地場「ゲンさんがいてくれて助かりました。 ありがとうございます」
「気にすることはないよ。トレーナー同士、助け合わないと」
鋼鉄島の地下深く、ジメジメとした湿気と土の匂いの中でゲンさんは涼しげに笑った。
本当にゲンさんが通りかかっていなければどうなっていただろう。まさに渡りに船というべき出来事に感謝しつつ、私は自分の行いを反省しなくてはならない。
修行のためと勇んでみても、熱が入りすぎては意味がない。空回りしたそのツケは今ボールの中で休むポケモンたちが払うはめになっているのだから。
戦えるポケモンがいなくてはこの場所からでることもままならないというのに、私はそんなことも忘れてポケモンたちに無理をさせてしまった。トレーナー失格ともいえる失敗に、私は奥歯を噛み締めるしかない。
「でも君が無茶をするところは昔から変わらないな」
「昔って、いつの話を持ち出す気ですか」
「君がまだ自分のポケモンすら持っていなかった時だよ。あのときも今みたいに、物陰に潜む君を見つけたからね」
歩きながら語られた昔話は私の気分を更に降下させるもの。でも今は何を言われても仕方ない。連れ帰って貰っている身の上では文句など言えるはずもなかった。
あのときというのは、昔幼い私がポケモンを捕まえようと忍び込んだ鋼鉄島で迷子になった時だ。今思えば無謀と言うしかないけれど、強くなってチャンピオンを 目指したいという夢のために、あのころの私はどうしても自分のポケモンが欲しかった。当然、ポケモンもいない子供一人では野生のポケモンに太刀打ちできる はずもなくて、命からがら逃げ出した先で助けてくれたのもゲンさんだった。
そうした子供の大冒険は、親から雷のようなお説教とゲンさんから卵を分けてもらうというエンディングを迎えたけれど。
その経験は蒸し返されるには面白くない話で。でも指摘されてみれば確かにその通りでしかなくて、私自身も成長とは?と思わず自問してしまうほどだ。
不思議なことに当時と変わらないゲンさんの姿も、あのころの記憶を鮮明に思い出せるのを手伝ってしまった。
「それで、無茶をしたのはどうしてだい? 話相手ぐらいなら私でも務まると思うよ」
けれど、あのころとは違うものも確かにある。私は大きくなって物事の判断も十分につき、パートナーであるポケモンもちゃんといる。
それなのに同じことを繰り返してしまったのは焦りだった。頭が冷えた今ならちゃんと考えることができる。
みなまで言わずとも察し、なおかつフォローまでくれるゲンさんの配慮に、私の心は痛みを増した。
チャンピオンになりたいという夢は変わらない。そのために私はミオジムでトレーナーとして修練に励み、最初の頃は手ごたえも十分にあった。もっとも今はもうその感覚もおぼろげにしか思い出せないけど。
負けが続くわけでもないが、勝率があがることもない。今の私は早い話が行き詰っていた。
同い年の優れたトレーナーとは何が違う? うわさでは自分よりも若いトレーナーが四天王にも挑戦したというじゃないか。他人はどんどん延びているというのに、私は未だこんなところで立ち止まっているのか。スタートラインはそう違わなかったはずだ。どこまで行けばこの感覚から逃げられる?
まとわりついた意識は影となって、私の動きをどんどん鈍らせていくような気がした。それに足をとられないよう一歩でも前に進もうとするのに、結局は同じ場所で足踏みをしているだけ。もがけばもがくほど泥の中に沈んでいって、とうとう私は捕まってしまった。
目の前が真っ暗とはこういうことを言うのだろう。今はただ、未来が見えないことが怖い。
私はいつまで続けることができるだろうか。諦めという選択はいつからか頭の隅には浮かんでいた。ただ、それをする勇気を持ち合わせていないだけだ。諦めというゴールを迎えたとき、今までの私はどこへ向かうのか。
これだけ頭の中ではぐるぐると考えているのに、言葉では何一つ伝えられていなかった。ゲンさんの視線を感じてはいるけれど、今はもう体の奥からこみ上げてくる感情をこらえるので精一杯だ。
「少し休もうか」
ふわりと視界をさえぎるように被せられたのはゲンさんの帽子。つばの広い青い帽子はこのどうしようもない表情も隠してくれるだろう。俯いた私の視界に触れるものは地面の土と垂れ下がった腕の時計ぐらいなもの。時計に付属している方位磁針も力なく地を指し示していて、進路を測るための道具すら今は味方になってくれないのかと、どうにもやるせなかった。
「あの辺りがが良さそうだ」と手を引かれるまま、ゲンさんが見つけてくれた休息できそうな場所へ腰を下ろしてようやく、私は息を整える試みに至る。
「ゲンさんは、不思議な人ですね」
この場の空気がいたたまれなくて、とにかく何かを発しなければと、まるで関係のない言葉を口にしてしまった。
どうでも良いことだけど、でも前からの疑問だった。ゲンさんはなぜ姿が変わらないのか。老けないにしても限度がある。昔に年齢を尋ねたこともあったが、上手くはぐらかされてしまったので正確な年はわからないままだ。
「よく言われるよ。私は別にそんなことはないと思っているんだけどな」
「それ、よく言われる時点で普通じゃないですよ」
「そうかい? でも私は私だからね」
静かに語るゲンさんの声はとても印象深く耳に残った。他愛ない会話はじんわりと広がって、私の心を平穏で満たしていくようだ。
ゲンさんの周りはどこか空気が違っていて、ゆっくりと時間が流れているような気さえする。もしも鎮痛剤というものが人の形をとったのなら、ゲンさんのような姿になるのかもしれない。
「薬なんて必要と思ったこともないのにな」
「薬か……。私は医者ではないから詳しくはないが、薬の役割とは症状の緩和であって、人は本来、自己治癒力で体を直すものだともいう」
「それ、結局一人で立ち向かわなくちゃいけないんですか。なんか優しくないなあ。こっちは困ってるものをどうにかしたいだけなのに」
ゲンさんがそんなつもり言ったんじゃないとは理解しているけれど、ネガティブに沈んだ思考はひねくれた言葉を選んでしまった。
普段なら絶対にしないただの八つ当たりも、ゲンさんが相手だからだ。私は"どうにかしたい"のではなく"どうにかしてもらいたい"ということにも気づいている。一人ではもう、八方塞がりだ。
でも、その期待も空回りに終わる。ゲンさんは何も言ってはくれない。
水の落ちる音がした。
次いで、生き物の気配。野生のポケモンがやってくる。そろそろ場所を変えなくてはならない。けれど立ち上がれる気はしなかった。
「行こうか」
立ち上がれなくても、立たなくてはいけない。現実とは無情だ。ゲンさんは手を差し伸べてくれたけど、なんとなく反抗したくなって、「大丈夫です」と一人で立ち上がった。
それからは二人とも無言で歩き続けた。しばらくしたところで辺りの明るさが増す。出口はもうすぐだ。
外からの光をゲンさんの背の向こうに見て、私は立ち止まった。それを察してゲンさんも振り返る。逆光の中、困ったように苦笑いを見せるゲンさんは昔と同じだった。
浮世離れしたその雰囲気はどうしてか錯覚を見ているような気分で、私はいったい今がいつなのか、はたしてここが現実なのか、よくわからなくなってしまう。
ここは私の思い出の場所だ。ゲンさんと出会って、ポケモンを貰って。トレーナーとしての第一歩を踏み出した原点の場所。
鉱山としての役目を終えたこの場所は今、休息期として眠っているのかもしれない。地下深く外界から切り離された空間は、時間の感覚すらも狂わせるのだろうか。
世界が上に向かって伸びようとする中で、ここだけが変わらないまま窪みを作る。その中に姿を隠して私は安心を得る。
私は安息を求めていて、眠るための場所としてここを選んだのか? 浮かんだ疑問にはかろうじてだが、違うと首を振ることができる。私はきっと、会いたかったのだと思う。
「私は休みたいのかもしれません。疲れたんです。上を目指すことに」
「疲れたのなら十分に休んでいけばいい。そうすれば君はまた歩き出せる」
「でも休むことは許されないんです。時間には限りがある」
「急いで結果が得られるならそれでも良いだろう。でも君は今焦りが生む失敗を経験したばかりじゃないのか?」
「でも! 欲しいものは手をのばさないとなくなっちゃうじゃないですか! いつまでも待ってはくれないものもある!」
「では聞くが、君の欲しいものは何だ?」
「私の、欲しいもの? ……ゲンさんの全部が欲しいです。くださいって言えば貰えますか」
この人のような強さがあれば、なんでもできそうな気がした。理知的で落ち着いた佇まいも、圧倒的に正義を漂わせる貫禄も、わがままを受け止める包容力も、全部全部私が持ち得ないものだ。
なにより変わらないままで居続けるその姿なら、時間という概念さえ超えられそうな気がする。
「それなら交換条件だ。君も全てをくれるというのなら、私の全てを差し出そう」
「私の、全部……」
何の対価もなく欲しいものを得られるなんて都合の良い話はそうそうあってはならない。ゲンさんの言うことは道理として当然だ。
誰かのために私は私を投げ出せる? その言葉は重く私にのしかかった。
「ごめんなさい。やっぱり私の全部はあげられないです」
でも答えなど最初から決まっていた。私は私を、私の夢を捨てることができない。だから苦しくとも今、あがいている。
ひとつため息をついてみれば、自分の馬鹿らしさに頭が痛くなりそうだった。人に確認してみたところで、私が私であることは揺るぎようのない事実だ。それは未来永劫変わることはないだろう。
馬鹿みたいな妄言にも誠実に向き合ってくれたゲンさんには、やはり感謝しなくてはいけない。全部が欲しいだなんて、大それたこと言葉がでたものだ。我に返って苦笑するけれど、苦々しい感情も全て私の一部で受け止めるべきもの。
「私が思うに、君のいる場所はここではないよ。あの光の向こうにきっと君の道がある」
そう言ってゲンさんは真っ直ぐに出口を指し示した。きっとだなんて随分希望めいた言い方だけど、ゲンさんの言葉には不思議と説得力があって、いつの間にか私は一人、歩き始めていた。
言葉に導かれるようにそこを目指す。慣れ親しんだ潮の匂いはどこか恋しい。踏み出した外の世界はいつも以上に眩しく感じて、その急激な明るさの変化に思わ ず目を細める。刺すような光は痛かったけれど、ゲンさんから借りたままになっていた帽子が天からの光をやわらげてくれる。
くるりと振り返った鋼鉄島の入り口は真っ暗で、それが今、白日の元に晒されている世界とひどく対照的だと思った。
時計を見ると針は既に昼過ぎを指し示していて、朝一からこもっていた身としてはまるで時間がワープしたような気さえする。
そういえば昼食もまだだったなと、意識した途端にお腹は空腹の音を鳴らした。まずはポケモンを回復して、それから皆で昼食を取ろう。ゲンさんにも迷惑をかけたから、そのお詫びをしなくてはいけない。なんだか外にでた瞬間、急にいろんなものが帰ってきた気分だ。
取り急ぎお礼を言うべくゲンさんの姿を探したけれど辺りには見当たらなくて、不思議そうにキョロキョロしていたら、私の名を呼ぶ声はいつの間にか船着場へと移っていた。
いつの間に移動したのだろう。船着場にはタイミングよく連絡船も到着していた。あれに乗れば私は日常へと帰ることになる。後ろ髪を引かれる思いに少しだけ躊躇して目線を下げると、目に入ったのは時計付属の方位磁針。
チラリと目に入った針は確かにゲンさんの方を指し示していて、なんだそういうことかと私は一人納得し、船へと向けて駆け出した。