テラリウム これは夢だと最初から解っていた。
何も見えない暗闇の中、ポツリと小さな光が見える。
光に誘われる虫のようにフラフラと光の方へ近づくと、徐々にその輪郭がはっきりとしてくる。白地に青と緑がトレードマークのあの店の看板が。
あそこへ行けば全てが手に入る。水も、食料も、酒も、自由すらも手に入る可能性がある。
だが、これは夢だ。毎晩のように同じ夢を見て、飢えと渇きを癒したところで目が覚め、モニターの向こうに観測者が映るのを祈るだけの日常に引き戻されるだけ。
だけどもう、夢でも構わないと思ってしまった。夢の中だけでも飢えと渇きを癒せるならもうそれで構わない。自分にはもう、夢の中にしか逃げ場所が存在しないのだから。
自動ドアをくぐると、生活によく溶け込んだあのお馴染みの入店音が俺を出迎えてくれる。ビール、菓子、弁当、雑誌、アイスに換えの下着……いや、下着はいらない。それだけは無限にあるし、アイスもあまり欲しくはない。何はともかく俺は手当たり次第に欲しい物を籠に入れ、それをレジに置いてこう叫ぶ。
「ファ◯チキください! それと、弁当は温めてください」
店員が弁当を温めている間に俺はほくそ笑む。どうせこれは夢なのだから、金を払う必要はなく、服を着ている必要もない。
衣服を脱ぎ捨て、籠の中からエナドリの缶を手に取り、自慢のイチモツを扱きながら缶と交互に見比べる。この缶ほどじゃないが、俺のイチモツは相当なモノだ。これを誰かに自慢したくなるのは当然だ。ましてや、何も知らない無垢な女児に見せつけたくなるのは男としてごく自然な衝動だろう。
「あのクソ神父め!」
いつか夢の中で出会ったらその綺麗なツラにぶっかけてやる! そう憤りながら温め終わった弁当を引っ掴み、チキンを齧りながらコンビニを後にする。
「繧エ繧ュ繧イ繝ウ繧医≧隕ウ貂ャ閠隲ク蜷」
「……ひぃっ!」
異質なモノがそこに居た。
『怪異』という単語が脳裏をよぎる。
それはまるで、サインペンで乱雑に描いた悪魔のような姿をしていて、真っ赤な片方の目を大きく見開き、こちらの動向を注意深く監視している。
俺は一歩も動けない。ただ、『それ』を見つめる事しか出来なかった。
俺はあの『目』が堪らなく怖い。
その真っ赤な目はただ赤いだけでなく、人の顔をしているからだ。厳密には人の顔をデフォルメした所謂スマイリーマークという奴なのだが、俺にはその笑顔が血に濡れたピエロのように思えた。
目だけで十分に人を脅かすそれが、こちらを凝視している。一歩でも進めば、殺されるという確信もある。
サインペンで殴り書きしたような奇怪な風貌だが、奴の姿に全く見覚えが無いわけではない。
アレは『観測者』だ。あのクソ神父と共に俺を捉え、惨めな境遇に追いやった忌々しい存在。
あの怪異は俺自身が『観測者』に抱く恐怖心を具現化したものなのだろう。ああ……なんて事だ。奴は夢の中でさえ俺の安寧を脅かすというのか。
ついさっき出てきたばかりのコンビニへ引き返そうとしたものの、背後には何もなく暗闇が広がるばかりだった。丸裸の俺自身には身を守るすべも無い。
『観測者』によく似た怪異はカチカチと歯を鳴らしながら、片方の目で俺の一挙一動を注視している。異様に大きく見開かれた瞳の中には親しみやすさの象徴であるスマイリーマークが俺を嘲笑うかのようにお馴染みの笑みを浮かべている。
こちらに向けられている目は一つだけなのに、三つの目が俺を捉えている。いや、本当に三つだけなのだろうか? 前髪に隠されている方の目がどうなっているかは俺には分からない。それ故に、あのスマイリーマークの目の中にも同じように目があるのではという薄気味悪い想像をしてしまう。
目の中に目があり、その中にも目が有り、それが無限に永遠に続いているのだとしたら……俺は一体いくつの目で観測されているのだろう。そう考えただけで足元がふらつき、気が狂いそうになる。
「やめろ! その目で俺を見るな!」
せめて夢の中だけでも安寧を死守したい。だが、アレを倒すのは不可能だろう。出来る手段は逃走だけだ。もちろん、タダで逃げ切れる保証は無い。
何か手段は無いものかと考えたところ、一つだけ名案が思い浮かんだ。
「飲むか……?」
エナドリだ。
『観測者』はエナドリを愛飲していた。
いつの日か、モニター越しに見た『観測者』はエナドリの缶に匹敵するほどのイチモツを俺に見せつけた後、金髪碧眼の恋人の胎内へソレをゆっくりと挿入して見せた。
別にそれ自体はさほど羨ましくはなかった。なぜなら『観測者』の恋人は筋肉質の男であり、しかも成人だ。か細い幼児を至高とする、所謂ロリコンである俺とは真逆の趣味であるから別に羨ましくはないのだが、その男のイチモツも俺以上のサイズだったという点においては妬ましい。
何はともあれ、幸いにもコンビニの袋の中にはソレが入っている。
エナドリの缶をチラつかせると、観測者はそれに興味を示したらしく、寄越せ。といった感じに手を振っている。
「ほらよ」
『観測者』から少し離れた場所にエナドリの缶を投げてやると、奴はまんまとそれに飛びついた。
「うわぁ、足長っ! 怖っ!」
いつかの草っ原で出会ったクソデカいバッタを思い出させる跳躍に呆気に取られていると、『観測者』はいつの間にか缶を開封したらしく、片方の目でじっと俺を見据えたままエナドリをガブガブと飲み始めた。
「動くなよぉ……」
がぶ飲みしているのに嚥下して喉が動いている様子が無いとかそんな事はどうでもいい。とにかく今は逃げる事が先決だ。逃げ切った先でレジ袋の中身を食い尽くし、夢の中だけでも飢えと渇きを癒したい。
だが、俺のそんなささやかな夢は叶わずに終わった。
「ぎゃあああ!!」
早々にエナドリを飲み干した『観測者』はあの長い足をバネのように使って跳躍し、ガブリと俺の喉元を食いちぎった。
「ゲームオーバーだな」
モニター越しに『観測者』が俺を嘲笑う声が聞こえる。
ゲームオーバー。
まるで俺の夢の内容すら盗み見ていたかのような言動に喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。『観測者』は俺の夢の中すらも観測しているのだろうか。それを確かめるすべは無いが、どちらにしても夢から醒めても醒めなくとも、どちらも悪夢であるという現実は変わらない。それは『観測者』が俺を見ている限りずっと、見られている限り永遠に安寧は訪れない。
──いや、違う。
「れっ、黎明……俺を見てくれ! もっと……俺を……あと五分だけで良いからっ!」
ここでの俺の存在は『観測者』が俺を見た時間で決まる。『観測者』が俺を観測し、何か興味を惹かれる事があれば観測時間は長くなる。魅せる事が出来ればそれなりの分量の食料が支給されるが、観測時間が五分にも満たないと一食分の食事すら満足に与えられず、部屋の中の空気すら滞ってしまう。
あまつさえこの部屋は俺が女児に露出した罪への罰として定期的にパンツが投下される仕組みになっていて、そのせいで今にも俺はパンツの海に溺れてしまいそうだ。
とにかく、ここでの生殺与奪は『観測者』に全て委ねられている。俺には生存権どころか存在権すら与えられていない。
餓死。窒息死。もしくは、自我が崩壊して発狂の末の自死。そのいずれかが俺自身の結末だろう。
しかも、窒息死の場合はこのパンツの海に溺れて死ぬという最悪に最悪をかけた死に様だろう。
「せめてこの大量のパンツだけはどうにかしてくれ!」
「そのパンツの中にオレと敬一君のパンツもあるんだぜ。感謝しろよ」
「いらねえよ!」
「ちなみに、一番ガビガビになってるやつが敬一君のパンツだ。じゃあな」
「ああっ……待ってくれ! 見ろ……俺を見てくれ!」
『観測者』はカメラの前で命乞いをする俺を一瞥しただけでそれっきり姿を見せず、モニターには真っ赤なスマイリーマークがいつもと変わらない笑顔を見せているだけ。
「嫌だ……見るな……俺を見るな……いや、違う見てくれ。俺を観測して、存在を証明してくれ……違う! 見るな見るな俺を……」
俺は『観測者』の目が何よりも怖かった。
ごく一般的な日常の中にありふれているスマイリーマークが俺にとってはこの世で一番恐ろしいものだ。
「もっと見ろ……俺を見ろっ! いや、見るな……見ないでくれ…………いや違う違う違う俺を見てくれ……少しだけで……違う違うそうじゃないそうじゃない見るな……見て、み、み、み……見る……俺を……俺を……」
『観測者』が俺という存在を観測し続ける事で、俺は生きる事を許されている。観測する者がいなければそれは死を意味する。
「見るな見るな見るな見るな……違うっ、俺を見ろ! 見ろ! 見てくれ! 頼む!」
だから俺は叫ぶ。この部屋の中で一人、叫び続ける。誰もいない筈なのに無数のスマイリーマークが俺を見ているような気がする。
「ああ……黎明……俺を見……くれ……」
俺のそんな慟哭など届くはずもなく、パサリと音を立て、パンツが一枚部屋に増えただけだった。