Is it fun 新年あけましておめでとうということで、今日はさくら亭を貸し切ってささやかな新年会が行われていた。だが、ささやかなのはあくまで費用という意味であって、場の雰囲気という点では非常に盛り上がっており、目的としては概ね大成功というところだろう。
シアン・ローズという人物は、こういった馬鹿騒ぎに積極的に乗る方ではない。かといってルーやイヴのように参加を渋るほどでもなく、その時の気分に非常に左右されるタイプであった。
そして本日はそれなりに楽しもう、という気分であったらしい。最初のうちは話しかけてくる知己に相槌を打ちながら近場のものを適当に飲み食いしていたが、トリーシャやマリアといった盛り上がり好きが幅を利かせてくるようになると、そのテンションの高さにいささか辟易してきたようで、自分を気に掛ける視線がないことを確認してから、そっと席を立った。
とはいえ、あまり遠くへ行ってしまうと気づかれた時に面倒だということで、シアンが避難先に選んだのは台所だった。
調理をしている人間がいるのはわかっていたので、取り敢えず様子を窺おうと覗き込めば、そこに居たのは全体的に色素の薄い青年ただひとりだった。
どうやらシアンの視線に気づいたらしい。エプロン姿の青年──シオン・N・エルフィールドは、作業の手を止めてこちらを振り返った。
「悪りィ、邪魔だったか」
シオンの手元には捌きかけの魚がある。第三部隊に世話になった何処ぞの金持ちからの差し入れだと誰かが言っていたのを思い出した。
「いや、大丈夫だよ。なにか用かい?」
「別に。騒がしくなってきたから避難してきただけだ」
居ても構わないか、と問えば、シオンはどうぞと笑って椅子を差し出す。
「といっても、なにもお構いは出来ないけど」
「要らねえよそんなもん。俺のことは気にしねえでくれ」
勧められた椅子を受け取ると、シアンは隅の方へ移動する。邪魔にならないことを確認すると、そこへどかりと腰掛けた。
「そっか。ま、何かあれば声を掛けてくれていいから」
そう言って、シオンは再び俎上の魚へ向き直る。がしがしと鱗を取る音が台所に響いた。
「あ、そういえばここの人達って生魚とか食べられるんだっけ?」
独り言なのかこちらに問いかけているのかいまいち判別がつきづらい口調でシオンが呟く。
「さあな。任されたのはお前なんだから、お前の好きなようにやりゃいいんじゃねえか?」
言外に俺は知らん、と含ませれば、シオンは困ったように笑った。
「新鮮だからせっかくなら生で食べたいなと思ったんだけど……あ、カルパッチョならいけるかな」
後半は独り言のようだ。そうだそうしよう、と肯くと、魚を捌きにかかる。
「生たまねぎもいいけど、小さい子いるから葉物と混ぜてサラダっぽくした方が食べやすいか」
ぶつぶつと呟く間も手は止まっていない。あっという間に頭を落とし、腹を割いてはらわたを取り出して血を洗い流す。余分な水分を拭き取ってから三枚におろして皮を剝いだ。
「アラはどうしよう……炊いても美味いけど、どっちかというと出汁をとって汁ものにした方が食いつきがいいかもしれないな……」
基本食べる専門のシアンとしては、生のままの魚、しかも一匹丸ごとなんて滅多に見ることのない存在である。しかも、それを捌いていく過程など初めて見るものだ。手際よく進められていくそれを注視しているうち、シアンの口からぽろりと疑問が零れた。
「……楽しいか?」
──楽しいか?
実は、以前にもシアンはシオンに同じ質問をしている。
まだ二人があまり親しくなかった頃、剣術の稽古をしていたシオンの自作の弁当を、たまたま通りかかったシアンたちが目にしたのがきっかけだった。
自分とそう歳の変わらなさそうな同性が自炊をしていることに物珍しさを感じて問いかけたそれに、シオンの見せた表情はひどく複雑なものだった。
「ええ、まあ……」
曖昧に笑って誤魔化したが、本当は楽しいなんて欠片も思わなかった。
いつからだろう、気づいた時には飲食物に味を感じなくなっていた。
硬いとか柔らかいといった食感は感じ取れるが、何処で何を食べても悉く味がしない。味付けが合わないのかもしれないと、孤児院で覚えたメニューを試してみたがやはり味はわからないままだった。
試しに倍の調味料を入れてみれば、味はしないのに変なくどさだけを感じて気分が悪くなり、結局全てを吐き出す始末。
あの頃は心身にかかるストレスが味覚に影響を及ぼすことがあるということを知らなかったので、単に自分の腕が悪い──孤児院では誰にも文句を言われなかったが──のかもしれないと、料理本を片っ端から読み漁り、研究を始めた。
正直なところ、外食で味がしないことに落胆するよりも、自炊で同じ現象を味わう方が何倍もマシに思えた。他人を責めるよりも、自分を責めた方が誰も傷つかないし、要らぬ罪悪感を抱かずに済む。友人たちの反応をみれば、おかしいのは自分だというのは既にわかりきったことだったから、食卓を共に囲むことで彼らにその不満を悟らせないようにするのもかなり骨が折れるから、というのも理由のひとつだ。
けれど、いくら練習を積んでも変化はなく、一向に味は感じられないままだった。
だから、このときシアンが洩らした言葉は、シオンにとっては全く予想外の出来事だったのだ。
「お、美味そうだな」
「え?」
ひと口くれよ。
そう言って、シアンは弁当箱の中のおかずをひょいと摘むと、シオンが止める間もなくそれをぽいと口に放り込んだ。
「あ……」
「なんだよ、いいじゃねえかひと口くらい。俺の弁当とトレードしようぜ……ん、美味いなこれ」
見た目を裏切らないどころか、むしろそれ以上の味だったので素直にそう告げると、シオンは鳩が豆鉄砲を喰らった時より更に驚いたような顔をした。
「……え?」
たっぷり時間を置いてなお疑問をはらんだ反応に、シアンの方が動揺してしまう。
「や、なんでそんな顔してんだよお前。自分で作ったもんだろ?」
「や、まあ、そうなんですけど……でも」
本当に美味しかったですか?
更に重ねて問われ、シアンが渋面をつくる。
「でもってなんだよ。俺の言うことが信じらんねーなら自分で食ってみりゃいいだろうが」
言うが早いか、シアンが食べたのと同じものをシオンの口の中に突っ込んだ。
「むぐ!?」
反射的に口に入ったものを噛み砕くと。
「……あれ?」
気のせいだろうか。ほんの一瞬だけ、味がわかったような気がした。
「いやなんでそんな『おかしいな?』みてえな反応なんだよ。そっちのがおかしいだろ」
「や、でも……そんな……美味しい、ですか?」
心底意外そうなシオンの態度に、どうも謙遜という言葉では言い表せないものを感じて、シアンは半ば苛立ちを覚えながら弁当箱を取り上げる。
そしてそのまま自分の仲間内に食べさせてみると、美味いと概ね好評だった。
アレフやリサといった顔見知りに背中を押されてシオンも恐る恐る弁当をつまんでみると、ほんのり出汁の味がして、あの時以来初めてシオンは、自分のつくったものを美味いかもしれない、と思った。
シアンをはじめ、弁当を食べた者たちがお返しと称して自分たちのおかずを分けてくれる。それらにもちゃんと味を感じて、思わず美味いと零すと、そうだろ、とシアンが笑った。
シアンたちと別れ、ひとり部屋に戻ったシオンは、気が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
本当は、わかっていたのだ。
味を感じなくなったのは、慣れ親しんだ孤児院を戦禍で失い、血は繋がっていなくとも、長い間寝食を共にし、苦楽を分かち合ってきた兄弟ともいえる仲間たちが惨たらしく死にゆくさまを目の当たりにしたあの時からだということは。
それを認めてしまえば、ひとりむざむざと生き残った罪悪感に圧し潰されそうで耐えられなかった。だから見ないふりをして蓋をした。
自分を知るものがひとりもいないこの街に流れ着き、自警団の部隊長を務めるノイマンという人物に拾われてずいぶん経つが、もう自分はひとりではないのだ、と今日初めてそう思えた。
これなら、もう、大丈夫かもしれない。
さて、シアンはあのときのことを覚えているのだろうか。
くるりと振り向いて表情を窺うと、どうやら当時のことを思い出しているわけではなさそうだった。
単に、思いついたことをそのまま訊ねただけだろう。
偶然にも、あのときと全く同じ質問。
「ああ、もちろん」
楽しいよ。
満面の笑みで、はっきりと、こころの底から。
シオンは、あのときとは違う答えをシアンに返すのだった。