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    『ペイル・ブルー・ドット』
    とある毒薬を巡るMTCの話。
    ※暴力、流血、命の選択を強いられる表現

    2024/4/27-29 全年齢ハマCPなしwebオンリー Drown In The Blue​- 春和景明 万客来来 大横濱祭 - での展示作品です。

    #Drown_In_The_Blue2
    #MADTRIGGERCREW

    ペイル・ブルー・ドット キン、とジッポを開く音が無音の室内に響いた。 
     咥えた煙草の先に火を付け、深く息を吸う。存分に肺を煙で満たしてから、また吐いた。敢えてゆっくりと、時を焦らすように行ったその行為は、ともすれば激情に駆られそうになる銃兎自身の為であった。銃兎はこの場所へ、怒鳴りに来た訳でも、喚きに来た訳でも、ましてや喧嘩をしに来た訳でもない。黒を基調に統一された室内の奥、壁に飾られた”不撓不屈”の文字。そのすぐ傍に、一振りの日本刀。あの刀が模造刀ではないことはとっくの昔から知っていた。
     左馬刻の事務所で、この部屋の主は持ち主の為の革張りのソファに腰掛けて、行儀悪く足をデスクに乗っけていた。銃兎の一連の行動を見やると、とっくに火を付けていた煙草を吹かす。そして、「機嫌悪ィな、じゅーとぉ」と呟いた。
    「悪くもなるさ、こんな事態じゃあな。…それで、収穫はあったのか」
     デスクに置かれた灰皿へ煙草の灰を落とし、銃兎は背筋を伸ばした。ゆらゆらと遊ぶように揺れる紅玉を射止めるように翡翠の瞳が貫く。仕事の話の合図だ。尤も、貫かれた本人はどこ吹く風で、上げた脚をデスクから降ろそうともしないのだが。
    「ン、あるぜ。俺様が管轄してる店とも知らねえで遊びに来たらしい。嬢相手にべらべら喋ってくれたってよ」
     そう言いながらデスクの引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。差し出されたそれを、立ち上がり取りに行った。存外素直に渡された紙の表面に、ローマ字で文字が書かれている。
    「more…もれ、とん?」
    「ローマ字読みならそうだな。尤も、そいつはそれ以外は何も知らされてなかったらしいが。下っ端中の下っ端だな」
    「そんな末端の奴でも名前までは知ってるってことか。クソッ…!」
     吸い終えた煙草を灰皿に押し付けた左馬刻が、今度は翡翠を射貫くように紅玉をぎらつかせた。
    「んで、お前の方はどうだったんだよ」
    「ああ、警察病院に入院している患者のカルテを見せてもらった。当時被害者は三人、その内の一人だ。全身に黄緑色の痣が徐々に広がり、痣の範囲に比例するように呼吸困難や発熱などの症状がでたらしい」
    「残りの二人は」
    「……死亡した。この一人も予断は許せない状況だ。最新の医療機器で、かろうじて命を繋ぎ留めてる」
    「…なるほどな」
     再び室内に沈黙が下りる。横目で見た左馬刻の目の下には濃い隈が浮かんでいた。勿論ここ数日碌に寝ていない銃兎にも同じものがあるのだろうが、ひと時たりとも休みたくない理由が銃兎にはあった。ここ最近、警察も火貂組も忙殺を余儀なくされている、原因不明の毒物のせいだ。正確には、毒物なのか薬物なのかはっきりとは分かっていない。左馬刻の寄越した情報によれば”モレトン”と言う名前のそれが、ヨコハマ市内の半グレやヤクザの間で高額で取引されているという。使用された人間は先の一人を除いて全員が死亡しており、モレトンの詳細を一刻も早く掴み回収することが警察の急務となっている。薬物を禁止している火貂組も同様に、敵対組織に渡る前に回収、廃棄するのが目的だ。組内で白羽の矢が立った左馬刻は今でこそ余裕ぶって椅子に座っているが、四方八方を駆けずり回った後だと知っている。泥で汚れたマーチンを一瞥すると、銃兎はソファに深く腰掛けて息を吐いた。
    「隈がやべえぞ、ウサチャン」
    「お前もな…。そういえば、理鶯は?理鶯にも協力を依頼したと言ってなかったか」
    「ああ、呼んでるぜ。もうすぐ来るんじゃねえ?」
     コン、とドアをノックする音が響き、左馬刻は「タイミングばっちりだな」と笑う。「失礼する」と真面目な挨拶と共に入室した理鶯は、いつもの迷彩服のまま銃兎の向かい側のソファに腰を下ろした。
     左馬刻と銃兎の持つ情報を伝えれば、理鶯に目線だけで問われて銃兎は左馬刻から渡された紙を渡した。表面のローマ字を眺めた理鶯が眉を動かす。
    「moretón…スペイン語で”痣”と言う意味だな」
    「へえ」
    「良く知っていますね、理鶯」
    「たまたまだ、ネイティブではない。この毒薬については小官も聞き及んだことがある」
     理鶯の言葉に、銃兎は勢いよく立ち上がる。今、理鶯は毒薬と言わなかったか。
    「理鶯、何を知ってるんです。この際情報の入手経路には目を瞑りましょう、全て教えてください。それに今毒薬と言いましたね?モレトンは薬物ではないと?」
    「おいおい、落ち着けってじゅーとよぉ」
     矢継ぎ早に捲し立てた銃兎の背後から、左馬刻の間延びした声が届いた。これまでの情報から、モレトンが薬物である可能性は十分にあった。一刻も早く、この手で。その気ばかりが急いていた銃兎の視界を覆っていたものを、左馬刻はいとも簡単に取っ払う。灰皿に煙草を押し付けて、銃兎はソファに再び腰を下ろした。焦っても何もいいことなどない。ましてやこの場で理鶯を急かすことに何の意味もない。深く息を吐くと、「すまない」と呟き黙って理鶯の続きを促す。
    「小官も詳しく知っている訳ではないが…。スペインのイカれた科学者が作り出した毒物だと聞いている」
    「イカれた科学者ァ?」
    「所謂、マッドサイエンティストという部類だな。その科学者の遠い親戚が日本に住んでいて、モレトンを使いヤクザ共相手に取引をして金を稼いでいる、と」
    「りお~は何でも知ってんな」
     誇らしげな表情の左馬刻にガキかよと思いつつも口には出さず、銃兎は脳内で情報を整理する。
    「つまり、スペイン出身のマッドサイエンティストが作り出した毒物を、ヨコハマで売り捌いている奴らがいるってことか」
     薬物ではないとはいえ、警察として到底見過ごせるものではない。メモを取りながらこの後の動き方を考えていると、椅子から降りた左馬刻が銃兎の隣にやってきてドカリとソファに座った。
    「喰らったら死ぬっつう毒物をわざわざこのヨコハマで売り捌こうなんざ、俺様に喧嘩売ってるとしか思えねえ。気に入らねえな」
    「売人共を一掃するなら付き合おう。ちょうど弾薬が足りなくなっていてな」
    「お~、終わったらたんまりやんよ」
    「おい、そういうのは俺のいないところでやれ」
     聞こえなかった振りをして立ち上がると、ドアへ向かう。腕時計を見ればそろそろ署に戻らないといけない時間だ。ちらりと振り返ったが理鶯は座ったままだったので、この後武器の違法譲渡の話でも進めるのだろう。「また何かわかったら連絡する」とだけ言い置いて、銃兎は左馬刻の事務所を後にした。






     

     パチパチと火の爆ぜる音が鼓膜を揺らす。手にしていたマグカップの中身を飲み干した左馬刻がほう、息を吐き肩の力を抜いたのを見て、理鶯は自分の分のコーヒーを飲み干した。
    「そろそろ休むか」
    「ん、…おう」
     銃兎がいない時の左馬刻は、存外に静かだ。子供みたいなことで言い合いをする二人を何度も見てきたが、ああすることで得られる信頼があるのだろう、と理鶯は思っている。兄弟のようなじゃれあいは、いっそ微笑ましささえ感じられた。逆に、理鶯といる時の左馬刻は比較的静かで、それでいて銃兎に告げるのは気恥ずかしいのだろう話をぽつりぽつりと話すことが多い。「理鶯はどう思う?」と上目遣いに聞いてくる左馬刻は、まるで父親に人生相談をする子供のようでその信頼が少し擽ったかった。
     ここ数週間駆けずり回っていたららしい左馬刻は、疲れた顔をしていた。忙しい合間を縫ってここへ来たということは、街の喧騒から離れて少し休みたかった、といったところだろうか。ご飯を食べ、コーヒーを飲み終わってもぼうっと焚火を眺めているのを見て、今日は泊まりたいのだろうと判断した理鶯は正しかった。テントに入り、二人分の寝袋を準備する。適当にアロハを脱ぎ捨てて上裸になった左馬刻が寝袋に入り、テントの天井を見上げた。春が近づいて温かくなってきたから、風邪を引くことはないだろう。理鶯も同じように上裸になると、左馬刻の隣に敷いた寝袋に入る。
     ランタンの光を消し暗闇に包まれると、次第に夜の森の声だけが耳に届くようになる。理鶯は真っ暗な天井を見上げながら、いつまでたっても寝息を立てない左馬刻が話し始めるのをじっと待っていた。チチチ、と虫が鳴いて春の訪れを知らせている。
    「…理鶯、起きてるか?」
    「ああ」
     顔だけを左馬刻の方へ向けて返事をする。夜目の効く二人だから、うっすらとだかお互いを視認できた。左馬刻も少しだけこちらへ顔を向けていたが、ごそごそと寝返りを打つと理鶯に背中を向けた。そのまま、再び口を開く。
    「お前はよ、…昔、軍にいただろ」
    「そうだな」
    「その時…お前にも上司ってやつがいたんだよな」
    「ああ、そうだな」
    「そいつを庇って怪我したこととか、あったか?」
     少し考える。戦場にいた頃の記憶は鮮明で、苛烈で、だからこそ不明瞭であった。印象深く覚えていることはいくつもあるけれど、裏を返せば大多数は無数の当たり前になって、記憶には残らない。
    「…あるな。少佐殿を咄嗟に敵の攻撃から庇い、腕を負傷したことがある。切断する一歩手前であったが、運よく元通りになった」
    「……そういう時、後悔しねぇの?」
    「上官を守るのは部下の使命でもある。庇ったことで命を守れたことを誇りこそすれ、後悔などはしていない」
    「…ふぅん」
    「左馬刻も組織に身を置く身だろう。同じではないのか?」
     暫くの間、返答はなかった。だが寝ている訳ではないと分かっていたから、ただ黙って左馬刻の言葉が纏まるのを待ち続ける。やがて、左馬刻が寝返りを打ちもう一度こちらに顔を向けた。
    「同じに決まってんだろ。…昨日、舎弟が俺を庇って腹刺されてんだよ」
    「…そうか」
     その言葉で、全て分かってしまった。左馬刻が聞きたかったこと。吐き出したかったこと。
     舎弟の家族の誕生日まで把握しているような男だ。だからこそ慕う舎弟も多く、若輩の若頭にも関わらず信頼関係が成り立っていた。左馬刻は昨日と言ったが、そういったことはこれまでにも何度もあったのだろう。そして、その度にきっとこうして考えていた。命を捨てて庇うなと言うほど温くもない。だが、ひとりの人間の命に貴賤のないことを、誰かの大切な人間であることを、左馬刻はよく知っていた。
    「お前はよ、…もし、俺が………」
    「なんだ」
    「…いや、何でもねえ。もう寝る」
     滅多にない左馬刻の弱音を、きっと銃兎ならば聞かなかったフリをしてやるのだろう。生憎と、左馬刻が理鶯に求めているものはそうではないと分かっていた。
    「…MTCのリーダーは、左馬刻だ。だかそれ以上に、大切な仲間でもある。仲間を守ることに理由が必要なのか?」
    「…………」
    「きっと銃兎でも同じことを言うだろう。………おやすみ、左馬刻」
     ごそごそと音を立てて、左馬刻が仰向けになり目を閉じる。ややあって、小声で「おやすみ」と呟いた。そのカリスマ性と求心力ゆえに、常に人の上に立つ男だ。その胸の内が非情になりきれないがゆえに、心を痛めるような男だ。それでも、意地とプライドと虚勢で前を向き続ける男を、理鶯は誇らしいリーダーだと思った。





     

     朝方に理鶯のベースキャンプを後にするや否や、モレトンを巡る事態は急変した。いつだって、終わりの始まりは突然来るものだ。シマの見回りの最中に銃兎から着信があり、珍しく焦った様子の男が左馬刻の返事も聞かずに捲し立てる。
    『今晩、北のコンテナヤードで取引があるという情報が入った。情報が本当なら、末端価格で億はくだらない大規模取引だ。左馬刻、お前はどうする』
     モレトンの行方は、これまで左馬刻と銃兎、つまり火貂組と警察が協力して追いかけていたものだ。銃兎が警察を動かしてしまえば、火貂組は手出しできなくなる。だから左馬刻へいの一番へ連絡をしてきたらしいウサちゃんに、コイツもようやくヒトを頼るってことを覚え始めたかと思うと自然と口角が上がった。野心と有り余る行動力で誰にも言わず突入し、独りボロボロになっていた銃兎が懐かしい。
    「行くに決まってんだろ。理鶯にも声かけとく」
     この言葉で、今回の案件が火貂組でも、警察でもなく、MTCとしての事案だと決まったようなものだった。『分かった』と返事をした銃兎が時間と場所を告げて通話を切る。あの毒薬がばらまかれてしまえば、ヨコハマの混乱は免れられない。真昼間にもかかわらず、空は重たい雲がかかりどこか薄暗い。雨が降ると厄介だなと思いながら、左馬刻はヨコハマの街を歩きだした。

     待ち合わせの場所に見慣れた黒いスーツ姿を見つけ、左馬刻は足早に駆け寄る。昼に憂いていた通り、夜には本格的に雨が降り出していた。コンテナヤードの端の屋根の下で、ダストボックスの影に身を潜める。傘など差せる筈もなく、何よりも煙草が吸えないことが苛立ちを助長させる。敵の見張りの目も届かないこの場所には、左馬刻と銃兎の二人だけだった。事前に三人で立てた作戦で、理鶯は万が一のことを考えて別行動をとっている。
     銃兎が腕時計を確認し、「そろそろだ」と合図を出す。ヨコハマでも有数の広さを誇るここのコンテナヤードは東西南北のブロック毎にエリア分けされており、一番海に近い東側のコンテナ付近で取引が行われるらしい、というのが銃兎が掴んだ情報だ。この場所からはそれなりの距離を隠れながら移動する必要がある。
     こそこそと隠れるのは面倒臭え、正面から叩きのめすのが一番だろと胸の内で思ってはいたが、以前、同じように潜入した時に左馬刻が隠密行動を取らなかったために銃兎が怪我をしたことがあった。幸いにも軽傷で済んだものの、もしあの鉛玉が運悪く心臓を貫いていたら。頭に当たっていたら。病院のベッドの横に座りうなだれていた左馬刻を物珍し気に見やった銃兎は、深く溜息を吐きながら「次から気を付けてくれればいい、気にするな」とだけ言うと、頭を上げられない左馬刻の後頭部をポンと叩いたのだった。
     事前に決めていたハンドサインに従いながら、大人しく銃兎の後ろを着いていく。素直に従う左馬刻に、一瞬だけ銃兎が吃驚したような表情をしたが見なかったことにした。それなりの距離を移動する頃には、強風に嬲られ横殴りの雨に打たれる羽目になっていた。濡れて頬に張り付いた髪をかき上げる。前方の「止まれ」の合図に足を止めた。そっと物陰から伺えば、ちょうど男が二人、何やら話しているところだった。
    「…あいつらか。何も持ってねえな?」
     小声で呟けば、「億は下らないって言っただろ。手に持てるような量じゃない筈だ」と銃兎の後頭部が返事をする。独り言とも取れる声量だったが、流石に耳が良い。二人とも黒いスーツにサングラスをかけているせいで、どちらが売人なのか見分けがつかない。分かるのは、片方は金髪でもう片方が茶髪であることくらいか。片方はヤクザである可能性が高い筈だが、どちらも見たことのある顔ではなかった。
    「奥にいる金髪の方が売人だ。手前、見覚えあるか?」
     なるほど。確かに理鶯は、売人はスペイン出身のマッドサイエンティストの親戚にあたる男であると言っていた。ならば金髪の方が売人である可能性は高い。正直気づいていなかったので、素直にコイツ頭良いなと思った。
     「グラサンが邪魔だが、多分知らねえ顔だな」
     あの二人だけならばどうにでもなるが、辺りに仲間が潜んでいる確率は高い。理鶯に合図を出して、離れた所で暴れてもらいその間にとっちめるのが得策か。そう考えていたところで、左馬刻は目を見開く。銃兎も同じだったのか、唖然とした顔で思わず立ち上がった。いよいよ本格的に振り出した雨の音で、ここまで足音に気づけなかったのが仇となった。
     びしゃり、とコンクリートの水たまりを踏みながら、光源が近づいてくる。ゆらゆらと不安げに揺れるそれは、手にしたスマートフォンのライトだった。辺りを照らしながら、「どこにいるの?母さんはこっちよ!」と叫ぶ、女性の声。
     さあ、と血の気が下りていく。
     あまりのタイミングの悪さに、チッと舌打ちを打った。あの様子では、正真正銘迷い込んだだけの一般人だ。
     黒服の二人が女性の方を振り向き、訝し気な顔をする。
    「なんだあ?テメェ…」
    「え、…え、なに、…ひっ!」
     女性は寝巻と思われる格好にカーディガンを羽織っただけで、口ぶりからして迷子になった子供を探していてここへ来たのだろう。突如黒服の男から向けられた銃口に青褪めると、腰を抜かしてへたり込んでしまった。
     左馬刻と銃兎はほぼ同時に舌打ちをする。女性に気が向いているのか、まだ左馬刻と銃兎が気づかれている気配はないが打開策がなければ同じことだ。
    「あ、あたし、息子を探して‥‥」
    「ああ?なんだたまたま迷い込んだだけか…」
    「だが見られたことに違いはねえ、消すぞ」
    「そうだな」
    「待て!!「おい待ちやがれ!!」」
     走り出したのも声を上げたのも、ほぼ同時だった。二人で女性を庇うように前に出ると、銃口を向けていた黒服が片眉を上げる。
    「アアン…?お前らは、…ッ!まさか、碧棺左馬刻…!!」
     茶髪の方の男が露骨に狼狽えだす。真っ先に左馬刻に反応するということは、やはりこっちがヤクザだったか。忍ばせていたマイクに手を伸ばし、銃を持っている金髪の男を睨みつける。
     銃兎がマイクに手をかけながら、ハリのある声で「動くな!」と叫んだ。
    「証拠は挙がっている。大人しく投降しろ」
    「ほう…入間銃兎か。なるほど、マッドトリガークルー総出でお出ましってワケかい」
     銃兎が眉を寄せたのを視界の端で捉える。どうやら思ったより頭の切れるやつらしい。咄嗟のことでマイクに手をかけてしまったが、懐に入れていたチャカの方が良かったか。左馬刻の存在に狼狽えた様子の茶髪とは対照的に、銃を持った金髪の男の余裕は崩れていない。どうにかして待機中の理鶯に連絡を入れられたら。
    「まあまあ、入間銃兎さんよ?そんなに慌てなくとも、ちゃあんとカタはつきますよ」
    「あ…?」
     MTCとしても有名な碧棺左馬刻に、入間銃兎。そして、背後に一般人の女性が一人。ヤクザ者ならば、真っ先に狙うのは──
     金髪の歪められた目が、ほんの僅かに横へ逸れる。その動きで、銃兎がガバリと後ろを振り返った。それよりも早く後ろを振り向いていた左馬刻の視界に、黒光りするモノが入る。思考の予知などない。咄嗟に、身体が動いていた。
     バンッ!!
    「きゃあっ!!!!」
     強引に押し倒された女性がビシャリと水溜りに手をつき甲高い悲鳴を上げる。女性の手が沈む水溜まりが、一気に赤く染まっていった。一寸遅れて、脇腹に鈍い痛み。
    「左馬刻!!!!」
     身体中の熱が、脇腹から抜き取られていくようだった。冷たい雨は体温を奪う。傷口を押さえている手のひらに力が入らない。そして、──ある、違和感。
    「ぐ…っぅ…?」
     体内に残っていた弾丸が、カッと熱くなったような感覚。否、弾丸のガワだけが体温で溶けてなくなったのだった。中身の液体が血液を辿って全身へ流れる。その感覚を鮮明に感じられたのも、最初だけだった。
    「ア、…ッぐ、ア…………ッ!」
     撃たれた脇腹に激痛が走り、ビシャリとした水音がすぐ耳元で響いた。地面に倒れ打ち付けられた──のではなく、駆け寄った銃兎が水溜まりを踏みしめた音だった。慌てたように左馬刻を呼ぶ声が、どこか一枚膜を隔てたように聞こえる。
     脇腹から、じわじわと麻痺していくかのように身体が動かせなくなっていく。息が、苦しい。必死に酸素を取り込もうとした喉がかひゅ、と情けない音を立てて、その音で銃兎が悲痛なカオをしたのが分かった。なに慌ててんだ。俺様の仲間なんだから、もっとどっしり構えてろよ。
     目を見開いた銃兎が何かを必死に叫んでいる。お前の方がうるせえよ、とでも憎まれ口を叩きたいのに、もう1ミリたりとも身体を動かせそうになかった。激痛と酸欠で急速に意識が遠のいていく。銃兎の指が頬に触れたのを最後に、ぷつりと糸は切れていった。
     

     



     
     雨だけではない要因で、さあ、と全身の体温が下がっていく。呼びかけに反応しなくなった左馬刻は、意識を失ったにもかかわらず眉間に深い皺を寄せ、苦しげな表情のままだった。力の抜けた手のひらの代わりに、ぐっと傷口を抑える。そして、強く奥歯を噛んだ。不運を呪っている余裕などない。今、やるべきことをやらなければ。
     銃声に反応したのか、辺りにいたであろう下っ端の男達がゾロゾロと湧き出てきた。左馬刻の頭を胸に押し付けるように横抱きにして、女性を庇うように立つ。嫌な汗が背を伝うのを感じた。
     金髪の男が耳障りな声を荒げて笑い始める。
    「ハハハッ!こりゃあ傑作だ!!まさか泣く子も黙るヤクザが女を庇って撃たれるなんてなあ」
    「テメェ…!」
     自らの優勢を悟り再び威勢を取り戻した茶髪の方が、ニタイタと倒れた左馬刻を目で嬲る。その視線に晒したくなくて、冷えた身体を深く抱え込み直した。
    「もう碧棺は助からねえよ。じきに呼吸困難で苦しむさ」
    「呼吸、困難…?ッ、まさか…!」
    「おいおい、まだ気づいてないのか?撃ったのは銃弾じゃあない。──”moretón”さ」
    「────ッ」
     ぐるん、ぐるん。まるで走馬灯のように、様々な記憶が銃兎の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。毒物。薬物。……毒物?薬物──?打たれた人間は黄緑色の痣が広がり、発熱と呼吸困難で死亡する。摂取してから何時間持つ?死ぬまでの時間を延ばす方法は。解毒薬はあるのか。あるなら誰が持っている?かひゅ、と銃兎の鼓膜を揺らした力ない呼吸音に、プチン、と何かが切れた音がした。銃兎と理鶯を両隣にして、年相応の顔で笑う左馬刻の笑顔が頭を過る。まるでようやく懐いてきた野良猫のようなそれに、胸のうちがあたたかくなったことも。やめろ。何で今思い出すんだ。
     金髪の男が勝ち誇った笑みを浮かべる。
    「弾丸タイプは通常の倍の量だ。さぞ苦しいだろうなあ」
    「──ぇ」
    「ああ?」
     マイクを持つ手が震えた。左馬刻を失うことへの、恐怖のためではない。悲しみのためでもない。──怒りのためだ。
    「───左馬刻は、死なせねェ!!」
     ブォン、と鈍い音と共に起動したスピーカーは、真っ赤なパトランプを煌々と輝かせて夜のヨコハマの空を照らした。マイクの起動、スピーカの起動。ビートを流し、頭の中で組み上げたリリックの照準を合わせるまで。何度も何度も繰り返し行ってきた動作を、今この瞬間は脳を経由することなく反射だけで行っていた。慌てた男が拳銃を持ち上げて照準を合わせるよりも、激昂した銃兎のスピーカーが照準を合わせる方が僅かに早かった。対大勢の捕縛を目的とした拡散型のスピーカーは、こういう時に本領を発揮する。怒号。罵声。激昂。そして、沈黙。ポツ、と頬を打った雨に、ようやく自分を取り戻す。ずっと前から降り続けていた雨に、まるで今気がついたような心地がした。気がつけば、この場に立っているのは銃兎だけだった。
     血が脳を巡り、一気に酸欠であることを自覚して盛大に咽せこむ。呼吸を整え肩を上下させると、背後で怯えきって震えている女性の目線に合わせて屈み目を合わせた。
    「ここから離れて、警察を呼べますか」
    「ぁ、……あ、……」
    「立って、走れますか」
    「ア…………っは………で、でも、……」
    「息子さんを、探しているのでしょう」
    「…………ッ!」
     そう問えば、母親の顔つきになりすくっと立ち上がる。「ありがとうございました」と礼を言い走り去った背中を見送った。上手いこと残党に見つからず離れられることを願うしかない。暗闇と土砂降りの雨が今度は味方してくれると良いのだが。銃兎は母親の姿が見えなくなるまで見守ると、すぐに足元に倒れている左馬刻を抱き起こした。
    「左馬刻、さまとき…!おい、しっかりしろ!」
     肌蹴たアロハシャツの隙間から見える肌が、薄い黄緑色に染まり始めていた。前を開けば、撃たれた脇腹から広がった痣が左馬刻の身体を侵しているのが見て取れて、ぎり、と歯を噛み締める。ひゅ、かひゅ、と不規則に胸を引き攣らせる様子に、背筋を雨ではない雫が伝った。
     手袋を外し、冷たい頬に手を当てる。
     危ういが、呼吸はしている。首筋に手を添えればじっとりとした温かさを感じた。モレトンの作用による発熱だ。アロハの前を整えて丁寧に横たえ、ジャケットを脱いでかけてやる。ずぶ濡れで重たくなったそれが意味を成すのかは分からないが、無いよりはマシだと思いたい。
     倒れている金髪の男に近づいて、黒いスーツのポケットをまさぐった。ポケットを一つ探る内に、段々と呼吸が早くなっていく。パンツの右ポケット。左ポケット。胸元のポケット。深呼吸して、目を瞑った。そしてすぐに開く。半ば祈るような気持ちで手を伸ばしたジャケットの内側に、膨らみがあった。ハ、と呼吸がぶれる。頼む。頼むから────
    「あ、った………」
     取り出したのは、小瓶だった。中身は桃色の液体で、これだけでは何かは分からない。だが、ご丁寧に瓶の側面に貼られたラベルには、雑な手書きで"antídoto"と書いてあった。恐らくこれはスペイン語で、英語ならantidote。これが解毒薬だろう。
     即座に身を翻す。焦りからか足が縺れた。駆け寄って左馬刻を抱き起すと、黄緑色の痣は首筋を上り、顎までを染め上げていた。唇が紫色になり、顔色が土黄色になっている様に小瓶を持つ手が震える。弾丸タイプは2倍の毒の量だと言っていたが、あまりにも回るのが早すぎる。
     早く、左馬刻を。
     躊躇いなく小瓶の蓋を開けたところで、「銃兎」と低音のバリトンボイスが頭上から降ってきた。
    「理鶯…!」
     ドッドッドッと胸を打つ自分の鼓動が、理鶯の姿を見たことで急に主張を始めた。大丈夫。理鶯がいるなら、もう大丈夫だ。半ば自己暗示のように言い聞かせると、理鶯は銃兎の様子を見て眉を寄せた。
    「銃兎のスピーカーが見えたのでな。すまない、遅くなったようだ。左馬刻は」
    「モレトンを打たれました。解毒薬はこれだ、早く飲ませねえと」
     小瓶の中身を左馬刻の口元へ持っていく。──その手首を、理鶯の大きな手のひらが掴んだ。強い、力だった。
    「銃兎」
    「理鶯、早く左馬刻に飲ませないと!時間がないんです、早く」
    「銃兎」
    「なんですか、左馬刻が死んでも、ッ!」
     素早く小瓶を奪い取られ、呆気に取られているうちにカッターシャツの胸ぐらを掴まれた。何してる、時間がないんだ。早く、左馬刻を。その一心の抵抗も虚しく、胸元の生地を容赦なく引き裂かれて、銃兎は息を呑んだ。それは、理鶯の顔つきが今まで見たことがないほど険しいからでも、今ここで初めて気づいたからでも、隠せなかったことの後悔からでもない。銃兎の一番は、いつだって、何があったって、──左馬刻だったからだ。
     理鶯の腕が震えているのを、初めて見た。銃兎の肩口の傷跡から、ぎりぎりカッターシャツで覆われる鎖骨あたりまで、──黄緑色の痣が、染め上げていた。


     

     

     
     しまった、とも取れるような。今ここで初めて気づきました、とも取れるような。そのどちらでもあって、どちらでもないのだろう。銃兎とは、そういう男だった。冷静で落ち着いた思慮深い警察官という皮を、いとも容易く破るほど内側に熱く滾る芯を持つ男だった。だから、きっと、──本当に、何も考えていなかったのだ。本当に、左馬刻を助けることしか考えていなかったのだと、理鶯にはよく分かった。そして、同じ状況であれば、きっと理鶯でもそうしただろうから。今はもう何も言わなかった。
     茫然と小瓶を奪った張本人である理鶯を見上げた銃兎は、次の瞬間には思いっきり唇を噛んで、血で顎を汚した。痛いほど、銃兎の気持ちが分かる。それでも、今ここで理鶯がするべきことは、──するべきことは………?
     ザザ、と脳にノイズが走って、かつての戦場での光景が想起される。それを振り切るように一度強く目を閉じると、再び銃兎に向き合った。
    「…銃兎、貴殿も撃たれているな?」
    「…少し肩を掠っただけです、だから回るのも遅い」
    「そういう問題ではないだろう」
    「そういう問題だろうが!!左馬刻は脇腹に食らってる、当たりどころも悪い。撃たれたのも随分前だ。もうもたないのは見て分かるだろう」
     まだ上がる方の腕を振り回し小瓶を奪おうとする銃兎を制し、理鶯は小瓶の中身の液体を見た。モレトンに、ごくわずかだが解毒薬があることはその後行った独自の調査で分かっていた。大量のモレトンをヨコハマにばらまき、それを役人や組の幹部といった立場と金のある人間に打つ。そうして、打たれた本人や周りの人間に希少な解毒薬を法外な値段で売りつけることで、ただ毒薬の取引をするよりも更に儲けることができる。如何にも下衆が考えそうな商売だ。
     理鶯がハッキングして入手したデータでは、解毒薬として効果がある量は成人男性に対して約50mlと書いてあった。ちょうどこの小瓶の中身と同じくらいか。掠っただけだと銃兎は主張したが、肩口を染め上げる赤へちらりと視線を寄越す。掠っただけの出血量ではない。モレトンを打たれた成人男性が、二人。どう足掻いても、これでは足りない。二人を救えない。
     ザザ、と再び脳裏にノイズが走る。
     血と弾丸の飛び交う戦場で、かつて日常茶飯事であったことだ。命の選択。確実に助かる方を。或いは友情の強い方を。或いは同僚よりも上官を。
     昨日まで共に釜の飯を囲んだ仲間のどちらかを切り捨て、どちらかを助ける。そこに意味などなかった。たまたま掴んだ手が、左側だった。たまたま撃った敵が、右側だった。たったそれだけのことで、死んでいった仲間が何人もいた。――それでも、片方だけでも救えたのなら、それはとても運が良かったことだった。
     そうして繰り返していく内に、精神を病んだ者達が何人もいた。上官の命令に逆らうという選択肢はなかった。自分のせいであいつが死んだと悔やみ、戦場から去っていく。当時の理鶯には彼らの理解はできても、共感はできなかった。なぜなら兵士とは、そういうものだと思っていたからだ。まるで機械のように日々の任務をこなしていく理鶯を、いつしか仲間の一人がこう呼んだ。「本当にクレイジーな野郎だな」と。「お前に人の心はないのか」と。
     だが、どうしてだろう。こちらを見上げる銃兎の姿は、何故だかかつての兵士達と重なることはない。今、理鶯のいる戦場での仲間は、確かに左馬刻と銃兎であるはずなのに。
    「理鶯。何を、…何を迷ってるんだ」
     手のひらに力がこもる。たった50mlの液体しか入ってないはずの小瓶が、やけに重たい。
    「理鶯……?」
     訝しげに見上げる銃兎は、疑っていないのだ。理鶯が小瓶の中身を左馬刻へ飲ませることを。何故なら左馬刻はMTCのリーダーで、大切な仲間で、銃兎と理鶯が命をかけて前へ進ませると決めた存在なのだから。
     ひゅぅ、と先ほどから耳につく不恰好な呼吸音は、銃兎のものだった。左馬刻はもう、僅かに胸が上下するだけだ。カッターシャツで隠れていたはずの痣は銃兎の首筋まで駆け上がり、その存在を主張している。とっくに倒れてもおかしくないような状態を支えているのは、左馬刻の存在だろう。気力だけで自分の身体を支えている銃兎が、左馬刻へ解毒薬を飲ませるところを見届けたら、どうなるのか。これは、命の選択か?かつてのように、当然のように、リーダーである左馬刻を助けて、そうではない銃兎を見捨てるのか?
     体内を、血が巡る。呼吸が、早くなる。
     焚き火を囲んで三人で飯を食べ、笑い合った。何度も繰り返してきた、何気ない光景。そこから銃兎の姿だけが消えることが、理鶯には想像ができなかった。一人欠けて囲む飯を前にして、左馬刻は笑ってなどいないのだから。
     以前のように身体が動かないのは。「まるでクレイジーな野郎だな」「お前に人の心はないのか」と言われた心が、こんなにも痛いのは。
     ──リーダーである左馬刻が、きっとそのどちらも望まないからだ。
    「理鶯…?」
     身体はかつてのルーチンをなぞって動こうとするのに、まるで鉛でも詰め込まれているかのように手足は動かない。理鶯は目を閉じた。そして、深く息を吸って、吐く。
    「…銃兎」
     狼狽えるように揺れる翡翠を、蒼玉で真っ直ぐに射抜く。
    「…すまない」
     理鶯はMTCの片翼だ。ならば。
     リーダーである左馬刻の信念に従おう。
     かつて甘っちろいとまで思っていた、その信念を。不恰好でも傷だらけでも這いつくばってでも、どんなに生きづらくたって、それを大事にするリーダーなのだから。
     小瓶の蓋を開ける。仮に半分ずつ飲ませたとして、助かる確率は何パーセントだろうか。配分はどうするべきか。思考している余裕はなかった。
     とにかく銃兎から左馬刻を抱え上げたところで──
    ──耳に聞こえた声に、ピタリと手を止める。

    「お母さん…?」
    「?!」
    「な、…子供……?!」
     銃兎を二人で慌てて振り向いた先。傘を差してよたよたと歩く男の子。まだ10歳にも満たないほどの子供が、この場に不釣り合いな眠たげな声を出しながら辺りを見回した。
    「まさか、さっきの母親の子供か?!どうしてこんなところに!」
     ふらつきながらも駆け寄ろうとした銃兎が子供に近づくよりも早く、物陰から飛び出て来た男が子供の身体を背後から抱え込み、首筋にピタリと注射器をあてる。
    「動くな!来るんじゃねえ!」
    「ぐっ‥!」
     間の悪さと不運に下唇を噛む。天は誰の味方もしないのだと、分かっているつもりなのに。
     たまたま離れた所にて、銃兎の攻撃を食らっていなかったのか。即座に対処しようとマイクを手にした理鶯だったが、これまでじっと息を潜めていた男は下っ端にしては知恵の回る男だった。
     制止する余地すらなく、男は子供の首筋に当てた針を押し込み、空になった注射器を投げ捨ててニヤリと笑う。そのまま腰を抜かした子供を地面に打ち捨てると、脱兎の如く逃げ出していった。男ではなく子供のために走り出した銃兎が、何度か足を縺れさせながら子供を抱え起こす。引き攣れた呼吸は、銃兎の身体をモレトンが侵している証だ。銃兎の頬まで覆い尽くした黄緑色に、理鶯は無意識にごくりと唾を飲み込む。
     子供は体の小ささゆえに、すぐに呼吸を荒げて肌を黄緑色に染め始めた。子供の様子を確認した銃兎が、一度だけ、理鶯のそばでぐったりとしている左馬刻を見た。
     そして強く歯を食い縛る様子に、理鶯はいっそのこと怒りの感情がこみ上げるのを感じた。この場で助けなければならない人間に、お前も含まれていることを分からせてやりたい。だが、事態は一刻を争った。そして数舜の逡巡が生死を分けることを。ほんの少しの躊躇いが一生の後悔に繋がることを、理鶯は良く知っていた。
    「理鶯」
     僅かな葛藤。躊躇い。後悔。その色を滲ませながらも理鶯を呼ぶその声に、今後は素直に従った。
     なぜなら我々はMTCの両翼で、リーダーは左馬刻で、そして。──左馬刻ならば、これを望むだろうから。MTCの信念を守るのが、今の理鶯の使命だった。
     小瓶の蓋を開ける。銃兎に代わり子供を抱え起こした。左馬刻に声をかける銃兎の焦った声を聞きながら、子供に小瓶の中身を飲ませる。僅かな呻き声を上げた子供の痣は、見る間に引いて行った。どうやら即効性らしい。呼吸が段々穏やかなものに変わっていき、薄らと瞼を開く。
    「軍人、さん…?」
    「もう大丈夫だ」
     自力で起き上がった子供がキョロキョロと辺りを見渡す。そして、「お母さん…?お父さん…?」と再び不安げな声を出した。突然のことに、何が起きたのか分かっていないのだろうか。そして、そんな子供へかける声がないことに気がついて、理鶯ははっと背を伸ばした。
    「銃兎!!」
     ドサ、という音と共に、黄緑色の身体が地面に投げ出される。根性だけで今まで立ち続けていた男の、限界だった。子供は突然倒れた大人にびっくりしたのか、悲鳴を上げると即座に走り出してしまった。雨は小降りになっていた。子供の投げ出した傘が開いたまま転がって、銃兎に影を作る。
     理鶯は左馬刻を肩に抱えると、そのまま銃兎をもう片方の脇に抱える。二人分の命の重みだった。絶対に、──死なせたりなど、するものか。


    二人を抱えて、最速のスピードで、あまり揺らさないようにして。この時ほど、己の脚がそれなりに長い部類であることを感謝した日はない。
     大股で足早に駆けながら、理鶯はずっと、絶やすことなく二人に声をかけ続けていた。
    「左馬刻、銃兎、まだ生きているな?ここで終わるようなタマではないだろう」
    「左馬刻。貴殿のせいで、どうやら小官は少し変わってしまったようだ。責任を取ってもらうぞ」
    「銃兎。貴殿には少し説教が必要だな。左馬刻も知ったら怒るだろう。このまま逃げることは許さんぞ」
    「貴殿らは──小官の大切な仲間だ」
    「死ぬな」
    「死ぬな」
     神に祈りを捧げたなら、応えてくれるだろうか。人間の力ではどうしようもない不運があることを。どんなに努力しても報われない不遇があることを知っている。
     それならば。
     ──泥に塗れてでも、強引に生きていかなければ。
     
    「いた!お父さん、こっち!」
     ばしゃばしゃと水音を立てながら走り寄ってきたのは、先ほど解毒薬を飲ませて助けた少年だった。背後に連れているのは、金髪を刈り上げた男性。父親だろうか。さらにその奥を走る女性は母親かもしれない。
    「ねぇ、この人達だよ!僕を助けてくれたんだ」
    「これは酷い…!すぐにこれを」
     少年が理鶯の迷彩服の裾を引く。抱えている左馬刻と銃兎を一瞥して、父親は胸ポケットから小瓶を取り出した。
    「そ、れは──」
    「モレトンの解毒薬だ。私は開発者の遠い親戚でね。兄が日本でモレトンを使い悪どい商売をしていることを知って…解毒薬の精製に力を入れていたんだ。さぁ、早く」
    「…ッ……!」
     受け取った小瓶の蓋を開けようとする。これをするのは今日二度目だ。さっきまでは何ともなかったのに、手が震えて上手くいかない。
     ようやっと蓋をこじ開けて、左馬刻の紫色になった口元へ運ぶ。意識のない人間へ液体を飲ませる行為は、軍時代にも何度かあったから勝手は分かっていた。ぐったりとした左馬刻の喉奥へ液体が流れたのを確認すると、すぐに2本目を銃兎に飲ませた。
    「…っは…………」
     ずるりと全身から力が抜けて、理鶯はその場に座り込んだ。バク、バク、と鳴る心臓の音が煩い。銃兎の頬に赤みが差し、左馬刻の唇が徐々に色を取り戻していく。
     その様子を視界の端に捉えて、──何かを考える余地もなく、父親に、そのまま頭を下げていた。
    「……感謝する。…ありがとう…っ!貴殿のおかげで、仲間を助けられた」
    「え、…いや!とんでもない。感謝するのはこちらの方だ。息子を助けてくれたんだろう」
     父親が深々と頭を下げる。
    「子供は体が小さいから、毒が全身に回るのも早い。抵抗力もないからすぐに解毒薬を打たないと危なかった。…君に、いや、君たちに心からの感謝を」
     解毒薬を飲ませたとはいえ、危険な状態であったことに変わりはない。急いで病院へと促されて、理鶯は頷くと再び二人を抱え上げた。温かい、命の重みだった。


     
     
     病院で目を覚ました銃兎の第一声は、「左馬刻はどうなった?」であった。無言で手を伸ばし、無造作な前髪を掻き分けてデコピンを繰り出す。無性にしたくなったので。
    「イッテェ!!なに、理鶯?え?りおう?」
     赤くなったデコに少しだが溜飲が下がる。腕に刺さった点滴に顔を歪めて抜き取ろうとする腕を掴んで制止すると、銃兎の隣にあるベッドを指差した。
     同じように点滴に繋がれて眠る左馬刻の横顔をじっと見たあと、銃兎はようやく普段の落ち着きを取り戻したかのように肩を下ろし、額を抑える。
    「理鶯…、その、ありがとうございました」
    「礼には及ばない。と、言いたいところだが…銃兎は、もう少し大切に思われていることを自覚した方が良い。当然のように自分を勘定から外すな。小官はあの時…それが、悲しかった」
    「う…、その、すみません…」
     反省の色を見せる銃兎に、今度は理鶯が肩を下ろす。そうはいっても、銃兎のことだからまた同じようなことがあれば同じことをするのだろう。銃兎の信念の話だから、変えられるものではない。尤もそうなったら、今度は左馬刻と一緒に手を伸ばせば良いだけだ。
    「それで、左馬刻の容態は?」
    「酸素吸入を行っていたが、もうだいぶ落ち着いたようだ。じきに目を覚ますだろう」
    「そうですか…良かった」
    「ん……」
     話しているところで、ちょうど左馬刻が眉に皺を寄せる。ううんと唸り声をあげると、瞼に影を作っていた睫毛が震える。やがて、紅色の瞳が顔を覗かせた。 
    「…あ………?」
    「気がついたか。良かった」
    「りおう……?」
     左馬刻はしぱしぱと目を瞬かせると、起き上がろうと腕に力を込める。震える腕に力を入れるのを見て、背に腕を入れて抱え起こした。
    「悪い…。あ〜、ここ、どこだ?あの後どうなった…?」
     説明しようと口を開いたところで、病室のドアがノックされた。返事をする前に少年ががらりとドアを開いて、後ろから母親の「こら!」という声が届く。
    「あ!起きたんだ、白い兄ちゃん!警察の人も!」
     病室内を見回して理鶯を見つけると、一目散に駆け寄ってきた少年と抱擁と交わす。少年を眺めた銃兎が安心したように息を吐いたのが分かった。事態の飲み込めない左馬刻が「誰だ?」と呟く。
    「ああ、起きていらっしゃったのですね」
     母親が慌てて入室し、少年の父親が最後に病室へ入ると、三人の前に立つ。視線を集めたところで、深々と頭を下げた。
    「本当に…ありがとうございました。貴方たち…MTCの皆さんが居てくれなかったら。あの時、息子に解毒薬を打っていなかったら。息子の命は…今頃無かったでしょう」
     静かな病室で、父親についで母親も頭を下げる。
    「私も…碧棺さんが庇ってくださらなかったら、命はありませんでした。息子ともう二度と会えることはなかった…。本当に、ありがとうございます」
     両親の様子を見て、少年は見様見真似でぺこりと頭を下げると、「ありがとうございました!」と元気に礼を言う。未だハテナを浮かべている左馬刻のために、理鶯は口を開いた。
    「左馬刻が庇った母親の探していた少年が、あの場に現れてな。残党の手によってモレトンを打たれてしまったのだが、手元に解毒薬は一つしかなかった。それで…そこの少年に、解毒薬を使った」
    「ええ。碧棺さんも、入間さんも、モレトンで苦しんでいたというのに…息子を助けてくださったんです」
    「それで、その後少年が両親を連れてきてくれたのだ。彼はあの時現場にいた売人の弟らしい」
    「弟ぉ?」
     金髪の刈り上げを指で掻いて、父親が眉を下げる。
    「ええ。兄の狼藉を止める為、私は解毒薬の精製を進めていたんです」
    「なるほどな…」
     得心したように呟く銃兎へ少年が駆け寄り、「ねえねえ、おまわりさんなの?」と聞いている。警察を見ると興奮する年頃なのだろうか。
    「ええ、そうですよ」
    「白い兄ちゃんも?」
    「俺は悪い大人だぞ、ボウズ」
    「おいこら」
     やれやれと首を振る銃兎は、内心左馬刻が警察であってたまるかとでも思っていそうなものだが。子供の手前それ以上は突っ込まなかった銃兎だったが、少年は無邪気だった。
    「そうなんだ…じゃあ、悪いヒーローだね!」
    「え」
    「ヒーローォ?」
     くすくすと両親が笑い出す。「最近ヒーローものにハマってるんです」と。
    「やめろ、そんなガラじゃねえよ」
    「でも、僕たちを助けてくれたんだよね?それで病院にいるんじゃないの?」
    「う…別に、お前のためじゃねえし…」
    「おい子供に口で負けてんぞ」
    「うるせぇぞウサポリ公!」
     言葉に詰まる左馬刻へ、銃兎がニヤニヤと野次を飛ばす。銃兎は目線を少年へ合わせると、ポンと頭を叩いた。
    「私たちは悪いヒーローなので、真似したら駄目ですよ」
    「え〜!」
     でも、僕ダークヒーローのネイビーレンジャーの方が好き!とはにかんだ少年に、理鶯も顔が緩む。最近日曜日にテレビでやっている子供向け番組か。
     あまり長居をするのも疲れるだろうし、と両親が子供を連れて退室するのを見送って、病室内には再び静寂が戻った。早速左馬刻が鬱陶しそうに点滴を外そうとするのでその手首をがっしりと掴む。こういうところは銃兎とそっくりである。理鶯の手を外そうと躍起になる左馬刻だったが、ピクリとも指が外れないことに口をへの字に曲げると、やがて諦めたようだった。代わりに銃兎の方を見やって、「おい銃兎よぉ」と声を張る。
    「なんだよ」
    「テメェも打たれたんだって?」
    「っ…」
    「銃兎」
    「…なんですか」
    「…もうすんな。お前だって、MTCに必要なんだからな。…ただ、あ〜、その、なんだ…、…お前がいて、助かった。ありがとう、な」
     目を見開いた銃兎が、次の瞬間にはやれやれと肩をすくめた。ああ、やはり、左馬刻は良いリーダーだと、理鶯は嘆息する。二つの翼は揃っていなければ、飛べないのだ。ギシリと軋んだ音を立てて、二人のベッドの間に置いていた椅子に腰掛けた。
    「理鶯も、…悪かったな。…ありがとう」
     向けられた紅玉と、理鶯の持つ蒼玉が混じり合う。左馬刻は、こういう時に一つも取り零さない男だった。普段は暴虐不尽に振る舞う一方で、きちんと周りをよく見ていた。──勿論、銃兎と理鶯のことだって。
     あの時。
     銃兎が当然のように左馬刻を助けようとしたことも。
     理鶯が左馬刻と銃兎の二人共を助けようとしたことも。
     そして、最終的に理鶯に選択を強いてしまったこと──ではなく。きっと、その場で共に悩めなかったことを。一緒に戦えなかったことを。左馬刻は悔いているのだろうと思った。だから理鶯は、リーダーである左馬刻を優先しなかったことへの形ばかりの謝罪を飲み込んで、握った拳を突き出す。
    「小官は──左馬刻ならばこうすると思った胸の内に、従ったにすぎない。謝罪は不要だ。小官も自らの選択を詫びることはない」
    「そうか。…あん時、お前の声がよ、すげー聞こえてたぜ。"死ぬな"ってよ」
    「ええ、私も聞こえていました。理鶯のあんな必死な声は初めて聞いた気がして…ああ絶対死ぬもんかって思いましたね。息が上手くできなくて死ぬ思いでしたが」
    「な、俺も理鶯にこんな声出させてるやつ誰だよって思ったわ」
    「う…それ、は…少し、恥ずかしいな」
     必死すぎた時の想いを掘り返されるのは、胸の中がこそばゆい。下ろしかけた拳を引き上げるように、左馬刻の拳がごつん、と当てられる。真紅の瞳は一層輝いてみえた。
    「…お前らがいて、良かった」
     一瞬、時が止まったようだった。
     銃兎とも真っ直ぐに目を合わせた左馬刻は、そのままごろんとベッドに寝転がると「あ〜、腹減った。りんごとかねえの?」といつもの我儘っぷりを発揮する。
     銃兎と目を合わせて、少し笑った。MTCを引っ張るリーダーから年下駄々っ子に転じた左馬刻へ、リンゴを切ってやろう。ウサギの形にして、銃兎と分けてもらおう。そうだ、蜂の子を合わせればより栄養が摂れるかもしれない。「すぐに取ってくる」と立ち上がった理鶯へ、左馬刻と銃兎が慌てて裾を引っ張り制止する。む、すぐにでもリンゴが食べたい?まだ怠いからここにいて欲しい?
     しょうがない、ならば──手持ちのカミキリムシで、元気を出してもらおう。





     
     
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