深津の予習深津一成には予知能力があるわけじゃないし、感情がないわけでもない。
ただ、物事が起こる前に、心の中で展開を計算して、心の準備をしているだけだ。
それが、深津一成の予習だ。
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校外をジョギングしていたとき、毎日途中で彼らと遊んでいた黒い子犬が昨日車に轢かれて亡くなったと知ったとき。
沢北は無表情の深津を見て、こう尋ねた。
「深津先輩って、感情とかないんですか?」
深津一成に感情がないわけではなかった。ただ、彼には“予習”という習慣があった。
出会いがあれば別れがあり、嬉しさがあれば悲しみがあり、生があれば死がある。
常勝には、必ず敗北が伴う。
深津は家の長男で、チームの主将で、沢北の先輩だった。
取り乱すというのは、必要のない余分な感情だった。
彼は冷静な存在として、みんなを安心させる必要があった。
だが深津一成も、ただの高校生だった。
全く初めての感情に直面したとき、唯一の方法は「読む」ことだった。
文学とは、人類が残した生き方のガイドブックである。
それで、深津は理解した。
沢北に対して心臓がドキドキし、手のひらに汗をかき、コートを離れても無意識に彼の行動を目で追ってしまう──
それは「好き」という感情なのだと。
「沢北のこと好きになってたピョン、治らない病気かと思ってたピョン」
深津の読書範囲は広かった。
沢北が初めて深津の部屋に入ったとき、机の上には犬と飼い主の感動的な小説が置かれていた。
「深津さん、こういうの読んで泣いたりするんですか?」沢北が訊いた。
「一回目は泣くピョン。何回も読めば、慣れるピョン」
「何回も?!」
一つの感情に支配されそうになるなら、コントロールできるまで何度も“予習”する。
どうやら深津は、その点でも極限まで自己を律するタイプだった。
後日、沢北は「世界恐怖物語大全」や「UFO目撃録」などの本も目にして、
深津さんはいったい何の突発事態を脳内で予習しているのだろうと疑念を抱く。
*
大学に進学してから、深津の本棚にはバスケ関連以外の本も増えた。
課外読書のジャンルは、SF、倫理、人文から、恋愛、社会、自我実現へと変わっていった。
松本が遊びに来たとき、よく言った。
「深津、お前の本棚、まるで女子大生みたいだな」
深津はただこう答える。
「宇宙人への対処法は、もう全部マスターしたピョン」
松本は「?」の顔をするだけだった。
*
大学卒業後、深津はBリーグのチームと契約した。
オフシーズンになると、沢北が帰国して一緒に過ごした。
沢北は、深津の本棚に健康食や運動ケアに関する本が増えているのに気づく。
「人はいつか怪我するピョン。緊急処置の仕方、もう予習済みピョン!」
そう言いながら軍隊用の応急処置マニュアルを手に、笑顔で語る深津。
だがその中に「命を救うために不要な骨を数本折る可」などと書かれていたのを見て、沢北は思わず首を振った。
深津の試したそうな目を、必死で拒否した。
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Bリーグを引退した後、深津は正式にアメリカへ引っ越した。沢北のアパートへ。
現役時代に覚えた無駄知識は、意外にも新たな職業への道を示した。
深津は沢北の専属トレーナー、理学療法士、シェフ──もちろん唯一の恋人にもなった。
読書の代わりに、今は海外ドラマを見るようになった。
「ドラマは作業しながら見られるし、英語の勉強にもなるピョン」
深津は沢北にそう言いながら、背中の筋肉をほぐしてくれていた。
テレビにはゾンビに追われる人々の姿が映っている。
沢北は疑問顔を浮かべる。
「それに、非日常の演習にもなるピョン。次、突然遭遇したら、対応できないと困るピョン」
テレビから流れるバリバリとした咀嚼音に、沢北は考えるのをやめた。
深津がこのシーンから何を予習しているかは、知りたくなかった。
*
深津の観るドラマも、彼の読む本と同様、ジャンルは幅広い。
刑事アクションからホームコメディまで。
沢北も知っている。心の準備力では深津に勝てない。
だから、サプライズなど仕掛けたことはない。
深津がすでにすべてのサプライズを予習済みと宣言した、
沢北はただ季節の衣替えの買い出しついでにジュエリーショップに立ち寄り、
ついでのように深津の好みを訊き、ついでにその指輪を深津の薬指に嵌めた。
*
結婚後の生活は平穏で、少し退屈だった。
ふたりが結婚を公表したとき、海を隔てた母国ではちょっとした騒動になったが、あとは特に話題になることもなかった。
深津は相変わらず、沢北のトレーナー、理学療法士、シェフ、そして夫という役割をこなしていた。
彼の好むドラマにも、徐々に哀愁の色が加わるようになった。
ある日、深津がソファに丸まり、テレビを観ながらこっそり涙を拭っているのを沢北が見つけた。
そっと後ろから深津の髪に口づけを落とす。
真っ黒で豊かな髪の中に、一本だけ短い白髪が混じっていた。
「何見てるの?」沢北が訊いた。
「恋人が死んじゃったピョン……」
テレビ画面には、見覚えのあるドラマが映っていた。
「でも、共に過ごした思い出こそが、二人にとって一番の宝物だったんじゃない?」
沢北の口から出たのは、教科書のような慰めの言葉だけだった。
深津はうなずいた。
その後、深津はそのドラマのDVDを買い、何度も家で繰り返し観ていた。
涙目から始まり、やがて目が虚ろになるまで。
「分かったピョン、栄治!」深津は閃いたような顔をして言った。
「一緒にいた思い出こそが、二人の一番の宝物ピョン!」
彼は沢北の上にのしかかり、エプロンからは朝ごはんのコーヒーとベーコンの香りがした。
目は輝きに満ちていた。
カーテン越しの光が沢北の顔に差し込む。
朦朧とした意識の中、彼は思った。
──それ、俺が言ったセリフじゃなかったっけ……?
*
ドラマは嘘ばかりだ。
ゾンビに襲われても冷静に動ける人間なんていない。
突然の雨に打たれても冗談を言える人なんていない。
頭から血を流しているのに、痛みより「闘えたい!」と思う人なんていない。
沢北のスポーツカーは路肩で横転して、原形を留めていなかった。
どんな幸運か、沢北は自力で車から這い出すことができた。
倒れた大型トラックを見ながら、彼は目に何かが流れ込んでいると感じていた。
スマホが見つからず、壊れたのかと冷静に考えた。きっと車と一緒に。
誰かに電話を借りようと手を伸ばすが、声が出ない。
周囲の人々が救急に電話しているのが見える。
倒れる直前、沢北は呟いた。
「……一成に電話を……」
*
最初に戻った感覚は、聴覚だった。
視界が真っ黒な中、彼は思い出していた。
──一成が言ってたっけ。人間は最後に聴覚を失うから、看取りのときは話しかけてあげたほうがいいって。
でも次第に、触覚も感じるようになった。誰かが手を握り、汗で濡れていた。
これは五感を失っていくのではなく、取り戻しているのでは?
そう思ったとき、沢北は不思議と安心した。
──無駄な知識でも、本当に役に立つ瞬間がある。
一成の言うことは、やっぱり正しかった。
やがて視覚が戻り、ぼんやりとした影が見えた。
記憶にあるシルエット。
でも喉が渇いて声が出ない。
機械音が耳を打ち、誰かの言葉の内容は聞き取れない。
どうやらマネージャーの声と、誰かが英語と日本語を交えて会話していた。慰めるような言葉。
指を動かした瞬間、手を握っていた人が顔を上げた。
──何度も見た顔。でも、初めて見る表情だった。
深津の目は大きく腫れていた。
深津の目は自分と違って二重だから、涙ぐらいでは腫れないと思っていたが、違った。
沢北は、ただ知らなかっただけだ。
笑ってやろうと思ったが、声が出ず、代わりに笑みを浮かべ、手を握り返した。
*
退院は意外と早かった。
事故は大きかったが、奇跡的に命に関わる傷はなく、肋骨の骨折と頭部の外傷だけだった。
沢北は車椅子を使わずに、松葉杖を使って歩いて退院した。
チームの最年長選手だが、現役選手として、メディアには弱った姿を見せたくなかった。
マネージャーは記者たちに、事前に打ち合わせた原稿を話していた。
──後遺症はなく、今後の試合にも影響はない。来年も契約を続けるつもり。
ファンとメディアを安心させる、そんな内容だった。
でも、本当の後遺症を知っているのは沢北だけ。
彼はかつて、もし自分が突然いなくなっても、深津は既にそれを脳内で予習していて、
二人の思い出を胸に、平穏な日常を続けていくのだと思っていた。
しかし今、彼は知ってしまった。
自分がいない間、深津はまるで高速道路に投げ出された子犬のように、無力で迷子になっていた。
あれほど言っていた“予習済み”のシナリオを、一秒も再生できなかった。
一成をこの世界に一人で残しても大丈夫と思っていたのに、今はとても心配になった。
沢北は松葉杖をついて助手席に乗り込んだ。
深津は後部座席にそれをしまい、運転席に座ってシートベルトを締めたあと、目元を一度こすった。
車はなかなか動き出さなかった。
沢北が横を見ると、深津は頬を伝う涙を何度も拭っていた。
「マネージャーに運転してもらう?」沢北が訊いた。
「お願いするピョン」
深津はシートベルトを外し、沢北の手を握った。
*
本に書いてあることも、全部ウソピョン。
初恋と幸せにはなれないとか。
男は手に入れると冷めるとか。
七年もすれば愛は薄れるとか。
「あなたとの思い出があれば、一人でも生きていける」とか。
全部ウソピョン。
深津一成は、もう二度とこの手を離さないと決めた。
—END—