雨上がる 降り続いた雨を忘れ果てた空は、抜けるような青だった。
借り物の自転車は、二人分の重みをしぶしぶ受け止めたのだと言わんばかりに軋みながら前へ進む。
「五条先輩、やっぱこのチャリじゃあんまり速度出ないって」
ハンドルを両手でしっかりと握った悠仁は、育ち盛り二人分の重みをペダルに乗せて、一気に漕いでいく。
ひと回り背の高い男は、荷台にゆうゆうと腰掛け、長い脚を伸ばしていた。平均的な体格の学生を後ろに乗せるとは訳が違う。自転車に感情や人格があったなら、辞表を提出されても仕方ないレベルだ。
「ガタガタ言わずにそのまま行けって。少しくらい力入れても壊れねえから。知らねえけど」
「自転車壊れたら先輩が責任取ってくれんの?」
「そしたらレースに出られるやつ買ってやるよ」
「ママチャリ壊したらママチャリ返すしかないじゃん」
「高いやつ返しとけば文句出ねえだろ」
「同じのじゃないと使ってる人困るから。それにママチャリにはカゴ付きで便利でしょ」
次に借りた時もまた二人乗りできるし、と声なき声でつけくわえた。背中に覚える五条の体温は心地よくて、本当はずっと乗っていたい。
「悠仁、ラーメン屋も寄って行こうぜ」
後ろの男は、悠仁の気持ちを知ってか知らずか、ずいぶんと楽しそうだ。クレープ屋に向かえと言ってみたり、ラーメン屋に寄ると言ってみたり、気まぐれの極みだ。しかし五条に振り回されるのが、嫌ではないのだ。残念なことに。
「さっきクレープ食べたいって言ってたのだーれ!」
「そっちも行くけど、先週ラーメン食いたいって悠仁が言ってたの思い出したんだよ」
忘れっぽいくせに覚えていてくれたのだと思うと、胸の奥はぎゅっと締め付けられた。五条にはこの気持が届かないとわかっている。けれど心の中くらいは自由にさせてほしいのだ。
「じゃあ、せっかくだし俺のおすすめ店でもいい?」
「いいよ」
「オッケー。最近さ、薬味と生卵で味変する店ができたんだよ」
「あ? お前、なんでそんな小洒落た店とか知ってんの? ずっと大盛りラーメンと半チャーに特盛餃子みたいなとこばっかだっただろ」
五条の声がわずかに尖る。怒らせるようなことは口にした覚えがない。
「いや、その店さ、高田ちゃんがSNSに上げてた店なんだよ。こないだ東堂に聖地だって言って連れてかれたんだよね。結構混んでたし、ラーメンもめちゃくちゃ美味かったよ。俺的に卵は絶対にやった方がいいって思った」
「……なんだ、葵と行った所かよ」
店の話題よりも誰が連れていったかの方が五条には重要だったのか、それきり声から角が取れ、また何事もなかったかのように戻る。どうも今日の彼は読みきれない。任務に出かけるという悠仁に暇だから着いていく、と言ってみたり、時短して寄り道して帰るという目標を勝手に掲げ、呪霊のほとんどを掃討してしまったり。
しかし一緒に出かけられることを喜んでいる自分は確実に存在しているので、五条の行動を拒むことができない。車が出払っているから、高専所有の自転車で行くと言っても「ふたり乗りすればいいじゃん」と一蹴されて、今に至る。
「じゃあラーメン食べて、クレープ制覇して帰ろうぜ」
「いや、さすがに制覇は無理あるって」
「なんでも挑戦する奴がタイプだってこの前、言ってただろ」
「え……、俺そんなこと言ったっけ……?」
「言ってた」
本当はよく覚えていた。
教室へ顔を出した折、好みのタイプを言えだとか、東堂めいたことを口にして、五条に詰め寄られたからだ。定番の答えを投げようとした所、それはもう知っていると封印され、黒板と五条に挟まれて圧死が先か、顔が近くて破裂しそうな鼓動で心臓をやられるのが先か、と冷や汗をかいた。
背後の夏油や家入に助けを求めても、頑張れというジェスチャーをされるばかりで全く頼りにならなかった。
どんな思惑があって、後輩の好みなど引き出そうとしているのだろうか。今、思えば夏油たちとおやつのアイスでも賭けていたのかもしれない。
自分より背が高くて強い人と答えてしまえば楽だったが、それはまさに詰め寄ってくる五条に他ならず、そんな答えを抱えて玉砕する気力などない。
悠仁が抱いている五条への感情は、できれば墓まで持って行きたい類のものだ。
知られたら、もう二度と今のような居心地のよい距離には置いてもらえないだろう。
それだけはごめんこうむりたかった。
どうにか答えを、と焦った悠仁の脳裏をよぎったのは一週間前に見かけた五条の姿。任務帰りらしい彼は、駐車場に座り込み、子犬と格闘していた。どうやら迷子らしく、すぐには五条の手に飛び込もうとはしない。なんとなく気になって覗いていたら、敵意はないのだとわからせるように何度も触れて、ようやく子犬を抱き上げることに成功していた。
小さな手に弾かれて落ちたサングラスを拾い上げて、満足そうに子犬を抱えていく姿に、五条の知らない面を見つけた気になって嬉しくなった。
放っていくこともできたはずなのに、五条はそれを選ばなかった。子犬に触れられるまで諦めずに手を差し伸べていた。そんな一件を思い出しているうちに口からこぼれた答えが何でも挑戦するひと、だったのだ。
五条本人も比類ない力を抱え、悠仁を含めた後輩たちに前へ進むという背中を見せてくれる存在で、あながち間違ってはいない。
厳密に言えば、悠仁の好きなタイプというのは、全て五条になるのだ。
「あー、もー……ほんと先輩ってさ……」
「なんか言ったか?」
「ラーメン楽しみっていっただけ」
自転車の走行音に紛れて聞こえないように祈りながら、ごまかした。
これ以上、気持ちを揺さぶらないでほしい。ただでさえ、いつこぼれてもおかしくはない五条への想いで、悠仁の心は手一杯なのだ。
+++
ラーメンを食べそこねたふたりが、ようやくありつけたのはシュガーバタークレープだけだった。それもひとつを半分ずつ。
「わりと秒で祓ったつもりだけど、スープ終わってたのは予想外だったわ」
ラーメン屋に向かう道すがら、補助監督から一報で悠仁たちのラーメンは一旦延期になった。
緊急性が高いという要請で足を向け、無事に片付けて元のコースへ戻る頃には「本日、スープ売り切れ」という看板が掲げられていた。近くにちょうどいい店がなく、それならばクレープ制覇に挑むかと意気込んで入った店も、大量注文で生地どころか各トッピングも完売しているという状況だった。どうにかシュガーバタ―なら一枚分なら用意できると、オーナはすまなそうに頭を下げる。悠仁の盛大な腹の音を聞き、残っていたバニラアイスをサービスでのせてくれた。とはいえ学生ふたりにクレープ一枚では、胃袋へ消えるのも早い。
「なんかここら一帯、局地的な繁盛ぶりじゃん」
自転車の後ろにまたがりながら、五条は首をかしげた。
「なんかさっき聞いたんだけど、スポーツ大会の急な会場振替が今日あったらしいよ」
「あー……、それでか」
「お店もさ、仕込みとか追いつかなかっただろうから大変だよね」
「んじゃラーメンからのクレープ制覇はまた次回だな」
「それ諦めてなかったん?」
「あー……、まあ……」
「先輩。俺ね、いろんなことに挑戦する人も好きだけどさ、クレープはんぶんこにした時、ちょっとだけ大きい方くれる人も好きだよ」
支払いを担当した五条へクレープを先に渡したが、三分の一も食べないうちにもういい、と悠仁へ回してきた。てっきり好みではなかったのかと思ったけれど、口をつければシンプルなシュガーバタークレープは十分に美味しい。悠仁が知る限りは五条の好みの味だった。
その後に鳴った腹の音を五条は隠そうとしていたので、あえて気づかないふりをした。
「……なんでも挑戦するやつじゃなくても?」
「そここだわんね」
「……だってお前がそういう奴がタイプだって言うから」
タイプもなにも、全部五条のことなのだと言ってやりたい。
そしてここに来て、ふとひとつの考えに思い至る。もしかしたら悠仁と同じ方向に五条の気持ちも向いているのかもしれない、ということに。
勘違いかもしれない。なぜなら今も自転車の後ろに乗る五条には、街の至る所から熱のこもった視線が飛ぶくらいだ。けれどそんな視線を気にかけない五条の大きな手は、しっかりと悠仁の腰を掴んでいる。
──俺の心臓の方が保たないかも……。
みるみる頬が赤くなって耳まで熱くなる。もう一度雨が降って、この熱を冷まして欲しいと思った。
ちゃんと前に進んでいるはずなのに、どこに向かっているのか、段々わからなくなってきそうだった。
人がいない広い道を自転車が通るたび、勢いよく水が跳ね上がる。飛沫が描く放物線はとてもきれいで、抱えているものを伝えるならこんな日なんじゃないかと思った。
今なら五条の顔を見なくて済む。……ペダルを漕ぎながら、ごくんと喉を鳴らした。ハンドルを握る手に力が入る。息を吸って、吐いて。
「五条先輩……!」
道はちょうど下り坂。幸い誰もいない。
「坂道でちょっとだけ飛ばすよ」
「え、なんだよ……いきなり……」
「こういうの勢い大事だから……!」
ぐんとペダルを踏み込むと、自転車は一気に加速した。
「一回しか言わんから聞いて……!」
「なに?」
「俺のタイプって全部五条先輩だから……!」
ようやく言えたけれど、悠仁にはこれが限界だった。
「…………は?」
顔を見る勇気が出ない。もし五条の気持ちが違ったら。悠仁の勘違いだったなら。そう思うと胃がきゅっと縮まるような思いがする。
「ごめん。言いたかっただけ」
伝えたそばから濁してしまおうと考えた時、道端の石にひっかかって自転車が跳ねる。思い切りジャンプした拍子にふたりでうわっと声を上げた。五条の手が悠仁の前に回る。
「あぶねえじゃん! あとひとりで完結しようとすんじゃねえよ」
俺にだって言いたいことがあるんだと五条が口にした時、緊張が一気にふりきれる。じわりと笑いがこみ上げてきた。
道路には大きな水たまりがあって、その上を勢いよく通り過ぎる直前、これ以上ないくらいの笑顔を浮かべた自分たちが映る。
五条の嬉しそうな笑顔と、色々なつかえが取れて晴れやかな自分の笑顔。
それを見ていたら、気持ちも軽くなってさらに笑った。なにがそんなにおかしいんだよ、という五条も楽しそうで。
なんでも! と返して、跳ねた自転車を道へ戻す。
「先輩、海見えてきちゃった…… 話の続きはそこでしよ」
そう告げると五条はしょうがねえから付き合ってやる、と返してくる。
見上げた海の上には、雨上がりのきれいな青が広がっていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄