ままごとの涅槃 岩融は、肉体に意識を押し込まれた折から五蘊盛苦ごうんじょうくの苦しみに苛まれていた。
戦は好きな方だ。肉を裂いて骨を断ち、武功を立てて進むのみである。問題は、そのあとの、本丸の営みの穏やかな静寂で、己の存在が異物であるように感じられることだ。
遠くの山の輪郭を朧気おぼろげにする白い霧に、岩融は馴染みの深さを感じていた。山の纏った霧は、ひどく柔らかく優しい。岩融のような曖昧な存在さえも許しては、事態の停滞を受け入れる天候に、すこし気が緩ゆるむ。
この頃ごろ、一挙手一投足が間違いであるような、何をするにしても罰を受けねばならぬといういきすぎた自責思考が、岩融の脳裏を掠めていた。
(人の苦しみは生きている内に続いていく、俺の苦しみもずっと続いていくのだ。くよくよしてはおれん)
文字通りの四苦八苦しくはっく。元の主と同様に仏門に帰依する男は、諦念ていねんと寛容かんようを持ち合わせていた。
審神者たる女主人に内客ないきゃくの間に呼び止められ、岩融は普段、清掃でしか出入りしないひと部屋を眺めた。剥製の鹿の首が梁はりに掛かり、重たげな硝子がらすの中に分厚い背表紙達が並んでいる。
女は座布団の上に端座たんざしており、へりを踏まぬように歩を進める男を見つめて、「楽にしなさい」と呟いた。
それを聞き、脛すねを座布団に沈み込ませ、彼もまた姿勢を正して坐する。そうして、女の目をまっすぐと見ながらも、やや不安であるという面持ちで問いかける。
「主、俺はなにかを仕出かしただろうか。普段、斯様かような場所には呼ばぬだろう」
「それはおまえ次第だわ、岩融。悩んでいるのでしょう」
「悩みなどつねにあることだ。話す程度のことでもない」
「話して。おまえのために聞いているのではないの。支障が出る前に開示なさい」
女にぴしゃりと言い放たれて、岩融はかえって気が楽になった。堅く閉じていた唇を離すと、心の裡うちを話す。
「俺の生まれはしかたない。しかし、今剣の童わらべの肉体に押し込められた心を慰めることも出来ず、ただ……、不甲斐ないのだ」
襖ふすま越しに、そよ風が行くあてもなく通り抜ける音を、岩融は鼓膜の奥に留めていた。話をしたところで、どうにもならないことを知っているから、心の澱おりを零すことをよしとしなかった。
女は、岩融に見せぬ顔色で、気の毒と感じていた。
(私なんかよりよほど人らしく、他者のために迷うことが出来るのだ、この男は……)
戦争孤児であり、育児放棄を受けていた被災地の家から養親に引き取られた女は、人を嫌うこともなく、特別興味を抱くこともなく、無関心に、無差別に育った。
「おいで、岩融」
女は岩融を呼び付けると、腕を背に回し、頭を撫でるように抱えた。岩融は突如として抱擁ほうようを受け、狼狽を隠すこともできず、ただ畳の上で膝立ちした。しもべを、しかも人間の男のなりをしている、上背の存在を、我が子のように甘やかしているのだからおかしなものだ。
「主」
「おまえは優しい刀こ」
とく、とくと衣服の上から、女の心音が一定の間隔で鳴るのを聴いていると、雑念が散っていく。不慣れな女が、偶像ぐうぞうの優しさを翳かざすさまは、まるで児戯じぎのようだった。
「このようなことをしてはならぬ」
「ずいぶん偉い口を聞ける立場になったのね」
岩融はたじろいで、この小さな温もりと厚みを確かに感じていた。輪郭を確かめるように髪をわしゃと撫でられ、短く切り揃えられた前髪から覗く額ひたいに唇を付けられる。
「なぜ……」
岩融のひとりごちるような呟きに、女は指を絡め、「おまえが寂しそうだから」と答えた。ままごとの母親役のようで、絵画の中の聖母のようでもあるちぐはぐな女の姿に、岩融は畳に爪を立てぬように、ぐ、と掌を握った。
「ね、抱きしめて」
腕を離し、細い上体を傾けて、女は岩融に囁いた。躊躇ためらいつつも肩を動かし、女の身体を抱きしめると、先程のおおらかな印象とは違い、細く、嫋やかな柔らかさが際立っていた。
小さい、あまりにも脆く感じる─、子供の身体ではなく、男の身体にしては頼りがいのないそれに、岩融は庇護ひご欲に駆られていた。
今度はままごとの親役を、自分に与えられたように感じ、ひし、と抱きしめるほかなかった。
「ままごとの中なら、何になってもいいし、どういう結末になってもいいのよ」
岩融の脳内を当てるかのように、そう呟いた女は、微笑んでいた。それが幸福な結末であるのかは、己で決めて良いのだと─、つかの間の安息を女は囁いた。
まるで魔境だと岩融は思いながら、悪魔おんなの誘いを断らず、胸の中に女を押し込めた。