてえに殴りやがって…」
「左馬刻は何故捕まったんだ」
「…あー……たまたま、な。近くを通った女がいてよ…」
躊躇いがちな言葉に、理鶯は「そうか」とだけ返した。やはり理鶯と同じように、左馬刻も人質を取られていたようだ。左馬刻の様子から察するに、女は左馬刻が拘束される代わりに解放されたのだろう。出会ったばかりの頃であれば、自分への戒めも含めて「甘いな」とでも言っていたかもしれない。共に短くはない時を過ごした今はもう、左馬刻の美点であり欠点でもあるこうした部分にむしろ安心しているほどだった。左馬刻がもし自分を曲げることがあれば、小官が殴ってでも止めなければならない。
理鶯は左馬刻の隣に座り、壁に背を預ける。窓もないこの牢の中では、格子の鍵を開けなければどの道出られない。反撃のチャンスが来るまでは、暫く大人しくしている方が賢明だろう。
負傷している左馬刻を連れて逃げるには、あの黒髪の男が厄介だった。次に男達がここへ来る時は、左馬刻か理鶯を痛めつける為か、もしくは――銃兎が捕まってここへ連れてこられる時か。
ドアが開いたタイミングで瞬時に動けるよう頭の中で脱走経路と共にシミュレーションしていると、隣から小さく寝息が聞こえ始める。限界が来たのか、もしくは理鶯が来たことで張り詰めていた気が抜けたのか。ずるりと力の抜けた体が手錠から伸びる鎖のせいで壁に縫い留められている。理鶯は左馬刻の上半身を自分の肩にもたれかけさせると、再びシミュレーションを再開した。
「ん……けほっ、やべ、俺寝てたか…?」
唯一の灯りであった夕陽はとうに沈み、牢の中はすっかり暗闇に包まれていた。森の生活で慣れているため夜目が効く理鶯はかろうじて視界が分かるが、左馬刻は殆ど見えていないだろう。況してや眠りから覚めたばかりだ。
「少しは休めたか。あれから奴らはここへ来ていない」
「あ〜…真っ暗でなんも見えねぇ。理鶯見えてんのか?」
「森で慣れているからな。まだ見える」
「すげえな…」
話しながら震えだした左馬刻を見とめて、理鶯は黙って自分の身体を押し付けた。失血のせいか、体温が随分下がっている。
「あったけえ…」
「次に奴らがドアを開けた時に脱出を試みる。起きていられるか」
「ん。俺動けねえけどいけんのか?」
「無論だ。だが敵に一人、恐らく戦い慣れている男がいる。あの男がいると少し厄介だが…」
「は〜…クソ、ウサ公は何してんだよ」
「追われているのだろう。今の今まで、奴らがここへ来ていないことがその証だ」
そう言えば、左馬刻はくふくふと肩を揺らした。
「てことは、奴らよっぽどウサ公に苦戦してるってことか?ハハっ、しぶてえからなぁじゅーとは」
「そうだな。だが左馬刻と小官を捕らえた奴らだ。いくら銃兎でも一筋縄では…」
ガシャアン!!!
「ッ!!」
突如轟いた破壊音に、二人ははっと顔を上げた。耳をそばだてれば、聞き慣れたサイレンの反響。
やがて、打撃音や破壊音が静かな廊下中に響いたかと思うと、いくつかの足音が近づいてきた。次いで、聞き馴染みのあるあの声も。
「このボンクラがァ!!待ちやがれしょっぴいてやる!!!」
「お〜、ウサ公は今日も元気だな」
「足音は二人分だ。恐らくあの手練れの黒髪の男と銃兎のものだろう」
ドガン!と衝撃があったかと思うと、二人のいる牢の目の前にドアが吹っ飛んできた。耳につんざく金属音に左馬刻が肩を竦める。ドアがなくなったことで明かりが漏れて、視界が効くようになった。
「くそっ!ただの警察官じゃねえのかよ…!」
黒髪の男が腕をクロスさせて銃兎の蹴りを受け止める。衝撃で吹っ飛んだ拍子に、左馬刻と理鶯のいる牢の前に倒れ込んだ。追い討ちをかけようと走り込んだ銃兎がはっと顔を上げると、「ここにいましたか」と安堵の表情を見せる。間髪入れずに繰り出された黒髪の男のパンチを避けると、腹部に膝蹴りを一発。どうにかいなした男が返しのキックをお見舞いするが上体を逸らして避けると、軸足に足払いをかけて床に転がした。そのまま流れるような所作で手錠をかけると、近くの配管に繋いでふうと息を吐く。鮮やかな手腕に、理鶯は思わず見惚れて嘆息した。黒髪の男は相当な手練れだ。だが、銃兎の方がさらに一枚も二枚も上手だった。
銃兎は左馬刻と理鶯が閉じ込められている牢の鍵を開けると、懐から取り出した鍵で左馬刻の手錠を外した。力の入っていない左馬刻を血が付くのも厭わず床に横たえると、今度はナイフで理鶯の結束バンドを切る。
「ありがとう、銃兎」
「礼には及びませんよ。それより、左馬刻を。早くここを出ましょう」
「ああ」
左馬刻を背負うと、銃兎の先導で廃墟を後にする。無線での通話を終えた銃兎が「それにしても」と振り返った。
「まさか二人揃って捕まっているなんて。左馬刻はともかく理鶯までなんて、珍しいですね」
「面目ない…。ここへ来る前、小官も左馬刻も人質を取られていた。銃兎は何もなかったのか?」
「ああ、左馬刻と理鶯を捕らえたと言っていましたよ。ま、私には色んな手札があるんでね。MTCを捕まえるよりも奴等にとって魅力的な条件をチラつかせて、ここまで案内させたところで暴れただけです。二人を人質にするってことは、殺してはいないと言ってるようなもんだ。存外やりやすい相手でしたよ」
「なるほど……流石銃兎だな」
やりあっていた黒髪の男はそれなりの実力者であった筈だが、銃兎は己の体術で難なくのしてみせた。MTCの参謀であり、特攻隊長でもある銃兎の手腕が如何なく発揮されたといってもいい。
帰り際、左馬刻と理鶯が囚われていた廃墟は二人のいた牢の部分を残して、全て大破していた。まるで、銃兎の怒りを全身で受け止めたかのように。瓦礫を乗り越えながら、理鶯は前を見る。クールに見えて、その内側は燃えたぎるように熱い男だ。チームの年下二人を人質に取られて、銃兎が激昂していたのは明らかだった。もう一度、今度は心の中でだけ礼を告げる。
前を走る銃兎の背中が、何故だかいつもよりも少し大きく見えた。
▽SIDE:左馬刻
パチ、パチ、と左馬刻は瞬きを繰り返した。
見上げた天井は薄暗い蔦の生えたそれではなく、見慣れた白い照明。僅かに鼻腔を擽るのは牢のカビと血液の匂いではなく、アロマディフューザーから立ち昇るラベンダーの落ち着いた薫りだ。
人の気配がして首を動かせば、左馬刻と同じベッドに理鶯も横たわっていた。起きていたようで、目が合うと「目が覚めたか。調子はどうだ」と微笑まれる。顔を動かした拍子に落ちた白い物体を理鶯が拾い、洗面器に浸して絞るとまた額に乗せられた。そこで初めて、熱が出ていることに気がつく。そういえば、やけに身体が火照っている気がする。吐いた息が熱い。
「……理鶯?」
「ああ、小官だ。ここへ来るまでのことは覚えているか?」
染み渡るようなバリトンボイスに、心臓の音が揃っていく。ゆっくりと、そういえば敵に捕まっていたことを思い出した。自分のせいで理鶯も捕らえられて、その後、銃兎の姿を見たような。
「あぁ…思い出した。世話かけたな、理鶯」
「その言葉は銃兎に言うといい。銃兎が左馬刻と小官を助け出してくれたのだからな。難易度の高いミッションを難なくこなしたのだ、ちゃんと礼を言った方が良いぞ」
「ん…わーったよ」
左馬刻に暴行を加えた男の中に一人、中々の手練れがいたことを思い出す。そいつを、銃兎がステゴロで呆気なく制圧したことも。
「人質を取られたことで左馬刻も小官も捕まってしまったが、銃兎はその状況下でも頭を使って小官らを助けてくれた。ふふ、銃兎が頼りになる仲間なのは当然分かっているつもりだったが、再認識させられてしまったな」
「別に、元から疑ってねえし…」
「銃兎のことを信頼しているのだな」
「そりゃ、…当然だろ。つか…りお、お前のことだって、信頼してっからよ…」
「大丈夫だ、分かっているぞ」
ニコニコと笑みを浮かべる理鶯に居た堪れなくなり、左馬刻は布団を引き上げる。僅かに銃兎の匂いがする。銃兎の家なのだから、当然かもしれないが。
微睡みながら理鶯と会話をしていると、寝室のドアから話題の人物が顔を覗かせる。
「左馬刻、目が覚めたのか」
自宅だからかスウェット姿の銃兎はベッドサイドまで歩み寄ると、左馬刻の額のタオルを取り去り手のひらを当てる。
「冷てっ!」
「ああ、すまん。理鶯も…って、またタオル取りましたね、理鶯!駄目でしょう、あなたも熱があるんですよ」
「む……」
理鶯も熱?思わず驚いたように理鶯の顔を見ると、バツの悪そうな顔で銃兎を見上げていた。怪訝な表情の左馬刻へ、銃兎は椅子を持ってきて腰かけると説明を始める。
「二人とも、随分環境の悪い牢の中にいたでしょう。傷口から細菌が入ったんですよ。左馬刻はもちろん、理鶯も怪我をしていましたからね。仲良く熱が出ているので、暫く私の家で寝ていてください」
「小官は平気だ」
「駄目です、今森へ帰ったらきっと道中で倒れますよ」
「俺様も平気」
「お前は起き上がれもしねえくせに何言ってんだ」
はあと大きく肩を落とすと、銃兎はタオルを絞って理鶯の額にのせる。冷たかったのか、理鶯がぎゅっと表情を縮めた。
「今回の摘発で、ようやく有休が取れそうなんだ。ま、この状況で遊んだりもできないですからね。看病してやるんだから大人しくしていろ」
やれやれと言った風を装うわりには、あまり嫌そうではない。こういう時の銃兎からは、普段は感じない年上の余裕を見せられている気がしてなんとなく腹のあたりがもぞもぞする。
左馬刻の視線に気づいた銃兎がくすりと微笑むと、ぽんと腹の上を叩かれた。
「ま、たまにはゆっくり休め。看病くらい俺にもできる。大船に乗ったつもりでいろよ」
銃兎は立ち上がると、「何か腹に入れるか」と寝室を出て行った。
数十分後。
ボン!と破裂音がして、左馬刻と理鶯は遠い目をしながらぽつりぽつりと話を続ける。
「な〜、りお…。ウサちゃん、さっきなんつってた?」
「看病くらい俺にもできる」
「あと…なんだっけ。船がどうとか」
「大船に乗ったつもりでいろ、だな」
だよなあ…と左馬刻は熱であまり回らない頭を働かせながら、気怠げに目を閉じた。
うわっ!と聞こえる悲鳴のような声は、どうやらキッチンかららしい。先ほど寝室を出て行った銃兎は、そのまま左馬刻と理鶯の為に何か作ってくれようとしているらしいが。
「キッチンで爆竹でもやってんのか?あのウサ公は…」
普通に料理をしていたらまず聞くことはない筈の破裂音と、驚いたような声。様子が気にかかるが、ベッドから出るなよと言い含められているので一応大人しくしている。正直なところ、発熱と頭痛であまり身体が動かないのもある。
やがて足音が近づいてくると、手にボウルを二つ持った銃兎が心なしか疲れた表情で現れた。
「ほら、飯作ってきた。食ったら薬飲め」
「お〜…。なんか、すげえ音したけど」
「ああ…ちょっと、卵が爆発して…」
「は?」
「あ、いや、何でもない。起きられるか?アーンするか?」
一瞬揶揄われているのかと思ったが、あまりにも銃兎が真剣なツラなものだから面食らう。
「い、いや、自分で食う…」
先に身体を起こした理鶯に支えられながら、どうにか上体を起こしてへッドボードに凭れ掛かる。目眩に襲われてふらついた身体を理鶯の肩に預けると、銃兎からボウルを受け取った。
中を覗くと、やけに水分を含んだ米と、卵の固まったもの――スクランブルエッグのように見えるが――の上に、刻み葱が散らされたものが入っていた。
恐らく、たまご粥を作ろうとして、米を炊いていたら時間がかかるのでストックしてあるサトウのご飯をレンチンしたのだろう。そして先ほどの爆発音は、卵をレンジにかけたせいだ。何故かは分からないが。どうにか固まった卵をそれっぽく崩して米と混ぜ合わせて、パックの刻み葱を散らした。銃兎のキッチンにはちゃんと、お粥の盛り付けに適切な大きさのお椀があった筈だが――以前の飲み会で左馬刻か理鶯のどちらかが洗って仕舞いこんだのが最後なのであれば、仕舞われた場所が分からなかったに違いない。銃兎の家のキッチンについては、家主より左馬刻と理鶯の方が把握している。
「…………」
ウサちゃんはたまご粥も碌に作れないのかよ。
そんな風に、揶揄うことは簡単だったけれど。どうしてか、そんな気分にはならなかった。どこか緊張した面持ちで二人を見下ろす銃兎のツラが「悪いな、あんまり料理は得意じゃなくて…」と歪むのを、進んで見たい訳ではない。
左馬刻は隣で「これはどういった料理だ?」とストレート豪速球を投げようとしている理鶯の腰を小突いて静かにさせると、スプーンで一口掬ってぱくりと口に含む。
銃兎がごくんと唾を飲み込んだのが分かった。
「ん、…うまい」
左馬刻の意図を汲んだのかは分からないが、理鶯が続いて一口食べる。見た目はともかく、それだけでも食べられるような素材しか使っていないのだから、思ったよりも味は悪くない。理鶯も素直に「美味しいな」と呟き、銃兎がこっそりと肩を撫で下ろす。
慣れないことを考えたからか、体力が落ちているのか。半分くらい食べたところでぐるぐると目が回り唸っていると、そっとボウルが取り上げられてあれよあれよと薬を飲まされた。そのままベッドに逆戻りすると、額に絞ったタオルが乗せられる。冷たさが気持ちよくてほうと息を吐いた。微睡んでいると、ベッドサイドに椅子を置いて腰掛けた銃兎が理鶯と何か会話しているのが聞こえる。今、目を閉じたら。深い眠りに落ちてしまいそうだ。――でも。
まあ、大丈夫か。
ゆるやかな眠気と不思議な安心感に包まれながら、左馬刻は素直に意識を落としていった。
▽SIDE:理鶯
気付かないうちに、眠ってしまっていたらしい。森にいる時にここまで深い眠りにつくことはないから、やはり怪我と発熱で、身体が少し弱っているのか。側に銃兎がいてくれる、というのも大きいかもしれない。
窓の外は日が落ちており、かなり長いこと寝ていたのだと分かる。左馬刻はまだ眠っているようだった。
ベッドサイドにいつの間にか設置されている小さなテーブルで、銃兎はPC画面を何やら操作していた。目を覚ました理鶯に気がつくと顔を上げる。
「起きたんですか、理鶯。気分はどうです?」
「やや身体は怠い気はするが…努力すれば通常時と遜色ない行動が可能だ」
「な、なるほど…?無理はしないでくださいね」
PCを閉じる動作を目で追っていると、銃兎が「職業病ですね」と苦笑する。起きた時から感じていた己の身体の違和感に気づいて、理鶯は服の袖を摘んだ。
「服が変わっている」
「ああ、二人とも汗で寝苦しそうだったので」
「そうか…ありがとう、銃兎。ところで、何やら焦げ臭い匂いがするようだが」
「えっ、あ、いや、気のせいですよ!そうだ、何か飲みますか?喉乾いたでしょう」
「む、そうだな…、では、すまないが何か冷たいものを貰えるだろうか」
取ってきますね、と寝室を出て行った銃兎を見送る。小さな寝息に視線を落とすと、左馬刻は深く寝入っているようだった。無造作に投げ出された腕が布団からはみ出ていたので仕舞ってやり、額に置かれたタオルを取る。手のひらを乗せると、じんわりと熱い。
「まだ熱は引かないみたいですね」
戻ってきた銃兎からコップを受け取り、口をつけた。ミネラルウォーターにじゃらじゃらと氷が入っている。何度か喉を鳴らせば、喉元を通るすっきりとした感覚に頭が冴えてきた。
「そうだな…だが深く眠っているようだ。このまま休んでいれば回復するだろう」
コップをテーブルに置き、銃兎と一緒に左馬刻の寝顔を観察した。半開きになった唇に、無防備に晒されている喉元。初めて出会った頃に比べれば、随分と気を許してくれるようになったと思う。銃兎も同じことを思ったのか、穏やかな顔をしていた。
「一般人を人質に取られた、と言っていましたね」
銃兎が左馬刻を見る視線は、優しい。責める様子ではないことが分かったので、素直に肯定する。
「そうだな。…左馬刻らしい、と思う」
「理鶯もね。まぁ、あなたは大人しく着いて行って左馬刻の姿を確認して、その後暴れて脱出すれば良い、くらいには考えていたでしょう」
「否定はしない」
ただ、左馬刻が動けないほど怪我を負っていたことだとか。敵に思ったよりも手練れがいたことだとか。いくつかの想定外が重なって、結果それなりにピンチであったことは確かだ。
考え込んでいると、銃兎の手のひらがぽん、と頭に降りてきた。誰かにこうして撫でられたのはいつぶりだろう。子供扱いされているような、そうではないような不思議な心地だ。銃兎の、どこか慈しみをも含んだ表情と視線が、そうさせるのかもしれない。
「いいんだ」
「…?いい、とは?」
銃兎はふっと笑うと、ベッドに腰掛ける。
「左馬刻は、…俺たちのリーダーは馬鹿で短気で乱暴だが、どこまでも真っ直ぐで折れることはない。だから、ああ言う時は、俺がここを使う」
トントンと、銃兎は自分の側頭部を人差し指の先で叩く。
「だから、コイツにはそのままでいてくれりゃあいい。ま、文句は言うがな」
内緒ですよ、と唇に立てられた人差し指に、理鶯は笑って首肯する。
「では、小官も左馬刻の右腕となろう」
「ふふ、左馬刻なら三人で肩組むんだよ、くらいのことは言い出しそうですね」
二人で肩を揺らして笑った後、銃兎がところで、と声量を抑える。
「どうした?」
「その、まだ身体が辛くないのならで良いのですが…たまご粥、の、作り方教えてくれないか……」
「たまご粥?だがさっき…」
「年下に気を遣われたまま、ってのも威厳が無いですし。ったく、こういう時だけ無駄に気ぃ回しやがって、この男は…」
左馬刻が気を遣っていたことに気づいていたのか。先ほどの焦げ臭い匂いは、銃兎なりにリベンジしようとした結果なのかもしれない。
理鶯は頷くと、銃兎でも作れるよう難易度の低いレシピを頭に思い描いたのだった。
▽SIDE:銃兎
読んでいた本の最後のページの捲って、銃兎はほうと息を吐くと目頭を抑えた。何か飲もうと本を置いたところで、左馬刻がぼんやりと瞼を開けていることに気が付く。
「じゅーと…」
「随分寝てたな。腹減ったか?あー、つっても今は米と…鯖の水煮缶とチーズしかないな。あ、確か冷凍のうどんがある。うどんはどうだ?」
「鯖……」
「鯖缶か?」
「ちげえよ……今は、いい。何か冷たいもん飲みてえ」
「はいはい。理鶯と同じな」
ウォーターサーバーから水をコップに注ぎ、製氷器から氷を入れる。左馬刻に手渡せば、両手で抱えてちまちまと飲み始めた。顔色は眠る前よりはだいぶマシになったが、元が白いせいで発熱からくる頬の赤みが透けている。まだ熱は下がらなさそうだ。
左馬刻から空のコップを受け取り、ベッドに腰掛ける。ぎしりとマットレスが沈んだが、眠っている理鶯は珍しく起きなかったようだ。
そのまま再び眠るかと思ったが、左馬刻は上体を起こしたままぼんやりとしている。その首筋を汗が伝っているのを見とめて、銃兎はタオルを手に取った。
「汗拭くぞ」
「ん、っ、いて…!おい、力強えって」
「わ、悪い」
ついいつもの左馬刻にする調子で力を込めてしまった。病人なんだから、優しくするべきか。証拠を集める鑑識の手つきを想像しながら汗を拭き取る。
「鑑識、かんしき…」
「何言ってんだ…?」
怪訝な視線を向ける左馬刻のデコを押して無理矢理寝かせると、ほうと息を吐く。冷静に、と言い聞かせてきたが、左馬刻と理鶯が二人揃ってダウンしていることに、思いの外動揺しているのかもしれない。
休んだ方が良いのだろうが、紅の瞳が天井を眺めているので、少し付き合ってやることにする。話を促すように待っていれば、やがてカサついた唇が開かれた。
「理鶯、…何か言ってたか?」
「理鶯?何のことだ?」
「…理鶯一人なら、捕まることなかっただろ」
「…ああ、そういうことか」
何のことかと思えば。自分のせいで理鶯が捕まって怪我をしたことを気にしているのか。恐らく普段ならこうはならないだろうが、左馬刻も身体が弱っていると少し弱気にもなるらしい。珍しいものを見るような目つきで林檎のような頬を見つめると、理鶯にした時と同じ手つきでぽんと頭を叩いた。
「お前が心配するようなことは何もないさ」
上目遣いのルビーの瞳が、僅かに揺れる。
「左馬刻らしい、と言っていたな。ったく、いつもの強気はどうしたよ。慣れないこと考えてると熱上がるぞ」
「…うっせ」
「そもそも、それを言うなら私にもでは?一番の被害者だと思いますがね」
「ウサポリは俺のことたすけるのがしごとだろ…めいわく、かけてもいいし…」
「なら理鶯も同じだ。ほら寝ろ、さっさと寝ろ。言葉が平仮名になってるぞ」
眠気に襲われているのだろう、何度も瞬きを繰り返しながら、呂律も怪しくなっていく。今話しても、きっと起きた頃には忘れているだろう。だから。
「お前の迷惑なんて、今に始まったことじゃない。いつもみたいに真っ直ぐに立って、前向いてろ。隣には俺たちがいる」
少しだけ、本音を教えてやろう。
左馬刻は銃兎の言葉を理解できたのか、聞いていなかったのか。どちらかは分からないが、少しだけ安心したように息を吐くとゆっくりと目を閉じた。暫くして小さな寝息が聞こえてくる。
隣の理鶯と同じような無防備な寝顔に、思わず顔が緩む。
「…ゆっくり休めよ」
銃兎はそう呟くと、寝ている二人に掛け布団を被せてやった。
▽SIDE:左馬刻
部屋の中に、朝の涼しい空気が入り込む。薄明かりが空を染め、夜が白み始めていた。
「あ〜、すげえ寝た…」
「少し寝過ぎてしまったな」
カーテンの隙間から差し込む日差しが寝室に線を引く。久しぶりにぐっすりと睡眠をとって、頭がさっぱりしていた。寝る前に感じていた怠さもなくなり、すっかり回復していることを自覚する。
上体を起こすと、手に何かが当たった。視線を動かすと、ベッドに上半身を突っ伏した状態で眠っている銃兎がいた。
「うお、なんでこんなところで寝てんだ」
「ずっと看病してくれていたのだな。ベッドに寝かせておこう」
理鶯が軽々と銃兎を持ち上げて、二人が起きたことで空いたスペースに寝かせる。されるがままに移動させられて何やらもにょもにょ口が動いたが、目は覚めなかったらしい。無造作に落ちた前髪のかかる眼鏡を取って、テーブルに置いてやった。
「やべ、身体バキバキ」
う〜んと伸びをすると、背骨のあたりからいい音がした。凝り固まった全身をほぐすように伸ばしていく。カーテンを全開にして眩しい朝日が部屋を照らしても、銃兎は目を覚さなかった。よほど夜遅くまで起きていたのだろうか。
左馬刻は銃兎の目に陽が射さないように少しだけカーテンを閉めると、リビングに向かって歩き出す。ストレッチをしていた理鶯も後に続いた。
リビングに続くドアを開けて、――左馬刻は、ぴしりと固まる。
「…………」
「…………Oh」
「…あ〜……、あんのウサポリ、極端すぎんだろ…!」
物が少なくてスッキリとまとまっている筈の銃兎の家のリビングは、あちこちに着替えやタオルが散乱しており見るも無惨な惨状が広がっていた。出しっぱなしのティッシュや、床に落ちたハンカチ。薬の箱や、体温計。飲みかけの、結露で酷く濡れたコップ。
銃兎はあまり家事をしないし料理の腕はほぼ無いに等しいが、片付けられない男ではない。にも関わらずこの惨状は、きっと慣れないことをしたのもあるだろうが――恐らくは、左馬刻と理鶯の看病を最優先にした結果だ。その証拠に、ソファにかかっている衣服に銃兎のものは含まれていないし、出しっぱなしになっているものは看病する為に使用した形跡のある物ばかりだった。
当然のように与えられていたものに、左馬刻は胸の奥の方がむずむずしてくるのを感じる。部屋を見渡して、込み上げるものを押さえてから、仕方ねえなあとでも言うように腕を回した。
「しゃーねえ、片付けてやっか」
散らばった服を拾い畳むと、テーブルに広げられた体温計や薬の箱を片付ける。一つ一つ片付けるごとに、銃兎がこれをどれくらい慌てて準備していたのか、そしてどれだけ心を砕いて左馬刻と理鶯の側にいてくれていたのか容易に思い浮かんだ。薬局のビニール袋の中に、風邪薬が3種類くらい入っていて思わず笑ってしまう。
散らばった衣服を纏めて洗濯しようと洗面所へ行こうとしたところで、理鶯に呼び止められた。
「どーしたよ」
「これを見てくれ」
呼ばれた方向のキッチンへ向かうと、理鶯はコンロに置いてある鍋の蓋を開ける。覗き込めば、まだ僅かに湯気の立つたまご粥が入っていた。熱を出していた時に、銃兎が持ってきたものとは明らかに出来が違う。まさかもう一度作ったのか。首を傾げると、理鶯が人差し指を口元に添えて内緒話をするかのように小声で話し出す。
「左馬刻が寝ている間に、たまご粥のレシピを聞かれたんだ。小官らが寝ている間に、こっそりリベンジしたらしいな」
「…は〜〜……。ったく、…理鶯、ちょっと手伝え」
服の袖を捲ると、冷蔵庫の中身を確認する。必要なものを考えながら、手近な紙にメモを書きつけた。それを理鶯に手渡す。理鶯はメモを眺めると、ニコリと微笑んだ。
「すぐに調達してこよう。銃兎は、きっと喜ぶ」
メモに書いたのは、チーズや牛乳。玉ねぎに鶏肉、コンソメなどの具材たち。――以前、何かの折に気まぐれで作ったら銃兎が大絶賛してくれた、グラタンの材料だった。
買い出しに出かけた理鶯を見送り、さて、まずは。未だ散らかったままのリビングを睨みつけて、よしと気合いを入れた。掃除が終わった頃には、理鶯は戻ってくるだろう。そしたら二人でグラタンを作って、それから銃兎を起こしてやろう。
きっと銃兎は、――顔を輝かせて、「ありがとう」と言うだろうから。その時は、左馬刻も素直に「ありがとう」と言える気がした。
END