僕が歌うよ「吸血鬼さんは音楽家だったんですか?」
桃色の瞳を輝かせて村人の青年が問う。
それは嫌味や過去を詮索したいという意図からではなく、単純に尊敬の眼差しからの問いだった。
屋敷の奥にピアノを見つけた青年が物珍しいものを見てはしゃいでいたので、もっとその好奇心に駆られキラキラした顔が見たくて何十年ぶりかに、僕は鍵盤に触れた。
弾いた曲は昔自分で作曲した小曲だった。
主題も序奏もないもない、作りかけの曲。
でも君は、そんな未完成の曲であってもその瞳にお星様でも宿ったのかと錯覚するくらいに目を輝かせて僕の演奏に聞き入ってくれた。
調律も狂って、ペダルも壊れたピアノは悲惨な音色を奏でたが、君はそんなことは気にせず、森の奥で自分だけの宝物を見つけたように幸福に満ちた顔を僕に見せてくれた。
僕の音楽でここまで人が感動して、心を躍らせてくれたのは君が初めてだった。
それがたまらなく嬉しくて、どんな言葉にも応えてあげたいという気持ちに駆られた。
なのに僕は、彼の問いに残酷なくらい冷たく返してしまった。
「いや。違うよ。」
青年は分かりやすく頭にはてなを浮かべたように首を傾げた。
気を悪くしてしまったかなと内心反省したが、僕の機嫌を損ねたことに対してというより、楽器ができるイコール音楽家という考えが否定され、困惑しているようだったので少し安心した。
自分の曲を褒めてもらうことは嬉しい。けれど、それと同時に、音楽に希望を持ってきたあの日々を思い出してしまう。
「昔は、よく弾いてたんだ。曲を作ってさ。」
「曲を作る!?すごい!!」
まるでこの世の音楽は全て神様が作ってるとでも思っているような声色だった。
この風貌だ。村で音楽に触れる機会などめったになかったのだろうから、そう思うのは仕方がない。世紀の大発見をしたかのような様子は強張った僕の表情を溶かしてくれたが、同時に、そんな君の憧れの的の一人に僕が入ってしまったことに申し訳なさを覚えた。
僕は大それた作曲家でも、有名な演奏家でもないのだ。
ただ、自分のためだけに作っていたもので、人を傷つけただけの化け物なんだ。
*
僕は音楽家ではなかった。
けれど小さい頃から音楽に触れていて曲も作っていた。
そして、誰のためでもなく演奏していただけたった。
ヴァイオリンが上手い、紺色の燕尾服の似合う彼と。
どこに出すでもない、ただ彼と音を重ねるためだけの曲。
それで良かった。
孤独だった僕の唯一の楽しみだった。
音楽家志望だと言った彼は修行のため、故郷を離れて、親戚に借りたという家で練習に明け暮れていた。
僕は僕で、大昔に習ったピアノで好きなように好きな曲を奏でていた。誰にも受け入れてはもらえなかったが、一人になってからはどんな曲を作ったって誰からも文句も何も言われなかった。それは居心地の良いものではあったが、一瞬、ほんのひと時だけ寂しいだなんで馬鹿げた気持ちにもなった。
その折に、森に迷い込んだ青年が僕の演奏を見つけて、窓の外に立っていたのだ。
最初、僕は吸血鬼であるがために彼を追い払おうとした。人間が僕を見たら何を言ってくるか、長い年月を生きていると嫌でもその場面に出くわしてきた。最悪の場合、まだ何もしていないというのに武器を持って攻撃してくる。この右目がその証拠だ。
襲うだけではない。忌み嫌う暴言、化け物、近づくな、こんな声を何度となく浴びせられた。それはそう、僕は人間の血を吸い殺す悪魔。傷つけてはいけない対象ではないのだ。むしろその逆、自分たちを傷つける化け物だと思っている。知ってる。だってそれが僕だから。
そんな人間のために誰があげるものか。
僕が作った音楽を。
でも、いつか、誰かに届いたらーーー
自分が傷つきたくないと思っていることを自覚したことはない。
が、避けれるならそれに越したことはない。
だから紺色の髪の君を窓の外に見つけた時も、威嚇して追い払うつもりだった。
だけどその時の僕は、そんなことよりも、寂しいって気持ちが強く、何より僕の音楽を見つけてくれたことか嬉しかったのかもしれない。
どういった経緯で彼を招き入れたかは覚えていない。
気づいたら二人で、
二人しかいない屋敷の大広間で、
二人だけの曲を奏でていた。
それはあまりにも幸福な時間で、永遠を確かに望んだ瞬間だった。
僕を、僕の音楽を愛してくれる人。
そんな人に初めて出会った。
それから何度か青年は遊びにきた。
しかし秘密を隠しておくことはできない。
月明かりのように甘く優しい時間を、この手で手放すことは何よりも辛かったが、このままこの青年と共にいることはできないと最初から諦めていた。
満月の夜、屋敷の中に入ろうとする青年を拒み、僕は真実を話した。
すると彼は「なんだそんなことか」といった調子であった。恐れ慄き、二度と会ってくれないんじゃないかと思っていた僕が拍子抜けするほどあっさりと笑って、彼は立っていた。
「お前、僕が怖くないのか」
「いや、吸血鬼は怖いけど…」
「怖いんじゃないか、だったら」
「でも」
と青年は僕を遮りこう言った。
「お前の曲を聞いてたら、お前は怖いやつじゃないって分かるから」
青年はなんとなく分かっていたみたいだった。
そりゃこんな屋敷で一人、村の者とは違う格好で夜な夜な演奏をしていたら、普通の人間じゃないなって気づくだろうと。それを分かって俺は屋敷に入ったんだ。最悪殺されるかなと思ったけど、俺はそれでもいいやと思ったんだ。
「お前の曲を聞かないで死ぬより、あの曲を聞いて死んだ方がましだって。」
救いとはこのことを言うのかもしれないと思った。
人間に受け入れてられることはない。
何も知らないくせに、僕を傷つけるようなやつらだ。
そんなやつらに僕の曲を聞いてもらいたくもなかった。
だけど、
何のために曲を作っていたのか。
誰のために演奏していたのか。
自分のためではない。
暇つぶしでもない。
ただ寂しくて、誰かに見つけてほしかっただった。
それか何百年の時を経て、彼に届いた。彼に出会えた。
「きゅ、吸血鬼が作った曲なんて、聞いてるだけで気色悪いだろ?」
答えは分かってるのに僕は聞いたんだ。
そしたら君は答えてくれた。
「吸血鬼だからとか関係ない。お前の曲だったから。」
その日から僕らは互いに遠慮することがなくなった。
作った曲のことでケンカしたりもした。
この方が良い、お前のアレンジは古すぎる、とか、今の入りはどうとか…
誰に披露するでもなく、自分たちだけのために奏でる音楽を作った。
うまく行った時はこの世にこの音だけが響いていたらいいとさえ思った。
僕を苦しめ、寂しさのまま奏でていたピアノは、いつしか僕の何にも変え難い大切な時間を連れてきてくれる、魔法の箱になっていた。
しかし、終わりは突然やってきた。
その夜、青年の代わりに来たのは斧と銃を持った男どもだった。
僕を見つけるとその鋭い刃と、銃弾を僕に向けこう言った。「醜い吸血鬼め」と。
どうやら、青年が吸血鬼である僕の屋敷に入り浸っていることが明るみになったようだ。
音楽家志望だった彼は、師匠にもアカデミーのやつらにも認められていたそうだ。
将来有望で、街の誇りになりかねない彼がある時から曲風が変わり、夜な夜な外出するようになった周りが跡をつけていたようだ。
彼を餌にするつもりだ、村の財産たる彼を守らねば、そんなことを口走っていた気がする。
ほら、見たことか。
僕の作った音楽に希望なんて何もありはしない。
僕の容姿だけで僕を見るようなやつらに、
そんなやつらに僕と彼が作ってきたものが理解されてたまるか。
彼は、僕といる時の方がよほど良い音楽を奏でていた。
どこぞの演奏家にでもなって、金稼ぎのためにヴァイオリンを弾く彼の姿だけは想像したくなかった。
彼だけが僕の音楽を認めてくれた。
僕と一緒にいた彼の方が…
と思ったところで考えるのをやめた。
結局、全部、僕の浅はかな願望から生まれた罰だったのだ。
*
それから彼に二度と会うことはなかった。
あの日の夜をどうやって切り抜けたのは覚えていない。人間たちに罵られたことよりも、彼が彼らしくいることを諦めたことの方が辛かった。
いや、素直じゃないな。
この世界で唯一の、僕の音楽を愛してくれる人を失った悲しみで、何も手がつかなかった、と言うべきか。
ピアノに触れる。
触れた指先からはポーンと、寂れた音だけが夜の広間に響いた。
この先彼のような人間がいてくれるなんて思わない。淡い期待を持っていたのが間違いだったんだ。だから縋ろうとして、挙句失った。
失っただけじゃない。
きっと彼を傷つけた。
僕と出会ったばかりに。
窓の外を目をやる。
いつも青年が覗き込み、手を振って「開けて」と言っていた窓だ。
蔓延る獣の他、人間たちが鋭い眼差しを向けてくるその窓を僕は嫌っていた。
嫌っていたはずなのに、今でも、もしかしてと思い視線を送ってしまう。
今は銃弾を受けてガラスが飛び散っているその窓に映る影はなく、底冷えの寒さがその間から勢いよく流れ込んでいる。だけど、寒さなど感じるに足る感情はもうなくなっていた。
彼はどんな思いでいるんだろう。
僕が退治されたと聞いたんだろうか。
それとも二度と会うなと言われたんだろうか。
どちらにせよ、もう関係のないことなんだ。
あれから何年と経っているなら生きているかも分からないし。
でも、また会いたい、とも思う。
だって、まだこの曲が完成してない。
作曲はできているのに、何度も作り直しているうちに分からなくなってしまった未完成の曲。明日また一緒に作ろうと、約束したはずだった。
このまま、完成することはない、だろうな。
そっとピアノの蓋を閉めた。
ガコンと乾いた音の他何も聞こえなくなった。
無機質であるはずのピアノから温もりが消えたような錯覚気がした。
お前もあの時壊されていれば良かったのに。
曲を作るから、
曲を奏でるから、
求めてしまうんだ。
だから、僕は、もう、何も望まない。
何も奏でない。
*
何年かぶりに開けたピアノで奏でたのはその曲だった。
まさか覚えているのがこの曲だったとは自分でも驚いたが、それだけその曲に入れた想いがあったんだろう。
曲調も主題もあの時のままだった。
あの時から僕は変わっていないのかもな。
演奏の終わったホールは、外の木の葉が揺れる音が漏れてきただけだった。
長く感じた沈黙の後で、弾んだ声が響くまでは。
「僕、その曲好きです!」
桃色の瞳の青年が言った。物思いに耽、遠い哀しい記憶に戻っていた僕にを慰めるように。
「そ、そう…?」
「はい!僕、村ではずっと一人で寂しくて。世話してくれる人は、いないことはないけど、でも誰も相手にしてくれなくて」
そういえばみなしごだと聞いたことを思い出した。名前もなく、誰と一緒にいるでもなく暮らしいるとも。そらゃ、こんな屋敷に斧一つで向かわせた村だ。
手間のかかる子供など、丁寧に扱ってくれるとは到底思えなかった。
「でも、この曲聞いたら、すごく、こー、なんか、力をもらっていうか!今まで1人でいたことも意味があったんだなって、明日も頑張ろうって思えたと言うか…!」
それはいつかに出会った青年とは比べようもないくらい拙い感想であった。
しかし、しっりと彼の心で受け止めて、彼の力になったことがまっすぐに伝わってきた。どんな完璧な感想よりも嬉しかったのを覚えている。
もう二度とこんな気持ちになれるとは思わなかった。
だから「ありがとう」と伝えた。
だけど、だけどね、
「でも僕はもう音楽はやらないんだ」
そういうと青年は、驚いたようで大きく「えっ!?」と声をあげた。
その声が広間でこだまするものだから、彼は少し照れていた。
「そ、それはなんでなんですか?」
先ほどの声とは裏腹に掠れるように小さな声で青年が言う。
心なしかもじもじとしていて、僕はそれは可愛いくて仕方がなかった。
「んー、いやこの曲もだけど、どれも二重奏でね」
「にじゅう…そう?」
「そう、二人で弾く曲なの。だから一人ではもう演奏はできない。」
まだ少し二重奏の意味が理解しきれていない顔をしていた。あれ、音楽って意外と難しいのではと顔に書いてあるのが分かるくらい困惑していたが、その素直さが可愛くて、僕は少し笑った。
「でも、僕、吸血鬼さんの音楽もっと聴きたいです」
「ありがとう、でもね…」
ふと視線を指先に落とす。弾くことはできる、でもできないんだ。
また誰かに期待して、傷つくのか怖くて。
僕だけが楽しそうに音を奏でるのが申し訳なくて。
そう言おうとして言葉に詰まった瞬間だった。「そしたらさ!!」と青年が大きく身を乗り出して僕に言う。
「僕が歌うよ」
「え?」
「ほ、ほら、僕楽器はできないけど、歌!歌なら歌えるし!それなら吸血鬼さんも演奏できるんじゃない?あれ、できないのかな…ん?」
その彼の突拍子もない提案に僕は声をあげて笑ってしまった。
そうか、その発想はなかった。うん、ヴァイオリンの代わりに歌ね、おもしろいね、と。
すると君はなんとも的外れなことを言ってしまった恥ずかしさからなのか顔を真っ赤にして「もー!」と怒った。
「そ、そんなに笑うことないじゃん!」
「ごめんごめん。なら試しに歌ってみてよ、いくよ。」
と言って歌わせてみたらこれまた、可愛らしいく音を外して歌うもんだから、僕は演奏ができなくなるほど笑ってしまったんだ。
その時君はすごく怒っていたけれど、でも、すごく嬉そうだった。
僕は今まであんなに笑ったことがあっただろうか。
ヴァイオリンの青年とだって笑い合ったことはあったが、腹を抱えて、呼吸ができなくなるくらい笑えたのは初めてかもしれない。
聞いたことのない自分の笑い声が広間を満たす。そしてあとから青年の嬉しそうな声も混じり、この瞬間、春の風が舞い込んだように屋敷が明るくなった気がした。
満月の淡い光が君の笑顔を照らす。
そんな顔にさせたのが僕だと言うことに、僕は気づかなかったし、これからもそう思うことはないだろう。君と同じように。
青年は明日もきてくれると言った。
美味しい血になれるよう頑張ります!と冗談っぽく言うから、ツボの浅くなった僕はまた吹き出してしまった。
演奏のためじゃない。
食事のために僕に会いにきてくれる。
音楽で大事なものを失った僕にとっては、その距離感が今は心地良く、救いになっていた。
またおいで、今度は君も歌いやすいような曲にして待ってるから。
そういう時青年は、太陽のように眩しい笑みを僕に返してくれた。
歌なら、君との歌なら、作ってみてもいいかもしれないな。
そしたらあの曲も君のために作ってみようかな。
今度こそ、一緒に。