「水心子」
耳元で源清麿に呼ばれ水心子正秀は我を取り戻した。
「駄目だよ。集中してしまうのも分かるけど、もっと全体を見ないと」
「あ……あぁ。すまない」
「爪先をね、とんとんってしてた。ずっと」
「えっ」
「いつの間にヒトみたいな癖を身につけちゃって」
無意識とはかくも恐ろしい。足元で再現までされて水心子は嘆息する。
古物オークションに忍び込むには外見年齢があまりにも若すぎて、23世紀から持ち込んだ光学迷彩を用いて初老の人間の男の姿へと変じていたが、清麿が目尻にからかうような感情を浮かべたのは分かった。
売り言葉に買い言葉、というわけでもないが水心子もつい煽るような言葉を選んでしまう。
「清麿こそ私のことを言えないと思うが」
「えっ?」
清麿は意外そうに水心子を見た。
いっせんまん、いっせんとごじゅうまん。ひゃくまん。ひゃくごじゅうまん。
入札額を示し上げていくオークショニアの高らかな声があり、あちこちでそれぞれの目的を持ってさざめく参加者たちのひそひそ話が場を満たしていた。二人のやりとりもまたその中にすっかりと埋没している。
「そうなの?もしかして、僕にも何かある?」
「聞くか」
「ううん、いい」
清麿はすぐに静かな顔を取り戻し、視線を受け流すように笑んだ。あぁしまったなと思って水心子は口をつぐんだ。彼は緊張をほぐそうとしただけで、他意はないのだ。
いつもなら即座に察せるはずのことに鈍感になっていた。すっかり余裕を無くしている自分に気付いて水心子は歯噛みする。
新たにふつふつと沸き立ってくる苛立ちを押しつぶすように。
■■■『初めて』をもらう話
いたく豪奢な場所であった。
正規のオークションハウスではない。とある資産家が建てた私設の会場だ。西洋の有名なコンサートホールに似せて設えらえれたという。今行われているオークションは、会員限定で行われる完全にクローズドなもので、電話やインターネットなどの通信手段を用いた参加は一切認められない。開催日時も含めてあらゆる情報が隠匿されており、会場に入るにも、出品カタログを見るにも本人確認が必要という徹底ぶりだ。この場に忍び込むことができたのは、危険な場所へと潜行した仲間のお陰である。
『2千万!276番、2千万での落札でございます!』
かん、と固い音が響く。オークションを仕切る競売人が木槌を叩いたのだ。会場のあちこちから寿ぐような拍手の音が聞こえてくる。
今のところオークションは滞りなく続いていた。ステージ上が薄暗くなり、白い手袋をつけたスタッフが落札された茶道具を運び出し、入れ替わりに別のスタッフがふたりがかりで次の出品物を運んでくる。絵画のようだ。
ステージの中央には白い布がかけられた大きな卓がある。スタッフはそこへ絵画を設置すると舞台袖へ捌けていく。
『それでは次の入札へ入ります!』
オークショニアの呼びかけと共に、カッと強い光が絵画を照らした。
「ねぇ水心子、あれも?」
「あぁ。そうだ」
声には出さず『盗品だ』と答えた。
下見会を観覧した歌仙兼定と大般若長光はその目利きの腕を発揮するまでもなく確信めいた口調で言っていた。
今回出品されたいずれの品も、歴史の闇の中で行方知れずになった物である、と。
『85番、800万での落札でございます!』
絵画は間もなく落札された。落札者は後方の席にいるようだった。様子を伺う風を装って振り向くと十数メートルほど離れた席に座る壮年の男性と目が合う。光学迷彩で人間に擬態したソハヤノツルキである。ソハヤは水心子だけに分かるように手で合図をする。もし何も齟齬が無いのであれば、歌仙と大般若と、そして呼びこまれた別働部隊が到着するはずの刻限ではあったが、今のところオークションは何の問題も無く、むしろとんとん拍子に続いている。
このホールの中はいわゆる電波暗室のような仕掛けが施されているらしく、外部と通信機器を用いたやり取りは一切できなかった。リアルタイムでの連携が望めない以上、精密な時間感覚を元に動かねばならない。
もう少し、あと十数分ほど。歌仙たちが館内を掌握し、経路を確保するための時間は稼がねばならない。
必要なのは派手な大立ち回りではない。時間を捻出する創意工夫だ。
『それでは次に参りましょう!』
オークショニアは次なる出品物を呼び込む。身振り手振りはやや大袈裟で芝居がかっていた。
スタッフが舞台袖からワゴンを押してくる。その上には横に細長いガラスケースが乗っている。
「来たね」
清麿がつぶやいた。
「水心子、この時代での最低落札価格は?」
「下は5500万くらい、上は……億は下らないだろうな。それは気にしなくていい」
ぱっと強い光を受けてガラスケースの中に置かれたものが銀色に輝いた。
『それでは、ロットナンバーNo.13 三池光世「銘 光世作」。3000万円から』
事前の取り決め通り、清麿は番号札を挙げた。受付完了と同時に渡されるもので、入札をするために欠かせないものである。水心子は持っていない。擬態した人間が入札資格を持っていなかったのである。発覚したのは入場受付の時で、どうしようもないことは分かっていたが、いざ入札が始まるとなんとも形容しがたい気味の悪さが立ち上ってくる。歯がゆかった。
壇上のオークショニアは例のわざとらしい身振り手振りも交えながら会場全体に呼びかけた。
『176番。3000万円。他にはいらっしゃいませんか?はい、3100万円。奥のお席の方、15番、205番、328番……』
視界の中にパドルを掲げている者はいない。つまり対抗馬は水心子よりも後ろにいるらしい。それも何人も。
清麿はまったく怯む様子は無く腕を上げたままで、3200万、3300万、3400万と、みるみるうちに入札額は上がっていく。
水心子は固唾をのむ。太刀は白いライトを受け、ただ煌々と光り輝いている。
三池の刀鍛冶の作は同時代の古刀に比べると低く見積もられることもあるらしいが、まったく信じ難いことだった。
勤めて顔では冷静を装うようにしていたが、皮膚の下の心臓は暴れに暴れていた。
下見会で披露された他の出品物と同じだ。鑑定証が無くともわかるだろう。あれが正真な三池光代の作であることに。
刀剣を観る目を持つものならば察するに違いない。あれは加賀前田家の宝刀そのものであることに。
そして付喪神を宿す古物を手に入れたい者なら気づくはずだ。
あの太刀こそ、刀剣男士「大典太光世」の依代であることに。
『5000万円。……それでは、ここからは競り幅を500万にさせていただきます。次は5500万円、6000万……』
古物が人の手を介して売り買いされていく道義は分かる。たとえ目的が単なる享楽だったとしても、それだって人間の生の営みの一つであり、守るべき歴史である。
大典太が囮になるという判断が無ければ、自分たちはここまでたどり着くことはできなかった。それも理解している。
けれど、水心子は納得していなかった。納得、していないのだと思う。正体不明の苛立ちは収まらない。理屈ではなく、感情が暴れている。
『一億円!』
入札額が大台を突破した。
「どこまで上がるかな」
「いけるところまでいってしまえばいい。あれは我が主のものだ」
一瞬だけ視線を腕時計の文字盤に移す。長針は予定時刻を5分ほど過ぎたところにあった。
オークションスタッフは誰も持ち場を離れず、VIPや出品物を奥へと引っ込めるような様子も見られない。
しかしまだ行動は起こせない。不確定要素が多すぎた。人間の言葉を借りるのであれば『第六感』としか言いようがないが、目視できないような場所に誰かがいる気配のようなものを感じるのだ。
水心子と清麿がいる場所もソハヤが座っている席もいずれもステージからはやや距離があって、大典太を奪還するための位置的優位を取れそうにない。少なくとも今のままでは。
「清麿、まだしばらく引き延ばせそうか」
「いけると思う。328番、結構しぶといからね」
じれったそうに清麿は言った。その声の底に何か熾火のような感情が燃えていることに水心子は気付いた。
焦燥か。怒りか。違う。想像を張り巡らすその先で、そのまま自分の内なる思考へ落ちていきそうになって、水心子は眉間にぎゅっと力を込める。考えるのを止める。
ステージの上に視線を向ける。光世の太刀は何も言わずにそこにある。
『176番、1億5000万円。……15番、1億5500万円。176番、1億6000万』
オークショニアが読み上げる番号札の数が減っていた。
どうやら他の入札者は皆勝負から降りたらしく、清麿とソハヤの一騎打ちになっていた。
競り落とせば正式な取引のためにパドルをスタッフに渡してホールを退場するという運びになっている。
『2億2000万円。176番。……決まりでしょうか?』
少しして『15番』も読み上げられなくなった。ソハヤもまた競りから降りたのだ。作戦通りである。そこまでは。
水心子は清麿の手からパドルを攫い、高らかに掲げた。オークショニアはカンッとガベルを打ち鳴らす。
『おめでとうございます!176番、2億2000万での落札でございます!』
「ねぇ、ちょっと」
清麿が小さく咎めるような声を上げ、水心子はハッと我に返った。完全に無意識の行動だった。
心臓がぎゅっと縮み上がる。罪悪感に羞恥心、いくつもの感情が氷水のようになって全身を巡るようだ。
「っ……!」
「大丈夫だよ。競売の規約違反にはならないから。次へ移ろうか」
集中してと言われたばかりだったのに、まったくできていない自分。
対して清麿はいつにもまして冷静で、辺りを伺うようにさっと目を走らせつつ、ぽんぽんと水心子の膝を叩いた。反省よりも目の前の任務に集中すべきだ、とでも言うように。
その時、後方から何かを蹴飛ばしたような音が上がった。振り返ると水心子と清麿の席へと近づいてくる人影があった。男の顔には憤りの感情が浮かんでいる。
オークションの進行を阻害し、場を撹乱するためにソハヤが演じる狂言である。迫真の芝居に釣られて間もなく警備員が飛んでくるはずだ。
……そのはずだった。
まるで眠りに落ちる時のように、ふっとすべての照明が消え、辺りは闇に閉ざされる。
「まさか」
「行って、水心子」
思考が結びつくよりも早く清麿の声が背中を押した。脚は勝手に駆け出していた。用済みの光学迷彩を解除する。
作戦に無い事態が起きていた。何者か、おそらくは敵の手で照明が落とされたのだろう。
「停電が発生したようです。ただいま原因と会場設備を確認しておりますので、しばらくそのままでお待ちください」
言うまでも無くあたりは騒然となっていたが、場内の動揺に対してオークショニアの肉声での呼びかけはあまりにも呑気なものだった。
しかしそれに意識を向けている余裕が無い。心臓が脈打つ音が身体の中で響く。
この程度の状況くらい何度も潜り抜けてきたはずなのに、たったの十数メートルが、こんなにも遠い。水心子は呻く。
自分が辿りつくよりも早く、ガードマンが現れていた。大柄な人間たちが刀が納められたガラスケースを背で守るように立ちはだかる。この事態を想定していたような、あまりにも無駄のない動きだった。水心子が壇上へと降り立つ音は、会場のざわめきに紛れ込むほど小さな小さなものだったのに、視線がこちらに向いた気配を感じる。まるで暗視スコープでも使っているように。
思わず萎縮しそうになる全身の末端に神経を集中させる。腰のポーチに触れた。
ここまで狙撃の類は行われていない。
銃火器を使うようなそぶりは一切無い。
人間は立ち塞がっている。盾のように、壁のように、あるいは、檻のように。
(まさか)
最初から鹵獲するつもりだったのか。大典太を餌に、自分たちを。
確信めいた予感が水心子の脳を貫き、咄嗟に清麿とソハヤへと意識が向く。
じり、と後ずさりかけた瞬間、均衡が崩れた。兵士らは音もなく整然と一気に距離を詰めてきた。
鉄塊のごとく迫ってきたひとりの拳をいなし、ひとりの腕をかわす。それだけで水心子は悟った。彼らがただのガードマンではなく、高度な対人戦闘に長ける兵士であることを。
攻撃に一切の躊躇いが無い。捕まったらおしまいだ。掴まれるより早くマントはパージした。帽子の感触は既に無い。
風を切るような音が聞こえて反射的に蹴り上げる。電磁警棒だった。かすめ取るように奪い、振り回す。
目の前に迫っていた兵士のみぞおちを殴打すると何か固い感触があった。刃は簡単に通らなそうな金属板。ボディアーマーか。
一刻一秒を争う状況で力加減など考えられない。だが過去の時代の人間を殺傷するのはご法度だ。刀は抜けない。
全体重を乗せて兵士の胴体を蹴り込んだ。人間の壁を瓦解させ、走る。無我夢中で腕をかいくぐる。
身体にしみ込んだ経験が水心子の身体を動かしている。ただ、喉を抜けていく呼気が熱い。
床を蹴ってガラスケースへ飛びつき、無遠慮に手をつき、そして飛び越える。
「ごめん……っ!」
腰のポーチから「それ」を掴み上げた。
両足が床の感覚を捉えると同時に、ピンを抜き、兵士らの足元へ放り投げる。
* * *
大典太光世が再び人の姿を取り戻した時、オークション会場での騒乱は鎮圧された後だった。
刀の姿で閉じ込められていた強化ガラス製のショーケースは側面が派手に割られて穴が開いていた。刀の柄頭を叩きつけて砕いたのである。
それを行った当の本人はステージの隅にいた。壁に背を預け力尽きたように座り込んでいる。そこへ清麿が駆けてくる。回収した水心子の衣服を抱えていた。
清麿は水心子に二言三言話しかけると、畳んだマントと帽子を足元に置いて踵を返した。
俯いたままの水心子の表情ははっきりと見えない。心ここに在らずといった様子で、大典太が近づいても気付いたような素振りは無い。
左袖はガラス片で裂けてずたずたになっていた。太刀を取り出そうとケースの中に突っ込んだ時、よほど焦っていたのだろう。
「おい、その腕、大丈夫なのか」
「うで……」
「感覚が無いのか」
「わからない……昂ぶりが抜けなくて……」
水心子の応えは要領を得ない。大典太は視線を合わせるようにしゃがみこむ。
水心子はびくりと慄くように震えたが、構わずに顔を覗き込むと、いやに青白い顔と、獰猛さを湛えた獣のような目があった。
極度の緊張状態に晒された直後ならよくあることだが、身体も心も未だ戦場から戻って来ていないらしい。
「さっきのあれは何だ」
「『あれ』……?」
「俺の上を飛び越えた時だ。一体何に対しての謝罪だったんだ。擲弾を使ったことか」
刀の姿であっても感覚のようなものは活きていて、大典太はすべてを見ていた。
戦力的に迎え撃つ敵の方が優位であったものの、水心子が放った音響閃光手榴弾のおかげで機先を制することができたと言える。
直後に歌仙兼定らが踏み込んできたタイミングも完璧で、オークション主催者の私兵は和泉守兼定率いる後続部隊によってすべからく圧倒された。
「主から使用許可が下りているなら構わないが、刀の俺はあんたと違って防ぐ腕も瞼も無いんだ」
目が覚めるどころか、視界を奪われるほどの強烈な閃光。聴覚を消し去るほどの轟音。
強化ガラス一枚を隔てていたとはいえ、大典太はそれらをほぼモロに食らったといえる。
「流石に効いたぞ」
「ご、めん……」
淡々とした口調ながらも大典太の視線は剣呑で、水心子は呑まれたように謝罪の弁を述べた。
散大していた瞳孔があっという間に縮んでいつもの『水心子正秀』の瞳へと戻っていく。
そしてそのまま彼は自省の念と共に内へ内へと落ち込んでいった。
「なぁ、あんた」
そこに掛けられた声は意外なほどに穏やかだった。
この世の終わりのような顔をしていた水心子は驚いたように大典太を見た。
「俺を欲しがったな?」
「!!!!」
大典太の言葉は的確に急所を突いた。血色の悪かった頬が一転、朱に染まる。
水心子は両手をぱっと顔の近くに持ってきてそのまま凍り付いた。
いつもならそこにあるマントの立て襟は今は無い。顔を隠すものは何も。
一瞬だけ逡巡した翠の瞳は非難の感情を帯びて大典太を射た。
「今ここで話すようなことでは無いだろう……そういうことは……!」
「いいや、はっきりさせてもらわないと困る。随分と『らしくない』振る舞いばかりしていると思った」
話を切り上げようとする水心子を一切合切無視して大典太は体を寄せた。
ヒッと悲鳴を上げて後ずさろうとしたが、水心子の背後は壁だ。追求から逃げる場所はどこにもありはしない。
大典太は小さく笑う。呆れたような表情だった。
「……まさか無自覚だったのか。下見会の時と言い、入札の時と言い、あんな表情で俺を見つめておいてか」
「あ、貴方も私も等しく我が主の刀だ。主の物に情を抱くなどあってはならない」
「だが持ってしまった。他の者の手に渡ることを畏れた。値を掛けられることに怒った。あらぬ感情を抱いた。……違うか?」
「や、やめろ……この話はもう……」
「前田家の大典太光世は競りに出されたことは無い」
大典太は床に置かれた水心子のマントを手に取った。ばさりと広げて着せ掛ける。水心子の顔に影が落ちる。
無防備にこちらを見上げているその口を唇で塞いだ。
一度離れ、躊躇うような呼吸をかき分けて、教え込むようにもう一度。
間もなく水心子が身をよじったので素直に離れてやる。
「なっ、なん……」
水心子は瞠目する。マントの立て襟をかき集めるように手繰り寄せて口元を隠した。
震える息を吐いて、吸って、もう一度大きく吐いて。翠の目は混乱に見開かれている。
「つまり、初めて落としたのはあんただ。こんな黴臭い刀を……物好きだな」
発露した情動を糾弾されるとでも、あるいは嘲笑されるとでも思っていたのか。そんなこと絶対にあり得ないのに。
与えられた言葉の意味を咀嚼し、理解した水心子は茹蛸のように真っ赤になった。
【終】