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    佐真

    汚泥 どどう、どどう、と川が鳴っている。
    普段から油の虹が浮かぶ様な水質の蒼天堀川は、大量の雨により底のヘドロがかき混ぜられ、ひどい悪臭を放ちながらみるみる内にその水位を増していた。打ちつける雨と風に既の所で耐えていると見える自分のねぐらの窓枠は、ガタガタと痙攣のような動きを見せている。嵐である。大阪で暮らすようになり二度目の夏を迎えたが、こんな大雨に見舞われるのは初めての事だった。

     地元の人間から言わせると、この辺りは昔から台風やら大雪やらの被害が比較的少ない地域だとの事で、確かにこちらに移ってからというもの大きな災害は経験していなかった。とはいえ、自分はこの街から出る事は許されておらず、通勤と言ってもすぐそこのキャバレーに徒歩で向かうだけなので、ある程度の事なら訳は無いのであるが。

     その日は朝から、蒼天堀を含め周辺地域一帯に大雨警報が発令されていた。暴風警報こそ出ていないものの、見るからに風も相当に強い。階段を降り外に数歩踏み出した時点で、傘は逆さまに開き切り、骨は二本折れて使い物にならなくなった。以前その辺で拾ったボロ傘を使っていたら、自身の管理役である佐川にねちねちと咎められ買い与えられた、どこぞのブランド品である。この惨状を知られたらまたどやされると辟易しつつ、他に方法もないので傘はその場に打ち捨てて、矢のように降り注ぐ雨粒を全身に受けながら勤め先であるキャバレーグランドに走った。

     事務室に駆け込んだ時には、タキシードからドレスシャツ、肌着に至るまでじっとりと濡れそぼち、どこを絞っても床には大きな水溜まりが出来た。不格好でも雨合羽くらいは用意してくるのだった、と後悔しつつ棚からタオルを数枚取り出し全身を拭いていると、窓の向こうでフラッシュを焚いたような光が走った。雷だ。そう思った瞬間、雷鳴の代わりにけたたましく黒電話の呼び出し音が鳴り響いた。

    「はい。こちら……」
    「よう、真島ちゃん。俺だけど」
     こちらが言い切る前に遮るように話しかけられる。やはり。
    「……佐川はん」
    「雨やべえな、濡れてない?」
    「全身ぐしょぐしょや。一旦帰って着替えなアカン」
     濡れ鼠となった姿を想像したのか、ふっと鼻で笑われた。傘のことについては言及して来ない。ひとまずは安心である。
    「そりゃ災難だな。でも着替えの必要はねえよ」
    「なんやて?」
     ごごん……と、鈍く重たい雷鳴が響く。音は、随分と遠い。
    「こんな天気じゃ客もキャストも来れねえだろ。すぐに臨時休業の告知出しな」
     尤もである。道中事故にでも遭おうものなら、困るのはこちらなのだ。わかった、と素直に応え早々に会話を終わらせようとする。濡れたままでいたせいで、いい加減冷えてきた。
    「ああ、それと」
     まだ何かあるのかとうんざりしながら続きの言葉を待つと、やや間を空けてから、妙に熱のこもった声でこう囁かれた。
    「今晩そっち行くって言ってたけどよ、外がこんなだからさ……。嵐が過ぎたら会いに行くよ」
     そう言って、こちらの返事は待たずに電話はガチャリと切れた。冷えきっていた身体の奥が、ずくんと熱を持って疼く。

     勤め先のオーナーであり五代目近江連合直参佐川組組長である佐川司は、嶋野の親父を通して自分を監視下に置いてからというもの、度々この身体を蹂躙した。初めて組み敷かれた時は、穴蔵の生活で無造作に伸びた長い髪に感謝した。首を傾けるとさらりと顔にかかるそれは丁度良い目隠しとなってくれたので、黒い簾越しの景色を見つめながら、この空虚な時間をやり過ごそうと画策したのだった。
     ところがこの男はそれが大層気に入らなかったらしく、前髪からこめかみ辺りまでの毛束を一纏めに掴むと、顔が晒されるように根元からぐいと引き上げた。そのまま激しく抜き差しを繰り返され、頭が前後に大きく揺れる。その度に頭皮が強く引っ張られて、鋭い痛みが走った。こういう時、この男の瞳は刃物のようにぎらりと光る。元々内に飼っているのだろう暴力性を見せつけられ、ああこれは躾なのだ、どちらが上でどちらが下か、よく見てよく感じろとこの身に教え込んでいるのだと実感した。穴倉でも散々思い知らされたが、雄は性欲でなく支配欲でその身を猛らせることができるのだ。
     そんな日があったかと思えば、別の日には打って変わったように、顔にかかる髪をゆるやかな動きで優しく撫でつけられる時もあった。長い指が耳の縁を撫でる感触に、ぞわぞわと肌が粟立つ。激しく虐げられる時よりも、こんな日の方がよっぽどその目を見る事が出来なかった。この男が何を考えているのかまるで分からない。でもそれで良い。水底に溜まるものの名前を知りたくはなかった。ならばどちらにしても目を伏せてやり過ごす事に変わりはない。それでまた叱責されても構わない。閉じる瞳がひとつで良いのは、楽だと思った。

     電話を切った後、言いつけの通り臨時休業とする旨を従業員に通達し、店に貼り紙をしてからねぐらに引き返し、今に至る。
     音を立てて暴れる窓枠に手をかける。普段の倍以上の力をかけてがたんと窓を開けると、雨粒と不快な湿気が突風と共に部屋に吹き込んできた。雨で視界が悪く見えづらいが、目を凝らすと向かいのビルにはいつもの男が立っている。屋上と橋の上、そして当たり前だが、今日は川には監視員は見えない。だがどうせ、別の場所に移動させて今もこちらを見張らせているのだろう。
    「俺よか仕事、頑張ってるよなァ……」
     独り言ちながら、湿気って駄目になったハイライトの箱をポケットの中でくしゃりと握りつぶした。嵐が過ぎたら会いに行くよ。そう言った佐川の声が頭の中で反響する。

     どどう、どどう、と川が鳴っている。
    どす黒い水が荒れ狂う様はやはりどこか恐ろしく、でも何故か目を離す事が出来ない。濡れるのも厭わず、ぼんやりと窓のそばに立ち尽くしていた。この濁流が引いたら、それとそっくりの衝動がこの身に向かってやってくる。生乾きのドレスシャツがまた雨水を吸い、この部屋に満ちる湿気のようにぬたぬたと肌に張り付いている。だが不思議と寒くはない。腹の底で不快感とほのかな期待が、綯い交ぜになって渦巻くのを感じていた。

     遠くでまたひとつ、雷鳴が響いた。
     雨は降り続いている。
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    DOODLE佐真
    さらに闇を待つこのアパートの一室をねぐらとして与えられてからもうすぐ一年ほどになるが、部屋のメンテナンスなどは一度もした事がなかった。老朽化が激しく至る所が隙間だらけで、冬は寒く、夏は暑い。押し入れの引き戸は立て付けが悪く開けるのに苦労するし、窓枠は風が少し吹くだけでもガタガタと音を立てる。床板も傷んできており、歩けばあちこちでぎいと苦しそうに鳴くという始末である。
     勿論、電球など変えた事もない。粗末な裸電球は、この所もう虫の息だった。息絶える直前の蝉の如き瞬きを繰り返しては、卓袱台を挟み対峙する、俺と目の前の男の肌を蜜柑色に照らしている。

      何を思ったか俺の今の管理者であるこの男は、真島ちゃんの家で一杯やろうよ、などと宣いこのねぐらに上がり込んだ。卓袱台にはコンビニで買ってきた缶ビールが数本と、つまみの貝ひもの袋が開けられている。それだけで卓の上はもう余白がない。ろくに会話もないままに換気の悪い部屋でゆっくりと飲み続け、しかも真夏という季節も相まってビールはすっかりぬるくなっていた。卓の上に視線を落とす佐川の首筋は、手元の缶と同じく汗で濡れ、電球が点滅するたびに爬虫類の皮膚のようにあやしく光る。それを見つめる俺自身も、全身にじっとりと汗をかいていた。
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